元英語教師もの申す




日本の英語教育――何が変わり何が変わらなかったのか?

私は中学校で2年間、高等学校で36年間、英語教師として毎日教壇で炭酸カルシウム(チョーク)の粉を浴びながら、「白墨人生」を送った。その間、英語教育法には実に様々な「流行」があった。パターン・プラクティスなどのオーラル・アプローチ、コミュニカティブ・アプローチ、トータル・フィジカル・レスポンス、サイレント・ウエイ、数え上げるときりがない。しかし,いずれもが次の流行が始まると、潮が引くように消えていった。21世紀に入ると、コミュニカティブ・アプローチではあれほど軽視された文法学習が、フォーカス・オン・フォームとしてカムバックしてきた。ひょっとすると依然として「毛嫌い」されている訳読法も、いずれは形を変えてカムバックするかもしれない。

いったい、何が変わり何が変わらなかったのか。英語で意思疎通ができるとはどういうことか。38年間の経験から言えるのは、当たり前の結論である。基本的な語彙と文法能力を持ち、こちらに「言うべきもの」があれば、必ずコミュニケーションが成り立つということだ。あとは時にネイティブスピーカーと会話のキャッチボールをすればよい。会話を深めていくためにはそのテーマについての知識や自分なりの意見を持っていないといけない。うわべだけの会話表現だけでは、すぐに底をついてしまい、会話はとぎれる。

結局は、「極端に走るな」ということだ。それぞれがそれなりに存在意義を持っている。過去の英語教育は流行を追うばかりで,いずれも思ったほどの成果が出なかった。日本の英語教育が今後成果を出すためには、今一度、これまでの英語教育法を見直して、それぞれのメリットやデメリットを洗い直すことだろう。文法も必要、訳読も必要、そしてもちろんコミュニケーション能力も必要。さらには、「紙の辞書」も必要ということだ。断言していいが,ITの発達が英語学習に大きく役立つことは、実はない。語学の習得とは、そうしたものを越えたところにある。新渡戸稲造も岡倉天心も、電子辞書は持っていなかった。今から見れば、不十分な辞書を手に英語を身につけていったはずだ。私たちの世代は、紙の辞書を引き、赤ペンで下線を入れ、しだいにどのページもピンク色に染まっていくのを見て、自らの英語力の進歩を自覚したものだ。辞書を使い込み,手になじんでくるにつれて,紙と紙の摩擦が取れ,片手の指一本で一枚一枚をめくることができるようになったことに喜びを感じた。若い人たちに同じことをしろとは言わないが、語学の学習にはこうした「自覚」や「自信」を得る手段を持つことは大切である。

(これは大修館『GCD英語通信』2015年に書いた原稿の一部です)






「道は屎尿にあり!」

荘子に向かって東郭子という男がこう尋ねた。
「あなたはよく『道』っていうが,それは一体どこにあるのですか」
荘子は答えた。
「道は在らざるところなし(道はどこにでもあるんだよ)」
東郭子は手を振って言う。
「だめだめ。そんな抽象的なことを言われてもわかりませんな。もっと具体的にどこにあるのか言ってもらわないと」
荘子は答えた。
「道は螻蟻(ろうぎ=むしけら)にあり」
道は悟りを開いた者にあるなどと答えるのだろうと予想していた東郭子は,驚いて聞き返した。
「ええっ,そんな下等な動物にあるのですか」
荘子はさらに答えた。
「道はていはい(=ひえなどの雑草)にあり」
東郭子はさらに驚き,聞き返す。
「ええっ,それじゃもっと下等ではないですか」
荘子はさらに続ける。
「道は瓦甓(がへき=瓦の破片や石ころ)にあり」
東郭子はさらに驚き,言う。
「なんと,命のない石ころにあるというのですか」
ここに至って,荘子は決定的な言葉を吐く。
「道は屎尿(しにょう=ウンチやオシッコ)にあり」
東郭子はあきれて,とうとう黙ってしまった。

『荘子』にはこうした話が載っている。「東郭子」は「町の東に住む男」くらいの意味である。老荘思想の根本の一つは,「道は通じて一となす」だ。この世に存在するものすべてには意味がある。すべてがそれぞれに真理性を宿している。そういう意味においては人間も草木も石ころも,ウンチやオシッコも同じであり,どれがえらいというものではない(「道を以て之を観れば物に貴賎なし」)。

自分はいったいなぜ生まれてきたのだろう。こんな自分なんて家族からも社会からも必要とされていないのだから,生きていても意味がない。そんなふうに自分を責める若者に言いたい。今から2300年以上も前の中国の哲学者が「この世に存在するすべてのものは意味があって存在している。等しく価値があって今ここにいる。無用なもの不要なものなんて,いっさいない」と述べている。生きる意味――そんなものは実は誰にもわからない。わかっている人などいないのだ。自分を不必要に貶めることはやめよう。




「JAPって何?」と問う世代

先日(2004年11月)授業をしていたら,生徒から「なんでJAPいうたらいけんの?」と聞かれた。「ラジオ・カセット」を「ラジカセ」と略すように,「ジャパニーズ」を「ジャップ」と略してなぜいけないのか思ったのだろう。話し手が「ジャパニーズ」といわずに,なぜ「ジャップ」と短く発音したのか,そしてそれはどのようなシチュエーションで発せられたかを理解していない彼らには,このような質問をするのも無理がないかもしれない。

1990年,私はフィラデルフィアで電話によるラジオのリスナー参加番組を聴いていた。話が真珠湾攻撃になり,電話の一人が「ジャップは皆体が小さくて近眼ばかりだから・・・」と発言した。同じ年,スミソニアン航空宇宙博物館ではB-29爆撃機エノラゲイ号が展示されている横で,戦争中のニュースのビデオが流され,アナウンサーが「ジャップ」を連発していた。また,日系二世の年配の女性から,彼女たちが当時いかにアメリカ社会からひどい仕打ちを受けたかを聞かされた。

本来言葉自体は無色である。たとえば日本語を理解しない人に『バカ』と言っても,言われた人はピンとこないだろう。彼らの耳には『ba-ka』という無機的な音しか入らない。しかし,日本語を母国とする人は,面と向かって『バカ』と言われると思わずムッとする。その言葉がどのような感情と共に発せられているかが感覚的に理解できるからだ。重要なのは,その言葉そのものではなく,その言葉を話し手がどのような気持ちで用いたかということである。侮蔑・軽蔑・嘲りなどの感情とともに発せられた言葉は,その言葉自体が本来どんなに「無色」ではあっても差別語となり得る。

このようなことを生徒に話したのだが,果たして彼らは理解できただろうか。おそらく将来海外に出て,自分自身がそのような差別に出くわしたとき,この言葉の重みが理解できるだろう。もっとも,アメリカでも(日本でも)差別はますます見えにくくなり,潜在化しているので,あからさまに「ジャップ」などといわれることはないかもしれない。アメリカの深南部などで,日本人(または日系アメリカ人)が田舎のホテルに一人で行くと,明らかに空き部屋があるにも関わらず,「満員です」と断られるなどの形で現れるようだ(これは,昨年日本に来たばかりの20代の日系アメリカ人から聞いた彼の体験談による)。




素直にものを観る

一休はある時,お寺の庭の池に曲がりくねった松の木が生えているのをみて,周囲のものに「誰か,あの曲がりくねった松の木をまっすぐに見るものはいないか」と問うた。その松はひどく曲がりくねっていて,どの角度から眺めてみてもまっすぐには見えなかった。みんなが首をかしげていると,一休の友人であった男がわかったという顔をして一休を見た。一休が問うと,その男は「わたしは,池にあるあの松の木は曲がりくねっていると見ます」と答えた。一休はその答えに満足そうにうなづいたという。物事を雑念や常識にとらわれることなく,「まっすぐに」観る。これは一休が常々言っていたことだった。曲がっている松の木があれば,「曲がっている松の木」としてとらえればよかったのだ。

私はこの一休の話を思い出すような出来事に最近であった。あるアメリカ人が私に次のようなクイズを出したのである。"How do you put a giraffe in a refrigerator?(キリンを冷蔵庫に入れるにはどうすればいいか)" 彼は,これまでこの問いに正しく答えられたのはほとんどが,大人ではなく幼児であったという。降参してその答えを聞くと,"Open the door of the refrigerator, put a giraffe in it, and shut the door.(冷蔵庫のドアを開けて,キリンを入れ,ドアを閉める)"

私たち大人は「キリン」とか「冷蔵庫」という言葉をきくと,「常識的」にそのサイズを考えてしまう。しかし,キリンの子供かもしれないし,冷蔵庫といっても,それは工場にある巨大なものかもしれない。私たちの「常識」が問題解決を阻んでしまっているのだ。幼児はそうしたサイズの常識にとらわれることなく答えることができるのである。

彼はさらに次の質問を出した。"How do you put an elephant in a refrigerator?(ゾウを冷蔵庫に入れるにはどうすればいいか)" これはさきほどの問いに似ているが,解答は同じであってはいけないという。これまた降参して答えを聞くと,"Open the door of the refrigerator, take the giraff out, and put the elephant in.(冷蔵庫のドアを開けて,キリンを取り出し,ゾウを入れる)"
私たちはこのような場合,それぞれの問題を独立したものととらえるが,幼児は「前の問題と関連付けて」とらえるのである。

さらに問題は続く。"The lion, the king of beasts, called a meeting of the wood. All the animals except one came. Then which animal didn't come?(百獣の王ライオンが,森の会議を開いた。一匹の除いてすべての動物が集まった。来なかったのはどの動物か)" 答えは"The elephant in the refrigerator didn't come.(冷蔵庫に入っているゾウが来なかった)" ここでも,私たちはまた,前問との関連性を忘れてしまっているのだ。

そして最後の質問。"You have to swim across the river where a lot of man-eating corocodiles live. How do you cross the river?(人食いワニがうじゃうじゃいる川を泳いで渡らねばならない。どうするか)" 私はとうとうこの最後の質問にも答えることができなかった。答えは"All the animals including the man-eating crocodiles are in the meeting, so you don't have to worry.(人食いワニを含めてすべての動物は会議に参加しているのだから,安心して渡ればよい)" 。

素直にものを観るということの難しさを痛感した次第である。




夢のまた夢

朝起きると夢うつつの世界から抜け出して,現実の世界へと戻る。朝食のコーヒーの香り,舌の上で溶けるトーストのバターの味,テレビのニュースの声,新聞の記事・・・こうしたものが私を現実の世界へと引き戻す。自分はこの現実の世界の一角を占めているのだという確かな実感を持つ。だが,このいずれもが「大いなる幻想」にすぎないというのだ! 私たちは実際は暗くて匂いも味も音もないさびしい世界にいるらしい。それを明るく,おいしく,かぐわしく,にぎやかでカラフルな世界へと変えているのはただただ我々の脳の創発的な性質によるというのだ。砂糖の分子には元来甘いという性質はない。それを「甘い」と感じさせているのは進化で生じた我々の脳の創発的性質によるものなのだ。逆に言えば,腐った魚や排泄物を好むハエたちにとって,そうしたものは決して「不快な悪臭を放つ物体」ではないはずだ。彼らにはふくよかな,甘い香りや味のするものとして感じられているはずである。彼らもまた,進化の過程でそうした感覚を発達させてきたのである。我々の祖先は何も栄養があると思ってものを食べていたのではない。甘いと感じられるが故に食べ,苦いと感じられるが故に吐き捨てていたのだ。腐敗したものを,嫌な匂いがすると感じることができるものが,結局は感染を避けることができて,子孫を残し,そうでないものは進化の競争から脱落していったのだ。熱いものにさわったら「アチっ!」といって手をひっこめたものが生き残り,そうでないものは命を落としていったのである。我々は青と赤の違いを見分けることができるが,この赤と青の物理的な差はなんと「1メートルの1500億分の一」というわずかな波長の違いでしかない。つまり,ほとんど同じものなのである。春の山々は緑でいっぱいだ。しかし,輝く太陽も一瞬,雲でさえぎられることもある。実は光が当たるときと当たらないときでは緑の木々の発する電磁波には大きな差がある。しかし,我々にはたとえ曇っていても緑の山が茶色く見えてしまうことはない。どうやら我々の脳は一定の色を恒常的に見せるように自動補正を行っているらしい。そのためには色の微妙な違いを見分けるセンサーが必要だというのだ。赤と青の識別能力はこうしたことから身につけてきたらしい。以上のことは皆,「人はなぜ感じるのか」という本からの受け売りである。

私はこの本の中の「物理的な世界は,確かに電磁波や圧力波や空気や水に溶けた化学物質を含んでいるが,私たちの意識的な脳の創発的性質がない限り,光も匂いも味も一つたりとて存在しない。私たちの意識的世界とは,大いなる幻想なのだ!」というくだりを読んで,ハッとした。世界はあるべくしてあるのではなく,皆我々の脳の創発的活動の結果だったとは! これは全く新しい見方であり,また非常におもしろい考え方だと思った。そうであれば,秀吉の「露と落ち 露と消えにし わが身かな 浪花のことは 夢のまた夢」という辞世の句も,この世は大いなる幻想にすぎないという点では正しいのかもしれない。彼はこの句を死ぬ11年も前に作っておきながら,死期が迫ってから取り出したといわれているが,それはまた別の話である。




事実を知ること

2002年9月14日(土)テレビ(NHK総合TV 夜9:00)でドキュメンタリー番組を見た。
ポーランドのある村で,ユダヤ人虐殺についての歴史の見直しが始まっているという。60年前,この村では村人の1/4を占めていたユダヤ人が女性や子供を含めて,村の納屋に集められて生きたまま焼かれてしまうという事件があった。これまではナチスのしわざと言われていたが,実は村人がやったという記録が出てきたというのだ。ポーランドは第二次世界大戦に西はドイツ,東はソ連からの侵略を受け,いわば戦争被害国であった。

しかしもしこれが事実なら,ポーランドはユダヤ人虐殺に対して加害国でもあったということになり歴史を書き変える事件へと発展することになる。このことを重視したポーランド政府はこの村を始め各地に検事を派遣し徹底した調査を行う。そしてついに確固とした証拠を入手し,この虐殺はナチスではなく村人によるものであったことを公式に発表した。

番組では,初老の男に焦点が当てられる。彼の父親は生前に何度もこのことに触れようとしながらも結局は何も話さずに亡くなった。彼は自分の尊敬する父親が,ひょっとすると事件に関与していたのではないかと疑う。しかし年寄りの村人は事件に対してかたく口を閉ざして語ろうとしない。彼の娘もいまさらそんなことをしてどうなるのかと反対する。しかし,彼は調査を止めない。そしてやっと知人から,自分の父もその事件に関与していたことを知る。

この村は第二次世界大戦の前半はソ連に,そして後半はドイツに占領された。村がソ連の占領下にあったとき,密告者によって,かつてソビエトと戦った村人が次々とシベリアに送られる。密告者の9割はポーランド人であったのだが,村人はそれをユダヤ人のせいだと思い込む。そして村がドイツ軍の支配下になったとき,村人によるユダヤ人への復讐が始まったのだ。

当時村の有力者であった父親が事件に関与していたという事実を知ったその男には,それでもなお疑問が残る。あんなに我が子には優しかった父が,どうして同じ年頃のユダヤ人の子供を生きたまま焼くようなことができたのか。復讐ならば密告者だけでいいはずではないか。

私はこの番組を見ながら,二つのことに感銘を受けた。一つはポーランド政府の行動である。60年も前の戦争犯罪である。しかも,まかり間違えば賠償問題など大きな問題に発展する危険がある。現に,この事件の公表のあと,同じような事件がポーランド国内で少なくとも11件があったことがわかり,政府はその対応に追われている。しかし,ポーランド政府はあえて徹底した調査を行った。これがどんなに大変なことかは,我が国が果たして731部隊や南京事件についてどれほど本気で調査を行ってきたかを考えれば容易に察しがつく。

もう一つはこの男の行動である。60年も前のことをほじくり返して一体何になるのか。そう周囲から言われつつも,彼は事実を求めつづけた。事実を知ればさらに苦しむことになることがわかっていても,彼は止めなかった。彼はただ事実を知りたかった。

要は事実を知るということなのだ。本当のことをきちんと知ること。それがどんなに苦しいことであってもだ。すべては事実を知ることから始まる。事実を知ってこそ,それに対する自分の考えや未来への決意が生まれるのだ。この根底をうやむやにしての反省などあり得ないし,まして未来への決意などは出てくるわけがない。自分にとってどんなに不利なことであろうとも事実を事実として認め,それを直視することが,その後の自分の行き方につながっていくと思う。そして,そうした真摯な態度は世界に認められこそすれ,非難されたり嘲笑されたりすることはない。

戦後43年たった1988年,レーガン大統領が日系アメリカ人への戦争中の強制収容は誤りであったと謝罪し,被害を受けた日系人に2万ドルの賠償支払いを決定したとき,この米国の行為を世界はどう見たか。43年経ちながらも事実を認め謝罪した米国に対し,世界は畏敬の念を抱いた。この行為は米国の権威を失墜するどころか,それを高めたのだ。恥ずべきなのはその逆の行為をしたときである。




日本語のローマ字化

2002年1月3日付けのニューヨーク・タイムズ紙に日本のアニメ文化を紹介する長文の記事が載ったという。そこには「日本では60%の刊行物がマンガだが,それは日本人の識字率が低いためである」と書かれていたらしい(NYタイムズが「日本の識字率が低い」参照)。
世界の少年少女が「ハリーポッター」を争って読んでいるのに,日本では宮崎駿監督のアニメ映画「千と千尋の神隠し」が大ヒットしているのもその証拠だ。日本人の識字率がかくも低いのは文字の表記が難しいからであると述べている。

私はこれを聞いて,ああまだそんなことを言っているアメリカ人がいるのかと思った。このような大新聞の記者でさえ,日本に対していまだその程度の知識しか持っていないとは。もっとも,この新聞は過去に何度も先見の明のない社説を書いて恥をかいてきたという「実績」がある。例えば,フィリップ・ゴーブがそれまでの規範主義を捨てて,記述主義に基く画期的な辞書「ウェブスター大辞典第3版」を出した時,ニューヨーク・タイムズは 「第3版」には ain't などという卑近な語を採用しているとして執拗に反ウェブスター・キャンペーンを繰り返したし,アルヴァレス父子が恐竜絶滅の原因として隕石衝突説を発表した時,それを茶化した社説を書いた(『ウエブスター大辞典物語』 参照)。だから今回もさほど驚くべきことではないのかもしれない。

敗戦後一時的に日本を占領していた米軍が,「日本の軍部の独走を許したのは,民衆が漢字が難しすぎて文字の読めるものが少なかったからではないか」と考えた。2,000もの常用漢字とひらがな,そしてカタカナ。アルファベット26文字を覚えればよい彼らにとっては,日本語表記は実に難解に写ったに違いない。そこで米軍は,この際日本語の表記をローマ字にしてしまえば,国民も政府の様子を理解することができ,二度と軍国主義に走ることはなかろうと考えたのである。その布石として当時東京大学の助手であった柴田氏等を主要メンバーとして本格的な日本人の識字調査に乗り出した。山深い山村までジープを走らせての徹底した調査であったが,その結果はというと何と終戦当時でも日本人の識字率は99%を越えていたという。結局GHQは日本語のローマ字化をあきらめざるを得なかった(月刊誌『言語』大修館,1982年8月号)。

もし,このとき米軍が調査を行わなかったら,今ごろは教科書,新聞,町の看板,携帯のメール・・・すべてが横文字になっていたことだろう。なるほど,日本人は漢字の習得からは開放されたかもしれないが,漱石の作品は読めなくなっていただろう。明治以前の文化的遺産はそこでストップしていたかもしれない。ローマ字論者には悪いが(もし現存されておられるならばの話だが),言語や文字表記というものは,その国の文化の根幹をなすものであり,軽率に変えてはいけないものなのだ。

ちなみに,くだんの記事を書いたNYタイムズの記者は,日本のマスコミから「米国の国務省が出している各国紹介資料によれば,日本の識字率は99%で最高水準になっている」ことを指摘されると,「日本で漢字の多い長文の本を読む能力が落ちていることを言いたかった」と言い訳したという。




思い込みの怖さ

私の家は建築後8年になる。建った頃は何もかもが新しかったが,最近は天井の電灯が故障したり,外回りの水道管が漏水したりと何かと故障が出てくるようになった。ある日,私が風呂に入ろうと脱衣場に入ったところ脱衣場においている洗濯機の排水溝でチョロチョロと水の流れる音がするのに気づいた。やれやれ家内が洗濯機を使った後で水道の蛇口をきちんと閉めていなかったからだ。チョロチョロの水でも1日中流れっぱなしでは水道料も馬鹿にならないではないか。水道の蛇口をきつく閉めなおすとやがてチョロチョロという音が消えた。こういうことが2,3回続いた後,これは家内の失敗というよりは水道の蛇口の栓に問題があることがわかってきた。というのも,蛇口を閉めなおすときに,すでに目一杯かたく閉められているにも関わらずチョロチョロという音が聞こえていたからである。どうやらこれも例の老朽化の一つらしい。水道の蛇口に入っている「コマ」のゴムの部分が磨耗しているため,いくら締めても水漏れが起こるのだ。そこでさっそく日曜大工店でコマを買ってきて古いものと入れ替えた。ところが相変わらず,チョロチョロ音が続く。こうなるともう私にはお手上げだった。

ある日,台所の流しで水を使った後,すぐに風呂に入ろうと脱衣場に入ったところまた例のチョロチョロ音が聞こえくる。そのときハッと気づいた。このチョロチョロ音は洗濯機の水道の水でなく,台所の流しから出る排水の音ではなかろうか。流しのところにもどって,もう一度勢いよく水を流してから脱衣場に駆け込むと案の定,チョロチョロ音がさっきより大きくなった。流しの下水管がこの脱衣場の床下で洗濯機からの下水管とつながっていたのだった。水道の蛇口を閉めたとき「偶然」チョロチョロ音が消えたために私は責任を洗濯機の蛇口のせいにしてしまい,コマを買い換えるという無駄なことをやってしまったのだった。

しかし,考えてみると私たちはこのような思い込みを結構日常茶飯事に行っているのではないだろうか。行動心理学者のB・F・スキナーは1948年に「ハトに見られる『迷信的行為』という論文を発表した。この論文は題名がユニークであるだけでなく,内容も変っていた。普通,心理学の論文というのは表やグラフが各頁を埋め尽くしていることが多いのだが,この論文はそういうものがなくて「物語風」なのである。スキナーは腹を空かせたハトを実験箱に入れる。そこにはハトの行動に関係なく15秒ごとにエサが出てくるしかけが作られている。ハトが箱に入れられて2,3分もするとハトは独特の行動をするようになる。あるものはくるくるとその場で2〜3回回転し,あるものは壁に頭を何度もぶつけた。ある行動をとった時に偶然エサが出てくると,ハトはその行為がエサを出現させたものと勘違いし,次からはそうした行動を何度もとるようになるのである。そしてそうした行為のあと「たまたま15秒経過していたために」エサが出てくると,ハトはさらにこうした考えの正しさを確信するようになる。こうした実験が多少形を変えて,犬や人間に対しても形を多少変えて行われたが,驚くべきことにいずれもが何らかの「迷信的行為」を示したのである。人間を対象にした実験では「手に持ったスリッパで天井をたたく」という奇怪な行為も見られたという。(『人はなぜ迷信を信じるか---思いこみの心理学』(スチュアート・A・ヴァイス,朝日新聞社,1999))

1961年ソ連のユーリ・A・ガガーリンが,ボストーク1号に乗って人間として初めて地球周回軌道に入り、地球の大気圏外を1時間50分弱で1周したあと,無事に地球に帰還した。これ以後宇宙飛行士たちは,ガガーリンの成功にあやかるために打ち上げ前に必ずある二つのことをしたという(ただし,これは真偽のほどは不明です。立花隆が対談の中で言っていました)。一つは打ち上げ前夜にアメリカの西部劇を観ること。しかもそれはガガーリンが見たという西部劇でなければならない。二つ目は,打ち上げの日にロケット発射台に向う途中,いったん車を止めて立ちションをすることであった。もちろん,それもガガーリンがやったのと同じ場所で!

教師は常に生徒を客観的に見なければならない立場にあるのだが,ともするとたまたま見かけた生徒の行動を見て判断してしまうこともある。「この生徒は私の話を聞くときはいつもあくびをする」「この生徒は文法の話になると机に顔を伏せてしまう」等々。客観的になるということはなかなか難しいことである。






思いがけない再会

「あっ,先生!」
私は最近出来た郊外の巨大ショッピングセンターでカートを取りだそうとしているところだった。突然目の前で見覚えのある顔が微笑んだ。
「川上です! お世話になった川上陽子です」
化粧はしていないが端整な顔立ちがそこにあった。今はやりの茶髪ではなく,ストレート の黒髪をただ後ろで止めているだけだったが,かえってそれが新鮮に見えた。
「私,もう30です。会いたかったです」
「もうあれから10年以上・・・。私ね,子どもが二人いるんですよ」
充実した生活を送っている自信と落ち着きを感じさせる声だった。

* * *

当時私は,ある進学校で3年生のクラスを担任していた。その中の一人 が川上陽子であった。川上は素直で反抗的な態度は一切見せない生徒であったが, 2学期から欠席が多くなり,母親を呼んで事情を説明し,なんとか学校に来させる ように依頼したが,そのかいもなく3学期にはほとんど登校しなくなってしまった。 母一人子一人の家庭で母親は病気がちの体を押して水商売で生計を立てていた。 本人ははっきりした将来の見通しもないまま,周囲が次第に受験一色になってい く中で疎外感を味わっていたのかもしれない。男友達がいるという話も聞こえて きた。ひょっとすると自動車教習所へ行っているのではという不安も起こった。

あと三日,あと二日,そしてあと一日。もはや欠席日数が規定の日数を 越える日が目前に迫っていた。たいていの高校では欠席日数が1年間の 出席日数すべき日数の1/3を越えると成績の如何にかかわらず進級が できないきまりになっている。電話をしても口下手な私では真意が伝わらない かもしれない。そう判断した私は彼女に手紙を書くことにした。ものすごい 悪筆の私はワープロで打つしかないが,手書きであろうとワープロ書きで あろうと問題は内容である。とにかく,飾らず建前は一切やめて本音で 彼女に語りかけようと考えた。担任としての現在の気持ちを素直に出すように 心がけた。今,目の前に川上がいるつもりで書いた。もう,ここまで言って もわかってもらえないようなら,私の限界を越えている。力不足と思って あきらめよう。そう思うと胸がつまった。
「・・・ 川上さん,先生はこれを本気で書きました。あとは川上さん の判断にまかせます」
と結んで手紙を書き終えた。

数日後,出張で留守をしていた時に川上が私を訪ねて学校に来た。彼女は 泣きながら私の書いた手紙を見せてくれたと後に体育の先生が話してくれた。なんだか 浪花節的で気恥ずかしいが,それでも「本気で当たれば本気で返ってくるものなん だなあ」と思った。

やがて卒業式を前に,進級認定の職員会議が開かれた。私は気が重かった。すでに川上は3日ほど規定の日数をオーバーしている。これをくつがえすほどの自信も,雄弁さも私にはなかった。 学年主任が「何とか川上をバックアップしてやりましょうよ」といってくれた。案の定, 職員会議は長引いた。強いて規定を破ってまでごり押しをすることに私も躊躇していた。
「私には思うところがありますが,どうしても規定どおりにやれとおっしゃられるなら,それに従わざるを得ません」
発言を求められたときに私はこう答えた。煮え切らない発言だなと自分でも思った。「私には思 うところがありますが」というところで笑いが起こった。そして,採決。 票は真っ二つに分かれた。かろうじて川上を卒業させようという意見が多かった。 不足の3日は登校させて特別指導した上でという条件だった。会議中にあれほど 強く反対していたI先生が,会議後私に向かってこう言った。
「須賀さん,それじゃ川上をいつから来させようか?」
会議中に私が言った「思うところはありますが」を察知して,これまでの議論は議論として, 決まった以上は積極的に協力してやろうと言ってくれているのだ。私にはその思いやりがうれしかった。

そして一人だけの卒業式。学年主任,そして担任および川上の母親が立ち会う中で,校長は厳かに川上に卒業証書を手渡した。パチパチ。拍手を受けて川上がはにかんだ。その後,別室で話をしたとき母親が,
「陽子のことで何度か学校に呼ばれて先生とお話をしたけど,あの時の先生の顔は怖かったです」
と冗談っぽく言った。
「いいえ,お母さんだって,結構顔がひきつってましたよ」
と私はやりかえした。川上は横でにこにこしながらこのやり取りを聞いていた。母親が最後に「先生,握手をしてください」と言った。思いがけない申し出に驚きながら差し出した手が,華奢な手によって強く握られた。優しくて温かみのある手だった。

* * *

「先生,うちの子です」
そう言いながら彼女は4歳の長男に向かって 「お母さんがね,お世話になった先生よ。挨拶して」 と言った。長男は十分意味が呑み込めないままに 「こんにちは」 と小さな声で言った。2歳の弟はめずらしそうに私を見上げていた。 二人とも母親にそっくりな顔だった。母親の満足げな表情には一種のゆとりと自信のようなものが感じられた。

帰りの車の中で,私は家内にこの一部始終を話した。
「教師冥利に尽きるよ」
私はしみじみ言った。 家内は
「そうね」
と言った。

※ これはすべて実話だが,本文中の「川上陽子」は仮名である。





あなたはブロンドがお好き?

昔,英検の面接委員をしていたとき,相手の中学生の目が青いのに気づいた。一瞬混血児だろうかと思ったのだが,後で聞くとどうやら青色のコンタクトレンズをしていたようだ。髪を茶髪にしたり,ピアスをしている若者を見ると,私は植民地化された(より激しい言葉を用いれば「レイプ」されたような気持ち)になる。若者たちは「そんなことはない。ただのファッションだ」というかもしれない。それでは聞くが,どうして典型的なモンゴロイドの特徴である「あまり起伏のない顔に一重まぶた,そして細めの目」にしようとしないで,「髪を茶色に,鼻を化粧で影を作って高めに,目を二重まぶた」に見せようとするのか。これは意識するしないにかかわらず典型的な白人種の特徴である。別に私は白人を敵視しているのではない。美の価値観が現在のところ白人の価値観だけに単一化させられているという事実を指摘したいのだ。もう何十年も前の話になるが,フランソワーズ・モレシャン氏が「日本の少女漫画の顔はどれも西洋人の顔になっているが,これではそれを読む子供たちがこれが理想だと感じてしまうのではないか」と指摘したことがある。結局実態は今も少しも変わっていない。

白人が自分たちの美の理想を追求することに対してはなんら文句はない。ただそれを傲慢にも他の人種にまで広げていくことには怒りを感じる。本多勝一の本の中に次のような場面が書かれていた。合州国で彼と朝鮮国籍を持つ彼の友人が,年配の白人の婦人に紹介されたときのこと。婦人は彼を一目見て,全くの「善意」から,こう言った。「あらっ,まるで日本人じゃないみたい!」そして今度は友人が紹介されると再び,「えっ,まるで朝鮮人じゃないみたい!」彫りの深い彼らの顔を見て彼女は誉め言葉としてこういったのだ。善意から出たことはわかる。しかし,この言葉はいいかえると,「私は彫りの深い白人の顔を一番美しいと思っている。だから,のっぺりしたアジア人の顔は醜いと感じている。しかし,あなたたちの顔は一般のアジア人と違って彫りが深く白人に近い。まるで醜い日本人や朝鮮人ではなく,私たち白人みたい」となる。こうした無意識のエゴに全く気づかないこの婦人は,彼らが「ありがとう」ともいわず,ブスっとしているのでけげんな顔をしたという。合州国で黒人の公民権運動が盛んなおり,"Black is beautiful." が合言葉だった。白人の価値観の押し付けへの抵抗だったはずなのだが,今はどこへ行ってしまったのだろう。

『脳の中の幽霊』でインド人脳科学者であるV・S・ラマチャンドラン氏がおもしろいエピソードを紹介している。進化心理学はなかなか興味深い説明が多いのだが,残念ながらそのほとんどは実験で証明したり反証したりできないものばかりである。
そこで彼はそれをからかうつもりで「なぜ男性はブロンド(金髪碧眼で肌の白い人)を好むのか」という論文を書き上げた。こじつけた彼の論点はこうである。古代の農耕社会では寄生虫の感染があたりまえだったが,寄生虫に冒されると重度の貧血になる。その病状は目や肌にあらわれる。貧血は子孫繁栄に重大な影響を与えるので,男性にとっては健康なパートナーを見分けることにかなりの「選択圧」がかかったはずである。そこで一目で病状の見分けがつくブロンドに注目するようになったのである・・・云々。
この論文をある医学雑誌に投稿すると直ちに受理され,また驚くべきことに彼の同僚たちもこれをまともにとらえて,そのパロディーが理解できなかったという。つまり「金髪碧眼の白人が魅力的だ」というのが前提にあったために,それを説明してくれる論文を無条件に受け入れてしまったのだ。

こんなことをいうと,「だからこそ自虐的歴史観を正して,大和民族として誇りをとりもどすべきだ」という声がきこえてきそうだが,私はそうした態度にも反対である。それもまたさっきの白人の場合と同じで,結局は単一の価値観を押しつけていることに他ならない。私は祖国日本を愛するし,また故郷和歌山も好きだが,人類の将来を考えると住井すゑさんが言っていたように,偏狭な国境や民族意識など無用であるとさえ思えてくる。そもそも価値観などというものは多様であるはずだし,またそれを認める社会でありたいものだ。




「リトル・トリー」の作者の謎

1999年4月7日の毎日新聞に法政大学教授金原瑞人氏が『「インディアン」の虚像と実像』と題した寄稿を行っていた。この中で「リトル・トリー」の作者フォレスト・カーターはチェロキー・インデイァンではなく,かつてクー・クラックス・クランの最高幹部だった者の筆名であると述べている。インデイァンの自伝とうたわれている本が,白人のしかも人種差別主義者によって書かれていたとはどういうことなんだろう。このフォレスト・カーターなる人物については 『The Education of Little Tree and Forrest Carter』でオクラホマ大学のAmy Kallio Bollman氏が詳しく紹介している。この論文では,

@フォレスト・カーターの本名は Asa Earl Carter (通称 Ace Carter) という白人で,The Southerner という白人至上主義の雑誌を編集し,自らも記事を書いている。

A1970年代「The Education of Little Tree」を出版した時期にも,同時にこのThe Southernerを出版している。(このことは彼が「改心した」元人種差別主義者という説を否定する)

Bカーターはチェロキー・インディアンの文化についてはほとんど無知である。(このことは彼の作品を読めば明らか)

C「リトル・トリー」を出版している the University of New Mexico Press が相変わらずこの本を「自伝」としているのはおかしい。米国では第二次情報も入手できるが,これが外国に翻訳されている現状では誤ったチェロキー・インディアンの文化を紹介することになる。

カーターはその後酒がもとで死去している。とにかく両極に位置するような事柄を同時に書いた不思議な人物である。カーターについての議論はMohican WWWboardという電子掲示板にもあるのでご覧いただきたい。 また,The American ExperienceにはCarterがあの悪名高き人種差別主義者George Wallace のゴーストライターであったという話も載っているのでそちらも読まれるといいだろう。




結局誰にもわからないのだ

1999年3月はじめから2ヶ月余り,「肝膿瘍(かんのうよう)」という病気で入院を余儀なくされた。酒も飲まず,タバコも吸わないので肝臓をやられるとは思いもよらなかった。「クレブシエーラ」という菌が肝臓で増殖し膿を作ったらしい。わき腹から長い針を突き刺して肝臓にたまった膿を吸引する手術を受けた。回復が遅く,一ヶ月の予定が二ヶ月に延びてしまった。ベッドからは病院の窓を通して青い空が見える。ボーっと見ていると,雲がどこからともなく現れては消えていく。そんなとき,朝日新聞に中学生へのメッセージとして次のような詩が載っていた。

 かぎりないそらからくもはわき
 かぎりないそらへとくもはきえる
 そのしたでうみはうねり
 くさはそよぎ
 きりんははしり
 ことばをしらないぼくがいきている

 どうしてってきかないで
 いきているわけをきかないで
 ほほえんでくれるだけでいい
 だいてくれるだけでいい
 うまれることもしぬことも
 ほんとうはだれにもわからない

 それだけをしっていてほしい

(谷川俊太郎,1999.3.9 朝日新聞「素顔の中学生」欄)

150億年前,ビッグバンによって宇宙ができた。46億年前に地球ができ,そして40億年前に生命が誕生した。以来無数の生命のバトンタッチが行われ,我々は今まさに,そのバトンを手にしている。しかし,手にしたのもつかの間,やがて次のランナーにバトンを渡さねばならない。この一瞬の生命の連鎖。手塚治虫の作品「火の鳥」のテーマもこれだった。受精によって我々が誕生したと学者はいう。だが,「なぜ我々は生まれ,なぜ死ぬのか」は「ほんとうはだれにもわからない」のだ。「うまれることもしぬことも ほんとうはだれにもわからない」というところを私は病室のベッドの上で何度も読み返し,胸に迫るものがあった。わからないのは何もあなたや私だけではない。DNAがいかに解明されようと,科学者がどれほど知ったかぶりをしようと結局本当のところは「だれにもわからない」。谷川は詩人の感覚でその事実を看破し,若い人に告げているのだ。

地位だとか名誉だとかもうそんなことは私はどうでもよい。こんな病気などしていると私はあと30年も生きればいいほうだろう。できるなら世間や他人の目に気を使いながら大切な時間を浪費したくない。ただ自分のために生きたい。自分さえよければいいというのではない。私に割り当てられた,私が自由に使う権利を持つ,この限られた時間を有意義に使いたいだけだ。




ジョークの効用

何をおもしろいか,何を笑うかということほど文化が関係することはないのではないか。子供の頃,テレビ番組の多くはアメリカ製の西部劇やファミリードラマであった。例えば,インディアン(「ネイティブ・アメリカン」とすべきですが,ここでは当時の表現方法を使う)に捕まり両手を後手にくくられ,周りを踊り狂うインディアンたちを見ながら隣の仲間にこういう。「ちぇっ,こんなことなら今朝床屋に行って損したよ」インディアンは白人の頭の皮を剥ぐという誤った「常識」を下地にしたジョークである。頭の皮を剥いだのはむしろ白人の方であったという事実はここではおいておく。注意したいのはこれはコメディーではないということだ。これからやってくるであろう悲惨な結末を前に放たれたジョークである。西部劇に限らず,戦争物でもたいへんな危機に直面したとき,必ずといっていいほどアメリカ映画ではジョークが出る。ジョークを言うことによって,興奮している自分を突き放し笑い飛ばし,客観的な考え方ができることもあるのかもしれない。癌にかかった妻が手術室に向かうとき,そばにいた夫が「ドジを踏むなよ」と言ったので妻がニコっとする。こうした話をかつて日本の新聞の投書欄で読んだことがある。だからこういうことはなにもアメリカだけの現象ではないかもしれない。しかし,やはりそこにはジョークへの感覚や許容度に大きな文化的差異があるように思えてならない。

1999年4月19日上方落語の桂枝雀が自らの命を絶った。そのわずか二日後,弟子の雀々が独演会を開き,師匠である桂枝雀の物まねを随所に入れて爆笑を誘ったという。24日の朝日新聞コラム『木もれび』には「(枝雀が)亡くなってからわずか二日。不謹慎にもなりかねないが,『笑い』が供養になるようなすがすがしさがあった。」と書かれていた。どうやらこの独演会は,葬儀を望まなかった枝雀への供養の意味でもあったらしい。

私の兄はどちらかというとユーモアでは「日本人離れ」していた。小さいときからいつも家族が深刻なときにパッと冗談を言っては皆を笑わせていた。私の父は48歳の若さで膵臓癌のため死んだ。子供のように小さくなってしまった父を棺に納めた。私の地方ではどういうわけか棺の蓋はカナヅチを用いないことになっていた。庭にあった手ごろな石でゴツンゴツンと釘を打つ。一人一本ずつ父への別れを思いながら打つ。家族にとってはつらい場面である。すすり泣きの合間に聞こえるこの鈍いゴツンゴツンが棺おけに共鳴する。その時兄がポツンという。「これこそ,諸行無常の響きやなあ。」家族はこれを聞いて緊張していたものから一瞬解放され,フッという笑みさえもらすのだった。誰も兄をとがめようとはしない。亡き父への侮辱と考える人もいない。むしろこうした言葉で救われた気持ちさえしたのだった。

ねじめ正一氏は小学生時代,ゴジラというあだ名の生徒が遅れて教室に入ってきたとき,彼はさっと立ち上がって「ゴジラ君どうぞゴジラへ」とやった。その瞬間クラス全体がずっこけ,先生が涙を流して笑っているのを見て,駄洒落の持つ強烈な力を痛感したという。駄洒落に限らずジョークやユーモアはうまく使うとさまざまな効用があることは間違いない。こうした能力は先天的なものもあるかもしれないが,そうしたものへの許容度を大きくし,経験によって築きあげていく面もあると思う。




学歴(学校)は必要なものだろうか

「読書案内」でも紹介している 『経度への挑戦』には,天才的時計職人 ハリソンが18世紀のイギリス社会の中で経度を計るというすばらしい偉業をなしとげながら,学歴がないためになかなか見とめてもらえず悔しい思いをしたかが描かれている。また,「正規の教育さえ満足に受けていない,手袋職人の息子ごときにあのような戯曲が書けるわけがない。シェークスピアの全作品はきっと教養ある貴族が偽名を使って書いたものに違いない」と考える人々が今でもいるらしい。(『シェークスピアは誰だったか』 参照)

学歴のおかげで,たいして有能とも思えない人々が社会のなかで優遇される一方,学歴がないためにこれまでどれほど優れた人材が煮え湯を飲まされてきたことだろう。もちろん,松本清張のように学歴差別のゆえに発奮しすばらしい業績を残した人もいる。(『私のものの見方考え方』 参照) 外国では19世紀イギリスの科学者マイケル・ファラデーがそれに当たるだろう。彼は貧困のために幼くして製本屋へ奉公に出る。お客の持ち込む製本依頼の蔵書を読むうちに学問への関心が芽生える。そして独学し,幸運も手伝って科学者になり,数々の業績を残すことになる。私が串本中学校に入った時,担任の先生が理科の先生だった。そして,岩波文庫の「ろうそくの科学」(マイケル・ファラデー著)を全員が買わされた。強制させられると何事もいやになる私は結局その本を一ページも読まなかった。もし,先生が,ファラデーがどういういきさつでこの本を書いたのかを説明してくれていたら,きっと違っていただろうと思う。「ファラデー」(小山慶太,講談社学術文庫,1999)(『ファラデー』 参照),「新ファラデー伝」(井上勝也,研成社,1995),「マイケル・ファラデー」(J.M.トーマス,東京化学同人,1994)を読んで私は「ろうそくの科学」をむしょうに読みたくなった。ファラデーは,成功し名を遂げた後も毎年クリスマスには少年少女のために科学講演を行なっていた。この「ろうそくの科学」はその最後の講演である。学歴のないファラデーの論文には数式がほとんど出てこない。ファラデーは言葉を厳格に定義し,それによって論文を書いたのである。生涯清貧に甘んじ,彼の晩年には,見かねた女王が自分の所有する邸宅を贈与したという。

正規の学校教育を受けるということがそんなに価値のあることだろうか。私の狭い経験から見ても,大学の4年間で得た知識よりも,社会や読書から得た知識のほうがずっと質的にも量的にも大きい気がする。もちろん独学にも限界があり,時にはどうしても教えてもらわねばならないこともあるだろう。しかし,それは別に学校教育でなくてもいいと思う。公立学校の教師として糧を得ている身ではあるが,学校なんて本当にいるのかなと思うこともある。校舎の中で一定期間を過ごしたという事実こそが問題であり,その中でどういう活動をしたかがほとんど問題にされない。授業中机に伏せて寝てばかりいる生徒を見ると,人生の大切な時期に無駄な時間を過ごしているように思える。ただ,彼を責めるわけにはいかない。彼とても学歴のないことの厳しさを感じているのだ。それだからこそ彼には苦痛でしかない授業を受けに毎日学校へやってくるのだ。学校なんて500万年という人類史の中ではほんの最近できたシステムにすぎない。何も絶対的なものではないのだ。学校なんて数ある教育システムの一手段だと考えるべきであるし,事実そうである。学校に来たがらない子を私は咎めることはできない。そんなことはおこがましい。学校はそれほどたいそうな事をしてきたわけではない。




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