読書紹介

【その他】

私がこれまで読んでおもしろかったと思われた本を以下の紹介します。すべて私の独断と偏見によってかかれておりますが,何かのご参考になればと存じます。評価も(最高は☆☆☆☆☆)私個人の判断であり,客観的なものではありません。


【インパクト指数】 私が面白いと感じた頁÷(総頁数÷100)つまり,その本を100頁に換算した場合,私が面白いと感じた頁がどのくらいあるかを示しています。この数字が大きいほどインパクトがあります。



『海のはてまで連れてって』
(アレックス・シアラー著,金原瑞人訳,ダイヤモンド社,2004年7月8日第1刷 ISBN4-478-93052-X)

【インパクト指数】小説のため指数化不能

【本文から】



「どうしてかって,それはね,父さん。それは――父さんといっしょにいたかったからだよ」
父さんはクライヴを見つめた。
「なんだって?」
「父さんと――父さんといっしょにいたかったんだよ。もういやだったんだ。父さんに置いてかれて,おばあちゃんの家に行くのが。ただ,父さんといっしょにいたかった。それだけだよ」
父さんはしばらくなにも言わなかった。長く恐ろしい沈黙があった。(略) それからクライブを見て,ぼくを見て,手を伸ばしてクライブの肩を抱き,もう一方の手を伸ばしてぼくの肩を抱いた。

【私のコメント】

シアラーの作品は,なぜかしら家族の中の人間関係をテーマにしたものが多い。そこには常に家族の人々を見守るあたたかい眼がある。この作品は,双子の兄弟が父が給仕として働いている豪華客船で密航をはかる話である。例によってそこにはさまざまな「仕掛け」が設けられて,話は刺激的に進んでいく。これもまた読みだしたら止まらない作品だ。巻末で兄弟が逆転するという,おまけの挿話もおもしろい。



『ミッシング――森に消えたジョナ』
(アレックス・シアラー著,金原瑞人訳,竹書房,2005年8月10日初版 ISBN4-8124-2295-7)

【インパクト指数】小説のため指数化不能

【本文から】



「アナ,見て!」呼吸が乱れていた。「この…リュック…これ,ジョナのなんです。あいつ,こっちへきたんです。警察に連絡しましょう。これであいつが見つかるまもしれない。居場所がつかめるかもしれない。アナ,そう思いませんか? アナ…」(略)
「ジョゼフ,よりによって,そんなものを見つけるなんて。みつけないと,気がすまなかったの? そのままにしておくことが,できなかったの?」(P.244)

【私のコメント】

消防自動車を追いかけていった親友ジョナが突然行方不明になる――これは登校中行方不明になった親友ジョナを決してあきらめずに捜索を続ける少年の物語である。スリリングな話の展開がおもしろい。予想もつかない方向へと話は進んでいく。ハッピーエンディングだが,ついしんみりとなる作品だ。作品が妙にリアルなのは,この舞台が実在の町グラストンベリであるからだ。イギリス南西部サマセット州にあるグラストンベリは,人口7千の小さな町だが,ここにはアーサー王の墓がある。ケルトの古代宗教,ドイルド教の聖地でもあり,町にはニューエイジやヒーリング関係の店が立ち並ぶ「あやしげ」は雰囲気があるという。英国へ行った時は一度立ち寄ってはどうだろうか。その前にぜひ本書を読んでみてほしい。



『魔法があるなら』(アレックス・シアラー著,野津智子訳,PHP文庫,2005年11月18日第1版第1刷 ISBN4-569-66482-2)

【インパクト指数】小説のため指数化不能

【本文から】



「いいこと」ママは言った。「今日は7日なのに,このパイは誰にも買われずに残っていた。ってことは,月曜日になって開店したら,捨てられてしまうってこと。月曜日は9日で,そのときには賞味期限が切れちゃっているもの。だから,あたしたちがこのパイを食べるのは問題ないし,この場合,盗ったことにはならないわ。それどころか,あたしたち,けっこう役に立つのよ。パイは食べられたがっているわけだけど,あたしたちはその願いをかなえてあげて,しかも,おいしい食べ物を無駄にすまいとしているんだから」(P.87)
あたしには,ママの言うことが正しいのか正しくないのか,よくわからなかった。

【私のコメント】

生活に困った母親が,少し母親に批判的になってきた娘と幼いアンジェリーンを連れて「月夜の大飛行」(実際は moonlight flit=夜逃げってこと)に出る。次の生活場所は大百貨店。客がいなくなった百貨店に寝泊まりするなんて――しかし,この突拍子もない発想もアレックスの手にかかれば,ついつい引き込まれてしまう。この作品は長女リビーが警察官に語る独白の形式で書かれている。自立心が芽生えてきた長女,母親のアイデアにいつも飛びつく幼いアンジェリーン,能天気なようでいてなんとか生活をしていこうとする健気な母親。それぞれの性格がこの作品を深いものにしている。大人にも読んでほしい。



『13ヵ月と13週と13日と満月の夜』(アレックス・シアラー著,金原瑞人訳,求龍館,2003年6月12日第3刷 ISBN4-7630-0307-0)

【インパクト指数】小説のため指数化不能

【本文から】



わたしはもう一度自分の手を見た。はれた指の関節,こわばった手首,薄くてしわの寄った,古い本の紙みたいな皮膚。ズキズキする痛み,メガネ,この歯,かびくさいにおい,伸びのできない体。わたしは,わたしの体の中にいるんじゃない。ほかの体だ。ちっとも若くない。千年,百万年,一兆年,もっともっと年を取っているんだ。だれよりも年寄りで,夜空の星より古い。わたしは老人,老人,老人だ。

【私のコメント】

心が疲れたとき,わたしは「アレックス・シアラー」の本を読む。かつて,同僚の先生から「青空の向こう」を勧められて読んだ。彼の本のほとんどは奇想天外だ。まるでハリー・ポッターの世界だ。そんなばかな!と普通は思う。しかし,巧みな作家であればあるほど,奇想天外なことを実にリアルなものに感じさせてしまうものだ。この本は,体が古くなると次々と若い少女の体に乗り換えて生きてきた魔女の犠牲になった少女の話だ。もっとも現代のことだから携帯電話も出てくるし,パソコンも出てくる。ごく普通の日常に非日常がうまく挟み込まれている。小説の半分まできて,それまでの話が御破算になってしまったときは,おいおい,それじゃ結末をどのようにもっていくの?と,つい心配になってしまったほどだ。

ほら,そこの心の疲れたお方,そんなときはシアラーの本を何でもいいから読んで心を癒してくださいな。



『歩調取れ,前へ!――フカダ少年の戦争と恋』(深田祐介著,小学館,2007年6月30日初版第1刷 ISBN978-4-09-387725-1)

【インパクト指数】小説のため指数化不能

【本文から】



「麹町一番町を離れてから,人生波乱万丈だよ。ツキが落ちた気がする」
「私がそのツキを取り戻してあげる。私は第一志望の女子医大へは入れたし,ツキ始めているの」(略)
「あ,腕が震えている。フカダ少年の腕が震えているわ」
そう呟いて一層強く私の腕をかかえこんだ。
「フカダ少年,歩調取れ,前へ!」
わたしは苦笑しつつも,胸を張り,膝を高く上げて歩調を取り始めた。

【私のコメント】

これはフカダ少年の自伝小説である。戦争の混乱や裕福な家庭の没落の中で右往左往しながらも,さまざまな女性との体験をそのまま語った青春記であり,好感が持てる。一気に読んでしまう本だ。



『星 新一 ―― 1001話をつくった人』(最相葉月著,新潮社,2007年3月30日発行)

【インパクト指数】ノンフィクション読み物のため指数化不能

【本文から】



◆貫禄

おれ「(星新一が原稿料の話ばかりするので)大作家ともあろうものが,あまり金の話をしてはいけません」
星新一「大作家だからこそ,平気で金の話ができるんです」

【私のコメント】

かつて高校生だったとき,図書館で私は「おーい,でてこーい」と題するSFを読んだ。大判の本のたった2ページを占める極端に短いSFであったが,その内容は奇抜で新鮮だった。私はこのストーリーを友人に話すと誰もがそれを面白がって,学校中にこの話が伝播して行ったのを覚えている。この著者が星新一であった。

本書は星製薬の御曹司そして破綻しつつある会社経営者としての星「親一」と日本初のショートショート生みの親としての作家星「新一」の両面を描いている。おおむね何事にも飄々としていた星でさえ,人並みの嫉妬やねたみがあった。彼の最大に理解者に一人であった筒井康隆の作品が小学館の『昭和文学全集』シリーズに選ばれ,自分には声がかからなかったことに不機嫌だった星は,筒井のパーティの二次会で上記のような会話を筒井が「諸家寸話」の中で書いたことに言及し,筒井の妻もいる前で「勝手に書きやがって…,人のこと書いて原稿料稼ぎやがって…」と口走ったという。



『ウルトラ・ダラー』(手嶋龍一著,新潮社,2006年3月1日発行)

【インパクト指数】ノンフィクション読み物のため指数化不能

【私のコメント】

◆手嶋氏は前NHKワシントン支局長。9・11では毎日にようにテレビに現れ日本に向けてさまざまなメッセージを送った。

◆北朝鮮が日本人の職人を拉致し,超精巧な百ドル札を偽造し,その資金で核兵器を作る――BBC特派員であり,諜報部員でもあるスティーブンを主人公にしたフィクション。しかし,情報源は巧みに隠されてはいるが,相当な事実の裏づけがあると感じさせるものがある。ただ,小説の終わり方は今ひとつという感じがした。



『大山倍達正伝』(小嶋一志・塚本佳子著,新潮社,2006年7月30日発行,2006年10月30日六刷)

【インパクト指数】ノンフィクション読み物のため指数化不能

【本文から】

◆大山倍達と力道山は日本の格闘技界に多大なる影響を与えた点において共通する存在である。また,日本人の仮面を被ることで大成した「在日朝鮮人・韓国人」としても,否が応でも二人には相通じるものがある。(P.252)

【私のコメント】

力道山が現在の北朝鮮出身の「金信洛(キム・シンラク)」であることは知っていたが,大山倍達が現在の韓国出身の「崔永宜(チェ・ヨンイ)」であったことは知らなかった。力道山は徹底して出自を隠したが,大山は晩年それを公表した。我われが持っている大山のイメージは多分に,「巨人の星」を描いた梶原一騎の手による「空手バカ一代」(1971年から『週刊少年マガジン』連載)によるものであろう。そしてこの「空手バカ一代」の大部分が梶原の創作であったり,針小棒大であったりするのだ。本書は極力事実に基づいて等身大の大山倍達を伝えようとしている。私はむしろ現実離れしたスーパーマンの大山よりも,実際大山の生き方に好感が持てた。なお,「倍達」は朝鮮語では日本の「ヤマト」にあたるような,古い朝鮮の国を表す語であるという。



『闘うフィガロ』(鈴木康司著,大修館書店,1997年5月25日初版)

【インパクト指数】ノンフィクション読み物のため指数化不能

【本文から】

◆タイプからいえば,ボーマルシェは,己れの理想の女性を求め続けて果たせず,次から次へと女を征服し,捨てていったドン・フワン型ではなく,どの女性にも美点を見出して,その美点を愛でるが故にすべての女性を愛することができたといわれるカザノヴァ型だったのだろうか。(P.77)

◆あらゆるケースにおいて彼の闘う姿勢は一貫している。相手が絶対的権力者たる国王の威光を背負った場合には,屈服をよぎなくされたが,それ以外は,「わたしが求めているのは正しい裁きのみ」という言葉どおりの生きざまを貫いてきたのである。(P.105)

【私のコメント】

一介の青年時計工が自分の発明を横取りした有力時計工を訴えることで王宮に出入りを許され,今度はハープの名人として王侯貴族婦人たちに音楽を教え,やがて「セビーリャの理髪師」「フィガロの結婚」などの傑作を著すことになる。この本は劇作家ボーマルシェ(本名ピエール=オーギュスタン・カロン)の闘いに次ぐ闘い(合計12件!)の記録である。ほとんどが自分より社会的に身分の高い貴族相手の闘いであり,ときにはルイ16世をも相手にした。また彼は王の密使として海外を暗躍し,アメリカ独立戦争に加担し,ついにはフランス革命であわやギロチンの露となるところを,女性によって救われる。フランス版太閤記ともいうべき実に波乱万丈の物語である。彼の女好きは一生続いたこともおもしろい。



『ムンクを追え!』(エドワード・ドルニック著,河野純治訳,光文社,2006年1月初版1刷)

【インパクト指数】ノンフィクション読み物のため指数化不能

【本文から】

◆ムンクは次のように回想している。”私は二人の友人と歩いていた。日が沈み,ちょっと陰鬱な気分に襲われたかと思うと,とつぜん,空が血のような赤に染まった”(略)
当時,神経を病んでいたムンクが目撃したのは,ひじょうにめずらしい気象現象だった可能性があるのだ。
1883年8月27日午前10時2分,地球の裏側にあるインドネシアの,クラカトア火山が噴火した。(略)25立方キロメートルという大量の噴出物が,軽石や塵となって降りそそいだ。(略)この塵が数ヶ月間にわたって世界中の空を覆い,その結果,日没時の太陽が燃えるような強烈な赤い光を放つ,という怪現象が起きた。(略)1883年11月30日付のオスロの新聞は,次のように報じている。”昨日から今日にかけて,オスロの西の空に強い光が見られ,多くの人が火災だと考えた。だが実際には,これは日没後の太陽光が大気中の塵に反射して起こった現象である”。

【私のコメント】

この本はフィクション風に書かれてはいるが,個人の独白も含めてすべてインタビューなどから得た事実に基づいている。本書は,盗難にあったムンクの「叫び」を取り戻したロンドン警視庁美術特捜班のチャーリー・ヒルの物語である。本書には「叫び」だけでなく,これまでの美術盗難事件について数多くの事例が紹介されている。

しかしながら,私は上記の文章が特に印象に残った。一般にはムンクの「叫び」は当時の彼の精神状態の反映であると言われているが,それだけではなく,彼が「実際に」体験した自然現象でもあるというのだ。クラカトアの噴火がどれほどすさまじいものであり,またその後の世界の社会・経済・科学などにどれほどの影響を与えたかはサイモン・ウィンチェスターの「クラカトアの大噴火」に詳しい。



『肩甲骨は翼のなごり』(ディヴィッド・アーモンド著,山田順子訳,東京創元社,2000初,2004第8版)

【インパクト指数】小説として読んでください

【本文から】

◆彼は両足を投げ出してすわり,顔をのけぞらせて,頭を壁にもたせかけていた。ガレージの中のほかの品々と同様に,彼もほこりまみれで,蜘蛛の巣だらけだし,顔はやせおとろえ,蒼白い。髪や肩にはアオバエの死骸が散らばっている。ぼくはその蒼白い顔と黒いスーツに懐中電灯の光をあびせた。
「何が望みだ?」彼は訊いた。目を開けて,ぼくをみつめている。何年も声帯を使わなかったらしく,その声はしわがれてきしんでいた。

◆ぼくはスケリグの乾いた,冷たい手に触れた。「あなたはなに?」
スケリグはまた肩をすくめた。「なにか,だよ。きみみたいな,獣みたいな,鳥みたいな,天使みたいな,なにか」彼は笑った。「そういうなにか,だな」そしてほほえんだ。

【私のコメント】

この本の帯に宮崎駿が「妙にねじれず素直な描写,心あらわれる結末。ぼくは大スキです。おすすめ」と書いてあったので,買った。

重い心臓病を患う赤ん坊のいる一家が,今にも壊れかけたガレージ付のオンボロ家に移り住んだ。少年はそのガレージで不思議な男を見る。隣の家のミナも一風変わった少女。この本はそうした人々を淡々と描く。読者を泣かせる強い感動場面は用意されていないが,そのような「色気」を出していないところがかえって好感が持てる。別件だが,イギリスでは中華料理がここまで浸透しているのかと思った(^・^)
ちなみに,この不思議な男の名前スケリグは,アイルランド本島から12キロ離れた大西洋にある岩島スケリグ・マイケル島からとっている。



『流行歌 西條八十物語』(吉川潮著,新潮社,2004)

【インパクト指数】伝記風小説として読んでください

【本文から】

◆――関東大震災直後に上野公園の高台で一時避難していた西條八十は,たまたまそこに居合わせた少年の吹くハーモニカが絶望に陥っていた人々の心を和ませる光景を目のあたりにする――
あんな俗っぽいメロディが,人々の心を癒し,雰囲気を和ませた。ひょっとすると,芸術至上の純粋詩よりも大衆歌のほうがより多くの人々を楽しませることができるのかも知れない。雨情の『船頭小唄』や白秋の『さすらいの唄』のような大衆歌謡は生涯関わりのない世界だと思っていた。しかし,たった今考えが変わった。自分は庶民の中で生まれ育った町っ子である。ならば庶民のための大衆歌を書くべきではないか。

【私のコメント】

西條八十は童謡「かなりや」・「毬と殿様」・「肩たたき」を書く一方で,「東京行進曲」・「東京音頭」・「同期の桜」・「誰か故郷を想わざる」・「青い山脈」・「ゲイシャ・ワルツ」・「王将」の作詞も行った。そしてさらに驚くべきことには,彼はアルチュール・ランボーを研究する早稲田大学仏文学部の現役教授でもあったのだ。なんと「3足の草鞋」を履いていたのである! 本書の中でも,彼がモリエールを講義していたとき,教室の窓下をチンドン屋が通りかかり,彼の作詞した「涙の渡り鳥」を奏でたので学生がクスクス笑ったというエピソードが書かれている。「いやしくも大学教授が,まして純粋詩人が,俗な歌謡曲の作詞をするなんて」という非難が絶えず巻き起こった。しかし西條は「俗っぽいこと」が「レベルの低い」ことであるとは考えなかった。人の心を打つことではどれも同じなのだ。私はかつて,粗末な引き揚げ船に詰め込まれた人たちの中である一人がつい「誰か故郷を想わざる」を口ずさんだところ,一人また一人とそれに唱和する者が出て,ついには涙涙の大合唱になったという話を聞いたことがある。私の亡くなった父が好きだったのも「王将」だった。人々はこうした歌に自らの体験を重ね合わせるのだ。そこに大衆歌の強さがある。



『チョコレート・アンダーグラウンド』(アレックス・シアラー/金原瑞人訳,求龍堂,2004)

【インパクト指数】物語として読んでください

【本文から】

◆「リンゴさくさく気分を,同志よ」
(これは健全健康党が定めた正式のあいさつだ。単に「さよなら」とだけ言うのは認められていない)
「ジューシーオレンジ気分をどうぞ」
少年たちは忠実にあいさつを返した。
「どうぞバナナを!」

【私のコメント】

シアラーの第3作目。ある日国民の無関心が災いして,「健全健康党」が政権を握る。そしてチョコレートを非合法化するのだ。主人公のスマッジャーは友人のハントリーやバビおばさんとチョコの密造を開始する――なんともばかばかしいような話であるが,これが結構おもしろい。健康党が少年団を組織して相互監視と密告を奨励し,秘密警察がチョコの不法所持者を摘発しては「再教育」施設へ送って洗脳する。さらに上記のような挨拶を強要する(ナチスの場合はかかとをカチンと合わせて,右手を斜め前方に挙げて「ハイル,ヒトラー!」)などといった話は,まさにこれまでの全体主義国家が行ってきたことではないか。対象が「チョコレート」に変わっただけである。この小説はテレビ化されBBCで放送された。(後に,「健康帝国ナチス」を読んでますますこの感を強くした。ナチスは国策として全粒パン運動,リンゴジュースなどの増産運動,ノンアルコール運動などを推し進めたのである!)

原題は"BOOTLEG(密造)"で,これは密造酒のボトルを長靴に隠して持ち歩いたことからきている。ちなみに上記の面白いあいさつは英語ではどうなっているか調べてみたら,

「リンゴさくさく気分を」 → "Crunchy apples to you."

「ジューシーオレンジ気分をどうぞ」 → "Juicy oranges to you."

「どうぞバナナを!」 → "Have a banana!"

となっていた。



『青空のむこう』(アレックス・シアラー/金原瑞人訳,求龍堂,2002)

【インパクト指数】物語として読んでください

【本文から】

◆「そんなこと言って,あとで泣いたってしらないからな。ぼくが死んだら,きっと後悔するんだから」ってやりかえした。エギーも「後悔するわけないじゃない。大喜びだわ。とっとと消えなさいよ。それからエギーって呼ぶのやめてよね」って負けずに言った。ぼくはドアをバタンとしめて,自転車で家を出た。で,死んじゃった。

◆ついにやった。鉛筆が動いた。(略)「あっ!」エギーは息をのんで,椅子を引いた。ほんとはエギーに「大丈夫だよ,エギー,こわがらないで」って心の中で呼びかけたかったけど,そんな余裕はなかった。

【私のコメント】

主人公ハリーは自転車をこいでいるときに,トラックに引かれて死ぬ。むこうの世界は天国でも地獄でもない不思議な世界だが,ハリーはおねえさんが最後に言った言葉のために,おねえさん自身が傷ついているのではないかと思えてならない。だから「彼方の青い世界」へ行く前に,ぜひ決着をつけておきたいと考える。

この本は,同僚のT先生から紹介された。最初にうかがったとき,内容がいま一つ飲み込めなかったが,実際に読んで見るとぐいぐいと話の世界に引き込まれていく。現実をしばし忘れて,ちょっと心を休めたいという人におすすめしたい。家族って何だろうということ考えさせられる本だ。



『オリガ・モリソヴナの反語法』(米原万里,集英社,2002)

【インパクト指数】物語として読んでください

【本文から】

◆「いいですか,真剣に考えてくださらないと困ります。この学校に編入してくる非ロシア語圏からの子供たちが最初に発音するロシア語は何だと思います?『でくの坊』や『糞ったれ』ならまだいい方です。ロシア語で『ありがとう』も『こんにちは』も言えない子が,『腐れキンタマ』ですよ,『他人の掌中にあるチンポコは太く見える』ですよ。『てめえはやり魔の息子か!』ですよ,ああ汚らわしい恥ずかしい。生まれて初めてですわ。こんな言葉口にしたの。最初はロシア人の子供たちの仕業かと思ってましたよ。それが,何と犯人は本校のダンス教師ではありませんか!校長は監督責任者としてオリガ・モリソヴナのレッスンを聴講されるべきです!」

【私のコメント】

これは「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」の著者による本格的な小説である。著者はロシア語通訳としても名高い。顔を見れば80歳だが,首からしたは均整のとれたうっとりする体格を持つ,年齢不詳の女性ダンス教師は,生徒を叱るとき,徹底的にほめ殺す。「ああ神様!これぞ神様が与えて下さった天分でなくてなんだろう。長生きはしてみるもんだ。こんな才能はじめてお見えにかかるよ!あたしゃ嬉しくて嬉しくて嬉しくて狂い死にしそうだね!」というぐあい。題名の「反語法」の由来はこれによる。この謎のダンス教師の過去を,主人公「志摩」がふとしたことから次第に明らかにしていく様子は,さながら事件を追う探偵のようで読む者をぐいぐいと引き込んでいく。多少どうかなと思うプロットもあるが,全体としてはうまくまとまった小説になっている。久々のおもしろい本,読んで損はしない。



『出アフリカ記---人類の起源』(クリストファー・ストリンガー/ロビン・マッキー,河合信和訳,岩波書店,2001)

【インパクト指数】3.9

【本文から】

◆まず私たちは,アフリカからアジアに10万年前頃に移住し,さらに東に拡大し,ついに5万年前頃にニューギニアとオーストラリアに達した。東方を制した後,それにやや遅れて,現生人類はアジアから西方に拡散,ヨーロッパにたどりつき,そこでネアンデルタール人を絶滅にいたらせた。最後に,いつの時点にか,アジアの集団はベーリングを越え,急速に両アメリカ大陸を南下した。(p.215)

◆世界の諸民族の間には根深い生物学的区別があるとかつて考えられていたように,科学界でも人種に関して型にはまった考えが幅をきかせ,その根は深い。数十年もの間,今日のホモ・サピエンスに見られる世界的な分岐は,ヒトの系統樹に起こった100万年前の分裂の名残だと考えられていた。その考えでは,人種は生物学的な意味を持っているとみなされた。アウト・オブ・アフリカ説が受け入れられるようになると,その見方もようやく変わってきた。アウト・オブ・アフリカ説が,肌の下はみなアフリカ人なのだということを証明したからだ。エスキモー,サン,オーストラリア・アボリジニー,スカンジナビア人,その他の諸民族への分化も,人種進化という長い歌唱のコーダ(終結部)にすぎなかったのだ。

【私のコメント】

現在あちこちで起きている民族紛争は血で血を洗うものであり,そこにある憎しみは深く痛ましい。我々は民族の違いをあまりにも大きな開きと考える。人種の皮膚の色,顔の形には埋めることのできない差があるととらえてしまう。しかし,この人類学者によれば白人も黒人も黄色人種も「肌の下はみなアフリカ人」というのだ。しかもその分岐はたった10万年前。地球時間から見ればそれはほんの昨日のことだ。なぜ同じ兄弟が憎しみあい,殺しあうのか。

この本の240頁には驚くべき写真が掲載されている。そこにはアフリカ人,ヨーロッパ人,東洋人,アメリカ先住民の女性の写真がある。それぞれがそれぞれの人種の典型的な特徴を表わしており,その違いは歴然としている。ところが,その下に書かれているキャプションを読んで愕然とする。この写真の女性はいずれも,アフリカ系アメリカ人と先住アメリカ人の娘であるアンドレア・サーシーさんが,巧みにメーキャップをして,コンタクトレンズをつけかえて変身したものであるというのだ。また,次頁にはコンピュータによってアフリカ系アメリカ人に変身させたアーノルド・シュワルツネッガーの写真も載っている。人種の違いは一人の人間が変身できるほどの違いであることをこの写真は教えている。私たちは「肌の下はみなアフリカ人」ということの証拠として,私はこれらの写真をしばしば生徒たちに見せている。この本はこれらの写真を得るためだけでも買う価値がある。



『パラダイムの迷宮』(ジョン・L・キャスティ,白揚社,1997)

【インパクト指数】6.8

【本文から】

◆合理的で分別のある科学者が哲学に関心を持つ年代にさしかかると,エキセントリックでひねくれた奇妙な考えに取り憑かれるというのは,イギリスの風土に原因があるのだろうか。アイザック・ニュートンもこの病気に取り憑かれたようで,晩年の大部分は,明らかに彼にしかわからないような家系的つながりの存在の証拠を求めて,聖書研究に没頭したのである。

◆人間のすべての行動パターンが遺伝子によって支配されているという主張は,一見するとばかばかしく思えるかも知れない。というのも結局,われわれは自由に思考する存在であり,自らの行為を自分で決める能力を持っているからである。この思い込みは気持ちのよいものではあるが,これを否定する論証も数多く存在する。

◆私の見るところ,言語獲得の問題を取り扱う今日の言語学における主流的研究はすべて,チョムスキーの主張に対し,それを支持する証拠を提出しようとするものであるか,もしくはそれの欠陥を探そうとするものである。

【私のコメント】

本書は現在のさまざまな対立する理論について,それぞれの主張を戦わせ,最後に裁判官の概説と陪審員による答申という形で著者の意見が述べられている。私としては特に第4章「人は自分の力だけで言語を獲得できるか」が一番おもしろかった。もちろんこれはチョムスキーの普遍文法生得論について述べたものである。著者は,意味論より統語論を重視するチョムスキーの主張には一線を画しつつも,チョムスキーの理論に軍配を上げている。知的刺激に満ちた本である。



『人みな骨になるならば』(頼藤和寛,時事通信社2000)

【インパクト指数】12.4

【本文から】

◆斯(こ)う居るも 皆がい骨ぞ 夕涼(ゆうすずみ)   一茶 (P.8)

◆数百億年の未来に何が残っているというのか。日本はおろか地球も太陽も雲散霧消しているはずである。こうした認識の覚悟を土台にしていないあらゆる言説は,単なる希望的観測でありセンチメンタリズムである。(P.12)

◆世界中がヒューマニズム・個性尊重・平和主義・環境保護・その他さまざなま価値を絶対であるかのように唱和している。(略)世界中が当然視している価値観を「サル山の方言」にすぎないと見破ること,これが可能でないとそれ以上の知的冒険もない。また,お仕着せ的な価値や意味の世界から一歩も出ることができない。(P.112)

◆「正しい生き方」というのは無いと断念してしまう立場である。(略)他の陣営はもちろん正しくないのだが,さりとて当方が正しいと固執することもできない。(略)ただ,そのことに気づいているぶんだけ,私のほうが賢いのだ。(略)われわれは,世界や歴史や人類に対して余裕のある立場を確保しなければならない。そのことによって初めて,今日明日の雑務や家族のごたごたや自分の生死に関しても距離を置いた余裕のある考え方と行き方を準備できるのである。(P.248)

【私のコメント】

牧師になろうとしていたチャールズ・ダーウィンがビーグル号の船旅のあと,進化論を着想するに至らせたものは何か。彼も著者のような鋭い思索があったのではないかと思う。
本書は「人間皆兄弟」といか「鯨を殺すな」とかに関心のある人にとっては実に不愉快な本だろう。賛否両論がはっきりする本である。著者は「所詮人は死ぬのだから布団かぶって寝とけばよい」といっているのではない。絶対的な「正しい生き方」などはない。宇宙から見てわれわれのやっていることはほとんど無意味であることを認識し,一歩距離をおいてこそ余裕のある考え方ができるというのだ。



『エスキモーになった日本人』(大島育雄,文芸春秋社1989)

【インパクト指数】手記のため計測不能

【本文から】

◆母親が何か黒っぽい濡れたものをワシづかみにしてきて,床にあった古新聞の上に,無造作に置いた。ツバメとハトの中間くらいの大きさの小鳥が,五,六羽。その姿がすごい。道端で見かけるぐしょぬれの小鳥の死骸そのものだ。独特の臭いが漂ってくる。まったくなじみのうすい刺激臭だ。いつのまにか鼻腔がふくらんでいる。
「キビヤ,ママット」(キビヤはおいしいよ)
母親は私に笑顔ですすめる。(略)これはすごい。エスキモーの村で暮らすのだから,多少の覚悟はしてきたつもりだが,この関門はきびしすぎる。

【私のコメント】

新田次郎の「アラスカ物語」の中に,氷に閉ざされた船から一人の男が救助を求めて決死の覚悟で出かける場面がある。男はブリザードの中で穴を掘り,そこで仮眠する。私はこれを読んで,いったいエスキモーたちはどのような防寒の知恵を持っているのだろうとしきりに知りたくなった。そこで入手したのがこの本である。これは16年間グリーンランドのシオラパルク村に住み着きそこに根をおろした日本人の話である。極寒の中を生き抜いてきたエスキモーの知恵が学べる。ちなみに,彼らの顔は我々日本人にそっくりなのでなんとなく親近感が持てる。



『無境界家族』(森巣博,集英社,2000)

【インパクト指数】3.4

【本文から】

◆出勤途中に子供を学校で降ろすつもりでスピード・オーヴァーしていた自動車が,歩行者を避けそこねて,対向車線を走るトラックと正面衝突した。自動車は大破,運手者だった父親は即死。後部座席に座っていた少年は,頭部を強打して意識を失っていたもののどうやら生命はとりとめそうだった。<略>幸いにもこの病院には,同じような症例の大手術を何回もこなした著名な脳外科医がいた。ヨーロッパやアメリカの学会にも招ばれて,何度も講演したことのある,この分野での権威でもあった。ところが,この脳外科医は,手術室に横たわる患者を見て,<略>この脳外科医は言った。「この患者はわたしの息子である。だからわたしには手術ができない」と。<略>脳外科医と患者との関係はいかん?
さて,このクイズには,いろいろな答えが可能だとは思うが,すぐに次のような解答が頭に浮かぶのではなかろうか。
(1)患者は脳外科医が前妻との間にもうけた子供である。
(2)患者は脳外科医の婚外子である。
<略>勘として(1),(2)の解答を思いついた人たちも,できることならオーストラリアに来て欲しくない。大腸菌だらけの茅ヶ崎の海で泳いでいてください。<略>脳外科医とは,交通事故で手術室に運び込まれた少年の母親だったのである。<略>父親は事故で死んだのである。「患者は私の息子だ」という言葉を聞けば,当然にも母親を思い浮かべてしかるべきだった。ところが,「著名」な「脳外科」医で,しかも「権威」ときた。それは男である,という,まったく無根拠な想定に捉われてしまった。これをセクシズムという。

【私のコメント】

この本は上品な本ではない。下ネタ表現が随所に出てくる。奥さんはイギリス人で大学の研究者。本人は自称「国際博奕打ち」。今はオーストラリアに在住。この本では小林よしのりや渡部昇一が徹底的におちょくられる。表現は上品とはいえないが,そこで述べられている内容は深く,そして正しい。



『だれも知らない小さな国』(佐藤さとる,講談社,1969)評価不能

【本文から】

◆からだじゅうが,かっと熱くなってきた。岩の前につっ立ったまま,おちび 先生を上から下まで,あらためて,ゆっくりながめた。「きみが---あのときの女の子か。」大きくうなずいて,おちび先生は顔をくしゃくしゃさせた。

【私のコメント】

どうしても忘れられない本があるとすれば,私にとってはこの本である。 筆者はこの本を書き終えたとき激しい虚脱感で心がからっぽになったようだったと述べている。私は今後もこの童話を何度も読みつづけるだろう。



『ルドルフとイッパイアッテナ』(斉藤洋,講談社,1987)☆☆☆☆

【本文から】

◆「おれか。おれの名まえは,いっぱいあってな。」
「えっ,『イッパイアッテナ』っていう名まえなのかい。」

【私のコメント】

「黒ネコのルドルフがね,イッパイアッテナって,そのネコの名前と思ってね・・・」。私の娘が小学校4,5年のとき,この本のおもしろさを必死になって語ってくれていたのだが,私は子供のいうことと受け流していた。その娘も今は大学生になり家を出て行った。ある時ハッと思い当たったのである。そうか,娘にとっては「ルドルフとイッパイアッテナ」が,私の「誰も知らない小さな国」だったのか!さっそく買って読んでみると,これがなかなかおもしろい。続編の「ルドルフともだちひとりだち」もさらにおもしろい。作者はドイツ語の先生だとか。



『突破者(とっぱもの)』(宮崎学,南風社,1996)☆☆☆☆☆

【本文から】

・共産党とヤクザでは暴力も非合法もまるで質が違う。そうではあっても,法に守られず暴力にさらされる状況の下での行動の倫理,人間として事に処する処し方は共通しているのではないか,と思っていた。

【私のコメント】

非常に不思議な本である。ヤクザの組長の息子に生まれ,学生時代は民青の影の武闘派に属し,やがては土建屋の親方として修羅場をくぐり,そしてグリコ・森永事件ではキツネ目の男として一時は犯人扱いをされる。まるでめちゃくちゃな人生に見えるが, それでいて爽快な読後感を持つのはなぜか。著者の筆さばきの上手さもあるが,私はむしろその理由は著者の一貫した人生観にあると思う。



『四千万歩の男(1〜5巻)』(井上ひさし,講談社文庫,1992)☆☆☆☆

【本文から】

・十三歳から十七歳まで常陸や下総の百姓や商家をずいぶん転々としたものだったな。作男に丁稚,満足に茶を飲んだこともない。いつも白湯か水だった・・・・・
・八百里の行程をこの自分の力で歩き通すことができるかどうか。子午線一度の長さの実測は星学者としての自分にとってはこの上ない栄誉となるだろうが,しかし蝦夷地まで往復が条件では,失うものもまた莫大ということになりそうだった。
・わたしの場合,学問はいつも米の飯の反対側にあった。そしてわたしは常に米の飯にしがみついてきた。学者でなかったのだから,学問が米櫃と直接に結びつかぬのは当たり前だが,ここでまた米の飯に縋りつくようでは,八歳のときに流した 自分の涙に,十二歳のあの向上心に,十八歳のあの向学心に申し訳が立たぬぞ。よし・・・・・

【私のコメント】

子供の時,草野球のベースの位置を決めるのによく歩幅で計った。しかし,この日本全土を歩幅で計った男がいたとは! 私は伊能忠敬は武士だとばかり思っていた。実際は貧しい生まれの中でふとしたきっかけで商家の婿になり,傾きかけた商家を建て直し51歳で隠居する。普通ならこれで終わるところだが,伊能忠敬の場合はここからが人生の出発であった。 彼は52歳で江戸に出て19歳も年下の高橋至時に師事し,天文学を学ぶ。56歳で蝦夷地測量に向かうのである。100両の費用のうち幕府が払ったのはたった20両。あと80両は伊能の個人持ち。手に数個の位取り用の小石を持ち,一歩一歩数えながら「糞も避けずに二歩で一間」のペースで江戸から北海道までいったのである。56歳から70歳まで14年間のうち,9年もの間は日本のどこかを歩き回っていた。 歩いた歩数は総計4000万歩。愚直さもここまでくるとすさまじい。人間の知的好奇心には年齢はないということを思い知らされる。「雑誌掲載記事」コーナーの「伊能忠敬に学ぶ」も合わせて読んでいただきたい。



『マレーの虎 ハリマオ伝説』(中野不二男,新潮社,1988)☆☆☆☆

【本文から】

・「それから不思議なんですけどね,その仲間たちが,ママ(彼のあだな)って名前を聞くと,みんな ピッとして,なんでもいうことを聞くんですよ。でもねえ,どうしてだったんでしょうかねえ。兄は たしかに人の下になるのがきらいでしたよ,でも,上に出たがるわけでもなかったですしねえ。暴力 をふるってひとをしたがわせるなんてことも全然なかったし・・・,おとなしくてやさしかったんですよ。」 (谷豊[ハリマオの本名]の妹の談)

【私のコメント】

現在40代の人たちは,当時数少ないテレビを持つ家に押しかけて「怪傑ハリマオ」を見たことを なつかしく思い出されるに違いない。本名谷豊(たにゆたか)。この本が書かれたときには実弟, 実妹も九州で健在であった。「あなたにも日本民族の血が流れているのだから」という日本軍部 の説得で部下とともに破壊工作に協力するが,マラリアで死亡。日本に対する屈折した感情と それを巧みに利用しようとした軍部。こうした背景を知るとますます「ハリマオ」という男に 興味が沸いてくる。



『シェークスピアは誰だったか』(リチャード・F・ウェイレン,磯山甚一他訳,法政大学出版局,1998)☆☆☆☆

【本文から】

・あの格調高いシェイクスピアの作品なのだから,ストラトフォード・オン・エイボン出身の手袋職人の息子 などに書けたわけがない。
・初期の戯曲と詩はウィル・シェイクスピアがまだ二十代半ばの年齢で書かれたことになっている。 <略>もしもウィル・シェイクスピアが作者であったとすれば,初めの段階の学習曲線は急カーブどころか,垂直である。

【私のコメント】

シェイクスピアはフランシス・ベーコンだったという説があることは知っていたが,この本を読むまで シェイクスピアがオックスフォード伯爵であったという説は知らなかった。ストラトフォード派(シェイクスピア がシェイクスピア本人であるという説を支持する人たち)とオックスフォード派(シェイクスピアがオックスフォード 伯であったという説を支持する人たち)の対立があることは初めて知った。この本はオックスフォード派 の人が書いたものであるが,なかなか説得力があり最初はおもしろいと思った。しかし,この両者の対立 は「学者とアマチュア」「反貴族主義と貴族主義」という「階級の対立」とオーパーラップすることに 気づいた。特に「訳者あとがき」で磯山氏が「オックスフォード伯説という修正主義の背後には,何か看過 してはならないと思わせる部分がある」とし「それは,性別,人種,民族などを含めて,生まれやあるいは出身 階層によって人間の価値を判断しようとする傾向に結びつくのではないかということである」とはっきり 述べられている。このオックスフォード派への批判は
The Shakespeare Authorship Page
にあるので訪ねてみて欲しい。



『けんかえれじい』(鈴木隆,産学社,1976)☆☆☆☆

【本文から】

◆麒六は武の道を尊んではいたが,高邁なる軍人精神なるものは充分理解 することが出来なかった。嫌いであった。自分は天皇陛下のために,喧嘩 修業などしているのではないと思った。自分のため,あくまでもひ弱い 自分の心身を鍛えあげること。ただそれだけの規模である。

【私のコメント】

純情硬派,人情一筋の南部麒六が青春時代を駆け抜ける。戦争という暗い 背景でありながら,涙と笑いがある痛快なドラマ。かつてTVドラマと なった。麒六は岡山県玉野市出身だが,私の最初の赴任校も玉野であった ため親しみ深い。(この本はもう入手が難しいかも)



『木曜島』(庄野英二,理論社,1972)☆☆

【本文から】

◆移民係は佐太郎の顔を真面目くさった顔つきで眺めて,「サタロー・シュガー?」と訊ねるような調子でいった。そして,「チェッ,チェッ」と舌を鳴らした。佐太郎はそれが,「砂糖はあまい」といっているらしいユーモアである ことは直ぐに感じとることができた。東村さんも傍で笑っていた。
◆年長のテンダーが,キャビンに吊ってあるトンビの羽根を持ってきて,のどにひっかかっている血糊をえぐるようにしてすくいだした。<略>佐太郎は ゼナー号のキャビンにも,トンビの羽根がつってあるのを見て,今日までそれはただの飾りものと思っていた。まさか実用のためのものとは今日まで知らなかった。トンビの羽根と並べてある絹のハンカチについても,初めて源一に その用途を教えられた。ダイバー病で眼球が外へ飛びだした時,汚れた手で 眼球をさわらないで,絹のハンカチをあてて静かにもむようにしながら眼窩 の中へ押し込むためであった。

【私のコメント】

おそらくすでに絶版になっている本書を紹介するのは多分に私の個人的な 感傷からである。一人の小説家が串本の父を訪ねてきた。戦争中のオース トラリアへの移民の歴史を調べているということであった。父は当時の日 記を彼に渡した。そしてそれが庄野英二の「木曜島」になった。本書の主人公「朱貝佐太郎」は父「須賀宗太郎」である。父は本書の出版直前にすい臓ガンで死去した。私は本書のおかげで,父が戦前オーストラリアでどのような 青春時代を送ったのかを知った。アメリカやカナダへの日本人移民の様子はか なり知られているが,オーストラリアへの移民についてはあまり知られていな い。本書はそうした面でも貴重である。



『人生を<半分>降りる』(中島義道,ナカニシヤ出版,1997)☆☆☆

【本文から】

◆私も小学生以来,今までいろいろ苦労しながら,努力しながら,ただただ 仲間はずれにされることが恐ろしくて,顔をゆがめて明るい快活な雰囲気に 無理に合わせてきたのですが,今後こうした努力をいっさいやめることにし ました。つまり,それが「人生を<半分>降りる」ということなのです。

【私のコメント】

自分はそう長くない先に確実に死ぬのである。残された貴重な時間を他人へ の気がねで無駄遣いしていいのだろうか。かといって隠遁することも難しい。 そこで筆者は「人生を半分降りる」ことをすすめている。もっとも,自己中 心的な人間を嫌い,和を重んじる社会では「半分降りる」だけでも並大抵の ことではない。



『子どもと子どもの本のために』(E・ケストナー,高橋健二[編訳],岩波書店,1997)☆☆☆☆

【本文から】

◆わたしの本は,ベルリンの国立オペラ座劇場わきの大広場で,ゲッペルス氏とかいう人によって,陰惨に大げさにはなばなしく焼かれた。象徴的に永久に葬りさられるべき二十四人の中でわたしは,この芝居じみた厚顔無恥の所業に立ち会うべく親しく現場に現れたただひとりであった。(略) 突然,かん高い女の声が「あそこにケストナーがいる」と叫んだ。

【私のコメント】

「エミールと探偵たち」は確か映画で見たような気がする。これを書いた作家が,ナチスから危険視された人物であることは知らなかった。エーリヒ・ケストナーが第2次大戦中をどう生きたかを知ることは意味がある。住井すゑは童話をかける作家こそ本物だという意味のことを言ったが,ケストナーもそのようなことをこの本の中で述べている。





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