弘法大師の生涯と教え 3・4

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 3.俗典鑽仰 (ぞくてんさんごう)


 「大師は天性明敏であったので、母方の叔父阿刀大足大夫(伊予親王学士)は、仏弟子にするより大学に入れて経史を学ばせ立身出世させるがよいと両親に告げたので、延暦七年
(七七八年)御年一五で京都に入り、直講味酒浄戒について毛詩佐伝尚書をよみ、岡田の博士にかさねて左氏春秋を学ばれた。大いに努力勉強せられたので学業の進歩は著しいものがあった。」(以上引用)
 
一流の学者について世間の出世のための学問を学ばれました。学者の先生方がびっくりされたようです。


 4.出発郷関 (しゅっぱつきょうかん)の場


 「延暦七年(788)、大師15歳の時に、希望を抱いて郷里を出発し、京都に赴いた。この絵は喜び勇んで郷里をあとにする幼少の大師の心情を描き出している。大師は18歳のときに大学に入り、漢文学などを学んで、その優れた才能を発揮した。」(以上引用)

上の絵と内容的に重なるが、馬に乗っている大師が凛々しいお姿で表されている。


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