若い英語の先生へ



私は英語教師として中学で2年,高校で36年教鞭をとり,2012年3月に退職しました。私の「白墨人生」は,まさに失敗の連続ではありましたが,その中で得た経験から若い先生方にヒントになりそうなものを記してみます。

教師としての自信を無くしたら

はりきって教師になったものの,相手は生きた人間。思ったようにならないほう が多いと思います。よかれと思ったことがかえって裏目に出る---そんなときはなん で教師になんかなったのだろうと思ったりすることでしょう。こうした場合頼り になる先輩などがいればいいのですが,最近では職員室も先輩後輩の関係が希薄です。 こういうときには斎藤喜博(さいとう きはく)の著作を読むことを薦めます。若い先生方はたぶん 「サイトウ キハク」って誰と思われることでしょう。彼には小学校教員,小学校長,宮城教育大学教授など様々な肩書きがありましたが,彼自身は形式的なものを排し,常に中身のある実践を重視しました。その理念は林竹二とも通じるものがありますが,残念ながら今は故人となられたため我々はその著書でしか学ぶことはできません。齋藤の実践は小学校での実践が基本となってはいますが,中・高・大いずれにおいても生徒という人間を対象とすることでは同じであり,得るところが大です。彼の著作は数多くありますが,『授業入門』 『授業』『教育の演出』『授業の展開』『教育学のすすめ』(ほとんどが国土社)などが代表的でしょう。さらに詳しく知りたい人は『斎藤喜博全集』(さらに二期全集もある)がありますのでご覧下さい。きっと授業や教育に対する自信のようなものが生まれてくることでしょう。

「私はそういう教育を認めない。自分だけの利益をはかり,他をおしのけても自分が先に 出ようとするような,みにくい生活をする者を認めない。小さなほこりや,競争心や, 嫉妬心や,名誉心ばかり持っている者を軽蔑する。ほめられよう認められよう,一番 になろうとのみあせる,あさましい心を憎悪する。そしてそのかわり,他との競争 はなくとも,自己の進歩努力を喜ぶ,あすの自分と競争する,今の自分と競争し進展 していこうとする,そして他と協力し,他の進歩を喜び励ますことのできる,そういう 子どもをつくりたいと思う。」

(斎藤喜博全集1「教室愛」より)

斎藤喜博がこれを書いたのは彼が23歳(1941年)のときです。当時はいっさいの ものが死への行進であり,軍国教育一色でした。そうした中での教育実践記である ことを考えると,彼がいかに卓越した教育者であったかということがわかるでしょう。

結局は「わかる授業」が勝負

生徒の興味を引きつけるということで,音楽を聴かせたり映画を見せたり歌を歌ったり します。それはそれでいいのですが,毎日歌ばかりを歌っているわけにはいきませんし, また,生徒もそれを求めているわけではありません。彼らがこうした音楽や映画以上に 授業を楽しいと感じるときがあります。それはどういうときでしょうか。実はあたりま えでありかつ基本的なことです。つまり,いま目の前で先生が説明したり質問したりしている ことがよく理解できるときです。「授業がよくわかるとき」こそ生徒が最も充実感を感 じるときです。斎藤喜博の授業実践はこの「わかる授業」をつきつめていく実践でもあ ります。映画や歌に1割の努力を払うとすれば,9割は「いかにわかりやすい授業にするか」に 苦心すべきでしょう。この逆ではありません。

わかる授業はどうすればできるのか

正直言ってこうすれば必ず生徒が目を輝かすというようなものはありません。誰もが齋藤喜博に なれるわけではありません。各自が失敗と経験を繰り返していく中でつかみとっていくものでは ないでしょうか。手変え品変えいろいろと取り組んでいくべきだと思います。わかる授業をする にはさまざまな方法があるわけですが,そこには自ずと一定の共通点があると思います。そうし たものを思いつくままに書いてみたいと思います。

◆学力に応じた中身のある教材を使う

むやみに難しい教材を使いたがる先生がいます。また逆に易しい教材を好む先生もいます。 過ぎたるは及ばざるがごとし,でいずれも生徒の学習意欲をそぐものです。今生徒はどの 程度の学力かを常に把握し,的確な教材を選ぶことが大切です。教材選びではパラパラ めくってみて面白そうなものを選ぶのですが,いざ授業で使ってみると設問がくだらなか ったり,むちゃに難しい英文が混じっていたりで失望することが多いものです。教材選び にこそじっくり時間を使いたい(これは自分の反省をこめて書いています)。また,どんなにわかりやすい英語で書かれていたとしても,内容がつまらないと学習意欲がわきません。内容が生徒を引きつけるということは多々あります。ストーリーを持って語らせる,生徒の心をつかみ揺さぶる――そんな教材はめったにありませんが,常にそうした教材を意識して収集しておくといいでしょう。かつて大学入試センター試験が共通一次試験と呼ばれていた時代に,次のような内容の英文が出題されました。

(大意)

ある男とその妻が,男の年老いた父親とともに生活を始めることになった。その家の台所にはテーブルとイスが置かれていて,男の父親はいつも中央のイスに座って食事をする。そこは昔から父親の「座」であった。しかし,妻はそれがおもしろくない。彼女は夫に,「今はあなたがこの家の主なんだから,中央のイスに座るべきよ」と言う。そこで,ある日の夕食で,父親がいつものように自分のイスに座ろうとしたのを制して,男は意を決して言う。「あっ,父さん。父さんの席はこっちだよ」。父親は一瞬,けげんな表情を見せたが,「ああ」と言って息子の指示するイスに座る。男は,そのとき,「自分は何ということを言ってしまったのだろう」と思い,妻の言なりになってしまったことを恥じる…。

私が今でもこの話を覚えていると言うことは,それほど心を動かされる内容であったということだと思います。ストーリーをして語らしめる――そういう教材を捜していただきたいと思います。

◆生徒のつまずきはどこにあるのかを瞬時に理解する

生徒に質問をして,その生徒が答えられないときどういった態度をとるかでその先生の授業 の良し悪しがわかります。

      
  1. いらだちの声で叱責する−「こんなことがわからんのか!」

    これは最悪。生徒のプライドはずたずたです。もう次から授業を嫌悪することは確実。  「こんなことが教えきれないのか」と自責すべし。

      

  2. 次の生徒を指名する

    これもだめ。次の生徒は前の生徒の気持ちをおもんぱかって「わかりません」   というかもしれません。また運良く次の生徒が答えても,答えられなかった生徒   の劣等感は増加するだけです。

  3. すぐ教師が答えをいってやる

    授業の状態にもよりますが,これもできれば避けたほうがいいでしょう。でないと生徒が考えるという時間がなくなります。

それではどうすれば,授業を停滞させずにクラス全体を進行させていくことができるのでしょうか。 それは「生徒のつまずきを瞬時に把握」して,その生徒が理解できる位置までもどり,そこから 簡潔に復習するしてやることです。できればその説明の過程ですでに答えを知っている生徒にもため になるような情報が付加できればさらにいいでしょう。どんな生徒でも順を追って理解させれば 必ず理解させることができます。




英語教育の秘密兵器は「只管朗読(しかんろうどく)と「只管英作」

私はやっと探しあてたT先生(女性)の電話番号に電話した。

「須賀廣です。この夏,帰るのでお会いしたいのですが・・・」

今から40年も前の英語塾の先生の居場所をつきとめることは楽なことではなかった。しかし今回の帰郷に際し,私はどうしてもT先生に会いたかった。会って,現在の私があるのは先生のおかげであることを伝えたかった。

最初はインターネットなどから情報を得ようとしたが,無駄だった。それもそのはずである。T先生の名前で検索したのだが,実は先生はその後結婚されて姓が変わっていたのだ。だが様々なつてをたどった結果,思わぬところからT先生の電話番号が判明した。「6次のへだたり」というのがある。相手が世界の誰であっても,「友達の友達の・・・」という具合につてをたどっていくと,平均してたった6回で必ず相手にたどり着くというのだ。T先生の場合は3回でたどりついた。

40年ぶりに聞くT先生の声は最初は本人だとわかりにくかったが,これは先生の方も同じであったと思う。オレオレ詐欺がはやっている昨今のこと,見知らぬ相手からの電話では警戒するものだ。先生はとっさには私を理解できなかったようだった。そこで「妹の洋子もいっしょです」というと,相手はやっと理解できたという様子がみてとれた。先生は私の妹も塾で教えてくれていたのだ。

今の英語は中身より「見栄え」が大切のようだ。まるでネイティブのように舌をなめらかに回しながら,早口でぺらぺらと会話のキャッチボールができることが「英語ができる」ことの条件らしい。まして,いやしくも英語を教える立場にいるものであればなお,かくあるべしということか。コミュニケーションが成り立つか否かが問題であり,どんな声であるとかどんななまりであるとかはその人の発言内容とは何も関係もないのに。どんな服装をしていようとその人の人格とは何の関係もないのと同じように。

もし,「ネイティブみたい」な声色をすることが英語ができる証拠というのなら,失礼ながら40年前のT先生はどうみても「英語ができる」とは評価し難かったといえよう。T先生は英語の発音は決して「外人らしく」はなかった。一つ一つ正しく発音されていたが,それは巻き舌ではなく,どちらかといえばカタカナ発音のように当時の生意気な中学生には思われた。

ただ,驚くべきことは,T塾の塾生は全員,学校での英語の成績が群を抜いていたということである。評判が評判を呼び,特に宣伝するわけでもないのにT塾は盛況であった。「お前,英語ができるけどどこの塾へ行ってんの?」「T先生の塾だよ」「じゃ,おれも行ってみようか」という具合で,生徒がやってくる。こういうわけだから,入塾する生徒の英語の能力はおそらくピンからキリまであったはずだが,どういうわけかどんな子どももここに来たとたんに英語ができるようになるのである。当時,塾は今ほど社会的に「認知」をされておらず,いわば日陰者的な存在であった。学校の授業の補助的役割を果たしているものと思われていた。しかし,中学校の英語の先生の間でも,T先生は一目おかれていたように思う。当時,T先生はいったいどのような指導をされておられたかと興味を抱かれるかたもおられることだろう。

その秘密は2点ある。「声に出して読む・・・」は何も斎藤孝氏の専売特許ではない。すでに何十年も前に,國弘正雄氏は「英語の話し方」(同名の本が装いを新たに最近再出版されているので,是非読んでいただきたい)で「ただただひたすら朗読せよ」という「只管朗読」を薦められている。中学校の教科書を何百回と読めというのだ。読むことで構文が身につき,感覚が身につくという。

T先生の場合は「何百回」というほどではないが,塾生全員に必ず大きな声で音読させた。先生の後について何度も音読をするのである。発音はネイティブのようでなくてもよい。文が正しく聞きとれる程度であればいいのだ。T先生は常に「文単位」であることを意識する。単語を音読することもあるが,基本的には文を読む。コミュニケーションの基本単位が文であることを自覚されておられたのかも知れない。

もう一つは,「作文」である。T先生は特別な教材は使わない。学校の教科書を徹底して使う。しかも,常に授業よりも少し進んだ箇所を学習するのである。教え方には特別なところはない。音読の後,その英語の文章の中の重要表現(構文・文法)を説明をされる。この場合もやはり「音」が要となる。たとえば,40年たった今でも私の耳には「エス,エックス,シー・エイッチ,エス・エイッチ,子音+オー」という先生の声がこびりついている。これぞ「只管朗読」の賜物である。これらの語尾でおわる名詞の複数形は「s」でなく「es」をつけるのだ。ことほどさように,語学では「声に出す」ことが「覚える」という行為にとっても非常に重要なのだ。(ここで先生方は授業では,どれほど生徒の声が聞こえているかを思い出してみてほしい)うるさいほど生徒の声(私語でうるさいのは別)が出ている授業なら生徒は確実に身についています。武士があれほどの漢字を身につけたのも,イスラム教徒がコーランをそらんじているのも,すべて「只管朗読」であることを思い出そう。

T先生はそのあと,その表現を用いて英作文を課す。一つの表現に4〜5くらい(ときにはそれ以上)の日本語文を黒板に書き,それを英語で書かせるのである。生徒が取り組んでいる間に机間巡視をされ,まだ十分理解ができていないとみると,さらに日本語文を課す。1時間の授業の大半,塾生は黒板に書かれた日本語をただひたすら英語に直すのである。ただ,その基本は教科書にある英文を下地にしているので,誰でもそれを少し変えればできることに気づく。英語を日本語に直す場合のエネルギーと,日本語を英語に直す場合のエネルギーを比べると,後者の方が格段に大きいことは誰でも経験的に理解しているはずだ。私は現在の英語教育の中でこの「英作文授業」の重要性をぜひ強調したい。國弘正雄氏の「只管朗読」に,私は「只管英作」を付け加えたい。

注意したいのは,T先生は正解を黒板に書かれるようなことはあまりしなかったということである。生徒がノートにやっている解答を個別にチェックしては,添削するのである。また,難しいことは一切しない。塾生が少し考えればできるレベルの課題を「数多く」させるのである。だから,たいていの塾生は黒板の課題をササッとやっては先生が回ってこられるのを待つ。そして先生から○をいただく。こうしてT塾の塾生は英語への自信を徐々に蓄積させていった。もちろん,学校の授業は塾の復習のようなものだから先生の説明もすらすらと頭に入るのである。こうした1対1の「個別指導」も重要である。クラスの規模も小さくなっている昨今では,一斉授業の中での個別指導も十分可能ではなかろうか。

全部T先生を真似る必要はない。あなたが今やっている授業の中に「只管朗読」「只管英作」「個別教授」の要素を可能な限り加えてみるといいのではないだろうか。

英語教育はファッションだといわれる。その時代その時代の「流行」がある。私の現役の間にも,様々な Teaching Method が紹介され,導入され,そして消えて行った。結局,教育法というのは基本はあくまで「シンプル」なものだ。見かけだけにこだわってはいけない。たまたまの1時間の授業をおもしろおかしくできてもだめなのだ。授業は1年間続く。だが,生徒を飽きさせず引っ張っていくことは決して難しいことではない。コツはただ一つ。生徒に「授業がわかるという実感を持たせ,自信をつけさせていく」ことに尽きる。授業がわかれば「英語をやって何の役に立つの?」などと聞く生徒はいなくなる。人間というのは知的好奇心を刺激され,「おもしろい」と感じるからこそ勉強するのだ。それがあれやこれやの役に立つなどというのはすべて「後づけ」にすぎない。

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