本の中のちょっと気になる話




◆アウシュビッツでは,1944年のクリスマス後に大量の死者が出た

1944年のクリスマスの後,アウシュビッツ収容所では大量の死者が出た。多くの被収容者は,クリスマスには家に帰れるという素朴で切実な希望にすがっていた。しかし,クリスマスが近づいてもその気配は一向に見えない。それどころか食糧や労働の状況はますます悪化していく。彼らの希望は落胆と失望に変わっていくとともに,生きる気力を失い,体の免疫力も低下していったのである。

【資料】「夜と霧」,ヴィクトル・E・フランクル,みすず書房,2002年新版

◆おおむね本当のことを言え,しかし尋ねられないことは言うな

アウシュビッツで生き残るコツの一つは,「親衛隊から何かをたずねられたら,おおむね本当のことを言え。しかし,聞かれないことは黙っていろ」であった。たとえば,「いくつだ」と言われたら,正しい年齢を答える。職業を問われたら,「医師です」と言う。ただし,はっきりと専門をたずねられなければ,精神科医であることは言わない。こうして必要最小限の事実のみを答えることが,自分の身を危険にさらさないようにするコツだった。

【資料】「夜と霧」,ヴィクトル・E・フランクル,みすず書房,2002年新版

◆目立たないことが身を守るコツだった

強制収容所に入れられた人々は,必死の思いで,できるだけ「群衆の中」にまぎれこむように心がけた。つまり,決して目立たない,どんなささいなことでも親衛隊の注意を引かないことが,収容所ないで少しでも命をながらえるコツだった。

【資料】「夜と霧」,ヴィクトル・E・フランクル,みすず書房,2002年新版

◆ 指一本で人の生死を決める

アウシュビッツ駅に着いたユダヤ人は一列に整列させられた。彼らの前には,一人の親衛隊員が立っていた。男は右手の人差し指をほんのわずか動かしていた。9割は左に,1割は右に。ユダヤ人は男の示す通りの方向へ移動した。たいていは左に,ごく一部は右に。左に進んだ者は,本人たちは最期になるまで知らなかったのだが,ガス室と焼却炉が待つ建物の中へ,右に進んだ者は,乏しい食事と厳しい労働が待つ収容棟へと進んでいったのだった。この男の人差し指のかすかな動きが,アウシュビッツに到着したばかりのユダヤ人の生死を分けていたのだった。

【資料】「夜と霧」,ヴィクトル・E・フランクル,みすず書房,2002年新版

◆ 「豚飼い」から「総理大臣」に出世した男

公孫弘は最初は監獄の看守をしていたが,失敗し,海辺で豚を飼った。40歳を過ぎて儒学を独学。武帝が人材発掘のため「賢良文学の士」を公募したとき,応募し採用されたが,そのとき既に60歳。「博士」すなわち教授となり匈奴の使者となったが,満足の行く仕事ができなかったとして辞職。故郷の戻った。しかし,その後何度目かの公募で,地方役人からまた推薦を受けたが,自分は失敗者ですからと断った。ところが推薦者を出さないと武帝から職務怠慢と見なされるとして,役人に拝み倒されしぶしぶ再受験する。またまた彼の答案が群を抜いており,武帝の目に入り,再抜擢された。時に公孫弘は70歳を過ぎていたが,年の割に若々しく,それが武帝の気に入られた。その後はとんとん拍子に出世し,80歳で死ぬまで丞相(総理大臣)の職にあった。田舎の「豚飼い」が「総理大臣」にまで上りつめたというのは他に例がない。漢の武帝の徹底した能力主義があってこそだろう。ただ,司馬遷は「史記」の中で,公孫弘には二面性があり,同じく皇帝の試験で抜擢された先輩の董仲舒が官吏として出世できずに野に下ったのも,陰で公孫弘が糸を引いていたからだと書いている。

【資料】「漢の武帝」,吉川幸次郎,岩波新書D48,1949年

◆元号の制度は,漢の武帝が始めた

我が国が用いている「昭和」「平成」などの元号は,実は漢の武帝が始めた制度である。ただ,かつては一人の天子が在位中に何度も「改元」があり,漢の武帝は55年間の在位中に10回も改元している。天子が在位中に1元号しか用いなくなったのは,比較的最近のことで,日本では明治に入ってから,中国では14世紀の明の時代からである。

【資料】「漢の武帝」,吉川幸次郎,岩波新書D48,1949年

◆中国の科挙試験の萌芽は董仲舒の進言にあった

董仲舒は漢の武帝が出題した国の治世を問う問題に対して,「世の中を良くするには,孔子のいう「易」「書」「詩」「礼」「楽」「春秋」の六芸の教養を有する者が官吏とならねばならない」と回答し,それが武帝に採用され,実行されたた。政治は教養ある人間によって行わればならず,その教養は儒学でならねばならないという中国の風習は,ここに確立し,それが後世の科挙制度につながるのである。

【資料】「漢の武帝」,吉川幸次郎,岩波新書D48,1949年

◆戦前も戦後もアメリカはチャップリンを敵視した

チャップリンが「独裁者」の制作を企画していると知ったアメリカ国民は,建前ではこの映画は民主主義にとっては素晴らしいものとしてチャップリンの勇気を讃えつつ,本音では制作を断念してほしいと考えていた。世論調査では,当時のアメリカは90%以上が反ユダヤ主義を標榜し,財界はナチス政権に多額の投資をしていたのだ。驚くべきことに当時のアメリカは親ファシズムとも呼べる国だったのである。しかし,ナチスの侵略と第二次大戦で世間の流れは変わり,「独裁者」は大ヒットとなる。しかし大戦が終わると,今度はマッカーシズムが吹き荒れ,社会は反共ヒステリー状態となる。そういう中でチャップリンのリベラリズムも極左と見なされるようになる。1947年公開の「殺人狂時代」の記者会見では映画の内容などそっちのけで,「共産党のシンパか?」「愛国心はあるのか?」などの質問が続出。「私は国家主義者ではなくて,国際主義者です。だから市民権はとらないのです」というチャップリンの正直な回答も,右翼を激高させたのである。1950年代に入っても「チャップリンのドタ靴にはロシアの雪がついている」などという非難があり,ついに1952年,「ライムライト」のロンドン上映のため,チャップリンがアメリカを離れるや否や,アメリカ政府は彼の再入国を拒否するのである。冷戦期のアメリカは根拠のないデマをでっち上げて攻撃する,まさにナチスがやったことをチャップリンに対して行ったのだ。

【資料】「チャップリンとヒトラー」,大野裕之,岩波書店,2015年

◆ファシズムの本質は「リズム」

1938年,スペイン内乱に心を痛めたチャップリンは短編「リズム」を書く。反フランコ派の作家が今まさに銃で処刑されようとしている。命令を発する将校は,実はその作家のかつての友人だったのだ。将校も銃殺隊員たちも心の底では執行延期命令が来ることを期待している。しかし死刑執行の時は来た。将校はリズミカルに号令をかける。「気をつけ”!」銃殺隊員たちは一斉に気をつけをする。「構え銃(つつ)!」銃殺隊員たちは一斉に銃を構える。「狙え!」隊員たちは全員,作家に銃を向ける。そして次の「撃て!」で作家は蜂の巣になるはずであった。しかし,そこへ誰かが駆けてくる足音が聞こえる。将校も隊員たちも,それが処刑延期命令を伝える伝令の足音であることに気づく。将校はそこで「撃て!」のタイミングで,「止め!」と発声するのだが,それまでリズムで訓練されてきた銃殺隊員たちは,「止め!」の号令を聞きながら,全員が銃の引き金を引いてしまう。

チャップリンはこの話で何を言いたかったのだろう? 戦前の日本もそうだが,全体主義の下では,個人の考えや意志は無視され,言葉の意味さえも消え去り,ただ建前と形式だけが残る。誰もが自ら考えたり個人の意見を持つことは許されず,ただ常に周囲と歩調を合わせ一斉に同じ行動することが求められる。チャップリンはこの「リズム」こそが全体主義の怖さであると言いたかったのだ。

【資料】「チャップリンとヒトラー」,大野裕之,岩波書店,2015年

◆「モダン・タイムス」のモデルはフォード工場

ヘンリー・フォードはドイツびいきで「ユダヤ嫌い」であり,「国際ユダヤ人」という反ユダヤ主義の著書まで出している。そのため彼はナチスには好意的だった。1923年にチャップリンはこのフォードの案内でフォード社の工場を見学している。当時は未曾有の好景気にわいており,恐慌の片鱗も見られなかった。しかし,チャップリンはすでにオートメーション工場の非人間性を見抜いていた。

【資料】「チャップリンとヒトラー」,大野裕之,岩波書店,2015年

◆ナチスがチャップリンにこだわった3つの理由

なぜナチスはあれほどまでチャップリンを攻撃したのか。理由は3つある。1つ目はナチスはチャップリンをユダヤ人だと思い込んでいたことだ。2つ目はチャップリンが平和主義者であったことである。ドイツにおけるチャップリンの人気は相当なものだった。1932年の大統領選挙で投票用紙に「チャップリン」と書いた者もいたほどである。3つ目はチャップリンの「チョビ髭」である。ドイツでは髭は権威の象徴であった。神聖ローマ皇帝フリードリヒ一世に始まり,ヴィルヘルム二世,ビスマルク,ヒンデンブルクと皆,堂々とした髭をたくわえていた。ヒトラーの髭も個性的な髭となるはずだったが,どういうわけかチャップリンが同様の髭を生やしていた。しかも,そちらの方が先に有名になっていた。かといって,「ユダヤの喜劇役者」と同じ髭だからといって,それを剃り落せば権威も失墜する。放置すればパロディの的となる。そこでナチスは取った政策は,徹底的にチャップリンを排除することだった。

【資料】「チャップリンとヒトラー」,大野裕之,岩波書店,2015年

◆五・一五事件の首謀者はチャップリンの暗殺を企てていた

1932年5月14日にチャップリンは来日した。彼の世界旅行の最後の目的地だった。そしてその翌日に五・一五事件が起き,犬養首相が暗殺された。首謀者の海軍将校古賀清志らは犬養とともにチャップリンの暗殺を計画していた。チャップリン歓迎会に集まった「多数の支配階級」をチャップリンと共に殺害することで,日米関係を壊し,ひいては「対米開戦」にすることをもくろんでいた。だが,チャップリン一行が直前に予定を変更したため,命拾いをしたのだった。

【資料】「チャップリンとヒトラー」,大野裕之,岩波書店,2015年

◆6,000人のヒトラーがいた

ヒトラーは政治家や芸術家などではなく,演説家,正確には煽動家(デマゴーグ)だった。アメリカの広告手法を学んだヒトラーは,「この(プロパガンダという)芸術をマスターするのに2年かかった」と後に述べた。常に「仮想敵」を作り,自分は絶えずそうした「悪」と闘っているのだという演出を行い,国民を興奮状態に置いた。しかし,むろんヒトラー1人のカリスマ性だけではその勢いを全ドイツに広げるのは無理である。そこでナチスは弁士学校を設立し,演説の技術を授け,6,000人に上る「ヒトラーの分身」を養成した。彼らは全国に散り,様々な場面でマニュアル通りに宣伝を行った。この手法は当時としては画期的だった。

【資料】「チャップリンとヒトラー」,大野裕之,岩波書店,2015年

◆チャップリンとヒトラーは共に25歳の同時期にチョビ髭を生やし始めた

チャップリンとヒトラーは同い年で,4日違いで生まれた。全く対照的な人生を歩みながらも,奇しくも共に25歳になったほぼ同時期にチョビ髭を生やし出した。チャップリンの作品がドイツやオーストリアで上演されたのは,ヒトラーがチョビ髭を生やし始めた1年後の1915年であり,どちらがどちらを真似したというわけではない。

【資料】「チャップリンとヒトラー」,大野裕之,岩波書店,2015年

◆コロっと変わったチャップリン評

1941年
「(「独裁者」は)ひどく後味の悪い映画だった。(略)ドイツの今日の躍進の歴史的な意味と必然を理解しようともせずもう頭から揶揄する態度なので,結局天に唾するような結果に陥っている」

1960年
「日本人の私はスクリーンのヒットラーをどう見たか。(略)そのとき,銀座通りの商店街にナチの旗が飾られ,(略)にがにがしい思いで,それを見たのを覚えている。(略)この映画が訴えようとしているのはデモクラシーの擁護であり,ヒューマニズムの強調なのだ。(略)チャップリンはこの映画で希望と勇気を人々に与えようとしたのだ」

上の二つの全く相反する意見は,驚くべきことに同一人物の発言である。その作家は名前を高見順と言った。

【資料】「チャップリンとヒトラー」,大野裕之,岩波書店,2015年

◆チャップリンは母からヒューマニズムを学んだ

チャップリンの母は舞台をあきらめた後も,子どもたちを演技で楽しませてくれた。チャップリンが熱を出して寝込んでいたある夜,母はキリストの生涯を迫真の演技で演じてくれた。幼いチャップリンは感動のあまり声を上げて泣いた。チャップリンは後にこう記している。「暗い地階の部屋で,生まれてはじめて知る暖かい灯(ともしび)を,母は私の胸にともしてくれた。その灯とは,すなわち愛,憐れみ,そして人間の心だった」。しかし,母親は貧窮生活の中で,しだいに精神に異常をきたし,施設に収容されることになる。

【資料】「チャップリンとヒトラー」,大野裕之,岩波書店,2015年

◆ヒトラーはトーキーで権力を手に入れた

実は,当時マスメディアといえばラジオであった。しかし当時に政権である社会民主党がラジオを牛耳っていたため,野党であったナチスは1932年までラジオで演説ができなかったのだ。そこで1932年の選挙の際,ゲッペルスはヒトラーの演説を収めたトーキー映画を作り,全国の映画館で映画が始まる前に必ずそれを流すように命じた。これが功を奏して1933年にはナチスが政権の座に上り詰めるのである。ヒトラーは皮肉にも,ユダヤ人4兄弟が率いるワーナー・ブラザーズが発明し,ユダヤ人天才エンタテイナーのサル・ジョンソンが主演した映画が初めて導入した技術である,トーキーをフルに活用して総統にのし上がったのだ。

【資料】「チャップリンとヒトラー」,大野裕之,岩波書店,2015年

◆チャップリンはユダヤ人?

なんとなくチャップリンはユダヤ人ではなかったかという印象を持っている人は多いのではなかろうか。それは俗説で,おそらくナチスが大戦中に積極的に流したデマが影響しているのかもしれない。チャップリンは父母はともにミュージック・ホールの芸人で,4代さかのぼっても皆イギリス人である。ただ,父方の祖父の妻(つまりチャーリーの祖母)はロマ(いわゆるジプシー)で,チャップリン自身はそれを誇りに思っていた。

【資料】「チャップリンとヒトラー」,大野裕之,岩波書店,2015年

◆夕陽がきれいだから見に行こう

強制収容所の中で定期的に行われる「選別」。それは骨と皮になった囚人たちを一斉に走らせて,生と死を選別することだった。遅れた集団は即刻,ガス室送りとなった。幸い今日は勝ち組に入っても,次回はガス室かもしれない。精神科医のヴィクトール・フランクルはユダヤ人であったため,アウシュビッツに送られるが,奇跡的に生き延びた数少ない一人だった。ある日の夕方,フランクルが,その日与えられたわずかな食べ物を手に小屋の床に力なく横たわっていた時,友人が「夕陽がとてもきれいだから外に見に行こう」といってやってきた。死が日常となった絶望の淵にいても,人間は美に感動する力があるのだ。そうした精神性こそが,友人や彼を死の淵から生還させたとフランクルは書いている。

【資料】「人間の本能」,ロバート・ウィンストン,新曜社,2008年

◆協力と対立――それは同じコインの表と裏である

協力行動は共通の帰属意識や仲間意識を生み出す。それ自体は悪いことではない。しかし,一方では,それが「わたしたち」と「彼ら」を峻別する。自国民と他国民,同じ宗教の人と他の宗教の人。人間のこうしたありふれた性質,すなわち,世界を敵と味方に二分したがる本能が,ホロコースト,ルワンダ,コソヴォ,アフガニスタン,民族紛争,カンボジアの大虐殺…などを生み出した。

【資料】「人間の本能」,ロバート・ウィンストン,新曜社,2008年

◆「つわり」は母親に肉食を避けさせるメカニズムである

かつて,やや古くなった肉にはトキソプラズマなどの寄生虫が潜んでいることが多かった。ふだんなら,体の免疫が働き,こうした病原体は難なく破壊される。しかし,受胎後6〜14週の間は,主導権が母体から胎児に移り,母体の免疫系は低下する。そのため長い進化の過程で,私たちは胎児を危険な毒物から守るための戦略を身につけてきた。それが「つわり」である。妊婦の66%は妊娠初期に「つわり」を経験し,その3分の1は動物性タンパク質に強い嫌悪を感じるようになる。そして妊娠3ヵ月を過ぎると,こうした症状は自然消滅する。冷蔵庫が出現し,トキソプラズマの危険がなくなった現代でも,石器時代の本能は健在である。

【資料】「人間の本能」,ロバート・ウィンストン,新曜社,2008年

◆ヒトにとって最も危険な旅

誰もが経験する最も危険な旅とは何か。その距離はわずか10センチ。そう,産道である。頭蓋と母親の骨盤との間にはほとんど隙間がなく,しばしば詰まってしまう。医学的手段のなかった時代は,母子ともに死ぬしかなかった。医療の発達で,お産の危険性は軽減されたとはいえ,女性にとって出産は今でもたいへんな仕事である。

【資料】「人間の本能」,ロバート・ウィンストン,新曜社,2008年

◆我々は生まれながらに「美」の概念を持っている

オスカー賞をとった映画を見たことも,雑誌「ヴォーグ」を読んだこともない生後3ヵ月の赤ちゃんに多くの女性の写真を見せたところ,どの赤ちゃんも一般に美人と思われる女性の写真を好んで見る傾向があった。これはテキサス大学の研究による。もともとヒトは生まれながらに一定の美的基準を持っており,それが成長の過程で強化されるということらしい。

【資料】「人間の本能」,ロバート・ウィンストン,新曜社,2008年

◆3万年前の人類はベジタリアンではなかった

骨に含まれる炭素と窒素の安定同位体の違いを調べることで,その動物が生前に何を主として食べていたかがわかる。3万年前の人類の下顎の骨を調べたところ,同時期の肉食獣とほぼ同程度に肉を食べていたことが判明した。出アフリカ後の人類の祖先は,氷河期の寒冷な気候を生きねばならず,草食よりも肉食にならざらを得なかったものと思われる。

【資料】「人間の本能」,ロバート・ウィンストン,新曜社,2008年

◆350万年前の足跡

350万年前にすでに人類は二足歩行をしていた。それはどうしてわかるかというと,350万年前にタンザニアのセレンゲティ平原の東の端のラエトリで,火山灰の降り積もった場所を横切った猿人が二人いたからだ。平原を縦列になって歩いていく彼らの足跡が,1978年に発見されたのである。彼らはおそらく,その数年前にエチオピアで発見されていた女性「ルーシー」と同じ種のアウストラロピテクス・アファレンシスだと考えられている。

【資料】「人間の本能」,ロバート・ウィンストン,新曜社,2008年

◆ヒトゲノムはA4版で60万ページ

2001年にヒトゲノムは解読された。A,T,G,Cの塩基が延々と連なるリストで,全部で30億文字に上る。A4サイズのページで60万ページ。製本して並べると80メートルの棚が必要になる。個人間では1,000文字に付き,1文字の割合で違いがある。これが,目の色や皮膚の色,癌になる傾向などの違いとなる。

【資料】「人間の本能」,ロバート・ウィンストン,新曜社,2008年

◆化体(transubstantiation)

まず,アリストテレスの科学では,すべての物は,その物が持つ色・香り・味などの「偶有性」と,その物自体の根源にある「実体」の2種から成り立っていると考えられていたという下地があった。

新約聖書には,イエスは十字架にかけられる前の晩,弟子たちにパンをちぎり与えて「これは私の体である」と言い,ブドウ酒を与えて「これは私の契約の血である」と言ったと書かれている。もちろん,イエスは比喩的に言っているのだが,1100年頃から,ミサで司祭がパンとブドウ酒を祝福し,聖書の文句を唱えた瞬間に,見かけの「偶有性」は変わらないのだが,司祭が持つパンとブドウ酒の「実体」には根源的な変容が生じ,本当にイエスの血と肉に変わるのだという説明が神学者の間で行われるようになった。これが「化体(transubstantiation)」である。

【資料】「デカルトの骨」,ラッセル・ショート,青土社,2010年

◆デカルトはヘレナへの責任を果たした

娘の死後,デカルトはその母ヘレナを棄てたと考えられていた。しかし,最近になって,ライデン市の公証役場記録の中に,フランシーヌの死後,4年後にヘレナ・ヤンスと宿屋を経営するヤン・ヤンズ・ファン・ウェルとの婚姻契約書が発見された。ヘレナは当時としてはかなり高額の千ギルダーを持参金としていた。別の記録では,これはスウェーデンに行く前に,デカルトがヘレナのために用意してやったものだった。記録によると,その後ヤンが死んでヘレナは宿を受け継いだ。彼女は再婚し,新たな夫との間に3人の息子を設けたという。

【資料】「デカルトの骨」,ラッセル・ショート,青土社,2010年

◆デカルトは娘フランシーヌをかわいがった

デカルトの娘フランシーヌは1634年10月15日に受胎した。これはデカルト自身が後に友人に宛てて,知人の家に投宿したときその家の女中ヘレナ・ヤンスと懇ろとなり,娘を設けたことを知らせているのだ。自己中心的なデカルトには親しい友人や家族はいなかったが,娘が生まれたことで彼の心に変化が生じた。当時,婚外子を作ることは重罪であったが,彼はフランシーヌを実子と認めた。そして表向きはヘレナは彼の女中,フランシーヌは「姪」として,数年間あちこちを転々としながら家族生活を送ったのである。フランスの親戚には,娘を連れてフランスに戻り,言葉を覚えさせて,教育を施すつもりだと述べている。デカルトは生涯にわたって,この子を愛した。しかし,デカルトが単身でライデン滞在中,「フランシーヌが全身紫色になっている」との悲報が届く。急いで引き返したデカルトの腕の中で,フランシーヌは息絶えた。猩紅熱だったようだ。

【資料】「デカルトの骨」,ラッセル・ショート,青土社,2010年

◆人々はデカルトは不死だと思っていた

当時の人々は,デカルトはいずれ病を根絶し,寿命を劇的に延ばすものと信じていた。そのためデカルトがスウェーデンで死んだことを知ったとき,フランスのクロード・ピコ神父は「デカルトは数世紀に亘って生きる技術を発見し,500年は生きるだろうと信じていたのに」と語った。そして不老不死研究の第一人者であるデカルトがこれほど早死にをすることに疑問を持った。デカルト毒殺説はこのあと何十年もの間,ささやかれ続けた。

【資料】「デカルトの骨」,ラッセル・ショート,青土社,2010年

◆デカルトは死は克服できると思った

肉体は機械であり,死は機能不全に過ぎない。誤りを修正すれば死をも克服し,人間の寿命を千年までのばせるとデカルトは考えた。そして「人生の儚さに妨げられなければ」,その最終的な解に肉薄していると信じていた。

【資料】「デカルトの骨」,ラッセル・ショート,青土社,2010年

◆デカルトはフェルマーの数学を「糞」と呼んだ

デカルトの敵の一人はこう言った。「デカルトはあらゆる先入観を取り除こうとしたかもしれないが,自分が正しいという先入観だけは取り除けなかった」。デカルトは批判者に対しては徹底的に下品になった。フェルマーの数学を「糞」と呼び,著名な著述家の作品を「便所紙」と呼んだ。パスカルに対しては,「この世に真空が存在するなら,それは唯一,パスカルの頭の中だけだ」と言った。

【資料】「デカルトの骨」,ラッセル・ショート,青土社,2010年

◆思考が生じている,故に思考者があるはず

Cogito, ergo sum.は徹底的に懐疑を推し進めると,「我」すらもなくなり,ただ思考が進行しているという認識だけだということである。「我惟う,故に我在り」ではなく,「思考が生じている,故に思考者があるはず」というのが正しい。

【資料】「デカルトの骨」,ラッセル・ショート,青土社,2010年

◆ハーヴィは「全人類が敵」と感じた

1628年,ウィリアム・ハーヴィが「血液は循環しており,心臓はポンプ器官である」と発表したとき,手酷い批判を受けた。その激しい反撃で,彼は「私はほとんど全人類が私の敵になったのではないかと戦慄した…ひとたび蒔かれた教理は深く根を張り,古きものへの尊敬はあらゆる人間に影響を及ぼすのだ」と述べた。

【資料】「デカルトの骨」,ラッセル・ショート,青土社,2010年

◆デカルトの主たる研究目的は「健康維持」だった

デカルトといえば「方法序説」だが,その末尾で「私は残された時間を医学のために諸規則を引き出すことができる知識に修得に使いたい」という趣旨のことを書いている。死ぬ5年前の知人への手紙では「健康を維持することこそ,常に私の研究の主たる目的でした」と書いた。

【資料】「デカルトの骨」,ラッセル・ショート,青土社,2010年

◆中国は大乗も小乗も同時に受け入れた

シルクロードの開通が遅かったため,中国にはオリジナルの仏教(絶対者の存在を認めない上座部仏教)と,その数百年後に現れた大乗仏教(阿弥陀・薬師・大日・観音など超越者を認める,絶対神宗教に近いもの)が同時に流入した。そして中国人は,いずれの経典もすべてブッダ本人が説いたものと考えた。そして,これが日本に入った。

【資料】「科学するブッダ」,佐々木閑,角川文庫,2013年

◆ブッダは食中毒で死んだ

イエスが磔刑で死んだのに対して,ブッダは食中毒で死んだ。これを「かっこ悪い」と見てはいけない。イエスは「神(の子)」とされているが,ブッダは最初から「人間」だったのだ。ブッダが自分を超越者と主張したことは一度もない。暑いインドで,もらものの食事をしていれば,当然食中毒もありうる。むしろ,「この食事を提供してくれた人を,絶対に非難してはいけない」と弟子に言い残して死んでいったブッダこそ尊敬に値する。そもそも,本来の仏教は,神のような絶対者を認めない。わざわざ絶対者を想定しなくても,法則性の世界で最高の自己を実現できる。神秘も,奇蹟も,神罰もない,普通の生活の中に真の安らぎを見出す道がある。これがブッダの創った仏教の根本理念であった。

【資料】「科学するブッダ」,佐々木閑,角川文庫,2013年

◆アーリア人の北ドイツ起源説

今では,中央アジアが定説となっている,アーリア人の故郷をめぐって,諸説が並び立った時期がある。その中に,北ドイツ起源説があった。ナチスはそれに飛びついた。そして「アーリア人の起源は北ドイツ」という考えと「アーリア人は金髪碧眼の優秀な民族」という考えを結びつけて,ドイツ人最優秀説を作りあげた。そして,その対極にある有害劣悪民族として,ユダヤ人がやり玉に挙がり,ホロコーストへ。これはアーリア人研究家にとって,思いもしなかった展開であった。

【資料】「科学するブッダ」,佐々木閑,角川文庫,2013年

◆斉一説は反フランス革命から生まれた

岩は長い年月をかけて風化して砂になる。そして砂はこれまた恐ろしいほどの年月をかけて圧縮され,再び石となる。今ある世界は,少しずつ少しずつ,気の遠くなるほどの時間をかけて作られてきたものだ。これを「斉一説(せいいつせつ)」という。ダーウィンはライエルの斉一説に大きな影響を受けた。ドーバー海峡を隔てて,海の向こうのフランスで展開される恐ろしいフランス革命を目撃したイギリス人は,物事はゆっくりと漸進的に進むべきだという気持ちを抱いた。その時代の科学者も科学理論の中にそうした考えを取り入れる傾向があった。そして斉一説が生まれた。

【資料】「科学するブッダ」,佐々木閑,角川文庫,2013年

◆神は最初の生命だけを創った

進化論とキリスト教に折り合いをつけさせる方法がある。それは,「神は最初の生命だけを創った」と考えればよい。生命誕生の最も重要な部分で神が介在し,それ以後は科学法則が支配することにすればよいのだ。この解釈法は,実は現在でもまだ完全に消え去ってはいない。

【資料】「科学するブッダ」,佐々木閑,角川文庫,2013年

◆世界は時々刻々,分岐している

世界は,時々刻々,至る所で分岐している。それが多世界解釈である。量子論の考えをまっすぐに伸ばしていけば,この多世界解釈に行き着く。量子論が発展して,多世界解釈に至ったのではない。量子論がそもそも多世界解釈なのである。

【資料】「科学するブッダ」,佐々木閑,角川文庫,2013年

◆マリファナで得た悟りは本物?

カール・セーガンはミスターXという匿名で,自分のマリファナ体験を書いている。ハイになったとき自分がすごい悟りを得たという実感を持つ。そして素面になったとき,多分自分自身がそのことを信用しないだろうということが予測できるというのだ。そこでセーガンはハイの間に,「よく聞け,朝の大まぬけ野郎。これはホントのことなんだぞ!」と自分に語りかけるメッセージを録音した。

【資料】「欲望の植物誌」,マイケル・ポーラン,八坂書房,2012年

◆ジャガーの目

ネコがマタタビの匂いに反応するように,動物はサイコアクティブ(精神に作用する)な植物を好む傾向がある。アマゾンのトゥカノ族の人々は,肉食のはずのジャガーがヤヘー(キントラノオ科のつる植物)のつるの皮を食べて幻覚を見ていることに気づき,それを「ジャガーの目」と呼んだ。

【資料】「欲望の植物誌」,マイケル・ポーラン,八坂書房,2012年

◆花は恒温動物に恩恵をもたらした

2億年前の世界には花はなかった。陸にはシダ,コケ,針葉樹,ソテツなどが茂っていたが,花も果実もタネもなく,世界はほとんど緑色をしていた。爬虫類が闊歩し,温度の下がる夜には動き回る動物はいないため静かであった。ところが白亜紀に突然,これといった必然性もなく,顕花植物が誕生した。ダーウィンはこれを「忌まわしい謎」と呼んだ。世界はカラフルになり,タネをばらまいてくれる動物を誘うため植物は果実をつけた。この高エネルギーの食物が大型恒温動物の繁栄をもたらすことになった。

【資料】「欲望の植物誌」,マイケル・ポーラン,八坂書房,2012年

◆チューリップバブルがはじけた瞬間

1637年2月2日,チューリップ球根取引の中心地であった,オランダのハールレムの居酒屋で,いつものようにチューリップの球根が売りに出された。それには1250ギルダーの根がつけられた。ここまでは普段と変わりがなかった。しかし,この日は何かが違った。いつもならすぐに現れるはずの買い手がつかない。仕方なく,出品者は値を下げた。これまでにはなかったことだ。値が1100ギルダー,そして1000ギルダーに下がったても買い手が現れない。この時,居酒屋の空気は一変した。誰もが風向きが変わったことを悟った瞬間である。ハールレムで買い手がつかなかったというニュースはただちに国中に広まった。そして数日のうちに,チューリップの球根も見向きもされなくなった。もともとそれに相当する値打ちがなかったものに,砂上の楼閣を築いていたのである。

【資料】「欲望の植物誌」,マイケル・ポーラン,八坂書房,2012年

◆大ばか理論(グレーター・フール・セオリー)

17世紀前半にオランダで起こったチューリップ・バブルは,モモアカアブラムシが媒介するウイルスによって生じる病変したチューリップをめぐる投機熱であった。大多数の人々にとって,チューリップそのものには何の興味もなかった。そして彼らにも,たった一株のチューリップの球根に,家が買えるほどの大金をつぎむことはバカげているとわかっていた。しかし,それ以上の大金を喜んで払ってくれる「もっと大ばか者(グレーター・フール)」がいるならば,話は別だ。「自分よりばかな奴」が増え続ける限り,チューリップ取引から足を洗うことの方が,愚行だったのだ。こうしてバブルはふくらみ続ける。それがはじけるまでは。

【資料】「欲望の植物誌」,マイケル・ポーラン,八坂書房,2012年

◆アイルランドのジャガイモの大飢饉はなぜ起きたのか?

1840年代のアイルランドに起きたジャガイモの大飢饉は世界に大きな影響を与えた。アイルランド国内では100万人以上が餓死し,150万〜200万人がアメリカに移住した。なぜ,この大飢饉が生じたのだろうか。それは品種改良の結果,ごく少数の遺伝子に頼り過ぎてしまっていたのだ。こうした状況は今でも私たちのまわりで普通に見られる。スーパーで見られる野菜はどこに行っても同じような顔ぶれになってしまってはいないだろうか。皮肉にも,アイルランドのジャガイモ飢饉を救ったのは,科学者たちがアンデスの野生種の中から見つけた,ジャガイモの病気に対する抵抗遺伝子だった。多様性の重要性を教える重要な教訓である。

【資料】「欲望の植物誌」,マイケル・ポーラン,八坂書房,2012年

◆ジョン・チャップマンは伝道者でもあった

ジョン・チャップマンはすでに生存中からジョニー・アップルシードとして伝説の人物となっていた。彼はボロをまとい腰紐で結ぶという「異形の人」だった。開拓地の人々はこうしたチャップマンを喜んで家の中に迎え入れ,夕食と寝床を提供した。彼のもたらすリンゴ酒用の苗木のためでもあるが,すでに伝説となっている有名人の訪問を喜び,彼のもたらす情報(インディアンや天国の話)も楽しみにしていた。夕食後,彼は「天国から届いたばかりのニュースを聞きたいかね」と言って,腰紐にはさんでいた小冊子を取り出す。それは彼が信奉していたスウェーデンボリというキリスト教の宗派の伝道用機関紙であった。チャップマンは,開拓者たちに「アルコール」と「神の言葉」という一見相反する物を提供していたのだ。

【資料】「欲望の植物誌」,マイケル・ポーラン,八坂書房,2012年

◆「リンゴが健康によい」というのは20世紀に入ってから

An apple a day keeps doctors away. (リンゴ1日1個で医者要らず)は,禁酒法によってリンゴ酒の売り上げが減ることを心配した農家が作ったキャッチコピーであった。リンゴが酒として飲むよりも,果物として食べることが主流になるのは1900年頃からである。その2世紀前のアメリカで,「リンゴは健康によい」と言えば,それは「酒は百薬の長」ということと同じだった。

【資料】「欲望の植物誌」,マイケル・ポーラン,八坂書房,2012年

◆開拓者はなぜ定住するとまず果樹園を作ったのか?

18世紀のアメリカでは砂糖はぜいたく品だった。砂糖が彼らの生活に入ってくるのは19世紀半ばからだ。当時はまだ北米にはミツバチが存在せず,したがって蜂蜜はなかった。インディアンたちは甘味料にメイプルシュガーを使っていたが,開拓者たちは甘味を主に果肉に求めた。そして当時のアメリカで果物と言えば,ふつうリンゴのことだった。開拓者は甘味をとるため,リンゴの木を育てるために果樹園を作ったのだ。

【資料】「欲望の植物誌」,マイケル・ポーラン,八坂書房,2012年

◆ジョニー・アップルシードはリンゴ酒用の苗木を売っていた

時は西部開拓時代。食べ物が底をつき,幌馬車の中で子ども達が空腹を訴える。困った親がふと見ると,道端にはたわわに実ったリンゴの木がある。「ジョニー・アップルシードが植えてくれたリンゴの木だ!」。家族は涙を浮かべてアップルシードに感謝する――このような話をかつて英語の教科書で習ったことはないだろうか。確かに,ジョニー・アップルシードことジョン・チャップマンなる人物は実在した。しかし彼が扱ったのは「種から育てたリンゴの苗木」である。種から育ったリンゴの木は,野生種のリンゴの実をつける。それはカラスも悲鳴をあげるほどすっぱい。今私たちが食べているリンゴはすべて,種からではなく,「接ぎ木(枝を切り取って他の木の幹に挿し込む)」で育てられる。では,チャップマンは何のために「リンゴの苗木」を1本6.5セントで販売していたのか? それは入植者に強いリンゴ酒(ハード・サイダー)を提供するためだった。

【資料】「欲望の植物誌」,マイケル・ポーラン,八坂書房,2012年

◆地球は現在60歳である

地球は45億7000万歳で,太陽の膨張により地球が呑み込まれるまであと10億年である。これを人間の人生に置き換えると,現在60歳の時点にある。すでに予測寿命の4分の3が経過している。

【資料】「あなたのなかの宇宙」,ニール・シュービン,早川書房,2014年

◆スティグラーの法則――最初の発見者は名を残さない

これまで多くの科学上の大発見で,その最初の発見者にちなんで名づけられるものはない。フックの法則,ニュートン物理学,ダーウィンの自然淘汰,etc.。スティーブ・スティグラーはこれを「スティグラーの法則」と呼んだが,この発見自体が,すでにフランシス・ベーコンが気づいていたことなのだ。

【資料】「あなたのなかの宇宙」,ニール・シュービン,早川書房,2014年

◆優れたアイデアは多発性がある

社会学者ロバート・マートンによると,人類の進歩につながるブレイクスルー的な卓越したアイデアというものは,単なる個人による徒いうよりも,地球上の異なる場所で研究している互いに無関係な複数の人々によって「同時多発的」に発見させることが多い。

【資料】「あなたのなかの宇宙」,ニール・シュービン,早川書房,2014年

◆温室効果の理由

温室効果を避けるために,なぜ工場等からの二酸化炭素を抑えなければならないのだろうか。まず,酸性雨が岩を溶かすとき,空気中の二酸化炭素を大量に奪う。二酸化炭素は熱を捕らえる性質があるため,二酸化炭素が大気中から減ると気温は下がる。一方,火山活動によって地球の中から再び二酸化炭素が大気中に供給され,気温が上がる。地球はこのバランスの中で気温が一定に保たれているのだが,工場などからの二酸化炭素の排出が増えると,大気中への二酸化炭素の供給が過多になり,気温がさらに上がるのである。

【資料】「あなたのなかの宇宙」,ニール・シュービン,早川書房,2014年

◆「炭素」が生命と地球のバランスの鍵を握っている

私たちの体を構成している原子は常に流動している。私たちの体を原子の川が流れているのだ。その中でも,とりわけ炭素の役割は大きい。大気,岩,水,そして私たちの体の中を移動する炭素こそが,この地球全体のバランスを保っているのだ。酸性雨が岩を侵食する過程で大気中の炭素が減るが,火山の爆発により再び炭素が大気にもどされる。火山活動で年間1億2000万トン以上の二酸化炭素が大気に放出されている。

【資料】「あなたのなかの宇宙」,ニール・シュービン,早川書房,2014年

◆ゴンドワナ大陸の発見のもとになった植物

「グロッソプテリス」とはラテン語で「舌の葉」という意味である。古代植物で,外見はシダに似ているが,種子を内包する生殖器官を持つ奇妙な植物だ。成長すると30メートルにまで達する。ウィーンの地質学者エドアルト・ジュースは,この植物の化石が南アフリカ,インド,オーストラリア,そして南アメリカまで続いていることを知った。ジュースはこれらの大陸は,かつて一つの大陸であったと考え,それをゴンドワナ大陸と呼んだ。ジュースは知らなかったのだが,なんとイギリス人探検家スコットの遺体とともに発見された化石の標本にも,このグロッソプテリスがあったことから,南極大陸さえもゴンドワナ大陸の一部であったことがわかった。ただ,ジュースは超大陸の分裂が,「大陸が移動した」のではなく,「地球が収縮した」せいだと考えていた。

【資料】「あなたのなかの宇宙」,ニール・シュービン,早川書房,2014年

◆ハエはどうして天井にとまっていられるのか

ハエのように小さな動物に及ぼされる地球の重力は,無視できるほど小さい。彼らにとって最も重要な力は,分子同士を結びつける力だ。ハエが壁にとまっていられるのは,ハエの脚の先端の分子と壁の分子を結びつける力が,重力よりも大きな影響を及ぼしているからである。

【資料】「あなたのなかの宇宙」,ニール・シュービン,早川書房,2014年

◆バクテリアを最初に見た男

「信じられないほどおびただしい数の生きた微小動物の群れだ。これまでに見た何に比べても,はるかに素早く泳ぎ回っている」。これは,オランダの衣類販売業者でありアマチュアの博物学者であったファン・レーウェンフックが,自ら発明した顕微鏡で,高齢の紳士の歯垢から採取した試料を見たときの感想である。そしてこれが最も古いバクテリアの観察記録の一つとなった。

【資料】「あなたのなかの宇宙」,ニール・シュービン,早川書房,2014年

◆生命の歴史の主役はバクテリアである

生命は,地球の歴史で意外と早い段階で登場したことがわかっている。誕生した生命は,爆発的に多様性を深めていったが,しかし,その生命史の大部分を占める,数十億年の間,支配的であったのは顕微鏡レベルの「単細胞」の生物,すなわち,バクテリアであった。

【資料】「あなたのなかの宇宙」,ニール・シュービン,早川書房,2014年

◆日焼けをするなら午前中に

DNAのエラー修復機能は,午後よりも午前中の方が活発に行われる。つまり,日焼けをしたいのなら,午後よりも午前中にする方が,発がん率が低くなる。逆に言えば,真夏の午後の日光を浴びながら海岸で日焼けをすることは望ましくないということだ。

【資料】「あなたのなかの宇宙」,ニール・シュービン,早川書房,2014年

◆今日は昨日より「2ミリ秒」長い

化石珊瑚の骨格の縞模様から,4億年前は1年が400日であったことがわかる。しかし,地球が太陽のまわりを回る時間は一定だから,帳尻を合わすためには,1日が22時間でなければならない。つまり,4億年前と現在とでは1日が2時間も長くなったのだ。海水の動きが地球の自転にブレーキをかけるため,地球は少しずつ自転の速度を落としている。計算すると,今日は昨日より2ミリ秒長くなっているのだ。

【資料】「あなたのなかの宇宙」,ニール・シュービン,早川書房,2014年

◆なぜ地球は傾いているのか

45億年前,火星と同じくらいの惑星が形成途中の地球にぶつかった。この衝突で軽い部分は飛び散り,重い部分は一体化して地球となった。飛び散った破片はしばらく円盤状をなして地球のまわりを回っていたが,やがて一つにまとまって月となった。衝突の際の衝撃で地球は23.5度に大きく傾き,以来傾いたままで太陽のまわりを公転している。もっとも,このおかげで私たちは春夏秋冬を楽しめるのだが。

【資料】「あなたのなかの宇宙」,ニール・シュービン,早川書房,2014年

◆私たちがこの地球に住めるのも,ほんの一瞬にすぎない

私たちが,地球という完璧な環境の中で生きていられるのも,宇宙の時間から見るとほんの一瞬に過ぎない。あと10億年もすると太陽は膨張し地球を飲み込んでしまうだろう。

【資料】「あなたのなかの宇宙」,ニール・シュービン,早川書房,2014年

◆あなたが今飲んでいる水は50億歳である

太陽系は約50億年前に形成されたといわれている。地球の水がどこからきたのかについては,彗星の氷に由来するとか,太陽系の岩屑によるとか諸説がある。しかし,我々が毎日飲んでいる水は,少なくとも太陽系と同じくらい古い起源を持っている。地球が形成される以前から水は存在していた。そして40億年前から地球では液体状の水が循環しているのである。そのコップの水は,はるか昔,恐竜のおしっこであったかもしれないし,シダ類の上に乗っている露であったかもしれないのだ。

【資料】「あなたのなかの宇宙」,ニール・シュービン,早川書房,2014年

◆私たちは1%の10億分の1の差で消滅を免れた

物質と反物質は接触し合うと消滅する。この宇宙が誕生したとき,なぜか物質のほうが反物質より「ほんの少し」多かった。この偏りのおかげで人間,地球,天の川,この宇宙に存在するすべての物質が消滅を免れた。この「ほんの少し」とはどれくらいだろうか? それは「1%の10億分の1」である。私たちが,いや,この宇宙そのものの存在が,気が遠くなるほど些細なものにかかっていたのだ。

【資料】「あなたのなかの宇宙」,ニール・シュービン,早川書房,2014年

◆宇宙は膨張している!

ハッブルは,遠ざかる星はドップラー効果によって必ず赤く変異した光を放つことを知った。この「レーダーガン」を使って,宇宙の星を観測したところ,なんと例外なくすべての恒星が赤く変異した光を放っていたのだ。つまり,地球からすべてが遠ざかっていたのだ。しかも,ひとつの中心点から外に向かって膨張していた。宇宙はある一点から始まって膨張を続けているのだった。

【資料】「あなたのなかの宇宙」,ニール・シュービン,早川書房,2014年

◆一夜にして宇宙観を変えた発見

ハッブルは,それまで天の川銀河の中にあるガス雲と見なされていたアンドロメダ星雲が,実は「ガス雲」ではなく,天の川銀河よりはるか遠くにある別の「銀河」であることを発見した。アンドロメダ星雲が「アンドロメダ銀河」とわかったとき,世界の宇宙観は一変した。人類は,宇宙がそれまで思っていたよりも,はるかに大きく,言葉では言い表せないほど広大なものだということを認識したのだ。

【資料】「あなたのなかの宇宙」,ニール・シュービン,早川書房,2014年

◆すべては階層構造から

素粒子から原子が,原子から分子が分子から細胞,組織,器官が作られていく。小さなものが大きなものを作りだし,そこに新たな特性が生まれる。この「階層構造」こそが,この宇宙を構成する基本原理なのである。

【資料】「あなたのなかの宇宙」,ニール・シュービン,早川書房,2014年

◆宇宙に大量に存在するヘリウムは人体には全く存在しない

ヘリウムは宇宙全体で二番目に多く存在する元素だ。しかし,ヘリウムは人体には全く存在しない。この元素は手持ちの電子をほかの元素と交換できない。つまり化学反応に関与できないのだ。そのため人体には無用となのである。逆に,他の元素と容易に交互作用を行う酸素や炭素は,人体には欠かせない元素となっている。

【資料】「あなたのなかの宇宙」,ニール・シュービン,早川書房,2014年

◆人は有袋類から進化した

人を含む「有胎盤類」は,カンガルーなどの有袋類と共通の祖先を持つ。有袋類はかつて全世界に住んでいたのだが,有胎盤類が住んでいなかったオーストラリアやニュージーランドでのみ絶滅を免れて生き残った。

【資料】「進化から見た病気――「ダーウィン医学」のすすめ」,栃内新,講談社ブルーバックス,2009年

◆「最適者」のみが生き残るわけではない

なにも現存するすべての生物が「最適者」というわけではない。たとえ数が少なくても子孫を生み続けることができれば数億年でも生き延びることは可能だ。シーラカンスはほそぼそとではあるが,そうして今日まで生き延びてきた。生き延びてさえいれば,いつか繁栄のチャンスを得ることもあるかもしれない。人間の祖先もかつては一億年以上,恐竜が闊歩する地球上でほそぼそと生きてきた。そして6500万年前に恐竜の突然の絶滅によって表舞台に躍り出て,爆発的な進化を遂げたのだ。

【資料】「進化から見た病気――「ダーウィン医学」のすすめ」,栃内新,講談社ブルーバックス,2009年

◆死は次世代への贈り物

地球上で生物を作るために利用できる資源のほとんどは,実はすでに生物の身体として使われていたものである。リサイクルなのだ。つまり,生物は死ぬことによって,次世代の生物たちに贈り物をしているのだ。

【資料】「進化から見た病気――「ダーウィン医学」のすすめ」,栃内新,講談社ブルーバックス,2009年

◆9550歳のマツ

屋久島の縄文杉は樹齢3000年だが,スウェーデンのツンドアラ地帯で発見されたマツは9550歳だとわかった。しかし,9550歳なのは根の部分。地上の幹はまだ600歳である。樹木は,地上の幹が死んでも,根から新しい幹が生えて生き続けることがよくある。

【資料】「進化から見た病気――「ダーウィン医学」のすすめ」,栃内新,講談社ブルーバックス,2009年

◆ウンコの半分は細菌の死骸

消化管の中には膨大な細菌が住んでいる。人は60兆個の細胞でできているが,腸内細菌の数たるや,100兆個もある。ウンコの約半分は実はこの腸内細菌の死骸である。

【資料】「進化から見た病気――「ダーウィン医学」のすすめ」,栃内新,講談社ブルーバックス,2009年

◆なぜ水虫は治りにくいのか?

水虫の正体はカビの仲間の「白癬菌」である。白癬菌は足の皮膚角質内部に潜む。ここには血管がないため,体の防衛隊である白血球などが集まりにくい。そのため,放っておくと水虫はいつまでたっても治らないのだ。

【資料】「進化から見た病気――「ダーウィン医学」のすすめ」,栃内新,講談社ブルーバックス,2009年

◆不快感に身を任せることが治癒につながる

発熱はウイルスの増殖を抑え,免疫系の働きを活発にする。倦怠感は休息をとれという体の指令だ。嘔吐は消化管内の毒物を外に出す防御反応である。こうした「不快感」は体が元の状態にもどそうと努力している証拠なのだ。程度にもよるが,必ずしも嫌悪すべきことではないのだ。この不快感に身を任せることが,自然治癒につながることも多い。いたずらに薬でそれを解消しようとすることは,ときには体が行っている努力を止めることになる。

【資料】「進化から見た病気――「ダーウィン医学」のすすめ」,栃内新,講談社ブルーバックス,2009年

◆「汗をかいて風邪が治る」のでなく「風邪が治ったから汗をかく」のだ

風邪にかかってもほとんどの場合,数日でウイルスに対する抗体が作られ,体内からウイルスは消える。すると警戒物質のインターロイキンが作られなくなる。それによって脳内のプロスタグランジンが合成されなくなり,視床下部は設定体温を常温に変える。そして体温を下げるために大量の発汗が起こる。汗をかくと風が治るのでなく,風が治ったから汗が出るのだ。

【資料】「進化から見た病気――「ダーウィン医学」のすすめ」,栃内新,講談社ブルーバックス,2009年

◆発熱や倦怠感は「必要な」症状

風邪ウイルスが喉や鼻に感染するのは,そこが体の中でも比較的温度が低い(33〜34℃)ところだからである。ウイルスは熱に弱い。だから体は発熱により,体温を上げて防御態勢に入る。体温が高いと免疫細胞の働きも活発化する。風邪による倦怠感は,人に安静を強いることでウイルスとの戦いに集中するためである。

【資料】「進化から見た病気――「ダーウィン医学」のすすめ」,栃内新,講談社ブルーバックス,2009年

◆「風邪」というのは固有の病名ではない

風邪というのは固有の病名ではなく,呼吸に関する喉や鼻を中心に起こる様々な症状(くしゃみ,鼻水,鼻づまり,咳,喉の痛み,痰,発熱,頭痛,下痢,嘔吐,食欲不振など)を示す「風邪症候群」というわれる状態をまとめた呼び名である。

【資料】「進化から見た病気――「ダーウィン医学」のすすめ」,栃内新,講談社ブルーバックス,2009年

◆なぜ「病気」はあるのか?

地球上のすべての生物には,それに寄生するウイルスがある。地球に生命が誕生してから38億年間,ウイルスとその宿主との進化競争が果てしなく続けられてきた。その間に,宿主を絶滅させるほどの強力なウイルスは宿主と共に滅び去った。現存のウイルスは宿主との間にある種の「妥協」が成立している。時にはやっつけたり,やっつけられたりしながら,未だに進化競争が続いているのだ。

【資料】「進化から見た病気――「ダーウィン医学」のすすめ」,栃内新,講談社ブルーバックス,2009年

◆乳糖の分解能力

進化のスピードは普通は何万年,何十万年という単位で生じる。しかし,乳糖の分解能力はたった数千年の間に獲得された。そもそも人は他の哺乳類と同様,乳児は母乳の乳糖を分解できるが,10代になるとその能力が消える。不要だからだ。しかし,牧畜とともに人は成人になっても動物の乳を飲むようになった。牧畜は1万年くらい前に始まったことを考えると,人(成人)の乳糖分解能力の獲得は,たった数千年ということになる。

【資料】「進化から見た病気――「ダーウィン医学」のすすめ」,栃内新,講談社ブルーバックス,2009年

◆うつ病は生きるために必要だった?

うつ病やうつ状態がこれほど普遍的に見られるということは,進化的に見て生存する上で利点があったのではないかと考えられる。ストレスの多い環境に遭遇した場合,うつ状態になって活動性を低下させ,ひきこもることが生き延びる知恵として有効に働いたと考えられる。

【資料】「進化から見た病気――「ダーウィン医学」のすすめ」,栃内新,講談社ブルーバックス,2009年

◆高齢者はがんよりも不慮の事故で亡くなる

人は60歳を越えると,がんよりも風邪をこじらせて肺炎になったり,食べ物をつまらせて窒息したりするなど,不慮の事故であっけなく亡くなることの方が多い。

【資料】「進化から見た病気――「ダーウィン医学」のすすめ」,栃内新,講談社ブルーバックス,2009年

◆二足歩行の代償

人は二足歩行になったが故に,その代償として三重苦を負うことになった。それは「腰痛」「内臓下垂」「難産」である。腰痛はクッションである椎間板が重力に耐え切れずに起こる症状であり,筋肉の老化とともに下腹部がぽっこり腹となるのは内臓が下がることによる。そして赤ちゃんの巨大化した脳を外に出すため,母親は産道を太くしなければならなくなったが,それにも限界があり,現在,赤ちゃんが母親の対外に出て生きていけるぎりぎりの未熟な状態で生まれてくるようになった。余裕がないため,人の出産は難産になりがちなのだ。

【資料】「進化から見た病気――「ダーウィン医学」のすすめ」,栃内新,講談社ブルーバックス,2009年

◆フォーシング

「フォーシング」はマジックの基本テクニックの一つである。観客には自分の意思で選択したように思わせておいて,実はマジシャンがその意思決定の主導権を握っているのだ。古典的フォーシングの手法として,次のような「マジシャンズ・チョイス」がある。

二枚のカードを裏向きにしてテーブルに置く。そして「どちらかのカードを選んでください」という。相手がねらい通りのカードを選んだ場合は,そのまま手品を続ける。もし,相手が別のカードを選んだ場合は,このように言うのだ。「わかりました。そのカードをお持ちください。私は残ったカードを使います」。こうしてマジシャンは,自分の選んだカードを相手に押しつける(フォースする)のだ。

【資料】「脳はすすんでだまされたがる」,S・L・マクニック他,角川書店,2012年

◆マジックを楽しめるようになるのは何歳から?

5歳である。5歳未満の幼児の世界は混沌としている。1分おきに起きたことや感じたことは忘れてしまう。未来を待つということもない。あとでどう思うかなどは考えない。論理的かつ内省的な思考という概念を持っていない。彼らにとって,人生そのものがマジックショーなのだ。手品を見せても,それは別に不思議なことでもない。しかし5歳を過ぎると,時間が連続している感覚や自分を中心に据えた連続した意識の流れを発達させるようになる。多くのマジシャンは,発達段階から考えて,子どもは5歳から手品が楽しめるようになると考えている。

【資料】「脳はすすんでだまされたがる」,S・L・マクニック他,角川書店,2012年

◆強力なプライミングの効果

次の質問を大声で読んで,「すばやく」答えてほしい。くれぐれも答えをゆっくり考えすぎないように。

(1)雪は何色ですか?
(2)ホイップクリームは何色ですか?
(3)ホッキョクグマは何色ですか?
(4)牛は何を飲みますか?

もし,(4)で「牛乳」と答えたら,あなたは前の3つの質問によって見事にプライミングされたことになる。プライミングは日常よく見かける強力な効果であり,わずかな暗示でも無意識レベルに働きかけて,あなたのその後の行動に影響を与える。

【資料】「脳はすすんでだまされたがる」,S・L・マクニック他,角川書店,2012年

◆空中に消えるボール

マジシャンが赤いボールを空中に投げる。そして落ちてきたボールを手で受ける。また投げて,そして受け取る。三回目にボールを投げる。このとき,あなたは確かにボールがマジシャンの手から上に上がったところまでも「目撃」している。ところがそのボールは,なんと空中でパッと消えてしまうのだ。マジシャンは首を上下に動かしてボールの軌跡を強調する。あなたもそれにつられてボールを目で追う。ところが三回目はボールはマジシャンの手の中にあり,実際は空中に投げられていない。ただマジシャンは首を見えないボールを追うかのように首を上に挙げる。あなたも無意識にそれに従う。あなたはマジシャンの視線をたどってボールを追うが,視線の周辺は目の解像度が低いため,実際はボールが見えていなくても,あなたの脳はボールが放たれたと解釈し,飛び出すボールを「目撃」する。そして視線がボールにたどり着き,高解像度をもつ目の中心部でボールを見たとき,そこにはボールが忽然と消えているのだ。

【資料】「脳はすすんでだまされたがる」,S・L・マクニック他,角川書店,2012年

◆アメフラシに空気を吹きつけてノーベル賞

アメフラシと呼ばれる海の単体動物がいる。このアメフラシはエラに空気をぷっと吹きかけられることを嫌う。だから最初はそれに反応するのだが,空気は無害だし,いちいちそれの反応するのも面倒なのでしだいに反応しなくなる。つまり馴化する。コロンピア大学のエリック・カンデルはその過程における神経系の様々なニューロン活動を記録した。空気流の伝える神経記号はしだいに小さくなり,最後には一切信号を出さなくなった。カンデルはこのシナプス可塑性と馴化のメカニズムを解明したことより,ノーベル賞を得た。

【資料】「脳はすすんでだまされたがる」,S・L・マクニック他,角川書店,2012年

◆ピアジェの誘拐未遂事件

児童心理学者ジャン・ピアジェは2歳のときに起きた誘拐未遂事件を細部まで記憶していた。乳母車にくくりつけられいた自分,誘拐犯から彼を守ろうとする乳母,乳母の顔にある擦り傷,白い警棒をもった警官が犯人を追いかける場面などを鮮明に憶えていた。しかし,13年後,この乳母がこの誘拐事件はすべて自分の狂言だったと告白した。ピアジェは何度も繰り返し家族から,この話を聞いているうちに事件の強力な記憶が作られたのである。

【資料】「脳はすすんでだまされたがる」,S・L・マクニック他,角川書店,2012年

◆ヒラリーの勘違い

2007年,アメリカ大統領候補ヒラリー・クリントンが1996年にボスニアの米軍基地訪問を次のように語った。「空港で歓迎式典が行われる予定でしたが,私たちは姿勢を低くして車に乗り込み基地に向かいました」。CBSニュースはこのときの映像を放映した。しかし,そこではヒラリーが娘のチェルシーと並んで歩き,握手し,話をして笑っていた。銃弾など飛び交ってはいなかった。ではヒラリーは嘘をついたのだろうか? そうではない。ボスニア訪問の経験は,彼女の脳回路内で修正され,変容し,ボスニアに関係する他の記憶と共に再固定化されてしまっていたのだ。レーガン大統領もドイツに行ったときに,類似の勘違いによる発言をしている。過去の記憶を思い出すということは,頭の中のホームシアターで過去のビデオを観ることではない。むしろ,過去に聞いたあやふやな話をもう一度語り直すようなものなのだ。話がうまくまとまるように失われた部分は粉飾され埋め合わされる。

【資料】「脳はすすんでだまされたがる」,S・L・マクニック他,角川書店,2012年

◆インドのロープ魔術

インドで大道芸人が空中にロープを投げる。ロープは空高く伸び,端が見えない。6歳くらいの男の子がそのロープを上っていくが,10メートルほど行ったところで突然少年が消える。そばにいたヨーロッパ人の写真家がこの一切を写真に撮っていた。ところが現像してみると,ロープも少年も写っていない。ただ地面に大道芸人が座っているだけだ。群衆全体が一種の集団催眠にかかっていたのだ――あなたはこのような話を聞いたことはないだろうか(少年がばらばらになって落ちてくるという怖いバリエーションも含めて)。この話は1890年に「シカゴ・トリビューン」紙に掲載されたが,あとになって,この記事を書いたジョン・E・ヴィルケという人が,記事がすべてでっち上げだったことを認めた。ところが,この話はその後もしぶとく生き続けた。そして何百人という人が,自分もインドでこのロープ魔術を見たと語った。同様に,ネス湖の怪獣,ミステリーサークル,アポロの月面着陸はなかったなどの話が今も生き続けている。デマの反証が出そろっても,また当の本人が嘘だったと認めても,それが何度もくり返されると,人は信じてしまう傾向をもつ。

【資料】「脳はすすんでだまされたがる」,S・L・マクニック他,角川書店,2012年

◆マガーク効果

あなたは「ダ,ダ,ダ」と発音する男性の映像を見る。しかし,目を閉じると聞こえるのは実は「バ,バ,バ」という音だ。次に音を消して男性の口の動きだけを見ると「ガ,ガ,ガ」と言っているように感じる。これは,入ってくる情報が一致しない場合,脳が適当に辻褄を合わせるように働いているからだ。「ガ,ガ,ガ」+「バ,バ,バ」=「ダ,ダ,ダ」というわけだ。これはマガーク効果と呼ばれている。

【資料】「脳はすすんでだまされたがる」,S・L・マクニック他,角川書店,2012年

◆多感覚世界を経験する

音,匂い,味,光,触感などが同時に起きると,私たちは多感覚の世界を経験する。ポテトチップを口に入れたとき,音がたくさんしたほうがおいしく感じられる。カモメの泣き声や打ち寄せる波の音と共に食する牡蠣はよりいっそううまい。感覚同士は相互に作用するだけでなく,互いに強め合うのだ。

【資料】「脳はすすんでだまされたがる」,S・L・マクニック他,角川書店,2012年

◆緩慢な変化には気づきにくい

20歳の若者が,ある日突然60歳の自分を体験したとしたらどうだろう。思うように動かない体やあちこちの関節の痛みに耐えがたくなるはずだ。私たちは,たとえ周囲の建物,ボート,人,その他目立つ者ものが目の前で消えたり現れたりしても,その変化が遅い場合はそれに気づかない。人生,仕事などでも同じである。人間関係でさえも,私たちの知らないうちに徐々に悪化したり改善したりしているかもしれない。

【資料】「脳はすすんでだまされたがる」,S・L・マクニック他,角川書店,2012年

◆脳はマリチタスクが苦手である

すでに10年にわたる研究により,脳は二つ以上のことに同時に注意を払うようにはできていないことがわかっている。車を運転するという視覚タスクと携帯電話を聞くという聴覚タスク(たとえハンズフリー装置を用いていても)の両方に完全に注意を払うことはできない。運転中に携帯電話で話している人は,酒気帯び運転をしている人と同程度の注意力しかない。ヒトは集中する生き物であり,長い目で見れば一度に一つのことをするのが最も効率的である。

【資料】「脳はすすんでだまされたがる」,S・L・マクニック他,角川書店,2012年

◆視力の99.9%は役立っていない

私たちは網膜の面積にして0.1%ほどの円内でしか詳細な像を認知することはできない。つまり99.9%はぼやけていてほとんど役立っていない。ではなぜ,私たちの前には詳細で安定した映像があるのか。私たちの目は,固視と呼ばれる短時間の注視の後,突然視線が跳躍して次の固視に移る。これは「断続性運動」と呼ばれる。まるで覚醒剤でハイになったハミングバードのように眼球が動き回っているおかげで,脳は固視によって得られたわずかな情報を統合し,安定した(ように見える)画像を私たちに提供しているのだ。

【資料】「脳はすすんでだまされたがる」,S・L・マクニック他,角川書店,2012年

◆大きな動きは小さな動きを隠す

あなたはマジシャンが帽子から取り出したバタバタと羽を振る白いハトに目を奪われる。実はマジシャンはこの間に,見せてはならない次のタネを仕掛ける作業をしているのだ。飛び去るハトのような大きくて速い動きのそばでは,箱に突っ込んだマジシャンの手のような小さくて遅い動きの刺激はほとんど目立たなくなる。

【資料】「脳はすすんでだまされたがる」,S・L・マクニック他,角川書店,2012年

◆「残像」を利用して相手の時計を盗む

マジシャンが舞台に挙げた観客から腕時計を盗み取るパーフォーマンスをすることがある。相手に気づかれずに,相手の腕時計を盗むことなんてできるのだろうか? マジシャンはまず相手の腕時計のバンドのところを強く握る。そうするとそこに感覚の残像が残る。これによって相手は時計がはずだれることに気づくにくくなり,はずされた後もそこの時計があるように感じる。そしてマジシャンから自分の腕時計を見せられて初めて盗まれたことに気づくのだ。

【資料】「脳はすすんでだまされたがる」,S・L・マクニック他,角川書店,2012年

◆8メートルの空間を36メートルの空間に見せる法

建築家フランチェスコ・ボロミーニは,ローマのスパーダ宮で,わずか8メートル四方の空間に,錯覚を利用して36メートルもある(ように見える)回廊をつくり上げた。アーチ道の突き当りには実物大の(ように見えるが実際は60cmの)彫刻まで置いている。

【資料】「脳はすすんでだまされたがる」,S・L・マクニック他,角川書店,2012年

◆脳は勝手に風景を作っている

あなたが見ている外界の画像は,脳が作りだした「作品」である。あなたが小石でいっぱいの海岸を見たとき,脳は個々の小石を一つ一つ視認しているわけではない。そもそも網膜にはそうするだけの十分な細胞は存在しない。ではどうしているのか? 脳は海岸の一部を見て,残りを補っているのだ。

【資料】「脳はすすんでだまされたがる」,S・L・マクニック他,角川書店,2012年

◆沈む太陽がなぜ大きく見えるのか

海に沈む太陽は,真昼に頭上にいる太陽と比べて明らかに大きく見える。それは同じ灰色の図形でも周りが白いと黒っぽく見え,周りが黒いと白っぽく見えるのと同じ原理だ。太陽が地平線やスカイラインの隣にある場合には,脳はそれを大きく見せ,頭上の天空にある場合にはそれを小さく見せている。すなわち,脳は「文脈に応じて」太陽を大きく見せたり,小さく見せたりするのだ。

【資料】「脳はすすんでだまされたがる」,S・L・マクニック他,角川書店,2012年

◆オチで聞き手の思い込みを悟らせる

ある刑務所の面会場面。金網を隔てて若者と年老いた母親が向かい合っている。「母さん,体は大丈夫かい。僕は毎晩母さんの夢を見るんだよ」「サトル,私もだよ」二人は涙を浮かべて見つめる。面会時間が終わり,刑務官に支えられて母親が面会室を出ていく。若者は母親の後ろ姿に向かって泣きながらこう言う。「母さん! 早く刑期を務めあげて,家に帰ってきておくれよ!」

このオチによって,観客はそれまで犯罪を犯したのは若者であり,母親がその息子の面会にきていたと勘違いしていたことに気づく。だが,実際の社会では,「オチ」はない。歴史認識,政治や行政などでは思い込みがそのまま「オチ」もなく,放置されていく。

【資料】「笑いのこころ ユーモアのセンス」,織田正吉,岩波書店,2010年

◆無理問答

「赤い花でも葵(青い)とはこれいかに?」
「見るものでも菊(聞く)というがごとし」
という問答を「無理問答」という。この無理問答を可能にするのは,日本語に同音異義語が非常に多いからだ。ダジャレを簡単に作ることができるのもこの同音異義語の豊富さのおかげである。逆に,情報を伝える場合にはこのことがマイナスになる。「シリツ高校」といってもそれが「私立」なのか「市立」なのかわからない。そのためわざわざ「私立」を「ワタクシ立」,「市立」を「イチ立」と言い換えたりする。
もう一つ,無理問答を。
「夜食べても浅草(朝食う)のりとはこれいかに?」
「朝食べても馬肉(晩に食う)というがごとし」

【資料】「笑いのこころ ユーモアのセンス」,織田正吉,岩波書店,2010年

◆雪国は「つらいよ」条例

中学校の公民の教科書の中で,全国各地のユニークな条例を紹介するコーナーがあった。その中に新潟県のある村の「雪国はつらいよ条例」というのが紹介されていた。これはいったいどのような条例なのかと村に問い合わせが来た。実はこれは,雪と共存して「はつらつ」と村づくりをめざしていこうという「雪国はつらつ条例」の誤記だった。この教科書の執筆者は,映画『男はつらいよ』のタイトルと,「雪国の生活はつらい」という先入観が結びついて,「雪国はつら」まで見て,「雪国はつらいよ」という「まぼろし」の文字を見てしまったのだ。

【資料】「笑いのこころ ユーモアのセンス」,織田正吉,岩波書店,2010年

◆地震を予知(?)した男

郵便受けを見るとハガキが入っている。表には昨日の郵便局の消印。裏には「明日,朝4時,伊豆半島にて地震あり」の文面がある。そして今朝,まさに4時に伊豆半島で震度6の地震があった。あなたなら,このことをどう思いますか。1930(昭和5)年,このハガキを受け取った京大理学部長は驚きました。椋平はまさに時の人となり,その後も東京震災,丹後大震災などを予知する。彼は地震の時に現れる虹を観測したとして,この虹は「椋平虹」と呼ばれた。しかしやがて彼の「手品」がばれてしまう。彼は前もって異なる日に「自分あて」にハガキを送り「消印」をストックしておく。もちろん自分宛の住所はエンピツ書きで。そして地震が起こるや否や,それよりも前の消印のあるハガキを探して,エンピツの住所を消して地震で権威ある人の住所に書き換え,裏には「予知」の文面を書き,それを相手の家の郵便受けに投函したのだ。彼は最初の予知は本物だったが,しだいに自分への期待に耐えられなくなり,こうした苦肉の策を考え出したようだ。

【資料】「笑いのこころ ユーモアのセンス」,織田正吉,岩波書店,2010年

◆「鳴くまで待とうほととぎす」の異説バージョン

信長,秀吉,家康がほととぎすにちなんで詠んだという句はよく知られている。もちろん本人が作ったわけではなかろう。『耳嚢(みみぶくろ)』には私たちが知っている句とは少し異なる句が挙げられている。

鳴かずんば殺してしまへほととぎす (信長)
鳴かずとも鳴かせて聞かうほととぎす (秀吉)
鳴かぬなら鳴くとき聞かうほととぎす (家康)

ほととぎすは夏の到来を告げるものとして,平安時代以来,その初音(はつね)を聞くのは人々の楽しみとなっていた。上記3人の武将を前置きとして,このあとに連歌師紹巴(じょうは)の句が『耳嚢』には記されている。

鳴かぬなら鳴かぬのもよしほととぎす (紹巴)

ほととぎすはその初音を聞くものではあるが,別に鳴かなければそれでまたいいのではないかというのだ。

【資料】「笑いのこころ ユーモアのセンス」,織田正吉,岩波書店,2010年

◆warとは言えないが,peaceとは言える

日米関係が悪化し,太平洋戦争への道を突き進んでいるころ,米国の新聞記者が駐米大使の斎藤博に「日本はアメリカと戦うつもりですか」とズバリと聞いた。記者会見に緊張した空気が流れた。斎藤は「私は入れ歯をしているので,war とは言えないが,peace なら何度でも言える」と答え,爆笑が起きてその場は終わった。ユーモアが場の雰囲気をやわらげた典型的な例である。やがて斎藤は52歳の若さで任期中に亡くなる。米国は彼の死を惜しみ,巡洋艦アツトリア号で遺骨を横浜港まで送った。

【資料】「笑いのこころ ユーモアのセンス」,織田正吉,岩波書店,2010年

◆「ゴリム・チュウ」と「セイ・ショウナゴン」

あなたは「五里霧中」を「ゴリ・ムチュウ」,「清少納言」を「セイショウ・ナゴン」と読んでいませんか。そもそも「五里霧」とは道術を好む中国の張楷が使ったといわれる術で,彼は「五里霧」(五里=約20kmも続く深い霧)を起こすことができたという。「五里霧中」とはそのような霧の中にいるようだという意味であり,ただしく区切れば「ゴリム・チュウ」。また「清少納言」の「清」は清原氏の東風の略称であり,「少納言」は身内に少納言がいますよという家格を表わす。だから区切るとすれば「セイ・ショウナゴン」。しかし,あまりにも言い習わしてきているので,正しく区切るとかえっておかしく響く。

【資料】「笑いのこころ ユーモアのセンス」,織田正吉,岩波書店,2010年

◆高くついた「実験」――米国禁酒法

「合衆国憲法第18条」――これがいわゆる「禁酒法」の正式名である。酒は貧困,病気,犯罪,精神病他あらゆる退廃の原因となる。この元凶を取り去れば,社会は健全になる。そうした考えのもとに禁酒法が制定された。当時の大統領(フーバー)は「崇高な意図と偉大な目的を持った実験」と呼んだ。結果はしかしさんざんだった。アル中,貧困はなくならず,密造でマフィアの勢力を伸ばし,社会は腐敗した。結局13年間の「実験」の後,1933年にこの法律は廃止された。単純な倫理観がおもいがけない害悪をもたらしたのであった。アメリカの「実験」はあまりにも高くついた。

【資料】「笑いのこころ ユーモアのセンス」,織田正吉,岩波書店,2010年

◆家宝は「切れない」刀

信濃国で老人が「家宝の刀」を残して死んだ。それは「このおかげで命が助かった」と父が何よりも大切にしていた刀であった。兄はそれを相続し,後の遺産はすべて弟に譲った。しかし,後に鑑定師に見せると,それは「奈良物(大量生産された鈍刀)」だった。日照り続きで水争いが起き,父親はこの刀で隣村の男に切りつけたが,刀が切れなかったので人殺しにならずにすんだ――これが家宝の由来であったのだ。この話は井原西鶴の『西鶴諸国ばなし』に出てくる。

【資料】「笑いのこころ ユーモアのセンス」,織田正吉,岩波書店,2010年

◆エスノセントリズム(自民族中心主義)

たとえばオーストラリアのレストランでナイフとフォークを手にビフテキを食べながら,「あんなにおとなしくて利口な動物であるクジラを食べるなんて,気がしれないわ」と若い女性が言ったとする。これが「エスノセントリズム」である。自国民の行動様式が世界標準であると考え,それとことなるものを「誤っている」とみることをいう。特に食文化に関しては,こうしたエスノセントリズムに陥りやすい。味覚に限らず,五感すべてに言えることであろう。

【資料】「笑いのこころ ユーモアのセンス」,織田正吉,岩波書店,2010年

◆漫才に大切なのは「呼吸」と「間」

漫才も話芸であるから,「呼吸」と「間」が重要である。「呼吸」とは「会話の受け渡しがスムーズでメリハリがあり,快いリズム感がある」ということであり,「間」とは単にセリフの間の空白ではなく,「観客の心理に即して過不足のない空白」のことである。その場の状況に応じて,「間」も長くなったり,短くなったりする。二人の会話で進められる話芸としての漫才は,この「呼吸」と「間」が重要となる。

【資料】「笑いのこころ ユーモアのセンス」,織田正吉,岩波書店,2010年

◆柳田國男は落語や漫才を嫌った

村のひょうきん爺さんがつとめて笑われ役にまわることはよいが,落語家は「特殊に零落退歩したものの一つ」であり,「漫才は言うことが一層愚劣で」として,柳田國男は落語や漫才を切って捨てた。彼は笑いを商品化することを「零落退歩」と考えたのである。しかし,笑い話が村のひょうきん爺さんに語られるのはよいが,芸能として洗練されて語られるのはだめだというのは論旨が分裂している。

【資料】「笑いのこころ ユーモアのセンス」,織田正吉,岩波書店,2010年

◆笑いは時空を超える

清少納言は

はしたなきもの,こと人を呼ぶに,我ぞとさし出でたる。物など取らする折りはいとど。
(ばつの悪いもの。他の人を呼んでいるのに,自分が呼ばれたのかと思って出ていったとき。物をあげようというときなどは特にそうだ。)

向こうの人が頭を下げるので,こちらも礼を返したら,実は自分の後ろにいた人にあいさつをしていた――などというバツの悪い経験はだれにもあるだろう。笑いは時代や場所を超えるものなのだ。

【資料】「笑いのこころ ユーモアのセンス」,織田正吉,岩波書店,2010年

◆笑いの下の平等

部下にダジャレを飛ばす上司は上機嫌だが,逆に部下が上司にダジャレを飛ばすと不機嫌になる。これは笑いには上下関係を取り払い,立場を平等化する力があるからだ。ただし,上下関係がなくなるのは笑っている一瞬であり,本来の関係は継続する。自信のある許容度の高い上司なら,部下といっしょにその冗談を楽しむことだろう。家庭,会社,学校などが笑いの場となるか否かは,「笑いの下の平等」を受け入れるかどうかにかかっている。

【資料】「笑いのこころ ユーモアのセンス」,織田正吉,岩波書店,2010年

◆ユーモアを理解するには「受信能力」が必要

ロンドン空襲で半壊した百貨店が,「本日より入口を拡張しました」という看板を出した。またある動物園ではワニの檻の前に「エサをやらないでください。やった人は自分で拾ってください」とあった。こうしたユーモアを発信する人は,受け手にもそのユーモアを理解する受信装置があることを前提にしている。この受信装置の許容度が低い社会では,必ず「こんなときに不真面目だ」とか「ワニにかまれたらどうして責任をとるのだ」などという人が出てくる。

【資料】「笑いのこころ ユーモアのセンス」,織田正吉,岩波書店,2010年

◆「松」を知らなかった(?)三島由紀夫

ドナルド・キーンが三島由紀夫と大神(おおみわ)神社を訪ねた。三島が松の木を指して「あれは何の木?」と聞いたので隣にいた庭師が「松です。雌松(メンマツ)と呼んでます」と答えた。すると三島は,「雌松ばかりで雄松がないのに,どうして子松ができるの?」と言ったので,庭師もキーンも「三島は松を知らないのか」とあきれてしまった。
しかし,これは正しくはない。三島は「松を知らなかった」のではない。関西では黒松を「オンマツ(雄松)」,赤松を「メンマツ(雌松)」と呼んでいる。実際の雌雄とは関係はない。関東人の三島はそれを面白がって,ジョークをいったのであった。

【資料】「笑いのこころ ユーモアのセンス」,織田正吉,岩波書店,2010年

◆SFXは撮影機の故障から始まった

フランス人奇術師ジョルジュ・メリエスがオペラ座を撮影中,撮影機の故障してフィルムがひっかかってしまった。そこでフィルムを取り換えて撮影を続けた。後で見ると,バスがカラスに,男性が女性に替わっていた。メリエスはこれをおもしろく思い,この映画を『ロベールウーダン劇場における婦人の雲隠れ』として上演した。これがSFX映画第1号となった。メリエスはその後,オーバーラップ,二重写し,スタジオ撮影,クローズアップ,スローモーション,コマ落とし,ミニチュアセットなど現在では常識になっている映画の技法をすべて一人で発案した。

【資料】「笑いのこころ ユーモアのセンス」,織田正吉,岩波書店,2010年

◆出発のときは227名だが,帰ってきたのは18名

1519年,マゼランたちは227名が5隻の船に分乗して世界一周の旅に出た。しかし,90%以上の乗組員は途中で命を落とした。その大部分は壊血病で死んだ。アスコルビン酸分子(いわゆるビタミンC)が不足すると,歯茎が柔らかくなり口から出血して臭い息を吐き,下痢が続く。やがて歯が抜け,肺と腎臓に障害が出る。そしてやがて肺炎や呼吸器疾患で死ぬ。主を失ったたった1隻の船が世界一周を終えてスペインにもどったときの,乗組員はたった18名になっていた。

【資料】「スパイス,爆薬,医療品」,P・ルクーター他,中央公論社,2011年

◆ヨーロッパ人はコショウ,アジア人はトウガラシ

なぜだかわからないが,ヨーロッパではトウガラシ(カプサイシン)よりもコショウ(ピペリン)が好まれた。逆にアフリカやアジアではトウガラシが好まれてきた。現在の西洋料理とアジア料理の主な違いはそこにある。

【資料】「スパイス,爆薬,医療品」,P・ルクーター他,中央公論社,2011年

◆辛さがなぜ病みつきになるのか?

辛いというのは本来,人間にとって心地よいものではない。ではどうして我々は痛みを引き起こすような物質を好んで口にするのだろうか。辛い物を食べると,その痛みを和らげるための自己防衛として,脳内にエンドルフィンが分泌される。唐辛子が辛いほど,エンドルフィンの分泌が多くなる。そして快感も強くなる。マゾ的な状況となるのだ。

【資料】「スパイス,爆薬,医療品」,P・ルクーター他,中央公論社,2011年

◆コショウは「カライ」のではなく「イタイ」

コショウの活性成分はピペリンだが,この化学物質は口や身体の痛覚の神経終末のタンパク質にぴったりとはまる構造になっている。そのとき,タンパク質の構造が変化し,信号が神経を伝って脳に達する。つまり,ピペリンの燃えるような辛さは,実は「味覚」ではなく「痛覚」によって感じているのである。

【資料】「スパイス,爆薬,医療品」,P・ルクーター他,中央公論社,2011年

◆なぜ「ベニス」の商人なのか?

シェークスピアの『ベニスの商人』。当時のユダヤ人のステレオタイプである高利貸しのシャイロック。それを小気味よくやっつける男装の裁判官ポーシャ。でも,なぜ「ロンドン」の商人でも「ローマ」の商人でもなく,「ベニス」の商人なのか。中世の時代,スパイス(胡椒)はコンスタンチノープル(今のイスタンブール)から船でベニスへ運ばれていた。ベニスは中世の400年間,スパイス取引を独占していた町だったのだ。

【資料】「スパイス,爆薬,医療品」,P・ルクーター他,中央公論社,2011年

◆オランダはなぜ小さいなルン島とマンハッタン島を交換したのか?

1667年のブレダ条約でオランダはイギリスと,北アメリカにあった唯一の植民地マンハッタン島と東アジアの小さな島ルン島を交換した。 オランダは有利な取引をしたと思っていた。なぜならルン島にはナツメグの林があったからだ。ナツメグは保存料・香料などの他に,黒死病(ペスト)を防ぐと考えられており,貴重品だったのだ。それに比べマンハッタン島はわずか千人が住む植民地にすぎなかった。だが,その後の歴史は,それが大誤算であったことを証明している。

【資料】「スパイス,爆薬,医療品」,P・ルクーター他,中央公論社,2011年

◆ターミネーター霍去病(かっきょへい)

名前に「病」とは縁起でもないと思われるかもしれないが,「去病」で「病気にならない」ということ。縁起のよい名前なのだ。漢の時代,こうした命名がはやっていた。この霍去病は新しいタイプの青年将校で,実に「飛んだ」人物だった。人とは付き合わず,何を考えている理解しがたい男。自信満々で,嬉々として戦場に臨む男。目的を達成することのみが生き甲斐で,自分のことなどどうでもよかった。武帝から褒美に家を建ててやると言われた時,「匈奴が滅亡しないのに,家などいりません」と答えた。そして他人への配慮も全くなかった。人間愛などひとかけれらもなく,ただひたすら戦争を楽しむターミネーター,あるいは「人造人間」。一種の発達障害があったのかもしれないが,武帝はこの「新人類」をことのほか可愛がった。しかし,名に反して24歳で病死した。

【資料】「中国義士伝」,冨谷至,中公新書,2011年

◆李猫(りびょう)と呼ばれた男

男は毎晩,「半月堂」と呼ばれた部屋に一人こもって陰謀術策を練り,不敵な笑いを浮かべながら部屋から出て来た時には,翌日の哀れなターゲットが決まっていた。中国史上,これほどまで陰険,陰湿,狡猾な人物はいないとまで言われた男。その名は李林甫(りりんぽ)。無学ゆえに,学識に強いコンプレックスと敵愾心を抱いていた。「口に蜜あり,腹に剣あり」と評され,人を陥れ,天子のご機嫌をとることに長けていた。あだ名は「李猫(りびょう)」。この男が宰相となることで,「開元の治」と呼ばれた善政が終わりを告げ,唐は破滅へと一気に加速する。

【資料】「中国義士伝」,冨谷至,中公新書,2011年

◆なぜ学問をするのか?

顔氏一族に伝わる「家訓」にはこうある。「なぜ書物を読み学問をせねばならないのか。基本的には心眼を開き,身の処し方に益するためである。(略)」つまり,古人がどのような行動を取ったかを理解することで,今の己の生き方を反省することができると言うのだ。ここでいう「学問」とは単に勉強することではなく,あまたの書を渉猟することで自己の生きる糧を養うことなのである。

【資料】「中国義士伝」,冨谷至,中公新書,2011年

◆宋の科挙は徹底していた

宋の時代では,入試担当者は辞令をもらった即日から帰宅せずに終了まで試験場で寝泊まりし,外部との接触を一切絶った。また受験生の答案の氏名欄は採点者から見えないように糊づけされ,驚くべきことに筆跡からも特定されないように「すべての」答案が筆写され,採点者はそのコピーを採点したのである。科挙の受験生の数は,万にのぼった。それを一つ一つ筆写したのだ! そもそも万にのぼる受験生を収容する受験会場・飲料水・トイレ等を用意するだけでも莫大な費用がかかった。受験生は食糧を持参し,与えられた「個室」で数日にわたって解答に取り組んだのである。試験期間中は出入口は厳重に閉ざされ,何があっても出入り出来なかった。

【資料】「中国義士伝」,冨谷至,中公新書,2011年

◆公平な試験「科挙」

中国の官吏登用試験制度「科挙」の特徴は次の5点である。
(1)本人の能力だけが試された。(地縁血縁は入る余地なし)
(2)すべての人民に開かれていた。(一部受験できない階層があったが)
(3)唯一の国家試験だった。
(4)荘重な儀礼を伴った。(権威と荘厳さを演出)
(5)公平公正な試験であった。

科挙の試験におけるカンニングなどが云々されるが,それでもやはり科挙は公平な試験であった。その公平さはその時代を考えると驚くほど徹底していた。

【資料】「中国義士伝」,冨谷至,中公新書,2011年

◆中国の3つの正義

中国では時代によって「義(道義的責任)」のとらえかたが変わる。蘇武の場合は「節侠」で,これは男気のある「任侠的信義」のこと。顔真卿の場合は「士大夫の誇り」で,これは血統として受け継いできた士大夫としてのノブレス・オブリージュ(noblesse oblige),そして文天祥にあっては「状元の誇り」で,これは科挙の最優秀成績保持者としての誇りであった。彼らに共通するものは,死を賭しても守り抜く責務であり,妥協を許さぬ価値観であった。

【資料】「中国義士伝」,冨谷至,中公新書,2011年

◆武則天と持統

690年は中国にとっても日本にとっても特異な年だ。中国では凡庸な息子たちに業を煮やした母親武則天(日本では則天武后が一般的)が,ついに自ら皇帝となり,唐を周に変えた。唐王朝はそのためここでいったん途切れる。中国史上初の女性皇帝の誕生である。武則天は名前を変えるのが好きで,「皇帝」を「天皇」に変えたり,「洛陽」を「神都」と変えたり,ついには新たな漢字「則天文字」まで作って民衆に使用を強制した。徳川光圀の「圀」はこの則天文字の一つ。しかし彼女の死後,すぐに中国では廃れた。

一方,日本で「天皇」号が使われだしたのも天武もしくは持統朝といわれている。また奇しくも690年に持統女帝が出現している。これは単なる偶然ではないのかもしれない。

【資料】「中国義士伝」,冨谷至,中公新書,2011年

◆気象予報士の評価

気象予報士が「明日の降水確率は30%です」と言って,もし雨が降ればこの予報は当たったのだろうか,それとも外れたのだろうか。これを評価する指標として「ブライア・スコア (Brier Score)がある。G・W・ブライアが1950年に発表したもので,「予報が当たった場合は,予報した降水確率の二乗(ここでは30%×30%=9),予報が外れた場合は(100-予報した降水確率の二乗)(ここでは70%×70%=49)」と計算する。つまり,これは一種のペナルティ・スコアなので成績がよいほど,ブライア・スコアは小さくなる。標準的な気象予報士のブライア・スコアは15〜20と言われている。毎日当てずっぽうに降水確率は50%と言い続ける「ずぼらな」予報士のブライア・スコアは,25である。標準的な気象予報士とさほど変わらないのが現状だ。

【資料】「運は数学にまかせなさい」,ジェフリー・S・ローゼンタール,ハヤカワ文庫,2010年

◆ポアソン・クランピング

π=3.141592...8888888888888...というのを見た時,私たちはこの8の連続に何か特別なものを感じてしまいがちである。しかし,この8の連続が表れるのは何と「2,164,164,669,332桁」からだ。つまり完全にランダムである場合には(膨大な大きさの中で)こうした事象が生じるのが自然なのである。しかし私たちの脳は,「偶発的な出来事」の中に「ある種のパターン」を見てしまうようにできている。これを「ポアソン・クランピング(ポアソンのかたまり)」と言う。街中の様々なものが「人の顔」に見えてしまうことがある。こうした能力があることが進化上有利であったのだろう。

【資料】「運は数学にまかせなさい」,ジェフリー・S・ローゼンタール,ハヤカワ文庫,2010年

◆2色色覚は異常ではない

ヒトは赤,青,緑を認識する三色色覚を持つ。しかし日本人男性の4〜5%は赤と緑の識別が難しい。X染色体上にある赤を認識する遺伝子に変異が生じているからである。一見,二色色覚は三色色覚に比べて不利に思えるが,こうした不利に思える遺伝子が淘汰されずに生き残っている場合には,何か隠された利点が存在する場合が多い。学者は,文明が起こる前の数万年〜数十万年間,狩りなどにおいて二色色覚の方が有利な時期があったのではないかと考えている。時代に合いにくく不自由に見える特徴も,異なる角度から見れば,障害というよりは「個性」と見るべきものが多い。特に進化を考える場合,長いスパンで見る必要があるのだ。

【資料】「いのちのはじまり,いのちのおわり」,坂元志歩,化学同人社,2010年

◆ヒトも孵化する

ヒトの受精卵は4日目になると卵管から子宮に移動し,着床前に受精卵を覆っていた丈夫で堅い「透明帯」という殻を脱ぐ(ハッチング)。このころの受精卵は「桑実胚(そうじつはい)」と呼ばれ,3〜5時間の周期で2倍に膨れ上がったり,縮んだりすることで自分を覆っていた「殻」を破る。「透明帯」という殻に覆われているかぎり,0.1mm以上には大きくなれないからだ。

【資料】「いのちのはじまり,いのちのおわり」,坂元志歩,化学同人社,2010年

◆私たちは考えるとき必ずしも言語を介していない

私たちは考えるときに必ずしも言語を用いていない。ある考えを相手に伝えたいとき,適当な語が思い当たらないことがある。すると相手はあれではないか,これではないかと候補の語を挙げてくれる。やがて相手がこちらが思っていたことを表現するのにぴったりの語を言い当てたとき,「それだ! それを言いたかったんだ」と叫ぶ。こうした事例は,すでにあなたが言葉を用いずとも,言葉で表現するのと同じことを頭の中で考えていたことを証明している。

【資料】「哲学人(てつがくびと)」,ブライアン・マギー,NHK出版,2001年

◆ドイツ国民は本当にそのことを知らなかったのか?

第二次世界大戦が終わって連合軍が各地のユダヤ人絶滅収容所を開放した時,近隣のドイツ人市民は口々に「こんなに身じかで大量虐殺が行われていたとは知らなかった」と言った。しかし1940年10月,東プロイセンのダンツィヒで初めてユダヤ人居住者ゼロ達成と華々しく報じられた時,何かおかしいとは思わなかったのだろうか。封印された貨物列車が通り過ぎ,中から人のあえぎ声が聞こえた時,市民たちは誰もその行き先を疑問に思わなかったのだろうか。そのような列車はドイツのあらゆる地域を通り過ぎていたはずである。収容所の高い煙突から毎日のように悪臭を伴う煙が立ち上っていることに疑問を感じなかったのだろうか。かつてアウシュビッツを生き延びた一人のユダヤ人は,「我われが怖かったのはナチスではない。一般市民の無関心が一番怖かった」と言った。人々はうすうすは感じつつも,しだいに暴力に慣れ,そうしたことは知りたくないと思うようになっていったのだ。1945年5月,敗戦の翌日から何百万という人々が自分の家にあった『わが闘争』を破棄したり,物置に隠したり,川に投げ込んだりした。この本を所有していたことに何らかのうしろめたさを感じていた証拠である。人々は「読んではいない」とは言いながらも,この本が連合軍に知れるとまずいと思う程度には,その内容を把握していたのである。

【資料】「ヒトラー『わが闘争』がたどった数奇な運命」,アントワーヌ・ヴィトキーヌ,河出書房新社,2011年

◆言葉には意味がある

言葉によって現実が変わりうる。過去50年をみても,一つの「テキスト」が最悪の惨劇をもたらしたことが数多くある。『毛沢東語録』は文化大革命を引き起こして1000万とも2000万とも言われる犠牲者を生んだ。ポル・ポトはクメール・ルージュの機関誌『トゥン・パデヴァット(革命の旗)』で国民を煽り200万とも300万ともいわれるカンボジア人が虐殺された。ルワンダでは『カングラ』誌によるツチ人抹殺の呼びかけで大量殺戮が起きた。1986年にはセルビア人学識者が発行した『セルビア科学技術アカデミーのメモランダム』がミロシェビッチを喚起して,「民族浄化」が行われた。たとえ民主国家であろうとも,不穏な状況の中ではこの種の悲劇は起こりうる。

【資料】「ヒトラー『わが闘争』がたどった数奇な運命」,アントワーヌ・ヴィトキーヌ,河出書房新社,2011年

◆『わが闘争』が反ユダヤ主義とアウシュビッツの「つなぎ目」となった

ヒトラーは権力に着く10年前に『わが闘争』で反ユダヤ主義を表明した。この書は当時ヨーロッパを覆っていた反ユダヤ主義をアウシュビッツへと結びつける「つなぎ目」の役を果たした。つまりこの書は,ユダヤ人の大量虐殺を止めることができなかったヨーロッパ全体の責任を問うものと言える。この書は今もって,反ユダヤ主義や人種差別がどういう結果に結びつくかを示す「警告の書」なのだ。

【資料】「ヒトラー『わが闘争』がたどった数奇な運命」,アントワーヌ・ヴィトキーヌ,河出書房新社,2011年

◆プレビシット的専制

ナチスの全体主義は,「民主主義に基づいている」という点で,他の専制政治とは全く異なる特異なものだった。ナチスは国民にナチス入党を強制することはなかった。『わが闘争』を配布したのは国民に政策を納得してもらうためであり,無理やりヒトラーの思想をたたきこもうとしたわけではない。大衆に『わが闘争』を朗読させ,全文を暗記させようとしたものでもない。ナチスは穏便な手段で世論を「育て」てきたために,恐怖政治を行う必要はなかったのだ。ナチスは徹底的に民主主義を「悪用」した。ドイツ国民1200万人は納得の上で,国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)に投票した。歴史学者マーティン・ブロサットはこれを「プレビシット的専制(国民投票によって認可された独裁政治)」と呼んだ。

【資料】「ヒトラー『わが闘争』がたどった数奇な運命」,アントワーヌ・ヴィトキーヌ,河出書房新社,2011年

◆「わが闘争」がありながら,どうしてヒトラーの意図が見抜けなかったのか?

ヒトラーは後に「首相になれることがわかっていたら,私は『わが闘争』を書かなかっただろう」と述べた。彼はあまりにも自分の考えを正直に書きすぎたため,手に内がばれてしまうことを恐れたのだ。しかし,結局その心配は杞憂だった。それがあまりにも常軌を逸していたがために,誰もヒトラーが本気で実行するとは思っていなかったのだ。信じがたいほど過小評価され続けてきたことが,後の運命を決めた。これは『わが闘争』についても,またヒトラー自身についても言える。

【資料】「ヒトラー『わが闘争』がたどった数奇な運命」,アントワーヌ・ヴィトキーヌ,河出書房新社,2011年

◆マイケル・ファラデーの警告

我々は誰でも自分のアイデアを支持されることを喜び,批判には耳を貸したくないものだ。しかし真理を求める科学においては,唯一の尺度しかない。それが事実と矛盾しないかどうかということだ。うまくいかなければ潔くそのアイデアを即座に捨てて,別のアイデアに向かうべきなのだ。マイケル・ファラデーはこのことについて次のように警告した。

人間には,思い通りの証拠や結果がほしい,まずいものには目をつぶりたいという強い誘惑がある。人は,自分に賛同してくれるものを喜んで受け入れる一方で,反対するものはなかなか認めようとしない。しかし良識の教えるところによれば,まさにその反対のことをすべきなのである。

この言葉は,科学に限らず政治や社会一般でも通用する。

【資料】「悪霊にさいなまれる世界」,カール・セ−ガン,早川書房,2009年

◆レーガンの自慢話

ロナルド・レーガンは大統領選の期間中,各地で聴衆に向かって次のような話をした。時は第二次世界大戦の最中。所はヨーロッパ。若きロナルドはドイツ兵との激しい戦闘で多くの仲間を失いながらも果敢に戦い,ついにナチの強制収容所からユダヤ人を解放する。聴衆はこの元俳優の口から語られる実にリアルな血沸き肉躍る物語に酔いしれる。――でも,まてよ。レーガンは第二次世界大戦中,ずっとハリウッドで俳優業をしていたのではなかったか。第一,レーガンの語るこの「経験談」,ハリウッド映画『翼と祈り』のストーリーとそっくりじゃないか。実はレーガンには,他にも公的発言の中にこのような例がたくさんあるのだ。わざとなら詐欺だし,うっかりなら,事実と映画を混同するような人間をアメリカ国民は大統領にしていたことになる。

【資料】「悪霊にさいなまれる世界」,カール・セ−ガン,早川書房,2009年

◆聖母マリアのお告げ

ヨーロッパの各地には聖母マリアが現れたという伝説が至るところにある。典型的な話はこうだ。中世の時代にある貧しい農夫の前に聖母マリアが現れてこう言う。「直ちにこの村の聖堂を修理しなさい。さもないと災いが起こるでしょう。このことを偉い人に告げなさい。」畏れおののいた農夫は領主のところへ馳せ参じてこのことを伝える。そして聖堂は修理され,りっぱな修道院へと発展する――でも,ちょっと待ってほしい。聖母マリアともあろうお方がなぜこんな平凡でつまらないことをいうのだろうか。なぜ「天動説など信用してはいけない」とか「魔女狩りはただちに止めなさい」などと言わなかったか。第一,どうして哀れな農夫の前に出現して,「偉い人に告げなさい」などというのだろう。自分で直接,権力者の前に出て説得を試みればいいではないか。

【資料】「悪霊にさいなまれる世界」,カール・セ−ガン,早川書房,2009年

◆「西部一の拳銃使い」症候群

西部一の老ガンマン(日本一の老剣術家でもいいが)に,命知らずの生意気な若造が決闘を挑む。そしてたいていは挑戦者は重傷を負うか,死ぬかする。しかしいつかは老ガンマンがゆっくりと地面に倒れる日が来る。勝った若造は,その日から「西部一のガンマンを倒した男」としてヒーローになる。危険だが名声を得るには手っ取り早い方法だ。科学の世界でもこれがある。倒す目標はできるだけ有名であることが望ましい。ノーベル賞受賞者などがうってつけだ。倒した時にそれだけインパクトがある。アメリカのノーベル化学賞受賞者ハロルド・ユーリーは年を取るほど皆が寄ってたかって自分のまちがいをあらさがししているように感じられたという。彼はそれを「西部一の拳銃使い」症候群と冗談で呼んだ。彼は言う。「小生意気な若造はそのおかげで,自分一人では決してたどり着けなかった重要な研究分野に踏み込めるというわけだ」。ボクシングでもチャンピオンになった瞬間から後を絶たない挑戦者に悩まされることになるのだ。

【資料】「悪霊にさいなまれる世界」,カール・セ−ガン,早川書房,2009年

◆ロマンを壊すようなことはするな?

外科医が撮ったというネッシーの写真が,実はでっちあげ写真だったと1993年クリスチャン・スパークリングが死ぬ間際に告白しても,19世紀降霊術で亡霊がテーブルを叩く「叩音(こういん)」は実は親指の関節を鳴らしていたと当の女性が告白しても,ミステリー・サークルは板とロープで作ったとイギリスの二人組が告白しても,もはやその告白を認めようとする人の方が少なかった。人は長い間だまされると,インチキだという証拠があってもそれを認めようとしなくなるのだ。いいカモになったと認めるのはつらすぎるので,いったん山師に屈するともう後戻りはできない。こうして古いインチキが新しい衣をまとって生き延びる。

【資料】「悪霊にさいなまれる世界」,カール・セ−ガン,早川書房,2009年

◆植物はなぜ「緑」なのか

植物が緑なのはクロロフィルが緑色だからというのはここでは答えにならない。クロロフィルが太陽エネルギーによって水と二酸化炭素から酸素とデンプンを作る,つまり光合成をしていることくらいは誰でも知っている。問題は「なぜクロロフィルが緑なのか」ということなのだ。驚くべきことに,太陽のエネルギーが最大になるのはスペクトルの「緑」の部分ではなく,「黄色」の部分なのである。つまり「葉緑体」よりも「葉『黄』体」であった方がずっと効率的だったのである。この謎はまだ解明されていないのだが,案外「たまたま」緑だったという,ええかげんな理由なのかもしれない。

【資料】「悪霊にさいなまれる世界」,カール・セ−ガン,早川書房,2009年

◆書物は世界を理解し,民主的社会を作るカギ

人類史の99%は,読み書きのできる人物は皆無だった。なぜなら,文字が発明されていなかったからだ。それまでは直接体験した事実が口伝えで伝えられたが,伝言ゲームと同様,時間を経るごとに歪められ消えていった。書物は個人の体験や発見を遠く未来まで残すタイムマシンなのだ。書物は我々がこの世界を理解し,民主的社会に参加するカギなのだ。

【資料】「悪霊にさいなまれる世界」,カール・セ−ガン,早川書房,2009年

◆元奴隷はフェミニスト

元奴隷フレデリック・ダグラスは,奴隷に禁止されていた文字を隠れて学習し,南部から逃亡して自由の身となった。ダグラスはアメリカ先住民の絶滅政策には断固反対し,1848年,女性解放のために初めて開かれた「セネカ・フォールズ会議」でエリザベス・K・スタントンが女性投票権を求めて立ちあがったとき,彼女を支持した男性は,あらゆる人種集団のなかでフレデリック・ダグラスただ一人であった。

【資料】「悪霊にさいなまれる世界」,カール・セ−ガン,早川書房,2009年

◆「パーセク」は距離の単位なのに・・・

天文学で用いる「パーセク(parsec)」は距離の単位である。よく"per sec"(毎秒)と誤解されるが,この名称はparallax(視差)とsecond(秒)を組み合わせたもの。1パーセクは約3.26光年。スターウォーズの第1作で,ハリソン・フォード扮するハン・ソロがファルコン号の速さを自慢して「(帝国軍の巡洋艦を)12パーセクでぶっちぎったぜ」という場面がある。 これは距離の単位のパーセクを速度の単位と勘違いした大ポカ。カール・セーガンは科学専攻の院生でもアルバイトに雇ってセリフをチェックさせれば大した費用もかけずに防げたミスという。

【資料】「悪霊にさいなまれる世界」,カール・セ−ガン,早川書房,2009年

◆ニコラ・ブルバキは架空の人物

1930年代,ニコラ・ブルバキの名で解析学の教科書「数学言論」が出版され,現代数学に大きな影響を与えた。しかし実はブルバキなる人物は存在せず,実際はアンドレ・ヴェイユを筆頭とするフランスの優秀な若手数学者集団が,かつてフランスにいたブルバキ将軍からヒントを得て冗談で付けた名前だった。しかもブルバキの履歴まで詳細に作り上げるという手のこみようであった。「数学言論」は1998年から執筆が止まっているが,ブルバキはブルバキ・セミナーという形で今も「健在」で活動を続けているらしい。

【資料】「ブルバキとグロンタンディーク」,アミール・D・アクゼル,日経BP社,2007年

◆「モンパルナス通り」はゴミの山の名前から

1920年頃,フランスの学生たちはパリ中心部の南端にある大通りをぶらつくのが常だった。この地区にはゴミの山があり,それが日増しに大きくなっていた。彼らはそのゴミの山を,ギリシャでアポロンに捧げられたパルナッソス山にちなみ,冗談で「パルナッソス山(Mont Parnes)」と名付けた。そしてその大通りもやがて「モンパルナス(パルナッソス山)通り」と呼ばれるようになった。

【資料】「ブルバキとグロンタンディーク」,アミール・D・アクゼル,日経BP社,2007年

◆「半疑問」は英語にもある

「きのう?吉田君がつけてたネクタイ?あれって,ちょっとダサくない?」というように語尾を上げて相手のうなずきを確認しながら話す言い方は「半疑問」と言われる。ポライトネスの一種なのかもしれないが,私のような年配者には耳障りだ。しかし,これは実は英語にもある。「もしもし? ゴーマン先生? こちら特集記事講座の? アルバート?」という具合。実はこの語尾上げは,アイルランド,イギリス,アメリカ南部方言ではもう何世紀も前からあるが,今や若者を中心に標準的アメリカ英語の中立的な特徴になりつつあるらしい。

【資料】「思考する言語(下)」,スティーブン・ピンカー,日本放送出版協会,2009年

◆思わず叫ぶ言葉もコミュニケーションの一部

私たちの日常生活は「演劇」である。私たちは周囲の「観客」を常に意識しながら生活している。廊下を急ぎ足で歩いていて,忘れ物を思い出し,急にまわれ右をして引き返すとき,思わず「あっ,○○を忘れた!」と口走る。これは「私はそのへんをうろつく変なやつではない」ということを「観客」に知らせているのだ。物を落としそうになって,「おっと」という。これは自分がわざとしたのではないということを「観客」に伝えているのである。

【資料】「思考する言語(下)」,スティーブン・ピンカー,日本放送出版協会,2009年

◆Fuck you! の文法的解釈

まずFuck you!は「命令文」ではない。Close the door.のような命令文なら,I said to close the door.とか Don't close the door.のような表現ができるが,I said to fuck you. とか Don't fuck you.とは言えないからだ。

Fuck you.は実は親類のDamn you.の類推から作られた。Damn you.はMay God damn you.(神がお前を地獄へ落としますように)の短縮形である。このDamn you.の代用として Fuck you.が用いられるようになったのである。

【資料】「思考する言語(下)」,スティーブン・ピンカー,日本放送出版協会,2009年

◆英語の「ののしり語」はk,gなどがつくものが多い

fuck, cock, prick, dick, punk, fag, dork... これらは英語の典型的な「ののしり語」だが,共通する特徴がある。短音節で,kやgといった短く耳障りに感じる閉鎖子音が多いということだ。性的な意味を表すものが多いが,意味の知りたい人は英和辞典参照。

【資料】「思考する言語(下)」,スティーブン・ピンカー,日本放送出版協会,2009年

◆郡=県,県=町が正しい

平成の大合併によってかなり減ってはきたものの,今でも○○県○○郡という地名は存在する。つまり「県」という行政単位の中に「郡」という下位単位が存在するのだが,実はこれは逆である。昔の中国では「郡」というのは日本の「県」にあたるくらいの行政単位であり,「県」は日本の「町か村」くらいの単位であった。明治になって廃藩置県で「県」や「郡」を置いたとき,役人が間違えてしまったのだ!

【資料】「三国志 きらめく群像」,高島俊男,ちくま文庫,2000年

◆父親の名の一部を息子につけることは厳禁

秀吉の子は秀頼というように,子が親の名の一部をもらうことは今の日本でもやっていることである。しかし昔の中国では,親の名前をもらうことはおろか,親の死後もそれを書いたり口にしたりすることさえ御法度だった。例えば唐の詩人李賀(りが)の父は晋粛(しんしゅく)といったが,李賀が科挙の進士科を受験しようとすると「晋と進は同音だから父の名を汚すことになる」といって当局から受験を許可してもらえなかったというくらいだ。まして民の父たる皇帝となると大変である。唐の太宗「李世民(りせいみん)」が死んだ後,唐代300年に渡って「世」と「民」は一切使えなかった。人々はやむなく「世」を「代」,「民」を「人」と言い換えて使わざるを得なかったのである。

【資料】「三国志 きらめく群像」,高島俊男,ちくま文庫,2000年

◆「辛い」と「熱い」は同じもの

英語では「辛い」も「熱い」も hot と表現する。実はこれは正しい。生物学的に言えば,「辛い」も「熱い」も同じことなのだ。口の中にはトウガラシの有効成分であるカプサインに反応する受容体(バニロイド受容体)がある。この受容体は熱に対しても全く同じように反応し,共に「熱い」という感覚を生じさせる。だから辛い物を食べた後,熱いお茶を飲むと感度は異常に活性化されて,実際以上にお茶が熱く感じられるのだ。逆に,メントール受容体(冷感受容体)はハッカやサロンパスのようにメントールを含む物質と「冷たさ」に反応する。メントールが冷たく感じるのはそういうことなのだ。

【資料】「つぎはぎだらけの脳と心」,デイビッド・J・リンデン,合同出版,2009年

◆単数は1ドル75セントだが,複数なら1ドル80セント

インターネットでバナー広告があってもほとんどの人はクリックしない。そこで米国グーグルは,ユーザーが「digital camera」と入力した場合に,検索結果表示画面にデジカメの広告を出すことにした。広告主は,ユーザーが最も自社の広告をクリックする可能性がある語をグーグルから入札で買うのである。面白いことに,広告主はユーザーが単数形で「digital camera」と入力した場合は1クリックにつき1ドル75セントで買えるが,複数形で「digital cameras」と入力した場合は1ドル80セント出さないと買えないらしい。デジカメの「仕組み」を知りたい人は単数形で入力する傾向があるが,デジカメの「種類」を知りたい人は複数形で入力する傾向があることを広告主は知っているのだ。

【資料】「思考する言語(中)」,スティーブン・ピンカー,NHK Books,2009年

◆一休も真っ青,クリントンの頓知

モニカ・ルインスキーとのスキャンダルで失脚したクリントン元大統領。私は個人的には好きな大統領だ。だいたいJFKだって結構過激な「お遊び」をしている。彼の場合,法廷でルインスキーとの性関係を否定したことが偽証にあたるかどうかが争点になった。この時のクリントンの弁護士はさぞかし知恵者だったに違いない。「(ルインスキーとは)どんな種類の性関係も一切ない(英語ではThere is absolutely no sex of any kind.)」と確かに大統領は述べた。しかし「is」と現在形を使っていることに注意してほしい。証言の時点においてはルインスキーと関係が無くなっていたことは事実である(何もそれ以前もなかったとは言っていない)。弁護士はこう主張したのだ!もしこれが「was」だったり「has been」だったりすると彼は偽証したことになる。が,確かに「現在形」だったのだ。一休和尚もびっくりの頓知なり。

【資料】「思考する言語(中)」,スティーブン・ピンカー,NHK Books,2009年

◆〜助,〜兵衛,〜蔵はみな平安時代の官職名だった

猿飛佐助の「助」は律令制の「次長」,堀部又兵衛の「兵衛」(もとはヒョウエと言っていた)は天皇の「護衛兵」,霧隠才蔵の「蔵」は「蔵人」で宮中の雑事を司る部署を意味する官職名だった。猿飛や霧隠は別として江戸時代の武士の通称はこうした官職名の一部やもしくは全部を借りて名付けられることが多かった。治部,兵部,刑部,掃部,織部,左近,右近,主計,主馬,主水,雅楽,隼人,大学…すべて平安時代の官職名である。

【資料】「お言葉ですが…F 漢字語源の筋違い」,高島俊男,文春文庫社,2006年

◆なぜ「主税」で「ちから」なのか?

大石内蔵助の息子は大石主税で「おおいしちから」という。でもなぜ「主税」が「ちから」なんだろう?不思議に思いませんか。実は昔は税金は基本的に「米」。農民が力を出して作った米なので,その田租(年貢)も「ちから」と呼ばれていた。そうした租税を徴収し管理する税務署を「主税寮(しゅぜいりょう)」と言い,和訓では「ちからのつかさ」と読んでいた。この「寮」は寄宿舎のことではなく,「部局」のこと。だから「主税寮」は「主税局」のことだった。江戸時代の武士の通称は平安時代の官職名に由来するものが多く,「主税(ちから)」もその一つで,主税局長を意味する。ちなみに大石主税のお父ちゃんは大石内蔵助だが,この内蔵助は財産管理を司る内蔵寮(くらりょう)の「次長」を意味していた。名前では息子の方が上だったわけだ。

【資料】「お言葉ですが…F 漢字語源の筋違い」,高島俊男,文春文庫社,2006年

◆¥マークの話

¥マークは誰が使いだしたのだろう。実は明治政府ではない。大正の初めに民間で使われだしたのである。明治の終わり頃,横書き会系帳簿で「円」の記号として手書きのyに=を重ねた記号が使われ出した。それを活字にしたのが「¥」である。Yはもちろん「yen」の頭文字だが,「=」はポンドやドルがそうしていたので模倣したらしい。もっとも古い¥マークは大正6年12月号の雑誌丸善『學鐙』の計算機の広告に[Price ¥425.00」とあるのが初出らしい。意外と新しい歴史なのだ。

ところで,どうして「en」でなく,「yen」なのだろう。実は江戸時代から明治の初めまで,日本人は皆「え」を「イェ」と発音していたのだ。だから「江戸」は「edo」ではなく「yedo」であり,「円」は「en」でなくて「yen」なのである。

【資料】「お言葉ですが…F 漢字語源の筋違い」,高島俊男,文春文庫社,2006年

◆ネットワークでは「弱い絆」こそ重要である

社会の人と人とをつなぐネットワークを考える場合,親友のような「強い絆」と年に一度年賀状をやりとりする程度の「弱い絆」ではどっちが大切だろう? 当然「強い絆」とあなたは考えると思うが,実はそうではない。強い絆は親密であるがゆえに,一つの小さな社会として完結している。その間の情報は非常に限られたものになってしまっている。極端に言えば「なくなっても大した影響はない」のだ。ネットワークで重要なのはほとんどどんな場合でも「弱い絆」である。弱い絆こそが社会のネットワークを縫い合わせるうえで不可欠なものとなっているのだ。ある調査によると,縁故によって就職した人々のほとんどが,親友からの紹介などではなく,たまに会う程度の「弱い絆」に人からの斡旋によるものであった。「弱い絆」こそが実は重要な情報を提供してくれる可能性があるのである。

【資料】「複雑な世界,単純な法則」,マーク・ブキャナン,草思社,2005年

◆ウェブの直径

ネット上にある何十億ものドキュメントの間の隔たりを「ウェブの直径」という。ネット上からランダムに選んだ2つのドキュメントの一方から他方にたどりつけるクリックの回数である。ある研究では現在のネットでは「約19」という。何十億という中でたった19回でたどり着ける理由は何か。それはごく少数ながら膨大なリンクを張っている「ハブ」の存在である。今後数年のうちにウェブの規模は1000パーセント増大すると見込まれているが,それでもウェブの直径は「19から21」に変化する程度だという。ウェブの世界は単純な比例ではなく,「べき乗則」が支配しているのだ。

【資料】「複雑な世界,単純な法則」,マーク・ブキャナン,草思社,2005年

◆a, the, atは「ハブ」の働きをしている

自転車の車輪の中心からは車輪を支える多くのスポークが出ている。この部分を「ハブ」と呼ぶ。ネットワークの世界で「ハブ」というと,他よりも多くのリンクを張っている中心的な存在をいう。成田空港は米子空港など地方の空港よりも外国を含めはるかに多くの地域とつながっているので「ハブ」空港なのだ。ある研究によれば,言語の世界でもハブがある。連続して現れる2つの単語がある場合,それらは「つながりを持っている」と考えるとする。例えばThis is a pen.の場合,Thisとis,isとa,aとpenがそれぞれつながっていると考える。普通の単語同士の結びつきはそれほど強いものではないが,中にはその5万倍ものつながりを持つ単語が存在する。それがa,the,atなどである。これらは英語という言葉の世界の「ハブ」になっているのだ。

【資料】「複雑な世界,単純な法則」,マーク・ブキャナン,草思社,2005年

◆古事記は地味なスタイル,万葉集は派手なスタイル

古事記と万葉集では漢字の使い方が全く異なる。古事記は地味で,万葉集は派手なのだ。古事記は平易な文字(漢字)を地味に用いているが,万葉集はまことに派手な漢字の使い方をしているのだ。たとえば,「雪」という言葉を表すのに,万葉集では「由吉」「遊吉」「由企」「由棄」など縦横無尽に書き表している。中にはとても一般的ではないと思われる漢字すらあえて用いている。この意図は何なのか。ある種の美学があったのか,それとも知識をひけらかしたかっただけなのか。理由は謎である。

【資料】「漢字伝来」,大島正一,岩波新書,2006年

◆古代日本では馬は「イ」と鳴き,蜂は「ブ」という音を立てていた

「お馬ヒンヒン」という言葉もあるが,「ン」という発音は古代日本語にはなかった。馬は「イ」,蜂は「ブ」という音でききなしていたのだ。その証拠は万葉集にある。「たらちねの ははがかふこの まゆごもり いぶせくもあるか あはずして(母が飼う蚕の繭ごもりのように ああ息が詰まる あの娘に逢わずには)」という歌がそうだ。この中の「いぶせくもあるか(息が詰まりそうだ)」が万葉仮名では「馬声蜂音石花蜘虫厨荒鹿」となっている。「馬声」を「イ」,「蜂音」を「ブ」と表現していたことがこれでわかる。

【資料】「漢字伝来」,大島正一,岩波新書,2006年

◆「視覚」と「味覚」ではどっちが強い?

紫色のグレープ味の炭酸飲料を作っている工場で,誤って「チェリー味」のフレーバーを付けて出荷してしまったとしても,まず苦情電話が鳴ることはない。また,白ワインを赤色に着色したものをフランスのワイン専門家に味わってもらうと,誰もが「上質の赤ワイン」として評価する。そして同じ白ワインを着色せずに出すと,今度は「上質の白ワイン」として評価するのだ。これは,われわれは味覚よりも視覚に支配されていることを示している。

【資料】「あなたはなぜあの人の『におい』に魅かれるのか」,レイチェル・ハーツ,原書房,2008年

◆睡眠中は嗅覚が遮断される

揺さぶったり(接触感覚),大声を出したり(聴覚),強い光を浴びせて(視覚),眠っている人を起こすことはできるが,強い臭いを鼻のところに持っていっても寝ている人を起こすことはできない。我われは「寝ざめてから,コーヒーの匂いをかぐ」ことはあっても,「コーヒーの匂いをかいで寝ざめる」ことはないのだ。なぜ睡眠中に嗅覚だけがこれほどまで完全に遮断されるのかは,今もわかっていない。

【資料】「あなたはなぜあの人の『におい』に魅かれるのか」,レイチェル・ハーツ,原書房,2008年

◆性行動に関する男女の考え方の違い

(1)あなたのパートナーが,「出張中に他人と性交渉を持ったけどそれは何も意味しない」と告白した。
(2)あなたのパートナーが,「他人を深く愛しているがまだ性交渉は持っていない」と告白した。
ミシガン大学のグループが男性と女性に上の2つのうち「どちらの方が悪いと思うか」を尋ねたところ,大半の男性は(1)を,大半の女性は(2)を選んだという。これはどうやら普遍的な傾向であるらしい。(1)の場合,男性が投資している子どもが自分の遺伝子を継承しているかが不確かとなり,(2)の場合は,女性にとって自分や子どもへの愛情・保護・援助が取り消される不安が生じるからだという。

【資料】「あなたはなぜあの人の『におい』に魅かれるのか」,レイチェル・ハーツ,原書房,2008年

◆甘味料の代替品はあるが,塩の代替品はまだない

カロリーがゼロでありながら甘みを出す,甘味料の代替品はスーパーで手に入る。しかし,塩の制限が必要な人のための「塩の代替品」はスーパーでは売っていない。実は人の味蕾にあるナトリウムの受容体がまだ発見されていないため,作りたくても作れないのだ。現在,塩産業に従事する人たちが,この幻の代替品を作りだそうと競争しているのだが,いまだ作れないでいる。

【資料】「あなたはなぜあの人の『におい』に魅かれるのか」,レイチェル・ハーツ,原書房,2008年

◆ストロベリーのフレーバーは6000種ある

「香り」といっても,香水のように人が自分の体につける「香り」と,バナナ味の飴のように食べ物につける「香り」がある。前者は「フレグランス」と呼ばれ,後者は「フレーバー」と呼ばれる。フレーバーの場合,すべて合成物質である。フレーバーにはその食物を表現する「単一の」物質はない。「バナナ味」を出す単一の化学物質はないのだ。様々な物質の組み合わせにより「バナナ味」が作られるため,「バナナ味」といっても何千もの種類がある。スイスにある世界最大手のジボダン社は「ストロベリー味」だけで6000種のフレーバーを作っている。キャンデーに用いるのか,ヨーグルトか,それともゼリーかで異なる「ストロベリー味」のフレーバーが使われる。

【資料】「あなたはなぜあの人の『におい』に魅かれるのか」,レイチェル・ハーツ,原書房,2008年

◆女性が出版することは「はしたない」とされていた

中世のヨーロッパの上流階級では女性がサロンを開き,著名な学者を招待しては交流をしていた。そのため女性も知性を磨く必要はあった。女性が家族や友人を楽しませるために小説を書いたりすることも多かった。しかし,それはあくまで「内輪」のことであり,初めから広く世間に出版する目的で書くことは「はしたない」こととされていた。そのため,本音はどうであれ女性が出版する場合は,「周囲のすすめで仕方なく」出版するという形をとった。もちろん,その場合でも匿名が普通であった。

【資料】「エミリー・デュ・シャトレとマリー・ラヴワジェ」,川島慶子,東京大学出版会,2005年

◆デカルトは女性を認め,ベーコンは女性を排除した

フランスのルネ・デカルトは「万人」に理性が与えられているとして,女性を排除しなかった。そのため科学に興味を持つ上流階級の女性たちにデカルト派は人気があった。一方,イギリスのフランシス・ベーコンは,科学は「男らしい営み」であるとして,女性を排除した。ベーコンは大の女嫌いだった。彼は同性愛者だったのかもしれない。

【資料】「エミリー・デュ・シャトレとマリー・ラヴワジェ」,川島慶子,東京大学出版会,2005年

◆夢はなぜダリのような絵であるのか

夢で見る風景は尋常ではない。われわれはなぜ,かくも常軌を逸した夢を見るのだろうか。夢を見ている時,われわれの脳では理性を司る前頭前野の活動(酸素消費量)が低下し,扁桃体の活動(酸素消費量)が高まるという。扁桃体が理性の束縛から解放され,次々と異様なイメージを生み出しているのだ。このような状態は統合失調症の患者の脳の状態とよく似ているという。いわば,われわれは毎夜統合失調症の状態になるのだ。

【資料】「心はどこまで脳にあるか」,大谷悟,海鳴社,2008年

◆手術後はなるべく早く起きるのがよい

われわれは地球の重力とともに進化してきた。重力があってのわれわれなのだ。年をとると,座ったり寝たりと重力に逆らわない生活をするようになるが,これは老化を早める。今や手術後に長期の安静が必要と考える医師は少なくなっている。むしろなるべく早く重力の恩恵を受けるために,離床するようが得策なのだ。起きることで傷の治癒が早くなり,術後の回復も早いということが実験からも実証されている。

【資料】「宇宙飛行士は早く老ける?」,ジョーン・ヴァーニカス,朝日新聞社,2006年

◆太るとなぜ高血圧になるのか

太るということは,体に脂肪をためるということだ。脂肪組織が増えるとその脂肪細胞に栄養を補給するために細い血管が増える。細い血管が増えれば増えるほど抵抗が大きくなり,心臓は強い力で血液を送り出さねばならなくなって,血管内の圧力が高まるのである。

【資料】「宇宙飛行士は早く老ける?」,ジョーン・ヴァーニカス,朝日新聞社,2006年

◆意識しないとドンドン猫背になる

戦国時代に初めて敵将の首を打ち取った武士が,髪の毛をつかんでその首を持ち上げたとき,その重さに驚いたことだろう。頭部は全体重の17%の重さを閉めている。70キロの体重の人の頭部は,12キロ。われわれは,起きている間,10キロの米袋を肩の上に載せていると考えればよい。それを支えるのは首や背骨である。背骨を支持する筋肉をきたえておかないと,背骨は当然曲がっていく。ピンと背筋を伸ばし,意識して頭部の重さを垂直に支えておかないと,すぐに猫背になってしまうのである。

【資料】「宇宙飛行士は早く老ける?」,ジョーン・ヴァーニカス,朝日新聞社,2006年

◆最長寿の植物は4万3千歳

植物は数千年を生きるものがいると聞くが,タスマニア西部で発見されたモチの木の一種の灌木は,放射性炭素を用いた年代測定で,なんと4万3千年も生き続けていることがわかったという。それまではカリフォルニアにあるプロストルコーンパインという名の松が4千9百歳で最年長だった。

【資料】「宇宙飛行士は早く老ける?」,ジョーン・ヴァーニカス,朝日新聞社,2006年

◆コナン・ドイルは嬉々として心霊主義者になった

あれほど知的であった人が,超自然現象にのめりこんでいった例は数多くある。ダーウィンとともに進化論を発見したアルフレッド・ラッセル・ウォレスは心霊主義に傾いてチャールズ・ダーウィンとたもとを分かっだ。荒城の月の作詞者,土井晩翠も日本心霊科学協会を作って顧問となった。コナン・ドイルは医師でもあったし,ホームズのような理性を持っていた。だから自分の家に同居していたリリーが自動筆記の能力を持っていると聞いても信じようととはしなかった。しかし,ある日リリーを通して死んだ義弟からメッセージを受け取ったときに考えが変わった。そこには彼と義弟しか知らない内容があったからだ。ドイルは長年の疑いが霧のように晴れたと感じた。彼はこの「新しい啓示」を受けて,嬉々として心霊主義者になった。

【資料】「コナン・ドイル――ホームズ・SF。心霊主義」,河村幹夫,講談社現代新書,1991年

◆時間がないというプレッシャーが周期表の発見を促した

メンデレーエフはあせっていた。その日の午前の汽車でトペリの経済協同組合の会合に出てチーズ製造法のアドバイスを行うことになっていたのだ。外では駅まで送ってくれる馬車が待っているのが窓から見える。しかし,3日ばかりずっと考え続けてきた元素についてにアイデアがもう少しでまとまりそうだった。後のデンデレーエフ研究家は,汽車に乗らねばならないというプレッシャーが,周期表のアイデアを生み出したのではないかと考えている。

【資料】「メンデレーエフ 元素の謎を解く」,ポール・ストラザーン,バベル・プレス,2006年

◆ケミストリー(化学)はエジプトの遺体防腐術から

化学は英語で chemistry。古代エジプトで行われた死者の埋葬に関連して「ケメイア」というヒエログリフがよく出てくる。もともとエジプトはナイル川の氾濫により,黒い豊かな土地であったため,「ケメイア(黒)」と呼ばれていたともいう。このケメイアでは様々な薬品を処理して遺体の防腐を行っていた。このテクニックそのものが「エジプトの術」すなわち「ケメイア」と呼ばれるようになり,ひいては「化学」を表す語となった。

【資料】「メンデレーエフ 元素の謎を解く」,ポール・ストラザーン,バベル・プレス,2006年

◆「円積問題」が解けない理由

「与えられた円と等しい面積の正方形を,定規とコンパスだけを用いて作図せよ」。これが中世まで数学者を悩ませてきた「円積問題」だ。今,任意の円をコンパスで描き,その半径を「1」とする。するとその円の面積は1×1×π。つまりπ。次に面積がπとなる正方形の一辺は√π。ところがπは3.1415926535897932384626...と永遠に続く「無理数」であり,これは定規やコンパスでは「測定できない数字」である。よって,定規とコンパスでは円を正方形にすることはできないのだ。

【資料】「メンデレーエフ 元素の謎を解く」,ポール・ストラザーン,バベル・プレス,2006年

◆最初の望遠鏡はわずか3倍の倍率だった

望遠鏡は1608年にオランダの眼鏡職人ハンス・リッペルスハイだと言われている。実際は彼の見習いの少年がレンズで遊んでいるうちに発見したものを,リッペルスハイが「パースピシウム(のぞく道具)」と名付けて発売したのである。ただその倍率はわずか3倍。肉眼よりちょっとましという程度だった。この噂を聞きつけたガリレオが自らそれを改良して10倍にまで高めた。そして,それに「テレスコープ」という名をつけ,ちゃっかりとベネチア市の防衛当局に秘密兵器になるといって寄贈した。おかげでガリレオは終身の教授に格上げされ,給料も倍になった。ガリレオが望遠鏡を発明したわけではない。

【資料】「メンデレーエフ 元素の謎を解く」,ポール・ストラザーン,バベル・プレス,2006年

◆実験のガリレオと理論のデカルト

アインシュタインはきっと最先端の設備のある研究所で仕事をしていると思っていた人が,アインシュタインに「ところであなたの実験室はどこですか」と聞いたところ,アインシュタインは胸のポケットから万年筆を取り出して,「ほら,ここですよ」といったという(アインシュタインはParkerの万年筆を愛用)。これはたぶん英雄伝説の一つなのだろうけど,アインシュタインは実験家でなく理論家であったことは確かだ。ガリレオは巧みな実験により様々な事実を解明したが,デカルトは直感と演繹で真理に近づこうとした。理論と実験は,いわば車輪の両輪であり,相補的なものと言える。

【資料】「メンデレーエフ 元素の謎を解く」,ポール・ストラザーン,バベル・プレス,2006年

◆「ガス」は「カオス」がなまったもの

古代ギリシャでは宇宙のはじまりは「カオス(chaos)」であったと考えられていた。17世紀のフランドル(ベルギー)の化学者フォン・ヘルモントは蒸気はまだ形になる前のものと考え,これを「カオス」と呼んだ。しかし,フランドル地方の言葉では最初の子音を喉音で強く発音する。そのため「カオス」は「ガオス」のように聞こえる。それがガオス→ガスつまり,今の「ガス(gas)」となったのである。

【資料】「メンデレーエフ 元素の謎を解く」,ポール・ストラザーン,バベル・プレス,2006年

◆デカルトがオランダに逃避した理由

オランダは17世紀にスペインから独立したが,国全体に宗教に対する寛容さと思想の自由があった。中産階級にはプロテスタントが多く,彼らはカトリックとの戦いよりも商業に関心を持っていた。民主主義のような自由な雰囲気を持つオランダは当時のヨーロッパの避難所の役割を果たしていたのだ。ガリレイの異端裁判にショックを受けたデカルトも,窮屈なフランスを逃れてオランダにきていた。ボップズ,ロックもここで本を出したし,科学者ホイヘンスもここで生まれた。

【資料】「メンデレーエフ 元素の謎を解く」,ポール・ストラザーン,バベル・プレス,2006年

◆ニュートンはその知的生活の半分を「非科学的」な研究に費やした

万有引力の発見者,ニュートンは「天地創造」「ノアの箱舟」が起きた正確な日付を計算によって知ろうとした。またヘブライ語を学び,エキゼル書を丹念に読むことで,古代エルサレムの「エホバの神殿」の設計図を再現しようとした。さらには「ヨハネの黙示録」から「キリスト再臨」の日を正確に予言しようとした。彼はこうした行為に人生の半分を使ったのだが,彼自身はこれこそ重要な知的行為と考えていた。

【資料】「メンデレーエフ 元素の謎を解く」,ポール・ストラザーン,バベル・プレス,2006年

◆メンデレーエフはトランプゲームから周期表を思いついた

トランプの一人遊びゲームに「ペイシェンス(忍耐)」というのがある。ソリティアとも呼ばれ,Windowsの付録についているトランプゲームのその一種だ。この「ペイシェンス」が大好きだったメンデレーエフは,カードに元素名・原子量・その性質を書き込み,カードゲームのように並べていくうちにある種のパターンを発見していったのだ。彼はこのゲームを「ケミカルペイシェンス(化学の忍耐)」と名付けた。

【資料】「メンデレーエフ 元素の謎を解く」,ポール・ストラザーン,バベル・プレス,2006年

◆若者が最もよく見る夢は「追われる,落下する,学生生活,セックス」である

カナダの科学者ニールセンとザドラは,2002年,カナダの3つの都市で12000の大学生を対象に,最もよく見る夢は何かを調査した。その結果,その4大テーマは「追われる,落下する,学生生活の一コマ,性体験」だった。これは40年前に行なった調査とほぼ一致していた。時代を超えても普遍のテーマだったのだ。

【資料】「脳は眠らない」,アンドレア・ロック,ランダムハウス講談社,2009年

◆うつ病患者は感情の欠いた面白みのない夢を見る

むしろ,この表題は逆にすべきかもしれない。「面白みのない夢を見る人がうつ病になる」と。米国の睡眠科学者のカートライトは,夢はネガティブな感情を処理して,朝気分よく目覚める働きがあるのではないかと考えている。睡眠中の気分調節がうまくいかず,感情を伴わない,面白みのない夢をみると,目覚めたときにはさらに落ち込んでいる。それがうつ病患者の典型的症状である

【資料】「脳は眠らない」,アンドレア・ロック,ランダムハウス講談社,2009年

◆夢で,ナッシュに解法を教えてもらう

1960年代,MITの数学者ドナルド・J・ニューマンは数学の難問で困っていた。当時MITには映画「ビューティフル・マインド」の主人公にもなったジョン・ナッシュがいた。一週間くらいこの難問と格闘していたとき,ニューマンは夢をみた。夢の中で彼はナッシュとレストランにいた。ナッシュにこの難問を見せる,彼はその解法を説明してくれた。ニューマンは目覚めたとき,その難問がすらすらと解けたのだった。。ナッシュが夢に出てきたのは,彼自身もこの難問に関心を持っていたからであった。ニューマンはこの経験に強い印象を受け,後にこの問題に関する論文を発表したとき,ナッシュの名前も併記したという

【資料】「脳は眠らない」,アンドレア・ロック,ランダムハウス講談社,2009年

◆「イエスタデイ」は夢の中で作曲された

ポール・マッカートニーがロンドンの母親の家である朝目覚めると,頭の中に音楽が流れていた。起き上がってピアノで弾いてみるといい曲だ。彼はどこかで聞いたんだろうと思って,周囲の人にその曲を聞かせてみるが誰も知らないという。ポールはこの曲に,「スクランブルエッグ,ああ,ベイビー,君の素敵な脚…」というナンセンスな歌詞をつけてみた。しかし,これは自分のオリジナルだという確信を持った時,彼はそれにまともな歌詞をつけた。そして「イエスタデイ」が生まれた。

【資料】「脳は眠らない」,アンドレア・ロック,ランダムハウス講談社,2009年

◆リアリティ・テスト――これは夢か現実か

明晰夢を見たい人は,起きている間に「リアリティ・テスト」をするといい。1日に少なくとも5〜6回,「これは現実かそれとも夢か」を自問するのだ。この習慣をつけておくと夢の中でも自問ができるようになる。日本では夢かどうかを知るのにほっぺたをつねってみるというのがあるが,これはあまり効果がない。それよりは,夢の中の世界で「活字か数字」を探してみる。たとえば時計などの文字盤を見ておく。ちょっと目をそらして再度見てみるとそれが違う文字や別の物に変化していれば,あなたは今夢の中にいることを示している。夢の中では活字はほぼ例外なく変化するのだ。

【資料】「脳は眠らない」,アンドレア・ロック,ランダムハウス講談社,2009年

◆明晰夢は科学的根拠がある

明晰夢(めいせきむ)は英語でlucid dreamという。自分が今見ているのは夢であるということを自覚している夢のことをいう。慣れてくると自分の見ている夢をコントロールして自分が見たい方向へストーリーを持っていくことも可能らしい。こんなことを言うとオカルト的に聞こえるかもしれないが,これはきちんとした科学的根拠のある現象である。夢を見る段階,すなわちレム睡眠に入ると動かせる筋肉は眼球の筋肉と呼吸筋だけになる。ラバージという科学者が3人の被験者に明晰夢を見だしたら呼吸を早めたり遅くしたりするように頼んだところ,レム睡眠に呼吸の変化が見られたケースが9回あったという。夢の中から現実の世界へ合図を送ったのだ。私も2009年9月に明晰夢を体験した。それは非常にカラフルでリアルな体験だった。

【資料】「脳は眠らない」,アンドレア・ロック,ランダムハウス講談社,2009年

◆脳は眼球のぶれを補正している

目が今どこを見ているかを調べる機械がある。眼鏡のように頭に固定すると眼球の動きを検知して,視点の動きを記録するものである。これを見ると私たちの目は平均1秒に3回のペースで動いていることがわかる。この眼球の動きは「サッカード」と呼ばれている。こんなに激しく揺れ動く映像を見せられるとたぶん酔ってしまうだろう。しかし私たちの目に映るのはきちんと形が固定された映像である。実は脳には自動的にこうしたブレを修正する機能があり,そのために私たちは酔わずに物が見えるのである。脳は視点が移動している間の映像をカットし,そのあと動きが止まった映像を「時間を遡らせて」貼りつけるという編集作業を瞬時に行なっているのだ。

【資料】「脳は眠らない」,アンドレア・ロック,ランダムハウス講談社,2009年

◆意識は脳によって「事後承諾」させられている

いまあなたはパソコンのモニター画面を見ながら文字を入力している。1文を入力し終わり,確定しようとリターンキーをたたく。あなたはこうした行為をすべて「自分の意志で」で行っていると感じている。しかし事実はそうではない。リターンキーをたたこうと「思う」よりも350ミリ秒早く,脳はすでに指の筋肉を動かす指令を送っているのだ。あなたの意識はそれを「事後承諾」させられているため,「自分の意志で」行なったように感じているだけなのだ。これは1960年代に認知神経科学者のベンジャメイン・リベットが発見した。だがこれは重大な問題を提起する。それではいったい誰が「私」の主人なのだろう?

【資料】「脳は眠らない」,アンドレア・ロック,ランダムハウス講談社,2009年

◆夢の中で「闘うか逃げるか」のリハーサルをする

私たちが毎日見る夢は,どうして「楽しいこと」よりも,あせったり失敗したりといった「ネガティブなこと」が多いのだろう?人類史の実に99%は,獲物を求めて野山を駆けまわる生活だった。我われの脳はまだ現代生活に適合するほど進化していない。私たちは,夢の中で「闘うか逃げるか」といった行動のリハーサルを依然として行なっているという説がある。こうした夢の中のリハーサルは犬や猫となど人間以外の動物も行なっていることがわかっている。

【資料】「脳は眠らない」,アンドレア・ロック,ランダムハウス講談社,2009年

◆夢はカラーか白黒か?

かつて夢は白黒が基本であり,カラーの夢を見るのはまれだと言われていた。しかし今では,夢はカラーが普通であることがわかっている。色つきの夢はアリストテレスの時代から報告されていたのだが,1930年代〜1960年代まで心理学界から一般の人々まで,夢は白黒であるという説がまかりとおっていた。1942年の調査ではカラーの夢を見ると答えた大学生はわずか9%だった。当時は写真や映画はモノクロだった。しかし1950年代からカラー映画が普及しだすと,その状況が変化し,1962年の調査では83%がカラーの夢を見ると答えた。

【資料】「脳は眠らない」,アンドレア・ロック,ランダムハウス講談社,2009年

◆アゼリンスキーの「黄金の糞」理論

すでに結婚し,子どももいたシカゴ大学大学院生ユージン・アゼリンスキーは,この博士論文で一発当てないと万年院生の立場から抜けられない状況にあった。そしてわが子を実験台にして,指導教授ナサニエル・クライトマンと共に,REM睡眠を発見した。彼は後に「私の持論である"黄金の糞"理論によれば,どんな些細なことで,非常に正確に,寸分たがわず的を絞って調べれば,ほぼ確実に科学の金塊が眠る未知の鉱脈を掘りあてられる」と語っている。

【資料】「脳は眠らない」,アンドレア・ロック,ランダムハウス講談社,2009年

◆あなたは「バニラ」の匂いが嗅げますか?

アイスクリームのバニラ,ケーキに入れるバニラエッセンス。いろんなところに使われるバニラだが,普通,60歳を過ぎるとバニラのにおいが極端にわからなくなるという。加齢によってにおいの感覚も低下するのであるが,特に「バニラ」のにおいにおいてその低下が著しいという。ただし,年輩の人でもスポーツをする人は,薄いバニラのにおいでも感知できるという。やっぱり,アンチ・エイジングには運動が大事ということか。

【資料】「『におい』と『かおり』の正体」外崎肇一,青春出版社,2004年

◆われわれの体も最後には塵となって宇宙を漂う!

今,わたしたちのそばを恐竜の塵が漂っている。同じようにわれわれの体もやがては塵となって世界を漂うことになる。塵というより原子といってもよいだろう。そしてついには巨大化する太陽に地球も焼きつくされ,太陽の超新星爆発によってわれわれの原子も宇宙の彼方へと飛び散り,そこでまた新たな星やひょっとすると新たな生命になるのかもしれない。そういう意味では「リインカネーション(輪廻りんね)」という考え方は正しい。

【資料】「小さな塵の大きな不思議」ハナ・ホームズ,紀伊国屋書店,2004年

◆ドッグフードとキャットフード――違いは「甘さ」

ドッグフードやキャットフードを食べてみた人はあまりいないと思う。どこが違うのだろう?ドッグフードは甘味があるが,キャットフードには甘味がないのだ。犬の訓練によく角砂糖が使われることからもわかるように,犬は甘いものがすきだ。一方,猫には甘味のセンターを持たない。だから,犬にキャットフードを与えても甘味がないので食べない。しかし,甘味のセンターを持たない猫にドッグフードを与えると,食べるのである。甘味センサーを持たない猫にはそもそも甘味の有無は関係ないのである。

【資料】「『におい』と『かおり』の正体」外崎肇一,青春出版社,2004年

◆帆船効果

歴史的に見ると,帆船の時代から蒸気船の時代へとスムーズに移行していったのではない。蒸気船が出現したとき,帆船の側でも画期的な改良がなされ,結果的に蒸気船の導入を遅らせたのである。
このように,ある時代から新たな時代へと社会が大きく動き出すとき,しばしば古い時代の方でこれまでになかった画期的な取り組みが行われ,「それじゃ今のままでもいいじゃないか」という意識が生まれ,新時代の到来を遅らせるということがよく起きる。これを「帆船効果」と呼ぶ。
ガス灯から電気照明へと社会が切り変わるときにも,帆船効果が生じた。電気照明に比べて遜色のない「白熱ガス灯」の発明である。大局的に見れば,結局は最後の輝きに過ぎず,結局は大きな時代の変化に従わざるを得ないのであるが・・・。

【資料】「『白い光』のイノベーション」宮原諄二,朝日新聞社,2005年

◆かつてイギリスを森林がおおっていた

今,ロンドンのキングズクロス駅からスコットランドに向けて列車で旅行をすると,車窓から見えるのは,どこまでも広がるなだらかな牧草地である。森は見えず,木立はまばらに点在するだけだ。しかし,11世紀までイギリスには大森林が存在していたのである。ロビンフッドが活躍するには森林が必要だ。だが,11世紀に羊の放牧が始まり,13世紀からは製鉄用の木材を得るために森林がどんどん破壊されていった。そしてついに,16世紀には木材が不足したため,やむなくにおいが強くて使いにくい石炭を使用しはじめたのである。

【資料】「『白い光』のイノベーション」宮原諄二,朝日新聞社,2005年

◆明かりの歴史の中で,その99.5%は「黄色い」光だった

人類が明かりを用いるようになってから現代までを1日と考えると,その24時間が終わる30秒前まで,つまりその99.5%が「黄色い」炎の時代だった。キャンプファイアーの炎になつかしさを感じるのは,我々の遺伝子がそうさせるのかもしれない。蛍光灯や水銀灯,自動車のハロゲンランプなどの「白い」光は,我々の世代になってから現れたものなのである。

【資料】「『白い光』のイノベーション」宮原諄二,朝日新聞社,2005年

◆人類が服を着はじめたのは7万2000年前

なぜそんなことがわかるのだろうか。実は遺伝子研究の成果である。といっても人間の遺伝子を調べてもわからない。シラミの遺伝を調べたのである。人類は120万年前に体毛を失った。だからと言ってすぐに服を身に着け始めたのではない。かなり長い間人類にとってはとても寒い時代が続いたのだ。アメリカの遺伝学者マーク・ストーンキングはシラミは温かい人体を離れると24時間以上は生きられないことを知った。人類がまだ体毛に覆われていたころは,シラミも全身をすみかにしていただろう。ところが人類が体毛を失うと,シラミはわずかに残された頭髪の中でアタマジラミとしてほそぼそと暮らしていた。そして人類がついに衣類を身に着け始めると,アタマジラミはヒトジラミへと進化していった。そこでストーンキングはアタマジラミがヒトジラミに進化した時期をその遺伝子から調査したところ,その年代が7万2000年前ということなのだ。人類の祖先が思い切ってアフリカを出て世界に拡散したとき,彼らはすでに衣類を身につけていたことになる。

【資料】「5万年前」ニコラス・ウェイド,イースト・プレス社,2007年

◆人類発祥の地はアフリカのはエチオピアが最有力候補

現生人類の祖先がアフリカから出発したことは今や誰も疑う者はいない。化石による物的証拠だけでなく,ミトコンドリアDNAやY染色体など遺伝子による様々な研究が,いずれもそれを支持することがわかってきたからだ。それでは,我々の祖先はアフリカのどこが「故郷」なのだろうか。これもまた,男系にのみ伝わるY染色体を調べることでかなり絞られてきている。調査の結果,エチオピアのオモロ族とアムハラ族が人類最古のグループの子孫といわれるサン族の祖先を共有していることがわかってきた。一方,オモロ族とアムハラ族の女性のミトコンドリアDNAも,祖先の住んでいたところがエチオピアか少なくともアフリカ東部であることを示している。どうやら,人類発祥の地は今のところエチオピアが最有力候補らしい。

いずれにせよ,どんなによい刺激でもそれが続くと我々は慣れてしまう。リラクゼイションのコツは,「変化」にある。日常とはちがった状況を作ることがリラクゼイションの基本のようだ。

【資料】「5万年前」ニコラス・ウェイド,イースト・プレス社,2007年

◆むれた靴下のにおいはストレスを解消する?

ストレス解消の度合を測るのに,体内の抗酸化物質の量を調べる方法がある。いい香りを嗅ぐとリラックスするので,確かに体内の抗酸化物質も徐々に増えるのだが,嗅ぐのを止めると,すぐもとにもどってしまう。一方,むれた靴下のにおい(これは「酪酸」という物質)を嗅ぐと,意外と抗酸化物質の量はあまり減らない。そして驚くべきことに,嗅ぐのを止めたとたん,抗酸化物質が一気に増加するのである。また,おもしろいことに,酪酸のにおいがさほど嫌いでない,むしろ好きだという人も結構いるらしい。

いずれにせよ,どんなによい刺激でもそれが続くと我々は慣れてしまう。リラクゼイションのコツは,「変化」にある。日常とはちがった状況を作ることがリラクゼイションの基本のようだ。

【資料】「『におい』と『かおり』の正体」外崎肇一,青春出版社,2004年

◆ニュートンはなぜ光を7色に分けたのか?

1666年,アイザック・ニュートンは真っ暗にした部屋の中に壁に開けた小さな穴から太陽光線を導き,それをプリズムに当てて光を分散した。ニュートンはそれらの光は連続的に変化していると書いている。それが分かっていながら,なぜ彼は光を「赤,橙,黄,緑,青,藍,紫」の7つに分けたのだろう。ニュートンがいうには,目のいい助手にその分散された光の境界と思われるところに線を引かせたところ,それがちょうど音楽のオクターブと同じ7つになっていたというのだ。どうやらニュートンにはオクターブの「7」,1週間の「7」など,7に対する特別な思いがあり,それが光を7つに分けた理由のようだ。

【資料】「『白い光』のイノベーション」宮原諄二,朝日新聞社,2005年

◆ヘレン・ケラーは匂いで相手の人格がわかった

目と耳が不自由だったヘレン・ケラーは非常に敏感な鼻を持っていたという。そばを人が通りすぎただけで,その人がそれまでどこにいたか(台所か,駅か,それとも公園か)がだいたいわかったという。さらにすごいのは,彼女はその人のにおいをかいだだけで,その人の人格までがわかったらしい。赤ちゃんにはまだ人格が備わっていないので,「人格のにおい」はしない。また,大人でも「人格のにおい」の弱い人は,あまり面白味のない人だったという。ヘレンは,自分の好きなにおいを「愛しの間違えぬもの」と呼んでいた。

【資料】「『におい』と『かおり』の正体」外崎肇一,青春出版社,2004年

◆2.5ミクロンより小さい塵は危険である

塵による病気や死亡のほとんどは,2.5ミクロンより小さいものが引き起こしている。このレベルの塵では自然の塵は少ない。飛びきり小さい塵の大部分は産業から生み出されている。殺虫剤の粒子は0.5ミクロン,自動車の排ガスは0.01ミクロン。ウイルスや化学物質の分子もだいたい0.01ミクロンくらいだ。あなたが今夜飲むワイングラスの中にはこうした大小さまざまな塵が2万5千個,ひそかに漂っているのである。

【資料】「小さな塵の大きな不思議」ハナ・ホームズ,紀伊国屋書店,2004年

◆糞の臭いが花の香りに変わる

糞便の臭いは「スカトール」という物質である。しかしこれをどんどんと希釈していくと,ついにはジャスミンの香りに変わるという。糞とジャスミンのにおい――違いはただその濃度だけなのである。

【資料】「『におい』と『かおり』の正体」外崎肇一,青春出版社,2004年

◆人類最初の言語には「舌打ち音」が入っていた!

現生人類はみな,約5万年前にアフリカを出た小グループの子孫であるとすれば,世界の言語もかつては一つであったということになる。遺伝子の研究によると,アフリカのハザ族とサン族が世界最古の人類集団であるという。彼らはいずれも,いたずらをした子どもをたしなめるときに言う「チッチッチッ」という音に似た「舌打ち音」を含む言語を話す。したがって人類最初の母語に「舌打ち音」はあったと断定できるという。

私の尊敬する大野晋先生が「日本の源流を求めて」(岩波新書1091,2007年)を出された。あれほど執拗に攻撃された日本語のタミル語起源説が健在であることをうれしく思った。学者はこうでなくてはいけない。しかも彼の説は単なる推量ではなく,学問的証拠を丹念に積み重ねて到達した結果だ。今,遺伝子レベルの研究により,現生人類はすべて,約5万年前にアフリカを旅だった150人ばかりの集団に由来することが判明している。重ねて言うが,これはかつてすべての人類が「たった一つの言語」を話していたということである。今後の遺伝子レベルの研究と大野先生の研究がさらに接近し,ついには合流することを私は確信している。

【資料】「5万年前」ニコラス・ウェイド,イースト・プレス社,2007年

◆人類がアフリカを出たのはいつか?

遺伝学者は,ミトコンドリアDNAの突然変異の割合から計算して,それは6万5000年前だという。一方,考古学者はオーストラリア南東のムンゴ湖の遺跡が4万6000年前であることから,出アフリカはそれよりも以前であるという。今のところ,遺伝学的年代は仮定条件によって変動しやすいため,考古学者の年代のほうが信頼できそうだ。結局,人類の出アフリカは約5万年前であると考えられる。

【資料】「5万年前」ニコラス・ウェイド,イースト・プレス社,2007年

◆「農耕が始まって人類の定住が起こった」はまちがっていた

新石器時代がはじまる1万年前,気候は温暖化し,はじめて農耕ができるようになり,それが人類の定住を可能にしたとこれまでは考えられてきた。しかし,年代測定法が改善され,今ではその見方が180度転換している。定住につながったのは農耕ではなく,新石器時代がはじまるずっと以前に定住生活が起こり,農耕がそれに続いたというのである。

【資料】「5万年前」ニコラス・ウェイド,イースト・プイス社,2007年

◆なぜ太陽の下でも,蛍光灯の下でも赤いセータは「常に赤い」のか?

太陽光線の下と蛍光灯の下では光線の色も強さも全然違う。なにのどうして赤いものはいつも赤く見えるのだろうか。それは,人間の視覚には「色順応」という現象があるからである。我々の脳は,赤味の多い照明の下では赤い色に対する眼の感度を下げ,青味の多い照明の下では青い色に対する感度を下げる。物理的には異なって見えるはずなのだが,感覚的には同じ色であるかのように脳は自動調整してしまうのである。

【資料】「『白い光』のイノベーション」宮原諄二,朝日新聞社,2005年

◆カメ,ハト,犬が好きな匂い

それまで一度も味わったことのない食べ物でも,カメ,ハト,犬がとても好むものがある。それは「バナナ」である。それぞれの動物の嗅覚細胞の反応を調べた実験の結果である。バナナは多くの動物が大きく反応するというが,その理由は定かではない。ちなみにハトや犬はおおむね花の香りには反応するらしいが,犬はジャスミンやオレンジの香りを嫌うということである。

【資料】「『におい』と『かおり』の正体」外崎肇一,青春出版社,2004年

◆貧乏なガウスがなぜ大数学者になれたのか?

ガウスはきわめて低い身分の出身である。父は日雇いの庭師だが非常に貧乏であった。ガウスが大数学者になれたのは,地元の学校の先生がガウスの数学的才能を認めたことと,ガウスの住んでいた地方を治めていたフェルディナント公がその評判を聞きつけて生涯ガウスのパトロンになったからである。そもそも大数学者は数奇な運命をたどり,早死にする者も多いのだが,このガウスは享年77歳で,当時としては例外的に幸福な人生を全うした変わり種である。

【資料】「素数に憑かれた人たち」ジョン・ダービーシャー,日経BP社,2004年



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