大原美術館と児島虎次郎という人


 大原美術館は、児島虎次郎の業績を記念して倉敷紡績社長、大原孫三郎によって児島の死の翌年昭和5年に開設されたそうです。児島の見る目と大原孫三郎の財力がなければ、この美術館は存在しなかったと言われています。
 

受胎告知・・・・エルグレコ
大原美術館の看板作品、この作品が日本にあることは奇跡だとさえ言われている大作です。
ヨーロッパの大不況と虎二郎の見る目、孫三郎さんの決断力の三拍子で手に入った名作です。
児島虎次郎という人

 大原美術館周辺には今橋に刻まれた「竜」の絵をはじめ有隣荘内の椅子や机、襖にいたるまで虎次郎のデザインが生きています。ここで虎次郎の生い立ちから簡単に・・・児島虎次郎は明治14年4月に成羽町に橋本屋という旅館の次男として生まれました。絵に非常に興味がありましたが絵への理解が得られず14歳から鮮魚の行商をして、家業を手伝う毎日でした。その後、画家志望に反対していた祖父母も、東京遊学を許し虎次郎は絵画修業のため上京。現・東京芸術大学への入学を果たし、本格的に西洋画を学ぶこととなったのです。
学費についても大原家を訪ねることにより、大原家の奨学生として支援を受け、本来4年の就学を2年で卒業、その後も学校に残り卒業制作として描かれた「登校」が初期の代表作の一つとして紹介されています。虎次郎は東京府主催勧業博覧会美術展に2点の作品を出品し「なさけの庭」は1等賞「里の水車」が入選を果たし、「なさけの庭」は宮内省に買い上げられました。
したは、大原美術館で観ることのできない「なさけの庭」「虎次郎の自画像」です。

なさけの庭 自画像

モネと児島虎次郎
睡蓮
 モネは、自宅の庭に日本式庭園をつくるほどの親日家だったそうです。そこで児島虎次郎は、「日本の絵描きのために是非作品を譲って欲しい。」と熱心に頼み、心を動かされかいた絵がこの絵だと言われてます。大原美術館の横掘りに植えられている睡蓮、これはモネの庭の睡蓮の株分けなんですよ。
大原美術館の中庭は、入場料ただ、睡蓮は見放題ですので是非見てください。
いまでは、チボリ公園にも株分けされています。

なさけの庭 自画像