倉敷のメモ | ||
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倉敷のメモ・・・このメモは、 はほとんど引用です。 倉敷は今から約400年前までは、阿知潟と呼ばれる浅い海で、遠く中国山地から流れ出てきた土砂が堆積し、干拓により点在した島々が陸続きになりました。ですから地域によっては、1メートルも庭を掘ると砂地になってしまします。 高梁川の河口では次々と新田開発が進み、温暖な気候は米作農耕に適し、川を伝っての舟運による備中米や綿、菜種など商品作物の集散地となりました。 江戸時代には、幕府領7万石を支配する代官所が置かれ、商業の中心地として繁栄しました。(アイビースケア−の中に面影が残ってますよ。) この倉敷川畔一帯を倉敷市は、昭和44年保存区として美観地区に指定しました。さらに昭和54年には、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定され建造物の保存修理には国や県の補助を受けることができる等の、積極的な対策が講じられてます。 このように倉敷の町並保存は、地域住民の理解と行政の施策のもとに守られています。 倉敷川に映える柳、白壁の土蔵群は、古き良き時代の日本の美しい風景として倉敷の町並みを構成し、訪れる人々の心をとらえてやみません。 大原美術館 1930年に大原孫三郎は、前年に死去した友人で画家の児島虎次郎の業績をたたえて大原美術館を設立しました。ギリシャ神殿風の本館には17世紀以降の巨匠の作品を陳列する日本最初の西洋美術館です。主に欧米の近・現代美術、分館には主に日本人の近・現代美術、工芸館・東洋館には、陶器木版画、染色、古代中国の美術を展示しています。 また、アイビースクエア内にある児島虎次郎記念館では児島の作品とオリエントの美術品を展示していきます。 これは、私個人の考えですが、戦時中、美術品の疎開がされましたが、旧倉敷は空爆されませんでした。 あれだけの戦争の中で、京都、姫路、倉敷と空爆を受けていないんですね、アメリカ軍の余裕だったんでしょうか?それとも美術品や文化財を守ろうとする意図だったんでしょうか・・・・・その中で、文化財等を記したウォーナー・リストが存在し、名所,旧跡が多い街は空爆を受けないという噂があったそうですが、実際には文化財にも空爆があり、その噂はそこに住む人たちの祈りだったにすぎないと記されていました。 今橋 1926年架橋。倉敷町から委託された大原孫三郎が2か月で建築しました。 橋に描かれた龍の絵は、児島虎次郎のデザインです。 ます。 |
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