「ツインソウル」より
飯田史彦著、「ツインソウル」より
P.73、第二章 第三節 “究極の光”と出逢う
《極限まで、まぶしい光との対話》
ふと気づくと、私の前に、ものすごくまぶしい光が、現れてきました。
私は、その光に向かって、問いかけました。
私「あなたは・・・・・・」
その、ものすごくまぶしい光は、ただ、微笑んでいるように感じました。
私「なぜ、あなたは、私をお呼びくださったのですか?」
すると、その“究極の光”は、私に向かって、このように語りかけてくださいました。
光「お前が望んだからだ」
私「私が?」
光「そうだ、お前が、生まれていく前に、望んだではないか」
私「・・・・・・・・・・・・」
困惑する私に向かって“究極の光”は、少し、いたずらっぽい、優しさに満ちた表情で、このように教えてくれました。
光「お前は、“生と死の境界”を通らなかったので、記憶が甦らないだけなのだ」
私「わかりません・・・・・・何でしょうか?」
光「のちに、同志たちに、教えてもらいなさい」
私「同志たち?」
私には理解できないことだらけで、何が何だか、さっぱりわかりませんでした。
光「そうだ、お前の同志たちだ」
私「わかりました」
私には、その時点で、まだ“同志たち”の意味が理解できませんでしたが、なぜか、そのまぶしい光の言葉を、そのまま受け入れることができました。
すると、その光は、真剣な面持ちになって、私に問いかけてきました。
光「充分に、学んできたか?」
その問いに対して、私は、不思議なほど謙虚な気持ちで、こう答えていました。
私「・・・・・・いえ、まだまだ不充分です・・・・・・申し訳ございません・・・・・・」
光「謝ることはない。それでいいのだ・・・・・・学ぶことについては、決して『これで充分』という限界はないのだから」
私「・・・・・・・・・・・・」
光「それでは、充分に、愛してきたか」
私「・・・・・・いえ、それも、まだまだ不充分です・・・・・・すみません・・・・・・」
光「謝ることはない。どうしても謝りたいならば、人生を通じてめぐり逢ってきた、数々の魂たちに謝りなさい」
私「・・・・・・はい・・・・・・」
光「お前については、もうひとつ尋ねるべきことがある・・・・・・充分に、使命を果たしてきたか?」
私「・・・・・・いえ・・・・・・というか・・・・・・はい・・・・・・充分かどうかはわかりませんが、私なりには、精一杯、お役目を果たそうと努力してきたつもりです・・・・・・」
光「それでよい。大切なのは、おまえ自身が、後悔を残すことなく努力したか、ということなのだから」
私「はい・・・・・・ありがとうございます」
光「礼を言う必要はない。礼を言いたければ、自分自身に対して、誇りに思いなさい」
私「・・・・・・はい・・・・・・わかりました」
そして、その言葉どおりに、私が自分自身を誇りに思った瞬間・・・・・・なんと、“光”としての私自身の輝きが、いちだんと増したのです!
そこで、嬉しくなった私は、調子に乗って、次の問いを催促しました。
私「ほかに、ご質問は?」
すると“究極の光”は、微笑みながら答えました。
光「無い」
私「えっ?・・・・・・それだけ・・・・・・ご質問は、たったの三つだけなのですか?」
光「それで、すべてだ」
私「ということは・・・・・・充分に学んだか、充分に愛したか、充分に使命を果たしたか・・・・・・たった、この三つなのですか?」
光「その通りだ」
私「人生を終えてから問われるのは、それだけなのですね?」
光「その三つの問いに、すべてが含まれているからだ」
私「すべてが?」
光「ほかに、何を問えばよい?」
私「・・・・・・たとえば、人間社会で、どれだけ成功したかということも、少しは、価値があるのではありませんか?」
光「人間社会での成功には、価値はない」
私「そこまで言い切ってしまって、良いのでしょうか?・・・・・・表現が、極端すぎるのではありませんか?」
光「かまわない」
私「しかし、すべてのことには価値があると、私はそう信じながら、人間社会で生きてきたのですが・・・・・・」
光「人間社会では価値があるかもしれないが、人間社会での成功が、こちらで問われることはない」
私「もちろん、人間社会での地位や名誉や、お金や財産が、こちらで大きな評価に結びつくとは思いませんが・・・・・・それでも、人間社会の成功を目指してがんばった、その努力にさえも、価値がないとおっしゃるのですか?」
光「無い」
私「しかし、あらゆる努力には、それぞれの価値があるのではありませんか?」
光「価値があるのは、ただ、学ぶ努力、愛する努力、使命を果たす努力・・・・・・この三つの努力だけだ。それ以外は、人として生きる、本来の目的ではない」
私「つまり、ただ純粋に、学ぼうと努力し、愛そうと努力し、使命を果たそうと努力した、その結果として、人間社会での成功がついてくるならば、その成功には価値がある、という理屈なのですね?・・・・・・成功そのものを目的とした努力には、価値はないということなのですね?」
光「そのような、理屈の問題ではない。人間社会での成功は、こちらに戻ってきた際に、すべて取り払われているということだ」
私「たとえ、学ぼうと努力し、愛そうと努力し、使命を果たそうと努力した結果としての成功であっても、こちらの世界では、まったく評価の対象にしていただけないのですか?」
光「こちらの世界で問われるのは、学ぼうと努力したか、愛そうと努力したか、使命を果たそうと努力したか・・・・・・ただ、それだけだ」
私「ということは、人間社会で成功してもしなくても、人生を終えたあとの評価は、まったく同じなのですね?」
光「同じではない。学び、愛し、使命を果たそうと努力したならば、その結果として社会的に成功したかどうかにかかわらず、それは望ましい人生である。
しかし、たとえ人間社会で成功しても、学び、愛し、使命を果たそうと努力したのでなければ、それは望ましくない人生なのだ」
私「・・・・・・・・・・・・」
光「したがって、人間社会での成功そのものは、あらゆる意味において、こちらの世界では、評価対象にならない。
こちらの世界で問われるのは、充分に学んだか、充分に愛したか、充分に使命を果たしたか・・・・・・ただ、それだけだ」
私「しかし、そのような評価システムだと知ってしまうと、人間たちは、社会的成功を目指して努力する気がしなくなり、懸命に働く意欲を失ってしまいます」
光「社会的成功を目指す努力など、必要ない。働く目的も、また、学び、愛し、使命を果たすためだからだ」
私「それならば、人間たちは、何を目標にして、努力すればよいのでしょうか?」
光「学び、愛し、使命を果たすことだ」
私「たった、それだけなのですか?」
光「それだけだ」
私「それでは、ただ、学び、愛し、使命を果たそうとすれば、その結果は、いっさい気にする必要はないと?」
光「こちらの世界に戻る時には、その結果は、いっさい問われない」
私「・・・・・・・・・・・・」
光「空しいか?」
私「・・・・・・・・・・・・」
光「人生における、いかなる成功も、いっさい評価されないことが、空しいか?」
私「・・・・・・・・・・・・」
光「空しければ、そこから学びなさい」
私「?」
光「すべての事象、あらゆる経験は、学びのためにある・・・・・・その空しさから学び、“真の成功”についての答えを求めなさい」
私「真の成功?」
光「成功の意味が変わると、結果の意味も変わってくる」
私「・・・・・・それでは、真の成功とは、社会的成功ではなく、ほかのものであると?」
光「学びなさい・・・・・・愛しなさい・・・・・・そして、気づきなさい・・・・・・」
私「社会的成功ではないとすれば・・・・・・“社会”という言葉の反対は“個人”ですから、たとえば“個人としての成功”でしょうか?」
光「・・・・・・・・・・・・」
私「個人として・・・・・・つまり、ほかの人から評価された結果である“社会的成功”ではなく、自分自身が、個人的に評価した結果としての“自分なりの成功”こそが、真の成功だという意味なのでしょうか?」
光「・・・・・・・・・・・・」
私「自分なりの成功というのは・・・・・・成功の基準や尺度が、他人からの評価ではなく、自分の心の中にある、という意味ですから・・・・・・先ほどのご指摘と合わせて考えれば、
『他人が自分をどのように評価しようとも、自分自身が、学び、愛し、使命を果たそうとして、充分に努力していると自己評価していれば、それこそが真の成功なのだ』、ということでしょうか?」
光「その通りだ」
私「しかし、その場合、自分で自分を評価するわけですから、“充分かどうか”という基準や尺度が、とても主観的になってしまいませんか?・・・・・・
たとえば、自分に対して甘い人は、『まあ、こんなものでいいか』と合格点をつけてしまい、逆に、自分に厳しい人は、『まだまだ、こんな努力では足りないぞ』と、自分を不合格にしてしまうのではありませんか?・・・・・・そんなの、不平等だと思いますが・・・・・・」
光「無用の心配だ」
私「なぜですか?」
光「人生を終え、こちらに戻ってくる時には、誰もがみな同じく、完璧に謙虚になるからだ」
私「つまり、人間として生きていた時に、どんな性格の人であっても、死んだあとには、みな同じ基準で、厳しく自己評価することになると?」
光「お前も、謙虚に自己評価したではないか」
私「確かに・・・・・・自分の学びや愛が不充分であったことを自覚した瞬間、まるで締めつけられるかのように、苦しくなりました・・・・・・この自分が、これほど謙虚になれるのか、と驚くほどに・・・・・・しかも、ごく自然に、ありのままで・・・・・・」
光「そう、どの次元とつながった魂でも、同じように、厳しく自己評価をすることができる・・・・・・なぜなら、みな、宇宙の子だからだ」