萩*津和野*錦帯橋

★ 幕末維新の起爆地で多くの士志が育った町特に吉田松陰
が松下村塾を開講そこで学んだ門下生達が安政の大獄(1859年)で処刑された松蔭の意志
外国に対して弱い幕府に、外国には関わらない天皇を中心とした新しい日本を造ろうと思う尊王攘夷論を継ぎ幕府との対決姿勢を強めその指揮を高杉晋作、木戸孝允(桂小五郎)、伊藤博文、久坂玄瑞、等が討幕運動の先導に立つ。

萩、明治維新胎動の地

松蔭神社

松下村塾

安政四年(1857)吉田松陰(27歳)が実家、杉家の小屋を改造して身分差別無く学べる塾を造る ..この塾で学んだ門下生が尊壌討幕運動に挺身し近代日本(明治維新)の原動力となった。

高杉晋作

幕末の風雲児、久坂玄瑞、共に松下尊塾の双璧と評され騎兵隊を結成し討幕運動の先導に立つ

1852年藩校の明倫館に入学、武術など学びその後松下村塾に入る1862年に品川に建築中のイギリス公使館を尊王攘夷派伊藤博文等同志と焼き討ち。
1868年伊藤博文と共に薩摩行きを命ぜられ小倉方面で戦闘指揮をするが肺結核のため桜山で療養し27歳で死去した。

松下村塾

高杉晋作旧宅

木戸孝允邸中庭

木戸孝允旧邸(桂小五郎)

(1866)年正月、京都薩摩藩邸において、坂本龍馬らの斡旋で薩摩藩士小松帯刀・西郷隆盛らと倒幕の薩長連合密約を結んだ。同3年秋、長州藩を訪問した大久保利通、西郷らと討幕挙兵について協議した

桂小五郎= 木戸孝允(きどたかよし

薩摩藩と長州藩は犬猿の仲であるが討幕の目的の為、薩長同盟を締結させた。

★ 長州藩医・和田昌景の長男として江戸屋横丁に生まれる。
8歳のとき、近隣の長州藩士・桂九郎兵衛の養子となり家督を継ぐ。小五郎はひ弱で目立たない子供だったという

17歳のときに藩校明倫館へ入学した。その師範となっていた吉田松陰と出会い、入門し兵学を学ぶ。ちなみに、小五郎は松下村塾の塾生ではない。
また、柳生新陰流の剣を学ぶ。

またペリー来航の際には、長州藩相川警備として三浦に出動した。
そこで諸外国に対する、幕府の対応を目の当りにし、失望した小五郎は西洋砲術、造船術、蘭学なども学び、来るべき動乱の時代に備えた。

安政五年、その行動が次第に過激さを増し国許に幽閉されていた松陰が老中・間部詮勝暗殺を計画していることを知る。高杉晋作らと共に、引きとめようとした小五郎は、松陰の怒りを買ってしまう。
結局、松陰は安政の大獄で処刑されてしまう。

同年6月、小五郎は江戸藩邸大検使に昇進。江戸で多くの志士たちと交流しながら、長州藩の尊攘派のリーダーへと成長していった。

藩政において次第に重きを成した桂は、長井雅楽が唱える航海遠略策を批判し、重臣・周布政之助を説き藩論を倒幕攘夷へ転向させる



長州藩は京において中央政界を牛耳る存在となっていたが、文久3年「八月十八日の政変」で京都から追放されてしまう。

翌年、小五郎は再上洛し潜伏しつつも藩の失地回復に勤めた。

6月5日、古高捕縛の報を受けた小五郎は、一旦池田屋へ行ったが、まだ同志が集まっていなかった。小五郎はひとまず近くの対馬藩邸へ行った。
新選組が池田屋を襲撃したのは、この間の出来事である。
小五郎は運良く難を逃れた。

★ 維新後、政府高官に成る

7歳の時書いた書

津和野

明倫館

★ 萩の藩校明倫館、水戸藩の弘道館、岡山藩の閑谷と並び日本三大学府と称された、現在は明倫小学校として使用され国の指定史跡に成っている。訪れた時この門の前で新一年生が記念写真を撮っていた。

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チョピリと幕末維新の勉強!””

★ 山陰の小京都  古い武家屋敷や漆喰の土塀、とうり脇の掘割で錦鯉が泳いでいる街。

祭りの鷺舞モニメント

江戸中期家老多胡家表門  武家屋敷門の建築様式が良く解る。

軍医、小説家、森鴎外が11歳まで暮らしていた旧宅 

萩城跡

奥に太い松の木が印象に残る

木造の明倫小学校

掘割の錦コイ

観徳門 嘉永2年(1849)築造

明倫館の遺構

本殿

平成18年4月

伊藤博文は44歳で初代内閣総理大臣に成る4回

大日本帝国憲法制定の中心人物として活躍するなど、明治を代表する政治家となりました。

錦帯橋

1673年岩国藩主吉川広嘉が五連木造橋をつくる1950年にキジア台風流失して三年後に再建され
2002年劣化した部分の架け替え2004年3月に檜の装いで完全修復された長さ193,3m幅5m
高さ6,6mの木組みの技法で造られ日本三大奇矯である

★★ 幕末で活躍した人達の記述は相当の時間を懸けないと語れないのでこの辺で終わります。

ライトアップも素晴らしい

(日本三大奇矯は・日光の神橋・山梨県大月の猿橋・錦帯橋・ 徳島県のカズラ橋も入れたいね

稗田のおじさん

尊皇攘夷(そんのうじょうい、尊攘)とは日本においては、天皇を尊び外圧・外敵・外国を撃退する、という江戸幕末に盛り上がった思想である。

国の存在の根拠としての尊皇(尊王)と、侵略・侵入してくる外国に対抗する攘夷が結びついたもの。「尊王攘夷」とも書き、「王(きみ=天子)を尊び、夷(い=外国人)を攘(はら)う」の意。