今年も、年に一度の春が来た。
俺にとっては、16回目の春。
そして、人生ではおそらく一度きりになるであろう春。
水で濡らして、手ぐしをかけただけの髪をくしゃっとかきあげ、欠伸をかみ殺しながら目の前に立つ看板に目をやる。
『私立多聞学園高校・入学式』
今日から俺が通うことになる高校だ。
小さく溜息をつき、無駄にでかい看板を一瞥しつつ校門をくぐる。桜の花びらが風に舞い、空が桜色に染まる。
「…えらく遅い、“春一番”だな」
誰ともなしに呟く。強い南風が、桜の花を全て散らすかのように吹いていた…。
voice_01:What’s your name?
式までには時間があるってことで、辺りをぶらつくことにする。
満開の桜が、これでもかと言うほどその存在感をアピールしている。
グラウンドに出る。昨日までの雨で湿ってはいるが、隅々まで整備の行き届いたグラウンドだ。
頭に張りついた桜の花びらを振り払い、ふと空を仰ぐ。気が遠くなりそうなほどの青空。
湿り気を帯びた風と、渇いた風が交じり合い、躰を通り過ぎて行く。
「さて、と」
そろそろ時間だ。
俺は、講堂へと足を向けた。
ぼふっ
「うおっ」
突然、背後から衝撃を食らう。何かがぶつかったらしい。
思わず前のめりに倒れそうになるところを、一歩足を出してこらえる。
「…なんなんだ、一体」
振り返る。
しかし、誰もいない。
「あ?」
「もっと下だ、馬鹿」
と、声がする。
「ん?」
視線を落とす。
少女がいた。ぶつかった時に鼻をぶつけたのか痛そうにさすっている。
背の低い…と言うか小柄な少女。多聞学園の制服を着てるところからしてここの生徒なのだろう。
「目の前に出てくるなよ。ぶつかっちゃったじゃない」
涙目になりながら少女が上目遣いに俺を見る。仕方ないと言えば仕方ない。なにせ身長差がざっと20センチ以上ある。
「無茶言うな。つーか俺は最初からここにいただけなんだが」
結果的に俺は少女を見下ろすような格好になる。定まらない目線をどうにか目元に持っていく。
目が合う。黒く輝く瞳。その奥に強い意思のようなものを感じる。光の加減でほんの少し銀色に光る、不思議な瞳だ。
「じゃ、あたしの所為だって言うの? あたしだって急いでたんだからね」
「知らん。おおかた、ロクに前も見んと走ってたんだろーが。ぶつかって当然だ」
「そう言うコト言うかなぁ。あんたがここにいなきゃ、そのまんま突っ走れたんだよあたし」
「俺がここにいたのは俺の意思だ。お前にどうこう言われる筋合いもないと思うが?」
「じゃ、あたしが走ってたのだってあたしの意思だよ。それこそあんたに干渉される筋合いない」
なんつーか……
…不毛だ。
「…不毛ね」
と、意見が合う。
「とりあえず、前方不注意だったのは事実だし。今回はあたしが謝るわ。ゴメン」
ぺこっと、少女が頭を下げる。
とりあえず。ってのが少々引っかかるが、そこでそれを言ってこれ以上話をこじらせても仕方がない。
「…ま、解りゃいいさ。次からは気をつけろよ」
「努力する」
そう言いながら、彼女が微笑んだ…ような気がした。
「…おい。名前、なんてんだ?」
不意に口を突いて出た言葉。きょとん、とした表情で少女が俺を見る。
「なんで聞くの?」
「なんで、って…。ま、なんとなく」
特に理由はない。
「とりあえず、名前知らんと、次からどう呼べばいいか解らんしな」
我ながら正論である。
「此花…此花 舞(このはな・まい)」
「此花…か。ん、憶えた」
多分。
元々、人の名前を憶えるのは苦手だ。でも、なんとなく、こいつの名前は覚えられそうな気がした。
まったくもって、なんとなく、だが。
「…………」
と、視線を感じる。少女…じゃない、此花がじっと俺を見ている。
「何?」
「あんたの名前は?」
「あ?」
「な・ま・え。あたしだけ名乗ってあんただけ名乗らないってのもどーよ」
む、正論だ。
「暁。……暁 拓流(あかつき・たくる)」
俺の名前。どういういきさつで親がこの名前を付けたか知らんが、響きは結構気に入っている。
「…変な名前」
「オイ」
「冗談だよ。…イイ名前だね」
此花が笑顔を見せた。今度は気のせいじゃない。
「あ、ありがとよ」
面と向かって言われると、照れるもんだな。
「…っと、いけね。もうこんな時間かよ」
腕時計の針は既に9時半少し前を指していた。急がないと入学早々遅刻する羽目になっちまう。
「悪りぃ、急ぐ。またな、此花」
反転して駆け出す。と、その俺の横を此花も走る。
「…何やってんだ?」
「あたしもこっちに用があるの」
「中等部なら、向こうだろ?」
「!!!」
と、急に此花が立ち止まる。
「どした。急ぐんじゃないのか?」
「阿ぁぁぁぁぁぁぁぁぁ呆ぉぉぉぉぉぉかぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!!」
全速力のタックルがどてっ腹に突き刺さる。
否、拳が。
「うぉっ!?」
すんでのところで腹筋を固めてダメージを押さえる。何が気に入らないのか、怒髪天の此花。
「あ・た・し・も・高等部!」
「…あ?」
入学式を終える。中学の卒業式の時といい今回といい、やはりお偉いさんの話ってのは長いのが相場らしい。いい迷惑だ。
なんか倒れた奴いたらしいし。とっとと切り上げろよ。
「んっ…」
眠気でぼうっとした頭を振りまわし、無理矢理覚醒させる。
眼前に見えた『1−A』の教室。とりあえず1年世話になる教室だ。
「あ」
「あ」
扉を開けようとしたその手にかぶさるもう一つの手。
その手の主は…
「此花」
「暁…」
どうやら同じクラスらしい。
「一緒のクラスだね。なんか」
「ん、あぁ…」
「……しっかし、ホントに同じ高等部だとは思わんかったな」
「まだ言うかコイツは…。気にしてるんだからね、背低いの」
カツサンドを頬張りながら此花がボヤく。屋上に吹く風が、柔らかく此花の髪を撫ぜていく。
「ま、それも一種の魅力だ。あんまり気にする事ぁないさ」
「フォローのつもり?」
「…どーだろな」
沈黙。
「ね、暁」
「あん?」
唐突に、此花が沈黙を破る。
「なんで、あの時あたしの名前聞いたの?」
「…さぁ。なんでだろーな」
「…真面目に答えてよ」
またも沈黙。
「わっかんねーよ。やっぱり」
今度は俺が沈黙を破る。
「?」
「そーだな…」
「…………」
「興味持ったから…じゃ駄目か?」
そう、単純に。
“此花 舞”という存在に対して、純粋な好奇心を抱いたから。
それ以上でも、それ以下でもないと思う。
…少なくとも、今は。
「ん〜…」
「…………」
「ま、いいか。それで」
あっけらかんと、此花が言う。
「そっか」
素直に頷く俺。
「……暁」
「あ?」
「とりあえず、今後ともよろしく」
やわらかな表情で、此花が言った。
「ん、ああ……」
なんつーか…
読めないな、コイツ……。
桜の花びらが風に舞っていた…。
空はどこまでも青かった…。
春はまだ、始まったばかりだった……。