夕日の中のシルエット

[夕日の中のシルエット]

 今も忘れることなく私の記憶に残っている夕焼けの景色があります。まるで映画の一こまでも見ているような印象

深い景色でした。私が小学生だった頃、牛や馬が農作業にとっては欠かせないものだった頃の話です。耕耘機等と

いうものが普及するずっと前のことでした。馬に鋤を引かせて田畑を耕し、荷車を引かせて荷物を運搬していた、

そんな時代の話です。余談になりますが、私の父方の本家でも農耕と運搬とを兼ねた馬を飼っていました。この馬にも

何度か飼い葉を切ってやったことがあります。この頃、大抵の農家には牛か馬を飼っていました。わけても馬は私達

子供のあこがれの的でした。

 牛も馬も必要のない時には河原に長いロープで繋がれて、一日中草を食んでいました。のどかな田舎の風景でした。

日が西に傾く頃になると飼い主が来て、これらの牛や馬を引いて帰るのが、日々変わらぬ夕暮れ時の景色でした。

 こんなある日の夕方、兄と妹と思われる兄妹が現れて、手慣れた様子で馬の背にまたがったのです。兄は妹を

前に乗せ、自分は妹を両腕で包み込むようにして手綱を握っていました。西に傾いた夕日を背にして堤防の上に

立った姿は誠に凛々しく、そっくりそのまま映画の一シーンになるような眺めでした。

 馬と男の子と小さな女の子が一体となって夕日の中で黒いシルエットにとなって浮かんでいました。男の子はゆっくりと

手綱を返し、馬の首を帰り道の方に向けました。その素振りがごく自然で実に手慣れた様子でした。私はうらやましいと

思う気持も忘れて、彼らが去っていく姿をぼんやりと眺めていました。

 その時の景色は今も私の脳裏に鮮明に焼き付いています。昨今の日本と異なり、全ての時間がゆっくりと流れて

いた時代の事でした。

[葛原茂先生のこと]

 「ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む、ぎんぎんぎらぎら日が沈む♪」、この歌は神辺出身の作詞家葛原茂先生の作られた

歌です。葛原先生は神辺で生まれて、終生、神辺周辺で過ごされた方です。宮城道雄氏(箏曲の演奏者でもあり作曲家

でもあった。有名なのは「春の海」など)や内田百聞氏(岡山県出身の文豪、夏目漱石に師事していた)などとも交流が

あった人です。私の母校でもある神辺小学校の校歌も葛原先生が作詞されていたように記憶しています。

 従って、この歌詞の中の景色は、もちろん神辺で見るごく普通の夕方の景色だったに違いありません。神辺の夕日は

神辺平野の彼方の山並みに沈んでいきます。それは神辺が周囲を山に囲まれた盆地だからです。今でこそ家が建て

込んで平野らしいところは少なくなりましたが、私が子供だった頃、高屋川の堤防に上がって周辺を見渡せば広々とした

田園風景が広がっていました。従って、澄み切った大空から日が西に傾くに連れて赤々と染まり、それはそれは美しい

夕焼けの景色でした。葛原先生も幼い頃からずっとこの景色を眺めて過ごされたに違いありません。

 「真っ赤かっか空の雲、みんなのお顔も真っ赤っか、ぎんぎんぎらぎら日が沈む♪」、カラスが集団でねぐらに帰って

いく頃、遊び疲れた僕らも家路につくのが、変わらぬ日々の繰り返しでした。

[ひとりごと]

 夕焼けの中をカア、カアと鳴き交わしながらカラス達がねぐらに帰っていきます。まだ一歳前の赤ちゃんだった私は、

遊び友達もなく一人ぽつんと疎開先の本家の縁側に立っていました。言葉にならぬ言葉を話し始めたばかりの頃の

事でした。

 そんな私が独り言のように、カラスの鳴き真似をして「カア、カア」と言ったのだそうです。それが形ある言葉になった

最初のことだったようです。よほど印象に残るようなことだったのか、ただ何気なくオウム返しのように口をついて出た

言葉なのかは分かりません。母がつい昨日のことのように思い出しながら話してくれました。

 そんなこともあってか、子供の頃から今日に至るまで、暮れなずむ夕景色は好きな景色の一つです。今日も見た目

にはあまり変わらぬ夕景色ですが、何かしら空気の淀んだ夕景色しか目にすることがなくなってしまいました。あの澄み

切った空一杯の夕景色は、いったいどこに消えてしまったのでしょうか。

 見ていると何となくもの悲しく切ない気持になってくる大夕焼けは、今も私の心の原風景と重なっているように思える

のです。

                                                2002年7月31日修正掲載

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