小学校を卒業し、僕らは晴れて中学生となった。詰め襟の制服を着ると何となく大人になったような気がした。

母が感慨深げに「勝利も詰め襟の制服を着るようになったんだなあ」と言った言葉を今も覚えている。

母にとって見れば、体の弱かった僕が、ここまで成長するとは思っていなかったのだろう。無事に育ったことで余計

感慨深かったのだと思う。母の言葉を聞いて、僕自身も誇らしげに思えた事を今も思い出す。

学校は家のすぐ側にあった。始業のチャイムが鳴り始めて走っても間に合うくらいの距離だった。

学校は神辺高等学校と並んで建っていた。そんな訳だからグランドは隣接していた。

中学校では授業内容も先生も小学校の時とはまるで異なっていた。教科毎に先生は入れ替わった。

担任の先生は赴任してきたばかりの吉岡先生だった。先生は英語の先生だった。大阪外国語大学のロシア語課を

卒業した若い先生だった。先生も生徒もお互いに初対面同士、それでも先生の人間味に接するに連れて、次第に

打ち解けていった。

先生はお寺の住職の息子だった。今は福山市になっているが、当時は加茂町山野というところだった。

後になって聞いた話では、光明寺と言えば有名なお寺だったようで、文豪の獅子文六もこの寺を訪れてエッセイなど

を残しているという。あるいは先生の父上である住職が有名な方だったのかも知れない。

当時、先生と言えば雲の上のような存在だったので、先生の家族関係だとか先生の身の上など、先生が話さない

限り詳しいことは何も分からなかった。

中学校の英語と算数は進学の筆数科目だったので、能力別と言って、AクラスとBクラスとに分かれて授業を受けていた。

僕は英語も数学もあまり得意ではなく、Bクラスだった。Aクラスの顔ぶれを見ると、みんな小学校から優等生だった

ような子ばかりで、何となく自分が惨めだった。クラスの中に、ほのかにあこがれていた子がいた。その子はAクラスの方だった。

僕はその子と同じ教室で勉強できることを願って、Aクラスに入ろうと頑張った。借家の大家さんの息子さんが英語を

教えてくれるというので、仲の良い同級生を誘って教えて貰った事もある。とにかくそんな努力の甲斐あって、まもなく

能力別クラスの編成替えがあった時、何とかAクラスの一員となることが出来た。

英語は初めてであるし、数学は元々得意でなかったので、Aクラス入りしたとはいえ、みんなの後をついていくのがやっとだった。

優等生達は早くから神辺近隣の有名な塾に通っていた。僕も近所の同級生に誘われて、塾通いをすることになった。

先生は学校を定年退職をされた人で、年はとっておられたが威厳のある立派な方だった。この先生について中学校

卒業まで英語と数学を教わった。そんな事もあってか、卒業時には英語も数学も何とか得意な科目になった。

さて話を元に戻そう。吉岡先生は数年前に亡くなられた。一度脳梗塞で倒れられ、リハビリで回復されたそうだが、

二度目に倒れられてからは、ほとんど寝たきりのようであった。たまたま先生が二度目に倒れられた時、久々に

先生の家を訪問した事がある。しかし、とうとうお会いすることは出来なかった。先生の病気の姿を見せたくないと

いう奥さんの配慮であったのかも知れない。従って、僕のイメージの中にある先生は、いつもはつらつとした若々しい

ままの先生の姿である。

先生が中学校に赴任された頃は、日教組の活動が活発な頃であった。卒業生である僕らを大人として、それまで

口にしなかったような学校内部のことを話してくれた。当時、中学校内では若手の先生と管理職である校長先生や

教頭先生達との間で意見が対立していたらしい。そのために、飲み会が大荒れに荒れて、夏目漱石の小説、

「坊ちゃん」の一幕を思わせるような事件があった事を、得意げに話してくれた事がある。

こんな型破りなところのある、まさしく「坊ちゃん」的先生であったが、僕たち生徒の間では大変な人気があった。

夏休みには自分の住んでいる山野に呼び寄せてキャンプを楽しんだり、多感な年齢の僕たちに、大きな影響を

与えてくれた先生だった。僕らは先生達にあだ名を付けていたが、吉岡先生にはふさわしいあだ名がなくて、これ

だけ型破りな先生であったにも関わらず、何もなかったのは不思議である。まだ貧しく、戦後を引きずっているような

時代で、若い先生が多かった学校は素朴で純真な活気にあふれていた。そして先生方と生徒達の絆は深かった。

情熱を持って教えてくれる先生が多く、古きよき時代の教育現場とは、かくあるものと言えるような雰囲気だった。

吉岡先生に叱られた経験も何度かある。全員共同責任となり廊下に座らされ、頭をノートで殴られたり、平手打ちを

食らったこともある。常習の悪の連中は傘箱の上に座らされたり、廊下に立たされたり、そんな事も日常茶飯事だった。

殴られたからといって、家に帰って報告するような事もなかったし、ましてや親たちが暴力を振るったといって怒鳴り

込んで行くような事もなかった。先生達も殴るにしても、制裁にしても、手心を心得ていて、生徒達がけがをするような

な事はなかった。吉岡先生も生徒達が反発した態度を見せるような時などは、わざと牽制して、いつでも挑戦は受け

てやるぞと粋がっていた。もちろん生徒達は、自分たちに非があることを知っていたから、挑戦などするような事はなかった。

先生はテニス部の指導をしていた。残念ながら僕はテニス部には所属していなかったので、部活の思い出はない。

その代わり、家が近かったせいもあって、先生が宿直の日には泊まりに行ったことが何度かある。同級生の幼なじみ

の基ちゃんと同じ天文気象クラブに入っていたので、月食の観測に学校へ泊まり込みで行った。

吉岡先生の宿直の日だった。先生は喜んで宿直室に泊めてくれた。僕らは喜んで先生の横に布団を敷いて潜り込んだ。

何度か起きて観測をし、月が次第に欠けていく様子を記録に取った。月食もほぼ終わり僕らは気がゆるんで寝込んでしまった。

夜中にものの焦げるにおいがして目を覚ますと、電球の傘の上にかけていたタオルが焦げていた。

危うく火災になるところだった。先生と大慌てで消し止めた記憶がある。三人だけの秘密の事件であった。

そんな思い出の多い先生であるが、卒業を前にして個人面談の時、大学への進学を真剣に勧めてくれた事がある。

しかし、僕は家庭の経済状態も良く知っていたし、親父の酒のこともあったので、進学は初めから考えていなかった。

何度も勧めてくれ、お金のことについてもアドバイスをしてくれたのだが、とうとう工業高校へ進学することを貫き通した。

もし、あの時、先生の言葉を聞いて進学の道を選んでいたら、もっと違った人生を歩いていたかも知れない。

工業高校へ進学してみて、僕の進むべき道は工業高校ではなかったと気がついた。

先生はすでにそのことを見抜いていたのかも知れない。自分の人生をふり返って見ることが出来るようになった現在、

自分の過去と先生との心温まる交流の日々が、今も懐かしく思い出されるのである。

先生は三年ほど前に亡くなられた。そして、先生の奥さんも先生の後を追うように、先生の亡くなられた一年後

に亡くなられたと聞いている。一度お墓参りにと思いつつ、いまだ実現していない。心からご冥福をお祈りしたい。

中学校時代をふり返って見る時、一年生と三年生の時の担任であった吉岡先生の思い出を抜きには語れない。

                                            2000年6月26日掲載

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