靖国神社参拝の意味するもの

 私のおじさんはニューギニアで戦死したと聞いています。遺骨は帰ってきませんでした。ニュ

ーギニアは激戦地だと聞きましたが、おじさん達は必ずしも鉄砲で撃たれたりして亡くなったの

ではなさそうです。アメリカ軍の上陸に対し、さしたる抵抗も出来ず敗退したようです。原因は

病気と飢えだったと聞いています。

 小説の舞台は異なりますが大岡昇平氏が書かれた「野火」という小説を一読願えれば状況を

理解して貰えるのではないかと思います。アメリカ軍は、厳しい環境だというニューギニアへ上

陸するために用意周到な準備をしました。武器以外に何が必要かを事前に調査し、上陸する

前にこの地へあらゆるものを準備していました。一方、日本軍はまったくといっていいくらい何も

持ち込んではいませんでした。劣悪な環境の中に裸同然の姿で送り込んだのです。そして、多

くの兵士を送り込んだときには、すでに日本軍の形勢は不利な状況になっていました。わざわざ

この地へ兵士達を送り込んでも勢力を回復する目処は全くなかったのです。

 私の父は満州のノモンハンで戦いました。父の話では二百人中たったの三人しか生き残れな

かったと言うほどの激戦でした。たった一人の陸軍参謀の無謀とも思えるような計画が易々と

軍の上層部を動かし戦端が切って落とされたのです。そのために圧倒的な機動力(戦車など)

を有するソ連軍の前になすすべもなく敗退してしまったのです。多くの若い兵士の命が奪われ

てしまいました。(津本陽著 「八月の砲声」−ノモンハンと辻正信)

 そして、太平洋戦争においても同じようなことを南方の戦線で行ったのです。これを殺人と言

わずして何と言えば良いでしょうか。まるで戦地に棄民するように食料も持たせず兵士を送り込

んだのです。食料の大半は現地調達となっていたようです。私は今年パプアニューギニアのラ

バウルに行きました。蒸し暑い現地はじっとしていても汗が流れてきます。こんなところで兵服を

着て背嚢を背負い重い銃を持っての行軍など出来るものではありません。また、いかに自然が

豊かだとは言いながら多くの兵隊の胃袋を満たすほどのものはありません。おまけにここには

マラリア蚊がいます。予防もせず薬もなくどのように耐えろと言うのでしょうか。こうして多くの兵

士はマラリアと極度な栄養失調で次々に倒れていきました。実はアメリカ軍は何もしなくても勝

てたのです。

 私の母方のおじさんは満蒙開拓団として家族を伴い満州に行きました。しかし、志半ばにして

引き上げてきました。終戦になる前のことでした。終戦になって引き上げていたら一家は離散し

ていたに違いありません。ずっと前に聞いた話では劣悪な環境でおじさん自身が体調を崩した

ということでした。

 満州はご存じのように日本の現地駐留部隊であった関東軍が中国のラストエンペラーであっ

た溥儀を皇帝に立て満州国という傀儡政権をつくりました。これが原因となって日中戦争、太平

洋戦争へと突き進んでいく事になったのです。この満州と国境を接するロシアに対する盾のよう

に辺境の地へ日本人の町をつくらせ、疲弊した国内の農村の次男、三男達を送り込みました。

 冬場はマイナス数十度になるという酷寒の地です。ノモンハンに行った父の話ですと便所の

糞尿も凍ってしまうような寒さだったそうです。従って、銃も直接握るとひっついて離れなくなって

しまうそうです。こんな地に幼い子を伴って行ったのですから広い沃野という宣伝文句に多くの

人達がだまされたのです。

 敗戦間際になって関東軍は多くの住民を置き去りにしたまま引き上げてしまいました。ソ連軍

が戦線を布告し攻めて来るという情報をいち早く知っていたようです。あの毒ガスなど化学兵器

の使用を研究し指導していた七三一部隊などは大慌てで証拠隠滅を図ったと言いますから、

かなり以前からソ連の参戦は分かっていたことではないでしょうか。

 それなら何故、民間人を最優先に引き上げる準備をしなかったのでしょうか。ここでも日本軍

の首脳は棄民行為をしていました。残された人達のその後は語るにはあまりある悲惨な状況

でした。(藤原ていさんが書かれた「流れる星は生きている」を読んでみて下さい)一方、満州に

滞在していた日本兵の多くはソ連に抑留されました。そこもまた酷寒の地シベリアでした。多く

の兵士が故国の土を踏めぬまま飢えと寒さと重労働に苦しみながら亡くなっていきました。

靖国神社参拝は実に罪なこと

小泉さんは意地になって靖国参拝を続けているような気がしてなりません。何で意地になってい

るのでしょうか。お隣の韓国や中国の非難に対抗するためなのか、それとも何か個人的な理由

があってのことなのか。その辺のことは良く分かりませんが、私が今まで書いてきたことを読ん

で貰えば自分の行動が如何に罪な事をしているか良く分かるはずです。先日も当時の首相で

あった近衛文麿氏の曾孫に当たる近衛忠大さんが曾祖父のたどった軌跡を追うというドキュメ

ンタリーがありました。当時の様子が克明に描かれていました。政府関係者はもう一度こういっ

た事実を検証し見据えるべきです。多くの教訓を含んでいます。

 私にはおじさん達やこれら亡くなった人達が国に見捨てられた棄民のように思えます。今、小

泉さんを初め自民党議員の多くが靖国神社参拝で韓国や中国から非難されています。彼らに

は彼らなりの理屈があって行動しているのだと思いますが、この事実にどう答えるのでしょうか。

靖国神社には多くの戦犯と言われている人達が合祀されています。この戦犯という人達は国際

裁判で犯罪者になったと言うだけでなく、日本国民に戦争を強いたという大きな罪を犯した人達

です。特にニューギニアで亡くなったおじさん達の事を考えると絶対に許すわけにはいきません。

多くの日本人を戦争というものの犠牲者にしたのはこの人達なのです。そのことを考えれば靖

国神社参拝が如何に罪なことをしているか良く分かるはずです。

 ここに私が書いてピースボートでの慰霊祭(慰霊祭はパプアニューギニアのラバウルに着く前

に船上で行われました)の前に読んだ文を掲載しておきます。

再び悲しい思いをしないために
                                        2005年1月21日船上にて

 私は昭和19年(1944年)5月4日京都四条河原町で生まれました。当時、京都のように歴史

と伝統のある町でさえ空襲を受けるのではないかと噂され、田舎のあるものは疎開をするように

勧告を受けたそうです。

 父の故郷は広島県の東にある神辺という田舎町でした。ここへ父は母と私を連れて疎開しま

した。しかし、戦時中の事なので仕事もなく、日々の食べ物にも事欠くような状態でした。父は毎

日何キロも山道を歩き遠く離れた農村まで農作業の手伝いに行きました。そして、農家からは

お米やサツマイモなどを貰って帰りました。その食料が戦時中の私達家族の生活を支えました。

 また、神辺の上空を何度もB29というアメリカ軍の爆撃機が通過しました。その度に両親は

幼い私を背にして遠い防空壕まで走ったと話していました。何度かの空襲警報の時、神辺から

遠く離れた福山が爆撃されました。その時には福山方面の空が一晩中赤くなっていたそうです。

福山市には軍事基地(第五師団歩兵第四十一連隊)があったので爆撃を受けたのです。市内

は焼け野が原になり、たくさんの人が亡くなったそうです。そして焼け跡の福山駅からは遠く離

れた芦田川の堤防が見えたそうです。

 戦争が終わっても苦しい生活は変わりませんでした。食べるものがなく、みんな飢えていまし

た。父や母は近くの山や河原の荒れ地に畑を開きました。父は幼い私に弟の面倒を見させな

がら畑を耕していました。その時、弟が川に落ち危うく一命を落としかけた事もありました。

 また、母が幼い私を背負い三重県の実家に帰省した時の事です。母の両親は娘の事を気遣

って両手に余るような食料を持たせてくれました。福山まではやっと帰ってきたのですが、神辺

まで帰る電車がなく、やむなく線路道をとぼとぼと歩いていました。その時、神辺に帰るという男

の人がいて両手の荷物を持ってくれました。その時ほど、人の心の温かさを感じた事はないと

話していました。

 また、京都から神辺に疎開をするときの電車の中での出来事です。父と母はお昼になったの

で持っていた弁当を食べ始めたそうです。周辺の人も同じように弁当を食べていたのに向かい

側に座っていた学生さんは弁当を持っていませんでした。気の毒に思った父と母は少しだけで

すがとおにぎりをあげたそうです。その学生さんは数日間何も食べていなかったそうで、涙を流

しながら何度も何度もお礼を言っていたそうです。

 このように食べるのに事欠くような事は何年も続きました。小学校のお昼休みの事です。昼食

時間になると教室を出ていく子が何人かいました。みんなお弁当を持ってくることが出来ない子

供達でした。また、お正月にはお弁当代わりにお餅を持ってくる子もいました。

 冬になっても履く足袋がないので素足のまま霜焼けだらけの子もたくさんいました。多くの子

供達は運動靴ではなく、下駄や夏と同じゴム草履を履いていました。お風呂に何日も入れない

子もいて首筋が黒くなっていました。

 私達の世代にはお父さんが戦死した子がたくさんいました。高校に入ったとき多くの学生が

奨学金を貰っていました。大多数がお父さんを戦争で亡くした母子家庭の学生でした。中には

お父さんが戦死して家が貧しく牛が飼えないので、自分が牛の変わりに鋤を引いているのだと

話していた同級生もいました。昭和37年頃のことです。多少豊かになったとは言え戦争の後

遺症がまだまだ残っていた頃の事です。

 私のおじさんは結婚後の日も浅く徴兵で南方に出征しました。最後に見かけたという人の話

では、ここニューギニアだったと聞いています。いつかおじさんの霊を弔いたいという思いがや

っと実現しました。ここニューギニアは激戦地だったと聞いています。後方からの支援もなく終

戦間際になって短い一生をこの地で終えてしまいました。自分の故国に帰ってきたのは、たった

一枚の死亡通告だけでした。おじさんのお墓には遺骨はありません。若くして亡くなったおじさん

の胸の内を思うとき悲しくてなりません。

 実のところ、ラバウルでは戦跡地を見るつもりはありませんでした。おじさんの事を思うとあま

りにもつらすぎるからです。しかし、観光コースは他の申込者で一杯でした。これもおじさんの

魂が呼んでいるのだと思い直すことにしました。明日はおじさんが亡くなったであろう戦跡地を

廻り霊を弔ってきたいと思っています。戦死者のみなさんの霊安かれと心から祈っています。

この中で紹介した本

大岡昇平著  「野火」

藤原てい著  「流れる星は生きている」

津本陽著   「八月の砲声」−ノモンハンと辻正信

                                       2005年12月22日掲載

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