山田方谷先生

 先日、テレビで岡山県が生んだ偉大な改革者である「山田方谷」先生の特集をやっていた。岡山県の偉大な

先達でありながら意外に知らない事が多く、改めて先生の素晴らしさを再認識したので感想を書いてみた。

 山田方谷先生は岡山県の山間部(今の高梁市)で生まれた。幼少の頃から神童と言われ、幼くして書いた

書が今も残っている。子供の筆とは思えないような堂々たる筆跡である。長じては備中松山藩に仕え、藩の

財政を立て直し、農民の地位向上に努力した人である。今も先生の遺徳を顕彰し、全国でもただ一つ、駅名に

人の名前を使った伯備線の「方谷駅」がある。

 先生は藩の改革だけでなく、板倉公(備中松山藩主)が幕府の老中になったとき、藩主の補佐役として幕政

にも関与している。明治政府が出来てからも大久保利通から手を貸して欲しいと何度も要請があったようだ。

しかし、先生はそれを断り晩年は大佐町に住まいを移し、地元のために尽くしたと聞いている。

 また、先生が藩政の改革を行っているとき、その噂を聞いた長岡藩の河合継之助が訪ねてきた。そして、

藩政改革の指導を乞うたこともあった。このように先生の名は全国に知れ渡っていたようだ。

 先生の藩政改革は、単に財政の建て直しだけでなく多岐にわたって行われた。その思想や手法は現在でも

十分通用しうるものだと言われている。例えば藩の財政建て直しに特産品を作らせ全国に売り出した。その

一つが、今も使われている三つ目グワである。それまでの平グワでは土に対する抵抗が大きくて無駄な労力

を要していた。それを三つ目グワに改良することにより、耕し易くし労働を軽減した。また、一方では大事な

鉄資源の節約にも繋がった。この改良は、農民のアイディアを採用したものであった。

 また、このクワは備中松山藩の特産品となり大量に売れたので、鉄の生産という地場産業が発展し藩内の

活性化に繋がった。これら特産品は、商人を使って売るのでは利が薄いので江戸屋敷を商社代わりにして

直接販売を行った。つまり生産、流通、販売を藩が一手に行った。また、こうした藩製品は備中ものとして

次々とブランド化していった。

 借金まみれの藩が発行した藩札はまったく信用を失っていた。信用を回復するために、価値の下がった

藩札はすべて回収し、みんなが見ている前で焼き捨てた。その代わり、藩の財政事情が良くなってから藩が

持っている財力に応じた藩札を新たに発行し藩札の信用回復に勤めた。

 形骸化した武士社会を嫌い、農民の中から優秀なものをどしどし登用した。その一つが他の藩に先駆けて

作った農民による民兵組織であった。

 先生は確定的悲観論を嫌い、どれだけ追いつめられようとも必ず解決できる道があるはずだと信じていた。

その考えを健全な楽観論と言うようだが、何かしら行き詰まり感のある今の世に必要だと思われる考え方で

ある。

 先生は常に「義」を説いた。将来に向けてのビジョンを語り、経済活動に関しては信用を第一とし、約束した

ことは必ず履行するように教えた。現代社会に蔓延しているもうけのためになら何をしても構わないと言う

ような風潮に真っ向から反対する考え方であった。

 先生が説かれた「義」を重んじる姿勢の欠落こそ三菱自動車に見られる一連の不祥事であり、色んなところ

で取りざたされている虚偽報告やニセ表示問題などではないだろうか。こんな退廃的な世の風潮を見るに

付け、もう一度、山田方谷先生の思想を学ぶべき時ではないかと考えている。

                                                  2004年8月21日掲載

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