第四十七回ピースボート
地球一周船の旅(3)

旅の楽しさは人との出会い

 旅の楽しさは、何と言ってもそれまで見たことのないような珍しい自然や景色に出会うことで

ある。と言ってもこれだけでは何か物足りない。しかし、短期間の国内旅行では、それ以上の

ことを望むのは無理である。長くて一週間、この間に一人でも親しくなれる人がいたら非常に

幸運である。ましてや旅先での出会いは皆無に等しいと言っても過言ではない。

 その点、ピースボートの旅は長い。そして一つ屋根の下で三カ月以上にわたって起居を共に

するのである。一言の言葉を交わすことがなかったとしても顔を合わせる機会は実に多い。

従って、船を降りる頃には大抵の人が顔見知りになっている。企画団体のピースボートや旅行

会社であるジャパングレースも、人の触れ合いを意識して、出来るだけその機会をたくさん作る

ようにしている。 

 その一つが食事の時間だ。食堂であるトパーズダイニングルームでは一度に四百人近くの

人の食事が出来る。その時には特定の人とばかり座ることがないように気配りしている。私も

この席で顔なじみになった人や言葉を交わした人が実に多い。同年輩の人はもとより、若い人

達とも何度となく楽しい会話を交わす事があった。

 また、オプショナルツアーは大変楽しく、それだけに、うち解けて会話を交わすようになる機会

でもある。また、逆に船の中で親しくなった仲間と一緒に異国の地を旅するのも楽しいもので

ある。開放的な気分になり異国の地で買い物をしたり食事をしたりと、瞬く間に十年来の知己

のようになるから不思議だ。

 私が参加した第四十七回クルーズでは九百人近いお客が乗っていた。一番年輩の男の人

は船上で誕生日を迎え九十五歳になった。最年少はおしめが取れない一年数ヶ月の男の子

だった。この子も船の上で満二歳になった。

それぞれの人生

 九十四歳の男性は岡山県の人だったが実にかくしゃくとした人だった。高等小学校を卒業

するとすぐにフィリピンにマニラ麻を作る労働者として出稼ぎに行き、以来、長くフィリピンに

住んでいた人で、ここで住み込みのボーイなどをしながら小学校、中学校、高等学校の教育を

受け、ついには大学まで卒業した。そして戦後、日本に帰ってから高等学校の英語教師や塾

の英語の先生などをしていた。船上で交わす挨拶も英語であり、いつも天眼鏡と英語の本を

持ち歩いていた。

 又、中には終戦直後の混乱期に満州で両親を亡くし孤児となって、たった一人異国の地で

生きてきた人もいた。中国では看護婦の勉強をし、長く中国の病院に勤めていたようだ。 

その後、日本へ帰る機会があり今住んでいるところへ帰ってきたそうだが、つい最近まで現役

の看護婦(看護士)として勤めていたと話していた。

 今も中国語は自由に話すことが出来るので地元の希望者を募り中国旅行をしているようだ。

中国にもたくさんの友人がいるのだと話していた。語り尽くせないような苦労をしてきた人の

ようであったが、それだけに決して愚痴や弱音を吐かない人だった。

 先の太平洋戦争から今年で六十年になるが、戦争の犠牲になった人は実に多い。その一人

が広島市から単身この船に乗ってきたOさんだった。Oさんは満州に出兵し、そこで終戦を

迎えた。そして、ソ連の侵攻により捕虜となってシベリアに送られた。三年間、酷寒の地シベリア

での地獄のような苦しみを味わった後、解放され故国の土を踏んだ。

 しかし、たどり着いた広島の家はアメリカが落とした原子爆弾のために跡形もなく、親や兄弟

はみんな亡くなっていた。文字どおり天涯孤独の身となってしまった。しかし、持ち前の前向きな

気性から、マツダの系列会社に定年まで勤め、その間、労働条件の改善のため自ら労働組合

の長となって仲間のために尽くしてきた。淡々と自分の身の上話を話してくれたその姿に少しの

暗さも見られなかった。抑留と家族がみんな亡くなってしまうと言う二重の苦しみをどのように

克服してきたのだろうか。人間が持つ逞しい一面をOさんに感じた。

 九十歳近いおばあちゃんは、みんなからハナちゃんと呼ばれ慕われていた。絵が得意な人で、

とても九十歳近い人が描いたとは思えないような力強い色使いが印象的だった。ピースボート

のリピーターのような人で寒さが嫌いだと言って南回りコース専門の人だった。そんなわけで

船上の「のど自慢大会」の常連出場者でもあった。

 この人は三十七歳の時に夫を亡くし、幼い子供を育てながら夫の残した会社を守り発展させ

てきたそうで、小柄な体のどこにそんなバイタリティがあるのかと思わせるような人だった。今は

会社を子供達に譲り自分は悠々自適の生活をしているのだと話していた。今年の冬に出発

する予定のクルーズにも既に申し込んでいるという話を聞いている。

 また、ある婦人は戦後の農村生活を改善すべく活躍した人だった。元は看護婦(看護士)さん

で長野県の保健婦をしていたようだ。その実力を買われて戦後の農村生活を改善するための

指導してきた人だ。

 そして定年後は東京に出て鍼灸師の学校に通い、資格を取って田舎へ帰り今も現役の鍼灸

師として活躍しているとの事だった。船の中でも鍼灸の講座を開き、治療を受けた人もいた

のではないだろうか。帰国後は船上で学んだ事を老人対策に生かしたいのだと話していた。

実に前向きですごい人だった。

 その他、乗っている人達の経歴も様々だった。捕鯨船の船長さんだった人、大学で長く教鞭

を執ってきた人、NGOで開発途上国にいた人、看護士さん、保母さん、学校の先生等々、現役

の人もいれば、私のように定年退職した人もいた。さすがに働き盛りの人は少なかったようだが。

 また中には、夫と一緒に旅をすることが夢だったのに数年前に他界してしまい写真を持って

乗ってきたのだという中年女性もいた。男女を問わず単身で旅行している人の中には、連れ合

いを亡くしたという人も少なくなかった。夫婦揃って旅行するということは、なかなか難しい事の

ようだ。

 フィリピンで下船した夫婦は定年後の人生をフィリピンで過ごすのだと話していた。家も既に

完成しており、港まで、ここでの生活を決断させた友人が迎えに来てくれることになっていると

話していた。家に着いたら早速荷物を解いて、ここでの生活が始まるようだ。まさに人生は

様々であった。

若者達は何かを求めて

 少し若い人達のことも紹介しておこう。多くの若者は学生やサラリーマンだが、勤務先の休暇

だけではとても百二日間には足りない。だからといって休職をさせてくれるような会社は皆無に

等しい。従って、ほとんどの若者は仕事を辞めて船に乗っていた。ピースボートのボランティア

スタッフとして稼いだお金や少しばかりの貯金をはたいて乗ってきたものが大半ではなかった

ろうか。従って、船の中でもアルバイトをしているような若者もいた。

 多くの若者が、今の世の中に何かしら満たされないものを感じているようだった。その何かが

分からないから、とりあえず乗ってみたという若者も少なくないようだ。また、ピースボートスタッフ

や通訳として乗っているCC(コミュニケーションコーディネーターの略)等、語学力の達者な

スタッフは、帰国子女であるとか、長く外国留学をしていたという若者もいたようだ。

 ある女性は、南米のチリやペルーなどで数年間を過ごし、スペイン語のCCとして、この船に

乗っていた。帰国後は自分の故郷で農業をしながらチリやペルーなどの輸入雑貨の店を開く

のだと話していた。見かけとは異なり、とても行動的な女性だった。

 いずれにせよ、このように行動的で優秀な人が多かった。また、ゲットティーチャーという英語

やスペイン語を教える先生達は(むろん外国人ばかりだが)日本の子供達に語学を教える教師

として、地方の市町村で働いていたという人もいた。彼等も又、自国内だけでなく、広く世界を

股に掛けて活躍している人達だ。

 九百人もいれば色んな悩みを持った人や病気の人も多かった。手術後の不安を抱えながら

船に乗った人もいた。中には船の上での活動が過ぎてドクターストップがかかった人もいたが、

船上での気分転換が良かったのか、明るく逞しくなって船を降りた人もたくさんいた。

 一方、心に傷を負った若者も少なくなかった。家庭や勤務先でのストレスが原因となり自らを

追いつめたり体に傷を付けることで心の苦しみと闘っている人など、現代の社会が抱えている

複雑な一面を反映させていた。

 果たして彼女や彼等は百二日にも及ぶ船の生活の中で立ち直ることが出来たのだろうか。

外見的には何の悩みもないように見える若者達ではあったが、実にナイーブな一面を持って

いた。そして、まじめな若者が多いのも、この船に乗って初めて感じたことであった。何かを

見つけたい、何か将来に向けての足がかりをつかみたい、そんな思いの若者が多かったの

ではないだろうか。

 反面、おじさん達の中には、ひんしゅくを買うような言動の人も少なくなかった。若い女性を

性的な対象としか見ていないような人もいて、この種の話に疎かった私達夫婦にも色んな噂話

が耳に入ってきた。また、旅先でおじさんの誘いに乗って、おじさんの部屋に平気で出入りする

ような女の子もいたようだ。

 また、親しさを通り越して無遠慮な言葉が原因で喧嘩をするような人もいた。こんな船の中で

までと思うのだが、こんな諍いがあるのも人間社会ならではの事であった。

 船は一人部屋、二人部屋、三、四人部屋に分かれていた。二人部屋は大抵が夫婦の部屋、

そして三、四人部屋は単身でこの船に乗ってきた人達の相部屋だ。これらの部屋は年格好が

似ている人達を集めていたようだが、船に乗る前はまったくの見ず知らずのあかの他人だ。

 従って、みんなが仲良くしないと長い船旅は楽しくない。若い人達同士はお互いに遠慮し合って

仲良くしていたようだが、中年女性達の中には無遠慮な人やあからさまに嫌がらせをするような

人もいて、気まずくなった部屋もあったようだ。そんなわけで、船旅の途中で部屋を替えて貰った

という人もいたようだ。

 船旅でひとたび人間関係がまずくなると、旅はその時からいやなものになってしまう。昔の人

が言ったように「旅は道連れ、世は情け」の心でなければならないと思う。書けば幾らでも人との

触れ合いはあったのだが、際限がないのでこの辺にしておこう。

自然との出会いと航海日記

 さて、シリーズ三回目の締めくくりは自然との触れ合いを紹介しておきたい。先の旅行記にも

何度か書いてきたが、船旅は自然を直接、体で感じながらの旅である。船上を吹き抜けていく

風、ぎらぎらと照りつける太陽、水平線の彼方から登ってくる朝日、空を真っ赤に染めて沈んで

いく夕日、満天の星空。これらは飛行機の旅では味わえない船旅ならではのものである。時速

三十キロというスピードは人間の感覚に合っている。時間がゆっくりと流れていく。そして、何より

も広大な海は筆舌に尽くしがたいほどの美しさであった。

フィリピンからベトナムへ

 私達は地球一周の旅を通して七つの海を走り抜けた。東京港を出て日本列島沿いに南下し、

沖縄の南大東島沖を通過した。この海域は黒潮と呼ばれているだけに、まさに漆黒に近い

ような黒い海だった。その色もフィリピンのルソン島に近づくに連れ、次第に明るいブルーへと

変化していった。

 そして、ベトナムの陸地が見え始めた頃から緑がかった色へと変化した。これはメコンデルタ

の色でもあった。海にはメコン川から流れて来る大量の黄土色の水が混じり、海水のブルーを

淡いグリーンに変えていたのだ。メコンデルタでは広大なマングローブが早朝の薄明かりの中

に広がっていた。そして何となく生臭い臭気が漂っていた。ベトナム第一日目の夜明けの入港

シーンだった。

シンガポールからセイシェル諸島へ

 そしてシンガポール入港時には遠く離れたところからも高層ビル群が見えていた。港が近づく

に連れ、高層建築は圧倒的な迫力で迫ってきた。一方、岸を縁取っている植物は南の国を感じ

させるものばかりだった。ここシンガポールは近代的な都市でありながら赤道に非常に近い常夏

の国だった。デッキで感じる風もなんとなく湿気を含んでいてムッとするような生暖かさを感じ

させるものだった。

 シンガポールを出るとマラッカ海峡を通った。この海域では海賊が出ると噂されていたが何事

もなく通過した。マラッカ海峡は非常に狭い水路だ。この海域は陸地が近いからであろうか、

ベトナム沖で見たように少し緑がかったような色をしていた。肉眼でも見えるほど近い陸地は

マレー半島であろうか。海岸には五、六階建てのマンションかホテルのような建物が幾つか

見えていた。

 この海域を抜けると海は一気に広がる。いよいよインド洋だ。ここら当たりから海水は独特の

色合いを見せ始める。水面を盛んにトビウオが飛散していく。濃いブルー、それだけでは適切

な表現とは言えない。瑠璃色、そう瑠璃色をもっと濃くした透明感のある色、どう言い表して

みても適切な表現が見当たらない。そして、水面が幾本もの筋となって揺らいでいる。細い

薄青色の襞が水面を流れていく。どうやら海面の光りとさざ波がその下の水に影を作っている

ようだ。強烈な太陽の光りと澄んだ海水が作り出す不思議な世界だ。いつまで見ていても見飽

きる事がない。じっと見ていると、このまま海の底へ引き込まれていくような感じさえしてくる。

きっと、この海の底には美しい竜宮城があるに違いない。

 一週間近くの長い船旅の後、着いたのはセイシェル諸島だった。「インド洋の真珠」と言われ

ている小さな島の集まりだ。珊瑚礁が砕けて砂となった海岸は淡いブルーに縁取られていた。

一方、山には南国特有の植物が生い茂り、緑豊かな島だった。

 早朝から泳ぎ始めた海は時間と伴に変化して、同じ青色なのに岸から沖合まで少しずつ変化

していた。「インド洋の真珠」と言われているのは、この海岸の美しさ故ではないだろうか。

いよいよアフリカ大陸

 ここを後にすると、いよいよアフリカ大陸だ。船はケニアのモンバサ港に入港した。古くから

アラビア貿易で栄えた古い港町だ。早朝の港周辺は活気が溢れていた。あれは通学や通勤客

を運ぶフェリーだろうか。小さな船着き場には黒い肌をした人達が列を作っていた。

 船は両岸の見慣れない植物や建物を間近に見ながら狭い水路を入っていった。私達はデッキ

で朝食を取りながら、両岸に展開する景色を眺めていた。遠くに見える木々の向こうには広大

なサバンナが広がっていることを想像すると心躍るような入港時の景色だった。

 時には海も荒れる事がある。南アフリカに向かう途中、海は大きくうねり荒れた。ここは有名

な海の難所だった。幾多の探検家達が、この海を乗り越えることが出来なくて航海をあきらめた

海域だった。

 しかし、ここを抜けると素晴らしい景色が目の前に広がった。古くからの貿易港であるアフリカ

最南端の港町ケープタウンだ。港の背後には港を取り囲むように岩壁が立ちはだかっていた。

これが有名なテーブルマウンテンだ。港の入り口から見ると山を中腹で切り取ったように平らな

山頂が見えていた。美しく洗練された港町で近代的な建物がたくさん建ち並んでいた。ホテルや

ショッピングセンターなどだ。

 ケープタウンはアパルトヘイト時代の後遺症であるエイズや貧困と言った難問をたくさん抱え

ながら、一方では長く白人が支配してきたヨーロッパ的な町であった。(十年前にアパルトヘイト

政策はなくなった)

 町の中には緑が多く、植物公園にはプロテアという、この地方でしか見られないような種類の

美しい花が咲いていた。

 南緯三十五度近くだというケープタウンの日暮れは遅かった。港を出たのはかなり遅い時間

だったが、まるで絵はがきでも見ているような美しさだった。私達は出港時、デッキの上で遠ざ

かるケープタウンをいつまでも眺めていた。

 その後、船はケープポイント沖を通過してアフリカ大陸西海岸を北上した。「あれは蜃気楼

だろうか」と思わせるような長い長い砂丘が陽炎の向こうに見えていた。砂丘の下を走って

いるのは自動車のようだ。

 海にはオットセイが何頭も泳いでいた。沖で漁をしている漁船の周辺を囲んでいるのはイルカ

のようだ。ベンゲラ寒流が北上し漁業資源の豊富なこの海域は決してきれいな水の色では

なかった。それだけに魚の餌になるプランクトンが多いのではないだろうか。私達の船が着岸

する直前まで一頭のオットセイが遊んでいた。

 港の周辺は小さな町だった。まるでおとぎ話にでも出てくるような色鮮やかな民家が多かった。

庭には美しい花が咲いていた。その小さな町の向こうには広大な砂丘と砂漠があった。

 ここはめったに雨の降らない砂漠の国、ナミビアだった。ここにしかないという世界的にも

珍しい植物を有するナビブ砂漠が砂丘の向こうに広がっていた。

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