第四十七回ピースボート
地球一周船の旅(1)

説明会から旅立ちの日まで

 皆さんから「以前から計画されていたのですか」と聞かれます。私達が以前から用意周到に

計画を立てていたのではないかと思っておられるのではないでしょうか。そんな時、正直返事

に困ってしまいます。と言いますのも、ピースボートから一度パンフレットを貰っただけで船に

関することはまったく知りませんでした。また、船による旅行など自分とはおおよそ関係のない

夢物語のように思っていました。

 ところが、退職前のある日、突然、旅行会社ジャパングレースから電話がありました。五月に

岡山で説明会を開くから来てみないかという誘いでした。まあ聞いてみるくらいならと思い会場

へ出向きました。その時、私達への勧誘担当が倉敷出身のG君でした。彼の言葉巧みな誘い

に負けてとりあえず仮申込みをしました。

 この後、私の定年退職やら雇用保険の受給手続きや厚生年金の受給手続きなどと雑用に

追われ、あっという間に二、三ヵ月が過ぎてしまいました。この間、旅行代金の支払日があり、

いつの間にか出発の日は来てしまいました。

 私達は旅立つ直前まで行こうか行くまいかと迷っていました。私にも家内にも老いた母が

いたからです。一方、行くなら今しかないという思いもありました。この機を逃してしまうと私達

自身が行けるかどうか分からないと言う思いがあったからです。

 両方の母親に思い切って相談してみたところ、意外にあっさりと「そりゃあ行って来りゃあええ

が。ええチャンスじゃが。うちらんことは心配せんでもええ」という返事でした。こんな訳で夢物語

は突然現実のものになってしまいました。

 船に乗ってみて分かったことですが、私達のようにピースボートの事を何も知らずに乗った

ものは数少なく、何よりも予想外だったのは船の中の行事が多彩だったことです。

 今回のお客さんは九百人近くの大人数でした。その内の四十パーセント近くが若者でした。

さすがに働き盛りの人は少なく、私達以上の年齢の人が三十パーセント近くを占めていました。

乗船客は親世代とその孫や子供世代というように大きく別れていました。

 この船はNGOであるピースボートが企画運営をしています。その活動内容は社会問題や

環境問題、政治問題など多岐にわたっています。そして世界を回りながら各国のNGO団体と

交流をしています。若者の多くはこの交流が目的で船に乗っていました。ですから船内でも

こうした事に関する企画がたくさんありました。

 また、お客さんの中には日本にいたときから日本各地にあるピースボートセンターでボラン

ティア活動を行い、その見返りとしてアルバイト代を貰っていました。そのお金は現金で受け

取るわけではなく積み立てて旅行代金の一部になるというシステムでした。この制度は若者達

だけのものではなく私達の世代のように退職後の人も大勢利用していました。ですから東京や

大阪周辺の人の中には船に乗る前からの顔見知りも多く、お互いに気心が通じた仲間のよう

でした。

 中高年者の中には二度も三度も乗っているという人もいて、この人達は船のことを良く知って

いました。そんな訳で私達のように何も知らずに乗ったものは少なかったようです。

旅は始まった

 船は東京晴海埠頭から出発しました。私達の前の四十六回クルーズが悪天候のために

日本への帰港が遅れたのです。本来なら神戸港から乗る予定でしたが神戸港へ一度集合し、

東京までバスで移動しました。おりもおり台風二十三号が接近しているときでした。私達は

神戸港への集合が間に合わなかったらいけないと思い、神戸に住んでいる娘のところに二泊

しました。

 こうして予備知識のないままに乗船し、私達の旅が始まったのです。出発は十月二十二日

の夕方でした。これから三ヶ月余の旅が始まるのかと思うと、小さくなっていく東京の明かりを

見ながら心細さを感じました。また、船の行く手には台風二十四号が待ちかまえていました。

 私達の船内生活の第一日目は朝のラジオ体操から始まりました。また、毎日の行事はテレビ

やラジオの番組のように船内新聞に書かれていました。船内新聞は出発直後から下船直前

まで休むことなく発行されました。これは新聞局というボランティアの若者達が作っていました。

最初の訪問国(フィリピン)

 最初の寄港地はフィリピンのスービック港でした。私にとっては初めての訪問国でした。オプ

ショナルツアーでピナツボ火山による被災地の見学を選んでいました。すでに十年以上前の

事で被災当時とは様子が異なっていました。しかし、膨大な火山灰は今もなお人々の帰郷を

拒んでいました。

 また、火山灰が押し流され建物半分が埋まってしまったキリスト教会では子供達がレイを

準備して私達を迎えてくれました。私達が着いたときには既に暗くなりかけていました。予定

時間を大幅にオーバーしていました。待ちくたぶれていたのではないでしょうか。それにも関わ

らず賛美歌を歌って歓迎してくれました。おまけにこの日、誕生日を迎えた人には余分にレイ

をかけてハッピバースディを歌い祝ってくれました。心温まる歓迎でした。

二番目の訪問国(ベトナム)

 また、次の寄港地はベトナムでしたが、ここでは大勢の若者が早朝から船が着くのを待って

いてくれました。若い女性達のお揃いの色鮮やかな青のアオザイがとても印象的でした。

 ベトナムは社会主義国ですが中国と同じようにドイモイという開放経済政策をとっています。

従って、この国の国民性もあって、とても活気に満ちていました。反面、所得格差も広がって

いるようでした。バイクが主要な乗り物であり、その数の多さには驚きました。

 ベトナムはアメリカとの戦争で勝利した国です。それだけに自信に満ちた国のように見え

ました。しかし、戦争の後遺症は今もなお、この国に暗い影を落としていました。三百万人とも

言われる枯れ葉剤の被害者がいるのです。枯れ葉剤は猛毒だと言われているダイオキシン

を大量に含んだ除草剤です。これが原因で多くの奇形児が生まれているのです。ホルマリン

漬けにされた奇形児の姿を見たときには思わず目を背けてしまいました。また、発ガン率が

非常に高く多くの患者が発生し続けています。

 そんなベトナムですが何よりも心癒されたのは緑溢れる森林やマングローブの林を見たとき

でした。一時はナパーム弾や枯れ葉剤によって破壊し尽くされた森や林が人々の植林によって

見事に蘇っていました。広大なマングローブの林がメコン川の下流に大きく広がっていました。

 次は経済的躍進を続けているシンガポールでした。赤道直下の国の中では裕福で超近代的

な国でした。資源のない小さな国ですが人間の知恵を駆使し、世界有数の経済大国に発展して

います。

 私達は先にインド洋大津波で大きな犠牲者を出したスマトラ島沖を航行し、アフリカ大陸を

目指しました。

美しい南国の島国(セイシェル)

 その前にセイシェル諸島に立ち寄りました。以前はここも植民地でしたが今は独立国になって

います。日本からの直通便があった頃は新婚旅行のメッカと言われたところです。

 島の周辺は珊瑚礁で囲まれていました。珊瑚礁の内側にある白い砂浜は小さく砕けた珊瑚

で出来ていました。ここに日が射すと海は色んな色に変化します。とても言葉では言い表せない

くらい美しい海岸でした。また、島内には一年を通じて美しい花が咲き乱れています。

動物王国(ケニア)

 セイシェルの次にはケニアに立ち寄りました。ケニアはお隣のタンザニアと共に動物王国と

言われている国です。私達は船を降りると小さな飛行機でマサイマラ自然保護区に向かい

ました。マサイマラではとても滑走路とは言えないようなところへ着陸しました。実は飛行場

自体が野生動物の生息地のど真ん中にあったのです。

 ここから出迎えてくれたサファリカーで移動しました。空港から少し行くとヌーの大群に出会い

ました。列を作って移動するところでした。記録映画のシーンそのままでした。こうして二日間、

いやと言うほど野生動物たちを見ました。

 何よりも感動的だったのは大草原を吹き抜けていく風の爽やかさと地平線に沈んでいく夕日

でした。夕焼けの中にサバンナ特有のニレの木が黒いシルエットになっていました。周辺は

物音ひとつせず、とても幻想的な眺めでした。遠く日本を離れて、この地にいることが不思議

に思えました。

 草原は雨期でした。従って、多くの動物たちが繁殖のシーズンで子連れの動物が多かった

のも嬉しい事でした。生後二週間だというライオンの赤ちゃんはまるでぬいぐるみのようでした。

 しかし、自然の美しさとは裏腹に人間世界では貧困のために犯罪が絶えないようです。多くの

地下資源を有しながら長く植民地であったがゆえに今もなお自立の道は厳しいようでした。

しかし、貧しいながらも子供達の顔には暗さはありませんでした。マサイ族の子供達の目は

きらきらと輝いていました。この美しく澄んだ目は何を見て何を考えているのでしょうか。豊かな

国、日本の子供達には感じられない生き生きとした表情でした。

豊かさと貧しさが同居する国(南アフリカ)

 次の訪問国は南アフリカでした。十年ほど前に黒人指導者のネルソン・マンデラさんが大統領

になるまではアパルトヘイトという人種隔離政策が行われていました。世界中から批判され、

経済封鎖にたまりかねて黒人を解放しました。しかし、ケープタウンの郊外には今もなお貧困

層のバラック建てがたくさんありました。また、貧困がエイズを作りエイズが貧困に拍車をかけて

いるようでした。

 一方、貧困とは無関係のように市内は美しく整備され緑多い美しい町でした。ケープタウンの

象徴は何と言ってもテーブルマウンテンです。頂上が平たく台形状の山は見るものの目を引き

つけます。

 翌朝は喜望峰やケープポイントに行きました。かつてマゼランが航行したという海に面した

ところです。周辺は南アフリカ固有の植物が群生しているところです。この一帯は世界遺産に

指定されたばかりでした。

砂漠の国(ナミビア)

 変わった植物があるところと言えば南アメリカの次に訪問したナミビアでした。ここには海に

面し幾重にも折り重なった砂丘がありました。そして砂丘の奥には広大な砂漠地帯がありま

した。その砂漠には滅多に雨が降らないらしく、植物はわずかな水でも生きていけるように

特殊な進化をしたようです。

 その中でも特に目を引くのは日本名を「奇想天外」という植物でした。松の遠縁に当たる植物

だそうですが、外見だけですと、とてもそうは見えませんでした。たった二枚の葉が伸び続け、

のたうつように地面を這っていました。

情熱の国(ブラジル)

 私達はアフリカの動物や植物、そして変わった地形を見た後、大西洋を横断し南アメリカの

ブラジルに着きました。ここブラジルのリオデジャネイロはサンバカーニバルで有名なところ

です。それと同時に犯罪が多いところだそうです。  ここには貧民街があって、そこの住民達

は麻薬や犯罪に走るものが少なくないようです。私達旅行者の中にも被害にあった人がいました。

 リオの町の中にコルコバードという丘があります。この頂上には大きなキリスト像が立って

います。絵はがきなどでも良く知られているリオのシンボル的な存在です。

タンゴの国(アルゼンチン)

 リオデジャネイロの次にはアルゼンチンに行きました。ラプラタ川という対岸の見えない巨大

な河をさかのぼったところにブエノスアイレスはありました。ここアルゼンチンはスペインの植民

地だったところで、国民の多くが白人の血を引く人達です。その関係もあってかアルゼンチン

タンゴという情熱的な踊りでも有名です。

 三、四年前には国の財政が破綻するという大きな経済危機があったばかりです。今は少し

落ち着いていますが、そのためか治安が悪いようでした。

 市内には公園や街路樹が多く、まるでヨーロッパの町を思わせるような建物がたくさんあり

ました。また、郊外には大きな牧場や農場があり、この地がパンパと呼ばれうる大草原であった

事を容易に想像させるような、山一つ見えない広大な景色が広がっていました。

南米最南端の地(ウスアイア)

 ブエノスアイレスを後にして南米最南端のウスアイアというところに行きました。南極に近い

非常に美しい町でした。亜南極気候という環境にあり、周辺の切り立った山には白い雪が

残っていました。また、寒さのためか植物も限られた品種しかないとの事でした。

 私達は苔が腐ることなく積み重なった泥炭層の上を歩くパタゴニアトレッキングに行きました。

泥炭層は十数メートルもあるとのことで歩くとふわふわしました。切り立った山の麓には雪解

水を満々と湛えた美しい湖がありました。エスメラルダ湖(スペイン語のエメラルド)という湖

でした。この美しい湖の畔でポーター達数人が運んでくれた贅沢な昼食をしました。ワインも

準備されていました。

 南米大陸最後の寄港地はチリのバルパライソでした。この町は世界でも有数の美しい町

だと言うことで世界遺産に指定されています。

 私達はここから貸し切りバスでチリの首都サンチャゴに向かいました。サンチャゴは谷底の

ようなところにある町だとのことで公害がひどく山頂から見下ろす景色はスモッグでぼんやり

煙っていました。

 チリは南アフリカと同じようにワインの産地でした。サンチャゴ郊外のワイナリーを訪ねワイン

のテイスティングを経験しました。そんな訳で南アに引き続いてまた土産用のワインが増えて

しまいました。

神秘の島(チリのイースター島)

 チリを出ると太平洋を航行しモアイ像で有名なイースター島に向かいました。この島は多くの

謎を秘めた島です。記録が残っていないので余計に謎多き島になっているようです。

 その神秘性を更に高めているのが、この島の周辺の海や空の美しさです。海と空は渾然

一体となって蒼く澄んでいました。この島は火山島で死火山がたくさんありました。かつて島

全体を覆っていたと言われている木はほとんどなく裸の島でした。

南国の楽園(タヒチ)とオセアニアの国々(ニュージーランドとオーストラリア)

 次に訪問したのは美しさでは世界有数のタヒチでした。私達は、かの有名な画家ゴーギャン

が最も愛したというモーレア島に一泊旅行に行きました。

 島の人達は今でも裸足で歩いていました。ここの美しい海岸にあるホテルで一晩過ごしました。

島の周辺を珊瑚礁が取り囲み色とりどりの熱帯魚が間近に群れていました。食べ残しのパン

をちぎって差し出すと恐れ気もなく食べに寄ってきました。ほんとうに夢のような二日間でした。

 タヒチの次はニュージーランドでした。私達はオーバーラウンドツアーという四泊五日の旅に

出ました。行き先は南島の方でした。ここにはクライストチャーチ市という倉敷市と姉妹縁組を

している美しい町があります。市内には湧水だという清流があり、その川の畔にモナベールと

いう美しい庭園がありました。

 そして何よりも素晴らしかったのは雄大な大自然に接する事が出来たことです。西海岸の

牧場や農場の穏やかな景色、東海岸の氷河や切り立った雪山、そして世界遺産だという太古

以来の植物が群生する山と滝等でした。

 そしてオーストラリアに立ち寄り、最後の寄港地はラバウルでした。ここは旧日本軍が占領

していたところで戦跡地を訪ねました。蒸し暑い熱帯のこの地で多くの兵士が飢えと病気に

苦しみながら死んでいったところです。私の叔父もここで戦死しました。旅行中、叔父の冥福を

祈りました。また、船上では亡くなった人の追悼式が行われました。

 以上が私達の旅行の概略です。さしたる感想を交えずに書いてみました。十四カ国十六カ所

の事を書くにはページが少なく、船上での生活やこの旅行を通じての感想は次回に譲らせて

いただきました。

 今回の旅行を通じて良かったことは、長くあこがれの地であったアフリカや南アメリカの色んな

国を訪問することが出来たこと、また、イースター島やタヒチなど有名な島を訪問することが

出来たことです。私達が訪問した国々の多くが雨期でした。それにも関わらずパーフェクトに

上天気でした。お天気まで私達の旅行を歓迎してくれたようでした。

船の上は楽しさいっぱい

 しかし、それ以上に良い思となったのは多くの人との出会いでした。私達より年輩者の中には

太平洋戦争前後の想像を絶するような経験をされた方が少なくありませんでした。

 また、若い人達は運動会を初めとする色んな行事を計画し私達みんなを楽しませてくれました。

彼ら自身が言っていたように、何も出来ないと思い込んでいた自分にもこんな力があったのだと

自信が持てたようです。

 こうした若者達と一緒になって私達夫婦は色んな事をやってきました。それは三十数年前、

平和友好祭などで自分たち自らがやってきた事と同じような事でしたから何の抵抗もなく彼らの

中に飛び込んでいけたような気がします。

 そんな彼らからは船上のお父さん、お母さんと慕われました。そして、彼らの良き相談相手

でもありました。

 この旅行を振り替えって感じることは、自ら望んだ旅ではなく、また、何も知らずに乗った船

でしたが、何かしらあらかじめ準備されていた旅だったような気がしてなりません。

 そして、職を離れた私達夫婦の新しい人生の第一歩が始まったような気がしています。新しい

人生の始まりは日本全国に点在する新しい友人達との再会です。(一部の人は外国にいます)

既に、その再会はこの三月から始まりました。これからが大変楽しみです。

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