一路日本へその2

2005年1月27日(木)

 今日も何かしら忙しい一日であった。朝食をいつものようにヨットクラブで済ませ一度部屋に

戻った。ここのところ少しでも時間があれば帰り支度や写真の整理を行っていた。

 今日は47回クルーズのビデオテープを販売していた。そのテープは旅行や船内の各種行事

などをコンパクトに収録したものであった。価格が4000円と少し高いので買うのをやめた。一

時間ほどのテープだとの事だった。この日は45回クルーズの映像をデモテープとして放映して

いた。

 十時から明後日の卒業式のリハーサルがあった。大きな船内行事や旅行についてそれぞれ

の代表が一言ずつ発言するようになっていた。私は紅白歌合戦に参加したのでその代表として

発言する事になっていた。会場はブロードウエイショーラウンジの舞台側を後ろにして、後方の

一段高いところを舞台として使うような配置になっていた。なかなか良いアイディアだった。

 リハーサルは約一時間くらいで終わった。その後、マジッククラブの主催者であったK.Sさん

とD.Sさんへの感謝のプレゼントを贈るため大急ぎでTクラブへ行ってみた。既に午前十一時

を少し過ぎていて終わっていた。大変申し訳ないことをしてしまった。

 午後は少し時間があったので昼食後、再び写真の整理を行った。何しろCDにして十五枚にも

なるような膨大な写真の数だった。それだけに整理と言っても容易なことではなかった。

 午後の十五時四十五分からは「しゃべれ場きけ場」の最後だった。ファイナル企画としてこの

船に乗った動機や乗ってみての感想を話してみようという事になっていた。大勢の人が来てくれ

る事を期待していたのだが、来てくれたのは我々主催者側を除くと十人を切るような状態だった。

裏番組に、これもファイナル企画であった、この航海のクルーズディレクターであるN.Iさんに聞

くという「おしゃべり関係」があった。そのため多くの人は、そちらの方へ行ってしまった。参加者

が少なかったこともあって来てくれた全員の話を聞くことが出来た。

 それぞれに色んな思いを抱いてこの船に乗り色んな事を感じたようだ。中には環境のことに

関連してピースボートとして使っているトパーズ号は燃料のエネルギー効率が悪く、黒煙を吐き

環境を汚しているのではないかとか、自分たち夫婦は外国生活が長く日本人社会にとけ込める

だろうかと試験的にこの船に乗ってみたとか色んな話があった。

 私自身の感想は、どんな事をしている船なのか何も知らずに乗って、あこがれの地であった

タヒチやイースター島へ行った事、船内企画や色んな行事を通じて多くの人と出会ったこと、今

まで記事としてホームページへ書いてきたことが大きく的をはずれていなかった事が確認できた

ことなど得たものは大きかった。何かしら私の人生の集大成として、あらかじめ準備されていた

船にすんなりと飛び乗ったような気がしていた。ともかく、感謝の気持ちで一杯だった。

 この後、私達はY.Iと一緒に夕食へ行った。その後、一度部屋へ戻り「しゃべれ場きけ場」の

打ち上げまで一眠りした。家内は写真の整理をしていた。打ち上げは十時過ぎから始まった。

ここのところ、船内のバーや酒場はどこも人でいっぱいだった。私達はスポーツバーに行った。

私達が飲み始めて間もなくスライドショーが始まった。この船に乗船してからの行事を収録した

ものだった。しばらくこれを見て全部見ていると遅くなりそうだったので先に失礼した。明日はい

よいよ下船のための説明会だった。

2005年1月28日(金)

 いよいよ下船の日が近づいた。船外の気温も少しずつ下がっているようだ。今日は十五時か

ら神戸下船者を対象にした説明会があった。会場に集まった人達の顔ぶれを見ると、こんな人

もいたのかと、乗船前の知り合いが誰もいなかった日のことを思い出していた。

 あの日(十月二十一日)、私達は神戸港から乗船するようになっていたが、前のクルージング

の着岸日が一日遅れたので東京の晴海埠頭まで移動しなくてはならなかった。一度神戸港に

集まりバスを何台も連ねて東京まで移動したのだった。その時、一緒だった人達が今日ここに

集まっていた。今は、ほとんどの人と何らかの形で顔見知りになり、こんな人もいたのかと過ぎ

た日のことを懐かしく思い出していた。

 先日来少しずつ始めていた荷造りを本格的に行った。下船は上階の人から順番になっていた

が、下船日に全てを行うことは出来なかったので箱詰め出来るものはあらかじめ入れてみた。

考えていたほど荷物は増えていないようであった。また、家族に見せるための写真の整理も行

っていた。写真の選択だけは終わったので、後は選択写真のコピーを別のフォルダーに入れる

作業が残っていた。船を降りるまでには出来るのだろうか。少し心配だった。この船での生活は

残すところ明日一日のみとなってしまった。

 夕食はフォーマルディナーだった。乗船したときと同じように正装でブロードウエイラウンジに

行った。さすがに、この日ばかりは男性も女性も着飾って集まっていた。船長主催のパーティが

開かれ専属バンドの演奏や歌があった。また、クルーズディレクターのN.Iさん等による小倉祇

園太鼓の演奏やN.Iさんとパートナーの女性がタンゴを踊ってくれた。今までのパーティーでは

一杯だけのシャンペンもお代わりが出来た。

 私達は船内で親しくなった人達と色んな記念写真を写した。特に我が子同様に親しくなった女

の子達とは何枚も写真を写し、また、一緒に写させて欲しいと頼まれた。本当に嬉しい事だった。

 その後、少し時間を置いてトパーズダイニングルームで夕食を食べた。ここでも何か変わった

催し物があると聞いていた。食事がほぼ終わった頃、厨房からクルー達がケーキの上に花火を

立て列になって出てきた。そしてテーブルとテーブルの間をぐるぐると廻った。私達は手拍子で

彼等を迎えた。何かがある事は予感していたが何ともうれしい演出だった。

 その後、ジャパングレースのTさんから主立ったクルーの紹介があった。私達の食事を作って

くれていた大半の人はアジア圏を中心とするクルー達で国籍は様々であった。ここでも、そここ

こで記念の写真撮影が行われていた。

 そして、この日も夜の二十二時からの親しい仲間達との飲み会が開かれた。家内の誕生日と

お別れ会を兼ねての集まりだった。色んな人がたくさん集まってくれた。特に若者達は明日に

控えた卒業式の準備の忙しい合間をぬって参加してくれた。この会を主催してくれたK.Sさん

やK.Oさん、参加してくれたみんなに感謝の気持ちでいっぱいだった。また、家内には誕生祝

いとしてM.Sさんからはブラジルで買ったという宝石のプレゼントがあり、K.Oさんを初め、他

の人からもプレゼントを貰った。また、何よりうれしかったのは、みんなからの寄せ書きだった。

そして、船を降りてからの交流も確認でき大変楽しい夜だった。こうして夜中の二時近くまで波

へいにいて部屋に引き上げた。この時間でもここは大にぎわいであった。

2005年1月29日(土)

 船上での生活もいよいよ今日だけとなってしまった。この船に乗ったときは三ヶ月余とその先

の長さにいささかの不安も感じていたが過ぎてみればアッという間の船上生活だった。

 ここのところ、ずっと夜遅い日が続いていた。昨晩も寝たのは夜中の二時を過ぎていた。以前

の私には考えられないことだった。すっかり夜型の人間になってしまった。今朝も六時頃には起

きてこのページを書いた。そして、家内が起きるのを待って朝食を済ませた。

 午前十時からは今晩行われる卒業式のリハーサルがあった。私は紅白歌合戦の代表として

感想を述べる事になっていた。スライドを上映しながら船内企画や旅行先での感想を述べる事

になっていた。卒業式の中ではメインになる企画であった。

 その後、私達は時々七階に行くくらいで、ほとんどの時間を荷造りや写真の整理に費やして

いた。そんな努力の甲斐あってやっと一段落付いた。枚数を減らしたとは言えCD一枚には収

まりきらなかった。

 夕方はトパーズダイニングルームでの最後の食事となった。また、家内の誕生日でもあった。

気心の知れた友人数人に囲まれながら食事をした。そして、同席したみんなに誕生日を祝って

貰った。トパーズ号からは恒例のケーキのプレゼントがあり、ケーキカットの時には船のクルー

達も一緒に「ハッピイバースデイ」を歌って祝ってくれた。

 夕食時間が遅かったので卒業式の集合時間が迫っていた。大急ぎで会場のブロードウエイ

ショーラウンジに集合した。会場は見事に準備が出来ていた。私達が会場に入ってからはどん

どん人が詰めかけてきた。入りきれないほどの大勢の人だった。予定より少し遅れて始まった。

 会場が暗くなりスポットライトが司会のY君とEちゃんを照らし出した。二人による開会の挨拶

があって、祝電披露とクルーズディレクターのN.Iさんの挨拶があった。彼もこのクルーズで船

を降りる事になっていた。多くのお客さんを無事に旅させることが出来たという感無量な思いが

こみ上げてきたのではないだろうか、途中で声を詰まらせていた。

 そしてスライドショーがあった後、船長やクルー、ピースボートスタッフ、PAさんや新聞局など、

陰でこの航海を支えてくれた人達に対しての感謝状の授与があった。最後はこれからの旅立ち

としてシニアの代表はF.Jさん、若者代表はM.Tさんが感想文を読み上げた。いずれ劣らぬ

名文で心温まるものがあった。

卒業式(写真説明)

文字通り乗客みんなの卒業式だった。地球大学やGET(英語やスペイン語教室)に参加していた人はもちろん

その他にも船内で行われていた自主活動、そして様々な行事はすべて自分の意志で参加し、自らが行事の主役と

なって活躍したものが多い。阿波踊りではないが一見物人で居てもそれはそれでその人の意志であるから構わない。

しかし、どうせ見るなら踊らにゃ損々と輪の中に飛び込んで踊った方がもっと楽しい。それがピースボートだった。

この船に乗って何にでもチャレンジできる自信と、やれば自分にも出来る自信がついたという若者も少なくなかった。

私もそうだった。最初は恥ずかしさで後込みをしていたが、思い切って飛び込んでみるとこんなに楽しいことはない。

私にとってのど自慢大会の出場二回、紅白歌合戦の大トリ、しゃべれ場や講座の司会など、この船に乗るまでは

考えられなかったことだ。そして、思い切って応募した写真展では二度までも受賞することが出来た。その内の一度

は一位に選ばれたのだから驚きである。

家内は家内でエアロビクスの指導者として最後まで勤めた。活弁チームでの活躍、トパーズTVに二度までも出演、

失礼ながら家内の年齢で二度までもTVに出たのは家内だけ、その上、お母さん役で映画にも出演、そしてディレクミ

の司会を夫婦でしたのも私達だけだし、船内新聞のコラム「しなちく」に夫婦そろって掲載して貰ったのも私達だけ

だった。すべて積極的に参加して初めて実現したことばかりだった。久々に青春時代を思い出しながら三ヶ月間休み

なく船内を動き回っていた。それがこの日の卒業式だった。

    

    

卒業式は乗船間もなく行われた運動会の各団代表(赤、青、黄、白)の若者の宣誓によって始まった。

写真上左は運動会の各団の団旗、そして、その時の呼びかけが「みんなの笑顔で虹をかけよう」だった。

写真下左、この日のシンボル(ハトの羽はみんなの寄せ書き)と写真下右は各団長による宣誓

    

当日の会場風景。この会場にこのように大勢の人が入ったことがあっただろうか(写真上二枚)

    

この日の司会者二人とCDの井上直さんの感謝の言葉(写真上二枚)

    

各団の応援団長による開会の言葉、乗客代表からCDに感謝状が手渡された(写真上二枚)

    

    

    

  

    

    

船長を初めとする各部門それぞれの代表者に感謝状が手渡された(写真上十七枚)

    

そして乗客代表二人がこの船に乗って感激した様々な思い出とこれからの決意を

心温まる文章にして読み上げた。シニアの代表は「しゃべれ場きけ場」の仲間だったF.Jさん(写真上三枚)

更には色んなイベントで大活躍をした若者代表達が舞台に並んだ(写真上二枚)

        

    

全ての式次第が終わりホッとした司会二人、この二人は私と苦労を共にした「しゃべれ場きけ場」のメンバーだった。

感極まって家内に抱きついたE.S、そして笑顔で記念写真。ご苦労様(写真上四枚)

  

溌剌として可愛い若者達。みんな楽しませてくれてありがとう。下の写真の左端に私がいる(写真上四枚)

この日会場の入り口には水先案内人からもお祝いのメッセージが寄せられていた(写真上)

    

卒業式の式次第と会場入り口(写真上二枚)

    

会場入り口と卒業証書を手にしたY.Kちゃん(写真上二枚)

 こうして、長い船旅の大きな行事は全て終了した。いつもの事ながら、これらの企画運営は全

て若者達で行われていた。その中の多くが私や家内が親しくなった若者達であった。何かしら人

と人との巡り合わせの不思議さを感じていた。感想文を読み上げた二人もこの船で親しくなった

人であった。また、この船に乗る前からピースボートスタッフのSちゃんとは顔見知りであった。

私達夫婦が望んでそうしたわけではなかったが、私達夫婦の周りには不思議な人の繋がりが

出来ていた。その多くは若者達で、私達は彼等から船上のお父さんお母さんと呼ばれていた。

 家内はこの船でお母さんにしたい人NO.1に選ばれ、この日の晩、スポーツバーで上映された

船内映画の中ではお母さん役になって出演していた。お父さん役になっていたのは、これも又

この船に乗って親しくなったA君だった。

 スポーツバーでこの映画を見た後、波へいに寄ってみた。私達が飲み始めたらSちゃんがや

ってきた。この船に乗ることになった昨年の五月、岡山での説明会の時、私達夫婦の担当だっ

たのはSちゃんだった。Sに出会ってSで締めくくるという、まさに出来すぎたストーリーになって

しまった。また、この日一緒に飲んだMさんも同じ県人会だった事もあって何かしら馬が合った。

そんなわけで、この日も寝るのがすっかり遅くなってしまった。

 心地よい酔いが急に眠気を誘ってきた。Mさん達とも別れデッキに出てみると強い冷たい風

が吹いてきた。若い人が携帯電話で話をしていた。どうやら日本と電話が繋がる場所まで帰っ

て来たようだ。家内が持っていた携帯電話で息子に電話をかけてみた。まだ、起きていたよう

だった。息子に日本のすぐ近くまで戻ってきたことを伝えた。

2005年1月30日(日)

 早朝デッキに出てみると遠くの町明かりが見えていた。若者達は名残を惜しんで夜中起きて

いたようだった。どうやら紀州沖を通って大阪湾に入港したようだ。あの光は紀伊半島沿いの町

明かりなのだろうか。そうだとすれば右舷側の町明かりは淡路島のものだろうか。

 デッキでは強風が吹いていた。風に押されて前に進むことが出来ないほどの強さだった。冷

たい風だった。私達は、この船で最後となる朝食を食べた。そして、顔を会わせる人ごとにお別

れの挨拶をした。何かしら急に名残惜しい気持ちが強くなってきた。

 私達にはまだ荷造りが残っていた。部屋へ戻り最後まで残していた荷物の箱詰めをした。そ

の間にも船内テレビを見ながら近づいてくる神戸港沖合の景色を見ていた。そして、荷造りの

間にデッキに上がり写真を写したり、ここで別れる人達と挨拶をした。何とも慌ただしい朝であ

った。こうして全ての荷造りを終え、後は下船の船内放送を待つばかりだった。

 下船者の荷物運びは、この船のピースボートスタッフやCCやクルーなどが総出で行っていた。

出入り口になっていた六階のレセプションの前は荷物を移動する人、見送る人、見送られる人

などで大混雑していた。見送りの人には何度も邪魔をしないようにとの注意があったが、みんな

夢中になっていて、そんな注意は意識の中になかったようだ。

 私達の部屋にはYちゃんが来て名残を惜しんでいた。その内、ドアがノックされ知り合いの女

性がクルーを連れて荷物を取りに来た。十二個の段ボール箱とリュックや旅行鞄等の手荷物

を持って六階の出入り口に行った。ここでも多くの人達と別れを惜しんだ。何かしら急にこみ上

げて来るものがあって目頭が熱くなり別れの言葉が出なかった。

 レセプション前には検疫官が来ていた。個々人の問診票に基づいて二、三の質問があった。

神戸検疫の係官は私達が黄熱病の予防接種の時注射をしてくれた人だった。向こうは覚えて

いなかったであろうが、私には見覚えのある顔だった。

 私達の荷物は台車に載せられ船から下ろされたが、残りの幾つかが運ばれて来なかったの

で、船の外でずいぶん待たされた。その間にも多くの人と顔を合わせ別れを惜しんだ。たった

三ヶ月の事だったが密度の濃い付き合いだっただけに、お互いに涙を浮かべての別れだった。

税関による手荷物検査を終え、持ち込んだワインの税金を支払って、運送屋に荷物を手渡した。

これで良いのだろうかと思うような荷物の扱い方だった。と言うのも税関の検査を受けるために

段ボール箱は完全な封をしていなかったからだ。

 家内は娘夫婦が迎えに来てくれていたので、そちらとの連絡を取るために行ってしまった。私

は足らなかった送り状を書いて手渡し、不完全な段ボールの封を完全にするように頼んで外に

出た。ここは私達が出発するときに集合したポートターミナルだった。

 娘夫婦とはすぐに会えた。そして、二人に手荷物を預けて船の見えるテラスに出た。出港間際

の船からは聞き慣れた出港曲が流れ、大勢の人がポートターミナル側に集まっていた。デッキ

に下げられた大きな紙には「しゃべれ場きけ場」の仲間が書いてくれた私達夫婦やここで下船す

る「しゃべれ場きけ場」の仲間の名前が書いてあった。

 船のサイドデッキでは「しゃべれ場きけ場」で伴に悩み苦しんだF.JさんやH.Tが手を振って

いた。その他にもYちゃんも悲しそうな顔をして手を振っていた。私達がその他の親しい友人達

の顔を探している内に船は岸壁を離れた。私の横では一緒に船を降りたE.Sが泣いていた。

船は次第に岸壁を離れ、下船したもの同士で別れの挨拶をしている内に小さくなってしまった。

あっけないと言えば実にあっけない別れだった。こうして100日余りの長い旅は神戸港の下船

で終わった。

 この日は娘夫婦の家で久々にくつろいだ半日を過ごした。娘達は心づくしの料理を準備して

待っていてくれた。何ヶ月ぶりかに味わう鍋料理とおでんだった。窓の外は寒い冬だった。

神戸港着岸そして出港(別れ)(写真説明)

神戸港の背景にある山々には雪が積もっているかに見えた。しかし、これは単なる土地が露出しているだけの場所

だったようだ。それくらい神戸港は寒かった。1月30日と言えば寒の入りの頃であった。今まで快適な部屋の中に

いて温度の変化などあまり気にした事もなかった。しかし、この寒さが自然の温度だったのだ。

遠景にしか見えなかった神戸港も次第に大きく見えてきて、友達と別れの挨拶を交わしたり荷物の運び出しなどで

慌ただしくしている内に着岸してしまったようだ。

私達の部屋は4階だったので荷物下ろしの順番は最終に近かった。部屋の中で待つ時間が長く、おまけに船から

降りたらワインの持ち込み手続き等に時間を要してしまい、ここで一緒に降りた親しい人に挨拶も出来なかった人も

いた。

 

親しかった新聞局のメンバー、その一人A.S君はご覧の通りなかなかハンサムである。

船に乗る前は芸能人の付け人をしていたと話していた。しかし、彼自身が俳優になっても良いくらい多才な人であった。

今はその経験と才能を買われてピースボートスタッフとなり、第54回のクルーズに出ている(写真上左)

家内と一緒に写っている二人も新聞局のメンバーだった。左の女性はピースボートスタッフとして現在も活躍している。

右側の女性は来年、大学を卒業し謀大手新聞社に入社が内定していると聞いている。いずれ劣らぬ才媛揃いで

あった(写真上右)

    

彼女も新聞局のメンバーであった。小柄な体ながらバイタリティのある女性だった。

彼女も又、船を降りた年に大学を卒業し謀大手新聞社に勤務している(写真上左)

温度コントロールされているとは言いながら何となく寒かった。これはベッドに使用されている寝具である(写真上右)

  

最後となった30日の食事メニューと朝食(写真上)

    

    

どの港へ入るときも最初に来るのはタグボートか税関のお役人が乗った船だ。

そして、神戸港が次第に近くなってきた(写真上四枚)

    

マジッククラブで親しくなった同世代の人達(写真上右)

    

特にH.Tとは「しゃべれ場聞け場」を主催して親しくなった。けらけらと明るい女性だった。

船の上では大活躍。一時はスタッフになろうかどうしようかと迷ったようだ。今は自転車に乗って環境問題を

ピーアールしながら北海道の稚内から沖縄の辺野古までのツアーリーダーとして旅の途中だ(写真上右)

    

船はいよいよ岸壁に近くなりタグボートで牽引されている(写真上左)

東京港から乗船したときは笑顔の可愛いフィリピンの女性が私達の部屋の担当だった。

彼女がシンガポールで下船した後、入れ替わりに担当となったのが、ニッキーという女性だった(写真上右)

    

見送る人、見送られる人、荷物の運び出しで大混雑をしているレセプション前(写真上二枚)

   

    

着岸した船には通路が接続され、いよいよ船内放送で呼ばれた順番に荷物と伴に降りていく(写真上四枚)

    

船には日本の港に入港したという印に日の丸が掲げられていた(写真上左)

神戸港の見送り桟橋のバックにはモノレールのポートターミナルがある(写真上右)

    

人一人居ない寂しいデッキ(写真上左)

トパーズ号には給油船が横付けしていた(写真上右)

  

東京で船を降りる人達は私達と別れのためにデッキへと上がってきた(写真上二枚)

   

いつもなら船の上にいて見送られる立場であったが、この日ばかりは私達神戸港で降りたものが

まだ船にいるものを見送る番であった(写真上左)

大きな紙にはここで降りた私達夫婦の名前と山ちゃんとエリの名前が書いてあった。

後で聞くとH.Tが書いてくれたようだ。私達の年代でこんなものを書いて送られたものは私達だけだった(写真上右)

見送り桟橋も下船してこの場を去りがたいものがたくさんいた。

一様にみんな感慨で胸がいっぱいだった。何かものを言えば涙がこぼれてしまいそうだった(写真上)

知り合いになった人、中でも特に親しくなった人、全て見覚えのある顔がいっぱいだった(写真上二枚)

  

  

 

 

こうして、全ての人と荷物を降ろしたトパーズ号は出港曲とともに静かに港を離れていった。

私は涙をこらえながら、一度きりになるであろうトパーズ号での長い旅を振り返りながら港を離れていく船に

カメラを向けていた。陸と船を結ぶ紙テープは無惨にもちぎれ飛び海へと落ちていった。さようなら長い旅、

そしてトパーズ号(写真上八枚)

これは私達が行く先々の国から娘夫婦宛に差し出した絵はがきである。これ以外にも私達が帰ってから届いたようなものも

あって、それぞれの国の郵便事情やそれだけ遠い国だという実感もあって面白い。

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