一路日本へその1

2005年1月23日(日)

 長い旅を終えトパーズ号は一路日本へ向かっている。船内では軌跡祭や卒業式と名付けた

下船を目前にした企画が進んでいた。私も卒業式では紅白歌合戦の出場者代表として挨拶を

してくれと言う依頼を受けていた。

 私達が企画していた「しゃべれ場きけ場」も最終段階である憲法九条をテーマにしての話し合

いの段階に移っていた。憲法九条問題は、きのう討論した戦争と平和というテーマの先にある

ものとして位置づけていた。

 われわれ主催者としては、参加者と意見をたたかわす場にはしたくなかった。結論は見出せ

なくても、お互いの考えを発表する場にしたかった。しかし、懸念した通り初めから主催者に対

し意見を言うような形になりかけたので、司会者を擁護するための発言したのが反発をかって、

一斉に非難の声が出始めた。私の個人攻撃はしないようにして欲しいと言った言葉が一部の

人の反発をかったようだ。後になって「私はこう思うのだが」という言い方にした方が良かったと

反省をした。ともあれ、二、三の人からは主催者側の考えを汲んだ前向きの発言があって、何

とか、その場は収まった。

 しかし、現状を肯定する現実論の多いシニア世代と戦争など遠い存在である若者達との間を

埋めるような議論にはならなかった。この後、ある人から熱い議論に水を差すような現実論が

語られ、憲法を語ることの難しさを痛感した。

 ともあれ、「しゃべれ場きけ場」としての最も重いテーマだった憲法九条に関する議論は、不完

全燃焼ではあったが一応終了した。担当した四人の若者にとっては大きなテーマだったと思う。

本当にご苦労さんでした。

 この議論をしていた頃、自衛隊の海外派遣に関する法案が国会に提出されたと聞いていた。

また、憲法改正に関してもますます現実味を帯びているようだった。最早、避けては通れない問

題になっていた。

 誰しも自分の国を愛していないものはいない。しかし、戦前のように国家という名の下に個人

が犠牲になるような日本だけにはしたくない。戦時中はお国のためにと言うことで何百万人と言

う日本人が苦しみながら亡くなっていった。そして、日本人だけでなく他国の多くの人が犠牲に

なった。このことを私達は忘れてはいけない。

 私達夫婦は今日から下船に向けての準備を始めた。お互いに船内行事への関わりが多く、

二人の時間を調整しながらの準備だった。二人のスケジュールをつき合わせて見ると午後の

二時間しか空いた時間はなかった。まずは子供達に見せるための写真をと思い、パソコンに

入っている写真の中で、これはと思うようなものを抜き出して他のフォルダーに移した。

 午前中、船は沖に点在する島影を見ながら航行した。その海域を抜けてから少し揺れ始めた。

そして、ラバウル入港前と同じように風と雨が強くなってきた。

 夜になって浪速の歌う巨人こと趙博さんの初ライブがあった。この日はフォークソングや朝鮮

民謡などを聞かせてくれた。

 また、「僕たちの伝えたいこと、部落差別の今」というパネラー三人によるトーク番組があった。

これは、ある男女の結婚に関する経緯をテーマにしたものであった。部落問題は思いテーマで

ありながら避けては通れない問題だ。差別意識は単に部落の問題だけでなく、在日朝鮮人の

問題を初めとして多くの事に共通する問題であった。差別意識は戦争と同じように人間の意識

の根底に潜む問題であり、未だに私達が克服することの出来ない問題だ。

 今回の長い船旅で感じたことは、自らが希望したわけでも意識してそうしたわけでもなかった

が、船内で積極的に参加してきたこと全てが私の人生の総仕上げの一部であったような気がし

てならなかった。写真展での二度の受賞や、のど自慢大会や紅白歌合戦の出場など、楽しい

思い出がたくさん出来た。また、考えや意見の対立は別として、多くの色んな人とも出会うことが

出来た。私にとっては実に稔り多い船上生活だったと心から感謝している。

船内生活(写真説明)

この頃になると、みんなの心の中には日本が強く意識されるようになってきた。

心細い思いで船に乗った日のことが昨日のことのように思い出される。

もう三ヶ月以上が過ぎてしまったのである。過ぎてしまえば早いものである。

まるで竜宮城で遊んだ浦島太郎のように鯛やヒラメと舞い踊りながらの日々であった。

通常、楽しい事があるとは言っても国内にいたのではこんな体験は出来ない。

これがほとんど連日連夜なのである。これを夢と言わずして何と言おうか。

    

太平洋の水平線上を赤々と染めて夕日が沈んでいく(写真上三枚)

海がこんなに広いものとはこの旅に出てみなければ気が付かないことであった。

まさに地球は水の惑星である。そして、他の天体にはないこの豊富な水はいったいどこから来たのだろうか。

    

スポーツバーの中では若者の熱気でムンムンしていた。

ここでは船内で行われた行事や行く先々で行われた交流会のスライドが上映されていた(写真上二枚)

こうしている内にも船はどんどん日本に近づきつつあった。国内に向けてのメール送信であろうか、

パソコンコーナーでは多くの若者がパソコンと向き合っていた(写真上)

しゃべれ場きけ場解散会(写真説明)

共に苦労した仲間達である。年齢の差を越えて親しくなった。やっと大任を終えくつろいで飲んでいるところ。

    

    

    

我が「しゃべれ場きけ場」のメンバーは、このような若々しいメンバーであった(写真上六枚)

彼らは苦労を伴にした戦士でもあった。主催者でありながら参加者からの攻撃の矢面に

立たされて良く耐えてきた。考えてみれば反戦や憲法問題は、環境問題など以上に

重要なテーマであり、本来はピースボートそれ自体が取り組むテーマだったのではないだろうか。

今になって見れば体よくはめられた感じでもあった。スタッフは前面には出ずバックアップさえしてくれなかった。

それを恨むつもりはないが不満ではあった。しかし、何よりも良かったのは賛否両論色んな意見があると

言うことを知り得た事であり、今後、国内でも改憲と正面から向き合わなければならない日が必ず来ると

言うことを考えておかなければならない。

下船説明会とスタッフ一同の挨拶(写真説明)

    

    

訪問国を前にした従来の下船説明会ではなく、いよいよ永遠の別れとなる帰国のための説明会だった。

彼らピースボート並びに旅行会社ジャパングレース、CC(通訳)、GETティチャー(英語、スペイン語の先生達)

そして船長や航海士を初めとする船のスタッフ達に支えられて楽しい旅を続ける事が出来た。

ただただ今は感謝あるのみであった(写真上九枚)

岡山、広島県人会(写真説明)

下船前の慌ただしい夕方、なみ平でお別れ会を兼ねた二回目の食事会を持った。

そして又の再会を約束した。その約束は帰国後の2006年の桜の頃、広島県福山市鞆の仙酔島で開いた。

皆さん元気で集まってくれ楽しい交流会となった

    

    

    

  

これ以外にも若い人が数人居たのだが都合が悪く参加できなかった(写真上八枚)

オカリナ同好会(写真説明)

洋上の音楽会などで大活躍だった。ここへ来て初めてオカリナというものを手にした人も居たようだ。

それでも三ヶ月間熱心な練習の甲斐あって何とか音が出るようになったと話していた。

    

  

この日が練習の最終日であった。記念写真を写して散会した(写真上五枚)

「僕たちの伝えたいこと、部落差別の今」というパネラー三人によるトーク番組があった(写真上)

    

趙博さんの歌うキネマと題する催し物があった。

元特攻隊員の戦後を描いた映画「ホタル」を活弁のように一人で演ずるというものだった(写真上三枚)

中島さんはグリーンピースジャパンの人だった。

環境問題についての専門家だった(写真上)

良く耐え良く聞きだしてくれた頼もしい「しゃべれ場」のメンバー二人(写真上)

    

    

    

しゃべれ場の企画としては異色であったが、乗客の一人からのたっての要望で

「わたしが子供だった頃」という特別企画が催された。

パネラーとして戦前生まれの人を招いて若者と意見交換を行うという企画だった(写真上六枚)

洋上に沈む夕日。いよいよ日本が近くなってきた頃(写真上)

船上の映画スター達(写真説明)

頑固親父と子供達に理解ある優しい母親、そしてどら息子ややんちゃ娘と言ったキャラクターが登場するという

ハチャメチャなどたばた劇であった。

    

    

  

    

明日は船を降りるという日の前日、スポーツバーで上映された映画の出演者達。

この中にお母さん役として家内が選ばれた(写真上八枚)

    

牛の助さんと趙博さんの「ホルモンから世界が見えてくる」と言う対談形式のトーク番組(写真上二枚)

    

マジッククラブでずっと一緒だったH.Iさんの描いた絵。独特の画風である。

この展示作品の内二枚のコピーが我が家にもある。H.Iさんが送ってくれたものだ(写真上二枚)

    

    

ピースボートスタッフが一通り終わって今度はCCの中でも人気者だったR.K君のCCになるまでの話(写真上四枚)

    

折り紙の展示作品は早、雛人形や武者人形になっていた(写真上)

    

こちらは大活躍だった新聞局のメンバーを紹介したもの

毎日のように夜遅くまでご苦労さまでした。

君たちの作ってくれる船内新聞がなければ一日の計画が立てられませんでした(写真上二枚)

クルーズディレクターの井上直さんの作品。盲腸の手術後暇つぶしに描いたものだとか(写真上左)

    

この先のどの方角かに日本があるはずだ(写真上二枚)

航海地図にも日本が出るようになった。日本はもう近い(写真上)

    

    

この頃、卒業式の準備も忙しかった。担当者間の打合せ風景(写真上四枚)

  

軌跡祭の時、書き下ろしで作られた作品。若者達だけでなく私達も同じ気持ちだった。

素晴らしいメッセージだ。本当にありがとう(写真上三枚)

    

    

はや黒潮の海域に入ったのだろうか。

いつの間にか、あのコバルトブルーの海は消えて黒い海の色になっていた(写真上五枚)

    

    

    

    

    

何度も行き来し、何度もお世話になった船内の部屋や設備だった。

乗船された方には懐かしい船内の風景ではないだろうか(写真上十一枚)

    

航海地図と船の現在位置、進行速度、気象状態などは、レセプション横に掲示されていた(写真上三枚)

2005年1月24日(月)

 この日は早く目が覚めてしまった。そのせいか、いささか船酔いのような感じだった。昨日の

出来事をパソコン入力した後、少し横になっていた。船は夜半から揺れ初め早朝には激しく揺

れていた。朝七時のモーニングコールでも縦揺れ、横揺れが続いていると放送があった。船酔

いになってはいけないと思い早めに酔い止め薬を飲んだ。この船に乗って酔い止め薬を飲んだ

のは初めての事であった。

 久々に朝食は二人一緒にトパーズダイニングルームに行った。日頃は好みが合わず家内は

ヨットクラブへ、私はヨットクラブとトパーズダイニングルームのどちらかを適当に利用していた。

 あれこれと船内企画はあったが「昭和と戦争」というJ.Tさんが企画している映画を見ることに

した。これは全八巻のシリーズであったが、この日見たのは最終回であった。敗戦から復興期

にかけての日本とアメリカの関係が描かれていた。この映画を見ての感想は、ゆがんだ日米関

係を正すとは言っても、いかに難しいことかが良く理解できた。日米関係は占領時代から今日

に至るまで政治、経済の全般にわたって複雑に絡んでいる。この関係を解消し、お互いに対等

な立場で意見交換が出来るようにする事は、なかなか難しいことのように思えた。

 当初、日米関係は占領された国と占領国という関係であったが、その後、日本にとってもアメ

リカにとってもお互いになくてはならない存在になっていった。特に冷戦という特殊な環境がその

結びつきを強くしたようだ。共産圏が目の前にあるという状態は、アメリカにとっても日本の保守

勢力にとっても脅威だった。その事が、寄らば大樹の陰と言った自主性のない日本政府を作り、

米軍基地を韓国や日本の各所に置くことを許してしまった。また、そのための米軍の膨大な軍

事費の一部を肩代わりをし続けてきた。日米安保条約の下に日本は完全なアメリカの属国に

なってしまったようだ。日本に独自外交はほとんどなく、全てはアメリカにお伺いを立てなければ

ならないような状態が今日まで続いてきた。この両国間のいびつな結びつきは世界に例を見な

い関係ではないだろうか。

 さて、今日はオーストラリアから乗船したもう一人の水先案内人である中島さんの地球温暖化

に関する講座があった。地球温暖化については私が最も知りたいことの一つであった。中島さ

んはグリーンピースジャパンの人だった。

 端的に言えば危機的状態は目の前に迫っていて、各地における気象変動は年を追う毎に激

しさを増している。また、日本は温暖化による台風の被害の他、マラリア等の病気も懸念されて

いる。この温暖化が更に進むと深刻な食糧不足や水不足が生ずるとの事であった。そうなれば

世界規模の戦争も起こりかねない。

 そのシナリオは、ここ十五年以内の事であり目前に迫っている。先の京都議定書ではCO2の

かなり厳しい削減要求が各国に突きつけられているが、アメリカやサウジアラビアは批准をしな

いと言っている。日本もアメリカに次ぐような大量の排出国でありながら削減値にこだわっている。

また、開発途上国に対しての日本のODAが環境破壊やCO2の増加を助長しているとも言われ

ている。こうした諸問題を真剣に各国が克服しなければ温暖化をくい止めることは出来ない。

 さて、「しゃべれ場きけ場」企画も終盤を迎えることになった。たった一時間の企画に費やした

時間は膨大なものであった。「ああでもない、こうでもない」と行きつ戻りつの議論が何日も続い

ていた。結局、私から戦争だとか憲法だとかと言った重いテーマからの方向転換を提案をした。

そして、明日のテーマは「男女交際」にした。悩み抜いた末にたどり着いた結論だった。みんな

大賛成だった。今までの「しゃべれ場きけ場」は、どちらかというと主催者が被告席のような立場

だった。ここで、難しいことを言って主催者である若者を困らせてきたおじさん達に一矢報いて

やろうという作戦だった。

 そして今日は、Yさんが希望していた「わたしが子供だった頃」というパネルディスカッションが

やっと実現した。Yさんに企画から司会者まで全てを任せ、我々はサポート役に徹することにし

た。予想以上の人が集まってくれ、会場からの意見もたくさん出て成功だった。

  夕飯は和食メニューだった。いまさら要求しても仕方がない事なのだが、乗船客の90パー

セント以上が日本人なのに和食メニューが極端に少ないのは何故だろう。みんなが抱いている

疑問の一つだった。今日は大きなウナギの蒲焼きが出た。柔らかくて大変美味しかった。満足

のいく夕飯だった。その後、ブロードウエイショーラウンジで趙博さんの歌うキネマと題する催し

物があった。元特攻隊員の戦後を描いた映画、「ホタル」を活弁のように一人で演ずるというも

のであった。主演の高倉健や田中裕子の言葉をうまく使い分けながら効果音を背景に入れた

独特のものであった。残念ながら寝不足からか途中から居眠りをしてしまい、せっかくの熱演も

十分には耳に入らなかった。趙さんには失礼な事をしたと思っている。下船までには「砂の器」

も演ずるとのことで楽しみであった。

エアロビしようよ(写真説明)

家内を含む三人のエアロビ経験者が指導者となって始まった自主企画「エアロビしようよ」。

窮屈な船内生活でとかく陥りやすいのが運動不足。この解消には大いに役に立ったよう。

スポーツバーと言う恵まれない場所で良く続いたものだ。むろん熱心な愛好者がいたからであろう。

指導者三人の内二人(写真上)

    

手前、紫のシャツが家内(写真上二枚)

    

この日、最後の汗を流して終了となった(写真上二枚)

    

そして指導にあたった三人がそれぞれに感想を述べ終了に当たっての挨拶(写真上三枚)

みんなそろって記念写真(写真上二枚)

家内の誕生会(トパーズダイニングにて)

下船前の荷支度等で慌ただしい日に家内の誕生日がやってきた。家内はみんな気ぜわしくしているときだからと

誕生会に集まってくれる人はごく身近な人達だけと思っていた。それでも彼女を慕って大勢の人が集まってくれた。

本当にありがとう。

    

    

トパーズダイニングの夕食の時、誕生日を祝ってくれた仲間達(写真上四枚)

なみ平で家内の誕生祝賀会

誕生会と言えばトパーズダイニングが中心だった。しかし、トパーズダイニングには前半食と後半食の人が居て

全員集合が難しかった。そんな事もあって、この日は「なみ平」で特別な祝賀会を開いてくれた。

大勢の人が集まってくれ、お別れ会を兼ねた盛大な誕生会となった。

    

    

    

    

    

    

    

    

集まってくれた家内や私の親しい友人達。こうしてみると懐かしい顔がいっぱいだ(写真上十六枚)

    

    

佳境に入った頃、ハッピバースディの曲が流れ大きなケーキがテーブルに置かれた(写真上四枚)

    

    

    

ケーキの次は、みんなから寄せ書きを頂いた。

この誕生会を段取りしてくれたのは、活弁チームや優しい口ひげのおじさんK.Oさん達だった(写真上六枚)

    

    

    

懐かしい顔、顔、顔。本当に楽しかったね。みんなで輪になって歌ったりお喋りしたり。

夜が更けていくのも気付かないくらい賑やかだったね(写真上八枚)

最後のフォーマルディナー(写真説明)

後半食のものは、いつもの様にまずはブロードウエイショーラウンジでシャンパンを飲んで、専属バンドの歌や演奏を聴いて

それから階下のトパーズダイニングに移動した。

    

この日の私達夫婦と母と娘のような二人(写真上二枚)

トパーズ号専属のバンド(写真上三枚)

会場内の風景

  

  

親しかった仲間達(写真上五枚)

    

この日の司会進行役と船長の挨拶(写真上二枚)

そして高級船員の紹介と挨拶

    

    

CD(クルーズディレクター)のリップサービス。美しい女性とのタンゴ

    

CDとその仲間達による和太鼓演奏(写真上三枚)

    

    

   

    

    

出会いそして別れ、それがこの船での体験だった。

通常の旅行では考えられないような新しい人間関係が生まれ、それも帰国と共に消えてしまう運命にあった。

そんな中でも幾人かの人との友情は今も続いている。多くの若者達が私達夫婦を父や母のように慕ってくれた。

そんな若者の幾人かが我が家を訪ねてくれ、今も交流は続いている。県人会での交流も続いている。

自主企画が縁となっての行き来もあった。珍しい景色を見学することも旅行の楽しみの一つではあるけれど、

人と人の出会いこそが船旅行の大きな魅力ではなかったろうか。

そうして何よりも、ここでの出会いがきっかけとなって大きな人の輪を作り、いま花開こうとしている(写真上十一枚)

トパーズダイニングでのお別れ会(写真説明)

私達の快適な旅を支えてくれたのは船で働く多くのスタッフであった。油に汚れて船の修理をしていた人達、

寄港地毎に大きな船腹を命綱を頼りに塗装を繰り返していた人達、時間になると遠慮がちにドアをノックして

部屋掃除、ベッドメイキングに来てくれたメイドさん達、食堂で料理を満載した大きなお盆を肩にして、慌ただしく

厨房を出入りしていたウエイターさんやウエイトレスさん、この日まで誰がどんな食事を作ってくれていたのかも

知らなかったけれど縁の下の力持ちであった多くのコックさん達、そんな人達が一同に会して別れの挨拶を

してくれた。こうしてみると、どの顔も懐かしい顔ばかり。ほんの短期間で下船したスタッフもたくさん居たはずだ。

全ての皆さんに快適な船旅をありがとう。食事がどうのこうのと文句ばかり言って済みませんでした。

    

この日の私達(写真上二枚)

    

    

    

突然、厨房のドアが勢いよく開いて、ケーキ皿にパチパチと跳ねる花火を手にしたウエイターや

ウエイトレスが入ってきた。続いて入ってきたのは、ベッドメイキングや部屋の掃除などをして

くれた人達だった。そして、広いトパーズダイニングのテーブルとテーブルの間を回り舞台側に

整列した(写真上六枚)

  

最後に入ってきたのは部門別のコックさん達だった。

おみそ汁を作ってくれたのは、カレーの国インドから来たコックさんだった。

コックさんの国籍も他の人達と同じように多種多様であった(写真上三枚)

勢揃いした裏方さん達(写真上八枚)

そして、別れを惜しむ私達乗客の皆さん(写真上四枚)

    

    

    

    

後は親しいもの同士で記念撮影。みんな元気でね。この中には南アフリカがふる里だという女性も居た。

また、この船に乗ったのが縁でスタッフになった人も居た。帰国後、元の看護士さんに戻った人も居た。

みんなそれぞれに何かを得て帰ったのではないだろうか(写真上八枚)

2005年1月25日(火)

 海は穏やかだったり荒れたりを繰り返していた。その度に船は横揺れや縦揺れを繰り返し、

船酔いに弱い人にとっては落ち着かない日々であった。しかし、ラバウルを出港して二日以上

が過ぎ確実に日本は近づいていた。

 それに連れ、みんなそれぞれに落ち着かない日々を過ごしていた。船内での行事は相変わら

ず多く、特にピーセン前やアゴラやあんと言った場所は、いつも大勢の若者が集まって卒業式

や軌跡祭やGETの先生達が主催するパーティの準備などが行われていた。また、あちらこちら

ではサイン帳やノートに船上で親しくなった友人とのメッセージ交換が行われていた。

 余談になるが、この船に乗って「船マジック」という言葉を知った。どうもロマンチックな船旅で

男女が親しくなることを言うらしい。そんなカップルも幾組も出来たようだ。「船マジック」は、そん

な若い男女だけでなく、私達夫婦のように若い日の頃を思い出しながら、若者達と一緒になって

「わいわい、がやがや」と楽しくやっている事も「船マジック」なのかも知れなかった。

 ここのところ暇を見つけては写真の整理を行っていた。帰国後、娘夫婦に見せるためだった。

CDにして約十五枚という膨大な写真データだった。この中から、これはと思うようなものを選ぶ

のは容易な事ではなかった。

 今日は「百姓したい人あつまれ」の最後の講座だった。私が講師になり都合5回の講座だった。

質問形式で進め、最後に主催者のK.Hさんから帰国後のネットワーク作りの提案があって終

了した。

 昼食を挟んでステーシーが主催する世界一の平和学者が語る「日本の市民社会の役割」と

言う過去にピースボートで行われた講座の録音を聞く会が開かれた。大変興味があったので

約一時間半近く録音を聞いた。

 その内容を簡単に紹介すると、多くの日本人は意識していないかも知れないが仏教思想の

中で育っていること、また、礼儀正しく秩序だって物事を考えることが出来ること、物事は白か

黒かで割り切れるものばかりではなく、その点、日本人のファジーな思考は国際紛争などの仲

裁役に向いていること。こんな事から世界の紛争の解決や紛争後の復興などに欧米人より適

しているという話であった。世界一の平和学者から語られると、なるほどそう言うものかも知れ

ないと目から鱗のような気持ちであった。

 時間帯が重なっていたので大急ぎで「日本のエネルギーって変」というグリーピースジャパン

の中島正明さんの講座へ行ってみた。話は既に終盤になっていた。ソーラーを初めとする民間

の電力自給率を高めようと言う話であった。

 先日の田中優さんの話では個々人の家庭は節電、エネルギーの大半を消費している大企業

こそが大きな省エネに取り組まなければCO2目標通りの削減は難しいという話と多少視点の

異なる話であった。ともあれ近い将来の原油輸入がストップするかも知れないことなどを考え合

わせると、今からソーラー発電を考えるべきなのかも知れないと思った。

 その後、趙博さんと角岡さんによる「日本って何やねん」という対談があった。「ホルモンから

日本が見えるか」という副題も付いていた。大阪を中心とする日本のホルモン料理を通じて今

の日本の姿を見てみようと言う主旨ではなかったのだろうか。残念ながら途中から席を立った

ので対談の全てを聞くことは出来なかった。私は第二回目の「のど自慢コンクール」に出る予定

だったので、その練習の方へ行ってしまった。

 「IHOLAアミーゴス」というCCをしている若者達に色んな事を質問して見ようと言う企画に出て

みた。今日は最終回でR.K君に対する質問の日だった。彼は医者を目指している若者だった。

アメリカ留学の経験もあり大変優秀な人のようであった。女性には大変人気のある彼に対して

情け容赦なく色んな質問が飛び出して三十分があっという間に終わってしまった。

 その後、仲間と一緒に夕食に行き、「神風特攻隊の手紙」という企画へ出席した。太平洋戦争

において日本の敗戦が色濃くなってきた頃、若き特攻隊員達が片道だけの燃料と搬送能力以

上の爆弾を積んで敵艦へ突っ込んでいったという実に悲惨な事が行われていた。その彼らが

何を考えどんな決意を持って飛び立っていったのか、その心情を綴った手紙を同年齢の若者

が読むという企画であった。

 そして、最後に元特攻隊員だったというT.Uさんから自分の経験が語られ、二度と再び繰り

返すことのないようにと言う締めくくりの言葉があって終わった。良い話であった。中にはすすり

泣いている若い女性もいた。

 私達が企画していた「しゃべれ場きけ場」では、この日「男女交際を考える」というテーマで始

まった。いつものように強面のおじさん達も来ていた。これまでは憲法だとか戦争だとか難しい

テーマが続いていて主催している若者達もいささか疲れていた。本来ならその続きをする予定

だったが、私の提案で急遽百八十度方向転換をした。シニア世代は今の若者が何を考え、どの

ような行動をしているのか興味があったようだ。ところが最初からシニア世代にマイクが向けら

れ、シニア世代の青春時代や男女交際についての質問が矢継ぎ早に飛び出して、シニア世代

のおじさん達はたじたじだった。まんまと若者達の逆襲の罠にはまったようであった。

 こうして、最後の「しゃべれ場きけ場」は和気藹々の内に終わった。こんなテーマが重くなくて良

い。大きく方向転換したことは成功だったようだ。私はすっかりくつろいだ気分になり、この企画

を進めたH.TとE.Sの二人を誘って波へいに行った。二人とも他の行事の準備で忙しく二人

が来たのは夜中の二十三時を過ぎてからであった。

 今日もまた寝るのが遅くなってしまった。家内はその時間も明日の軌跡祭での活弁の練習を

していた。軌跡祭の裏方も出演者も明日の本番に向けて多忙な日々を送っていた。

2005年1月26日(水)

 今日は軌跡祭本番の日となった。午前中はスポーツ系の自主企画を中心とする発表、午後

は文化系の自主企画を中心とする発表と分かれていた。従って、午前の部はプールデッキで

午前十時から始まった。一番にY.Tが中心になって指導してきたチアリーディングのメンバー

による発表があった。家内はY.Tの写真を写してやりたいと私を伴って屋上のプールデッキに

行った。始まったばかりのところであった。こうして午前中一杯、色んな出し物が演じられて終了

した。私はA.Nさんの太鼓演奏を写して欲しいと頼まれていたので、すべてが終わるまでここに

いた。

 そして、R.Y君に南極の写真のシェアを頼んでいたので一度部屋へ戻った。彼の持っている

ハードディスクを私のパソコンに接続しハードディスク内のデータをCDに取り込んだ。彼はコン

ピュータ関連の専門学校を出たと話していた。従って、データの移し替えなどお手の物だった。

私は自分のパソコンに取り込んだ膨大なデータをどのようにして相手のパソコンに移し替える

のか大変興味があった。データは二枚のCDに取り込んで作業は実に簡単に終わってしまった。

 食事後は午後の軌跡祭があった。午後の部はブロードウエイショーラウンジだった。家内達は

後半の部に出演するとの事だった。従って、今夜開催される「のど自慢大会」のリハーサル後に

家内達が出演する活弁グループの写真撮影に行った。家内達は「冬のソナタ」の一シーンを三

つのパターンに演じ分けていた。なかなか面白い演出で会場から大きな笑い声が上がっていた。

「軌跡祭」という名の最後の発表会(写真説明)

船内ではピースボート側から提供される行事や催し物の他、ジャパングレース(旅行会社)から提供されるもの、

それ以外にも自主企画と称する様々な催し物があった。これら自主企画の集大成とも言うべきものが「軌跡祭」だった。

文字通りトパーズ号がたどった軌跡と同じように、たった三ヶ月間ではあったが、私達は来る日も来る日も自主企画を

中心に行動していた。その発表会がこの日行われた。

実は私が属していたマジッククラブは、この行事には参加せず独自の発表会を二度開いていた。

    

軌跡祭のプログラム第一部(事前掲示されていたもの)(写真上)

チアリーディング(写真説明)

とにかく若者達は常に体を動かしていた。若者のほとばしるようなエネルギーがじっとしていることを許さなかったか。

船という特殊な環境下で良くもここまで完成させることが出来たものだ(写真下十枚)

    

    

  

    

軌跡祭のシンボルと司会者(下の写真)

    

観客席(写真上)

ドラムサークル演奏(写真説明)

振り返ってみればケニアのピーターバンドが乗船してきてからドラムサークルの活動が始まった。

中にはケニアでドラムを買ったものもいた。その総仕上げとも言うべきものが、この日の演奏だった。

バンド演奏(写真説明)

ギターとエレキベース、またギターを沖縄の三味線(三線)を交えての演奏だった

   

    

巨大書き下ろし(写真説明)

この特徴ある文字を何度目にしたことだろう。船客の中にはピースボートセンターの前で

個々人の特徴を良く捉えた書き下ろしをして貰った人がたくさん居るはずだ。

彼らは資金稼ぎのためにシドニー港でも外人さんを相手に書き下ろしをしていた。

    

    

    

   

みんなが見ている前で四人の若者達によって、ほんの短時間の間に大きな地球を取り囲むように

私達の出会いの感動を表した詩が書き添えられていた(写真上九枚)

コリアンドラム演奏(写真説明)

指導したのはGETティチャーの若い女性だった。

  

炎天下での演奏に汗がにじんでいた(写真上三枚)

スペースの踊り(写真説明)

彼らも色んな行事で大活躍したグループだった。

    

    

 

溌剌とした踊りと青い海原、青いシャツがよく似合っていた(写真上八枚)

うねりグループの和太鼓演奏(写真説明)

若者が多い中に一人だけシニアの女性が混じっていた。彼らも数多くの行事に出演していた。

    

    

    

    

    

グループはこんなにもいたのかと思うほどの人数だった。本当にご苦労様(写真上十一枚)

軌跡祭第二部・屋内ブロードウエイショーラウンジ(写真説明)

軌跡祭のプログラム第二部(事前掲示されていたもの)(写真上)

本番前の控え室(写真上)

    

ここではドラムサークルではなく色んな打楽器を使っての演奏だった

司会者二人(写真上)

 

    

これは何だろう。GETティーチャー達の奇妙なコントだった(写真上五枚)

オカリナ演奏(写真上)

 

GETティーチャーの人気者によるビートルズの曲のコーラス(写真上二枚)

家内も入っていた活弁チームの発表。韓国ドラマ「冬ソナ」のワンシーンを三パターンで演じ分けた実力はすごい。

会場からは大爆笑だった(写真上四枚)

これも合唱だったろうか(写真上)

サルサダンス。赤と黒の取り合わせがとてもセクシーだった(写真上二枚)

グループサウンズ二題(写真説明)

何と言っても大人気だったのは下の二グループだったのではないだろうか。

紅白歌合戦でも大活躍だった二グループもこの日が最後の生出演だった。

SMOG(写真説明)

彼らは若い男性ばかり六人によるグループだった。称してスマップではない「SMOG」

最後は背中を見せてSMOG解散。楽しませてくれてありがとう(写真上四枚)

気志団(写真説明)

そう言えばこの突っ張りスタイルどこかで見たような、そう思わせるのがこのグループ。

一見、男性にしか見えない出で立ちも実は女性だったり。歌も踊りも堂に入ったものであった。

大いに会場を湧かせて舞台から消えていった。ありがとう(写真上五枚)

アゴラやアンと言ったスペースでは訪ねてきた国々の子供達の絵やメッセージが展示されていた。

この船の大きな目的は各国の人々との交流でもあった(写真上)

 実はこの日、私自身も第二回目の「のど自慢大会」に出演する事になっていた。出演者が多

ければ前回出演していたので辞退しようと考えていたのだが、少ないので出て欲しいと言われ

出演させて貰った。「のど自慢大会」は夜の二十時四十五分から開催され十三名の出演がいた。

 合格の食事券を出す予算がないとの事で、合格だと思っていた若者二人は不合格にされて

しまった。私のような前回の出演者が出演したために不合格にされてしまい気の毒だった。今

回は特別出演のNさんがいた。Nさんは自主企画の中で折り紙の自主企画を指導している人で

踊りを踊って見せてくれた。戦争で亡くなった息子の霊を弔うために靖国神社へ来た母を演じた。

もんぺ姿がよく似合い遠目には母の姿そのものだった。会場からは大きな声援が飛んでいた。

 この日ののど自慢会場は裏番組に趙博さんの歌うキネマ等があったために入場者が少なく

少し寂しかった。審査委員は私の親しいD.SさんやT.MさんやピースボートスタッフのM.Hさ

んだった。また、司会はピースボートスタッフのM.Hさんだった。こうして、短時間だったが、こ

の船での最後の「のど自慢大会」は終わった。この日、家内は船上の成人式の着物の着付け

を頼まれていたので、私の写真を写すことが出来なかった。仕方がないので知り合いのJ.Tさ

んにお願いした。

第二回目のど自慢大会(写真説明)

実に消化試合のような迫力のないのど自慢大会であった。第一回目のような緊張感は全くなかった。

出演者も様々にメーキャップして、まるでハロウインの様な出で立ちだった。

私は申し込んで一度は断った。と言うのも同じ人間が二度出演するのは悪いと思ったからだ。

ところが出演者が少ないから出て欲しいと言われ、渋々ながら出演させて貰った。

    

司会のピースボートスタッフのミカさんと審査員と会場風景(写真上三枚)

  

   

この日も私は合格だった。普通なら鐘三つと言うところだが、

ここでは審査員三名の点数表が上げられて合格かどうかが分かるのだが(写真上四枚)

    

何と言ってもこの日会場を湧かせたのは折り紙の先生Nさんが演じた靖国の母であった。

歌ではなく踊りでの勝負であった。田舎から出てきた母になりきっての演技は会場の爆笑を誘っていた(写真上三枚)

    

    

    

    

出演者達の様々な出で立ち(これでのど自慢?)(写真上九枚)

 のど自慢が終わってすぐに「船情の主張」と称する企画の方へ行ってみた。初めに、この船の

上で二十歳になった若者達の紹介があって、クルーズディレクターのN.Iさん達から挨拶があ

った。その後、「船情の主張」が行われた。何人かの発表者が舞台に設けられた高い台の上で

発表を行った。中には女性に愛を告白するものもいた。

船上の主張(写真説明)

国内にいれば1月には各地で成人の日の催し物が行われる。ここトパーズ号の上では、それに準じて

「船上の主張」という催し物が行われた。この船にこんなにも二十歳を迎える若者が居たのかと思うくらい

大勢だった。彼らの二十歳になったことを祝うと共に、先輩達から色んなメッセージが述べられた。

中にはメッセージにならない愛の告白などもあって会場は爆笑の連続だった。ともあれ成人おめでとう。

    

会場にはちょっと変なおじさんが飛び込んできた。このおじさんは、この船の中では上から二番目の高齢者。

むろん九十歳を越えている。若者達がこの人の年齢になるまでには何年あるだろう(写真上右)

    

  

CDの井上直さんからのお祝いの言葉、そして今年成人となった若者達(写真上四枚)

    

司会者とスクリーンに映し出された式次第(写真上二枚)

    

先輩からお祝いのメッセージが述べられ、スクリーンにはメッセージが映し出された(写真上二枚)

会場に詰めかけた人達(写真上二枚)

    

やがて会場にはお祝いのための大きなケーキが運び込まれてきた(写真上右)

    

余興にはおなじみの漫才もあった(写真上二枚)

    

    

そして「船上の主張」と称する弁論が?(写真上三枚)

    

これは成人代表に送られたお祝いの品であろうか(写真上二枚)

 私達はここを途中で抜けて波へいへ行った。ここで飲んでいる時、Yが来たので彼女と三人で

飲んで遅くなったので部屋へ引き上げた。

 今日も何かと忙しい行事の間に帰る準備や写真の選び出しを行った。明日も卒業式などの大

きな行事が予定されていた。その上に「しゃべり場きけ場」の追加が二十九日に飛び込んできた。

こんなに毎日忙しくては帰りの荷造りをいつすれば良いのだろう。

 FちゃんはO君の彼女だった。どうやら、この二人はこの船で知り合ったようだ。たいてい二人

一緒に行動していた。そのFちゃんが描いた絵を絵葉書にしたものが、カンボジアの地雷撤去

のカンパ金を集めるために売り出された。当然の事ながらO君がFちゃんの側にいて販売の手

伝いをしていた。Fちゃんの描いた絵には不思議な魅力があった。寄港地毎に思いついた絵を

描いてきたと言うのだが、スケッチではなく自分の頭に浮かんだものを、そのまま描いたのだと

話していた。彼女の外見は、あだ名と同じようにフーテンのようで、一見つかみ所のないような

女の子だが、こんな才能があったとは実に驚きであった。この船には、私達が知らないだけで

色んな能力や才能を持った人が乗っているようだ。私達はカンパ代わりに彼女の絵を何枚か

買った。

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