東京散歩2005

三月二十日(高田の馬場から赤塚へ)

 私達夫婦は去る三月十八日に上京し、三月二十四日倉敷へ帰ってきた。その間、三鷹市の

息子のワンルームマンションに五日間滞在した。息子の住んでいる牟礼というところや周辺の

事については前回も書いたので重複するところは割愛する。

 今回の上京は息子に会うためでもあったが、先のピースボートで知り合った友人達に再会する

ことが大きな目的であった。その一つが船内企画の「しゃべり場聞け場」の担当だったピースボ

ートスタッフのS君との再会だった。S君はアメリカ人だ。この日は高田の馬場に彼らの住まいが

あるというので、ここを訪問した。この日、息子も休みだったので行動を共にした。JR高田の馬

場駅に着き、ここで待っていると少し遅れてS君が来た。彼等の住んでいる住まいに向かってい

るとき、千葉から来る事になっていたF.Jさんから電話があり、今駅に着いたとの事だった。も

う一度駅まで引き返し彼女を迎えに行った。こうして、私達夫婦と息子、S君とF.Jさんの五人

で、彼らが言うところの「馬場小屋」に着いた。「馬場小屋」では「しゃべり場聞け場」で一緒に行

動したH.Tが待っていた。ここで昼食をとも考えたが準備も大変なので外ですることにした。ま

た、駅前まで引き返し駅前の自然食の店に入った。

 食事が済み「馬場小屋」に帰る途中、ピースボートセンターに寄った。小さなビルの中にセンタ

ーはあった。この日は日曜日だったので人は少なかった。知り合いのスタッフはT.Fだけだった。

他にはボランティアスタッフなのだろうか、私よりも年輩の男性がビラ貼りに出かける準備をして

いた。このように各地のピースボートセンター近くに住んでいる人達は、ビラ貼りに行って日当は

旅費の一部にしているようだ。

 ここを出て再び「馬場小屋」に戻ってきた。H.Tが寝起きしている狭い部屋は大人六人が座っ

たら一杯だった。また、S君の部屋は玄関(とは言えないほど狭い出入り口だったが)を入ったと

ころにあった。H.Tの部屋は壁一面オレンジ色に塗ってありアフリカの絵が描いてあった。以前、

この部屋にいたピースボートスタッフが描いたとの事だった。

 F.Jさんが持ってきてくれたお土産を食べながら二時間近く話をしただろうか。S君は日本語

の勉強がしたくてアメリカ本国に奨学金の申請をしていると話していた。また、この部屋の住人

であるH.Tは元の職業(看護師)に復帰したと話していた。このように将来が決まったもの、まだ

決まらないものなど色々だった。

 私達はH.Tに駅まで送って貰い、ここで別れた。F.Jさんとも、ここで別れた。私達三人は夕

方近くになってK.Sさんに会うために地下鉄有楽町線赤塚駅に向かった。駅に着いたとき迎え

に来ているはずのK.Sさんの姿が見えなかった。ご主人が経営しているという店に電話してみ

ると「そちらに向かっていると思うが」と言う返事だった。近くだから、とりあえず店まで来て下さ

いと言うことで電話での道案内を聞きながら歩いていくと店は駅のすぐ近くにあった。

 店は階段を下りていくようになっていた。注文をして待っているとK.Sさんが駅で入れ違いに

なったと言いながらやってきた。彼女は花粉症らしく、かなり重症のように見えた。そういえば、

ここへ来る途中も電車の中でマスクをかけた人をたくさん見かけた。東京は人口も多いが花粉

症になっている人も多いようだ。

 店は世界中のビールを集めていると言うことで、ビール好きな息子や私にとっては大変楽しみ

だった。比較的早い時間から飲み始めた。また、横浜から来るというMを待つ時間の間中、ず

っと飲み続けていた。そんなわけで小瓶が多かったものの本数はすごい数だった。Mが来てか

らも話が弾み、それからも飲み続けた。こうして夜遅く主人にお礼を言って店を出た。楽しい夜

だった。横浜まで帰るというMとは駅で別れた。

三月二十一日(懐かしき秋葉原と有楽町)

 翌日はT.Iの送別会だった。T.Iは沖縄のホテルに就職することになっていた。今回の上京も

彼の送別会へ出席する事が目的だった。この場にはピースボートでの「活弁」仲間が集まること

になっていた。むろん水先案内人だった活弁士の佐々木亜希子さんも来ることになっていた。

 私達は午前十一時頃息子の家を出て吉祥寺に向かった。ここでピースボートスタッフだった

S.Gに会う予定だった。改札口で待っているとS.Gがやってきた。お昼近かったので駅から

少し離れたそば屋に入り、お互いがその後の生活について話をした。まだ少し時間があったの

で、そば屋を出てから井の頭公園近くのケーキ屋さんにお茶を飲みに入った。S.Gはピースボ

ートスタッフからジャパングレースの社員になったと話していた。深くは聞かなかったが、何か考

えるところがあったのだろうか。またS.Gは、この後、大学のテニス部の後輩達と飲み会があ

ると話していた。

 ここを出て三人はそれぞれの行き先に別れた。家内は昨晩一緒だったMと一緒に買い物が

あるからと言うことで有楽町の方に向かった。私は久々に秋葉原に行ってみようと思っていた。

ここは、もう二十数年前に一度行ったきりで、上京するたびに寄ってみようと思いつつ、なかなか

チャンスがなかったところだ。

 秋葉原の駅周辺は大きく変わろうとしていた。駅近くには大きなビルが建ち、関連工事が急

ピッチで進んでいた。後で調べてみると駅周辺の再開発は秋葉原クロスフィールドと呼ばれ、

もう一ヶ月もすればすっかり変貌した町になるのではないだろうか。

 私は電気街という看板に従って駅構内を出た。ここには昔と同じように大小の電気店がひし

めき合うように建っていた。そして、狭い路地に一歩入ると色んな電気部品を売る店が軒を接

して建っていた。しかし、過ぎ去った歳月は長く、並んでいる商品も店の中もすっかり変わって

いた。かつて、この当たりの店は闇市のように薄汚れて暗かった。商品も新品ばかりでなく、ど

こかからか取り外してきたような部品も少なくなかった。今はそんなものはなく、全てが最新型の

電気製品だった。客の気を引くように工夫された値札の付いた商品が所狭しと並んでいた。こ

こには、おおよそ電気製品と言われるものでないものはなかった。

 その中に懐かしい商品を置いている店があった。それは以前、私がここへ来たとき買った数

少ない電気部品の一つだった。ネオンガスの入っている電球と磁石の働きでフィラメントが揺れ

る電球だった。当時、大変珍しく、わずかばかりの小遣いをはたいて買ったものだった。今でも

当時と同じものを売っているのが、とても不思議だった。

 その当時、トランジスターなるものは開発されたばかりで、電子部品と言えば真空管が主流

だった。今では真空管もマニアが買い求める数少ない部品の一つになってしまった。その代わ

り電子部品はトランジスターからICに大きく進化し、今日では超LSIが主流だ。パソコンが普及

し、オーディオ製品もステレオからAV製品に大きく変貌を遂げた。そして、薄型で大型画面の

テレビジョンやプロジェクターで、家庭の中でも映画館の雰囲気が楽しめるようになってきた。

たった四十年近くで何もかもが変わってしまったのだ。

 電気街の外れに古い橋があった。下を神田川が流れ、この橋を昌平橋と言う。いかにも時代

がかった趣のある橋だった。この橋を渡り、しばらく歩くと本物の弁慶号などを置いている交通

博物館があった。電気街も見飽きたのでここに入ってみた。一階は鉄道、二階は船、三階は主

として航空機関連の展示物が置いてあった。わずかばかりの時間ではとても見てしまえないよ

うなボリュームのある展示物だった。私は博物館の係員に許可を得て、主だった展示物の写真

を写しながら館内を見て回った。この建物は旧万世橋駅を改造したものだとの事だった。博物

館のすぐ横には万世橋がある。

 博物館の中を見学している内に待ち合わせの時間が近づいたので有楽町に出ることにした。

有楽町は私達世代にとって何となく心うきうきする町の名前だった。昭和三十六年、高校を卒業

する前々年に修学旅行で訪れた町だった。当時はフランク永井の「有楽町で会いましょう」と言

う歌謡曲が大ヒットしていた。「♪♪貴方を待てば雨が降る。濡れて来ぬかと気にかかる。ああ、

・・・・」と言う歌詞は、今もはっきりと耳の底に残っている。当時にあっては如何にも都会的な雰

囲気が感じられる歌だった。修学旅行の時、有楽町に降り立ったのは夜だった。周辺の景色の

大半は闇の中で、やたらネオンが眩しかったことを思い出す。

 みんなが集まる「ニュー東京」というビルは駅のすぐ近くにあった。駅近くには交番があり、その

横で「猿回し」をしていた。猿に芸をさせているのは若い女性だった。たちまちの内に人だかりが

出来た。猿が芸をする間にも女性が口上よろしくお金を集めて歩く。千円札を投げ込むような人

もいて、けっこう良い稼ぎになっているようだった。幟旗には「・・・保存会」という名前が付いてい

た。

 少しだけ猿回しを見て駅に引き返した。やがて家内やMがやってきた。私が一番早かったよ

うだ。駅前で待ち合わせていたのは数人だった。他は今日の会場であるニュー東京本店に来る

ことになっていた。こうして久々にピースボート仲間が集まって賑やかな宴会になった。大半は

活弁仲間だった。しかし、私は活弁仲間ではなかったが最初に活弁に関わった事もあって、み

んな顔見知りだった。本来はT.Iの送別会だったが、いつの間にか「活弁」仲間の同窓会のよ

うになってしまった。二時間近く飲んだ後、ここを出た。そして二次会は近くの酒場になった。こ

の店は黒一色で統一され、その上薄暗く狭い部屋が妙にお互いの親近感を呼ぶような作りに

なっていた。ニュー東京と言い、この店と言い、やはり地方とは何かしら異なる雰囲気だった。

 ここを出て更に飲みに行くというものと帰るというものに別れた。私は少し疲れていた事もあっ

て帰ることにした。同じ方向に帰るというAに乗換駅まで送って貰い息子のマンションに帰った。

息子は夜間の仕事があるとかで、すでに寝ていた。起こしては悪いと思い、そっと横になった。

夜遅く息子は出ていったようだ。その日、家内達は学校へ復帰したというR.Kのところで飲み、

そこで朝まで過ごしたようだった。

三月二十二日(若者の街下北沢)

 翌朝は曇り空だった。家内や息子は昨晩十分寝ていなかったので、私だけ出かけてみる事

にした。何度も行ってみたいと思いつつ、なかなかその機会がなかった下北沢に行くことにした。

下北沢はここ三鷹台と同じ沿線上にある。私の感覚では、もっと近いように思っていたが、電車

に乗ってみると意外に遠かった。

 下北沢の駅を出ると、今にもどんよりと曇っていた空からは雨がぽつぽつと落ち始めた。しか

し、傘を差すほどでもなかった。持っていた折り畳み傘はそのままに歩き始めた。下北沢南口

商店街という駅前の通りも駅裏の通りも、これが大都会の町かと思うほど細い通りだった。その

道の両側に、これも又、小さな商店が軒を連ねていた。

 演劇の町だと聞いていたが、その通りで○○劇場と名の付いた看板や本多劇場という劇場

そのものやライブハウスなどがあった。この町には若者が多かった。渋谷や新宿と対局にある

ような、こんなひなびた町に何故若者が多いのだろう。そんな事を考えながら、端から端まで歩

いてもさして時間のかからない町の中を歩き回った。その内に少し雨が大粒になってきた。雨傘

を差して歩くと向こうから来る人の傘に当たるような感じさえする通りだった。

 しかし、町全体が小さくても、通りが狭くても、何となく魅力のある町だった。町そのものに温か

さが感じられた。古い街と新しい感覚がうまく解け合って、この町の魅力を作り出しているようだ。

駅裏の通りは更に下町を感じさせた。暗く狭いアーケード通りは、昭和三十年代のそれを思わ

せるような通りだった。そこを抜けると通りは明るくなり少し広くなった。それでも先ほど歩いた

駅前の通りと何ら変わらなかった。

 昼には少し早かったが、朝食抜きで来ていたのでお腹が空いていた。駅まで引き返し、駅前の

自然食と書かれた食堂に入ってみた。間口一軒ばかりの奥に細長い店だった。入り口近くにカ

ウンターがあり、その奥が調理場になっていた。そして、通路を挟んで反対側の壁際に幾つか

のテーブルとイスが並んでいた。正午前だったが既に満席状態だった。私は入り口近くのテーブ

ルに相席で座った。こんな店では相席も仕方がないことだった。

 注文した品は、どこが自然食なのか判別がし難いような普通の豚カツとご飯とみそ汁だった。

いわゆる一膳飯屋といった感じの店だった。味も普通だった。そうしている内にも、お客は次々

に出入りしていた。お昼時とは言え大繁盛だった。私は待っている人のために早々に食事を済

ませて外に出た。

 雨は少し小降りになっていた。もう一度、先ほどと同じ道を歩き、駅前から続いていた商店街

の外れに来た。ここは、さすがに道幅も広く町はずれと言った感じの人気の少ない場所だった。

これで、この町の隅から隅まで歩いたことになるのかどうかは分からなかったが、線路を挟んで

両方の商店街を歩いたことになる。下北沢という町の雰囲気だけは味わうことが出来た。

 一度、息子の家まで帰った。家内と息子も井の頭公園近くまで散歩をして帰ってきた。歩いた

のは、いつも息子がランニングをしている道だとの事だった。散歩するには最適なコースだと話

していた。汗になったという息子と一緒に近くの銭湯に行くことにした。

 洗面道具とタオルを持って出かけた。久々の銭湯だった。「神明湯」という銭湯は、家から十

数分くらいのところにあった。道すがら大きな住宅の側を通り過ぎた。お寺か神社を思わせる

ような大木のある立派な門構えの家が何軒もあった。どんな家なんだろう。何をしている家なん

だろう。家の大きさや古さからすると、この土地に古くから住んでいる名のある家ではないだろ

うか。

 また、この町は名木と思われるような大木を市の指定木にしていた。指定木の多くはケヤキ

だった。この当たりが武蔵野のはずれだった頃からの木々ではないだろうか。

 「神明湯」は、遠くからでもすぐに分かった。高い煙突が立っていたからだ。煙突には「神明湯」

と大書してあった。古くからの銭湯のようであったが、こざっぱりとした気持ちの良い銭湯だった。

番台の奥に脱衣所があった。浴場にはいかにも銭湯らしく奥の壁には精進湖から見た富士山

の絵が描いてあった。精進湖にヨットなど浮かんでいただろうか。風呂屋の精進湖にはヨットが

描かれていた。

 ここの湯で特筆すべきは「電気湯」だった。中にはいるとビリビリと電気を感じるのだ。「心臓

の悪い人はご遠慮下さい」と書いてあった。心臓が悪くなくても長くは入っておられなかった。何

とも気色悪かった。

 ここで、あの湯この湯と色んな浴槽を出入りしていたら、すっかりのぼせてしまった。脱衣所に

出てからもなかなか汗が引かなかった。やはりシャワーと異なり、銭湯の湯は体の芯から疲れ

がとれるようで心地よかった。

 帰りには今夜のおかずを買いに豆腐屋へ寄った。小さな豆腐屋だった。豆を炊く釜だろうか、

小さな土間の中央に不似合いなほど大きな釜が据えてあった。店先にはおじさんが座っていた。

今日はこれだけという豆腐や厚揚げや揚げ等が置いてあった。何となく親しみを感じる下町の

風情だった。

 酒屋にビールを買いに立ち寄った頃から雨が降り始めた。小雨だった。息子と私は大急ぎで

家に向かった。春とは言え日暮れは早い。牟礼神社の側まで戻ってくると、周辺は薄暗くなり始

めていた。まだ、体の芯には心地よい銭湯のぬくもりが残っていた。

三月二十三日(港町横浜を歩く)

 翌日は横浜に向かった。横浜ではピースボートで友達になったKさんとSさんに会うことになっ

ていた。この日は横浜に向かう京浜東北線のトラブルがあり、一時やきもきしたが何とか待ち

合わせの時間どおり京浜東北線の桜木町駅改札口に着くことが出来た。

 同じ横浜だとは言っても待ち合わせている二人はそれぞれ離れたところに住んでいるので別

々の方向からやってきた。横浜に来るのは何年ぶりだろう。その変わり様には、ただただ驚く

ばかりであった。特に駅前から横浜の港方面は「みなとみらい21」の近代的な建物が建ち並び

洗練された都会の雰囲気になっていた。

 私は待ち合わせの間、駅前に出て写真を写していた。その内に電池切れのサインが出てしま

った。持っていたデジカメの予備電池はなかった。昨晩充電しなかった事を悔やんだが後の祭

りだった。やむなく、この日の撮影は携帯電話を使う事にした。しかし、携帯電話の写真は記録

というほどのものでしかなかった。

 この頃から、ぽつりぽつりと雨が降り始めた。待ち合わせの二人が来た頃には本格的な雨に

なってしまった。とりあえず、お昼が近いと言うこともあって近くのホテルのバイキング料理を食

べに行くことにした。幸い時間が早かったので待ち時間もなく食堂に入ることが出来た。カウン

ターのような窓側の席に四人並んで座った。お昼のバイキングでもあり安い料金の割には、しゃ

れた料理がたくさんあった。小雨に煙る横浜港を眺めながらの食事は楽しかった。遠くには大き

な客船が停泊していた。後で行ってみようと言うことになった。

 Kさんは、この辺の地理には詳しかった。窓から見える景色をあれこれと説明してくれた。さす

が長年この地で暮らしている主婦だけの事はあった。一方、Sさんは我々が来るというので、旅

の本まで買って、どこを案内しようかと気遣っていてくれたようだ。二人にはただ感謝あるのみ、

ありがたい事だった。

 食事が終わって、先ほどから見下ろしていた海沿いの「汽車道」を歩き始めた。この道は、か

つての臨海鉄道の線路だったところで、そう言えば、その当時のものがところどころに残ってい

た。なかなか、お洒落な遊歩道だった。

 雨さえ降らなければ海風に吹かれながらの、そぞろ歩きは申し分ないものだったのだろうが、

あいにく風を伴った本格的な雨になってしまった。持ってきた景品の折り畳み傘は、風のために

たちまち骨が曲がってしまった。

 最初に入ったのは「赤レンガ倉庫」という建物だった。昔の倉庫を改造したものでアンティーク

や家具の店など洒落た店がたくさん入っていた。倉庫と倉庫の間はイベント広場だろうか。鉢植

えの花が、たくさん並び放送設備の準備等が行われていた。しかし、この雨ではイベントは無理

なのではないだろうか。

 ここを出て、目の前に見えている大型客船を見るために「大さんばし」に向かった。船は目の

前に見えていたのだが、船の側まで行くには大きく迂回しなくてはならなかった。買ったばかりの

皮靴は雨に濡れて色が変わっていた。「大さんばし」には大型客船が停泊するのにふさわしい

大きな建物があった。中は待合所になっていて広々としていた。

 建物の横に停泊していたのは、この日の夕方出港する予定の豪華客船「飛鳥」だった。さすが

に最新鋭の客船だけあって白い船体は優美な形をしていた。トン数はピースボートのチャーター

船であるトパーズ号より少し小さかったが、見た目には大きいように思えた。近い将来、トパーズ

号も、この桟橋から出港するようになると聞いていた。

 足元が何とか乾くくらいまでここにいて山下公園方面に向かった。さすが、この界隈には港湾

関係の建物や歴史を感じさせる古い建物がたくさん残っていた。中には横浜港が江戸時代から

の繭や絹糸の輸出基地だったことを思い出させるような施設も残っていた。

 山下公園近くの喫茶店に入り、ここでお茶にした。そして、Sさんは今夜出席したい集まりが

あると言うので、いつか再会することを約束してここで別れた。私達は、この日この二人と会って

夕方、息子の家に帰ることにしていた。しかし、Kさんが熱心に勧めてくれるので言葉に甘えて

一晩Kさんの家に泊めて貰うことにした。Kさんの家は更に先の金沢文庫近くだった。

 実はKさんのご主人もピースボートに乗ったことがあると言うことで夕食時の話は弾んだ。人の

縁というものは、どんなところにあるか分からない。Kさん夫婦は岐阜県の大垣市出身だった。

私が勤めていた日本合成の大垣事業所のすぐ近くが実家だとの事だった。ご主人の方のKさん

はN板ガラスに勤めていて定年を待たずに退職されたそうだ。その後、ボランティア活動など幅

広い地域活動をしていて、そんな事からピースボートにも乗られたらしい。また、他のコースにも

乗りたいと話しておられた。

 Kさん宅は大きな団地だった。7、8階建てのマンションがたくさん並んでいた。もう何年も前に

買われたとの事だった。マンションから見下ろす川には海からボラなどの魚が入ってくるとのこ

とだった。建物は木々にかこまれて非常に良い環境だった。この日は夜遅くまで話が弾み楽し

い思い出となった。

三月二十四日(さようなら東京)

 翌日は朝食をご馳走になり帰途に着いた。駅まではワンちゃんの散歩を兼ねてご主人が送っ

て下さった。本当にお世話になりました。この当たりは開発が進んでいるとは言いながら、まだ

まだ自然がたくさん残っていた。ホーム向かいの「わら屋根」の家は何だろう。その横には大き

な藪椿が咲いていた。赤い色が朝日の中で色鮮やかだった。ここからは「きりとおし」というとこ

ろを抜ければ、鎌倉はすぐ近くだとの事だった。また、機会があれば訪ねてみたい場所の一つ

だ。

 一度、息子の家に戻って帰り支度をしなければならなかった。息子とは会わずじまいで帰るこ

とになるかも知れないと思っていたが、この日の出勤時間は遅いとのことで、まだ家にいた。私

達が帰るのと入れ替わりに出ていった。慌ただしい別れだった。

 泊めて貰ったお礼に風呂とトイレの掃除をして置いた。家内は洗濯をしていた。こうして昼近く

になって、ここを後にした。とりあえず東京駅まで出て、コインラッカーに荷物を預けた。そうして

新しくなった丸ビルに入ってみた。更に時間があったので、あまり気乗りではなかった家内を誘

って皇居の方へ行ってみた。ここへ来るのも何年ぶりだろう。修学旅行の時以来かも知れなか

った。二重橋近くまで行って何枚も写真を写した。こうして今回の長い東京散歩は終わった。

                                        2005年8月9日掲載

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