ラバウル戦跡地を訪ねて

2005年1月22日(土)

 私達は1月22日早朝、最後の寄港地であるパプアニューギニアのラバウル港沖合に着いた。

地図で見てみると、ここパプアニューギニアは先に大地震があったインドネシアのスマトラ島に

近く赤道直下に近い国だった。

 ここには活火山が幾つかあり、1994年の大噴火の時には、ここラバウルは町全体が大量の

火山灰によって埋もれてしまった。それから十年近くが過ぎ、一時はこの町から避難した人達が

少しずつ戻ってきて町の復興が進んでいる。

 そして、ここパプアニューギニアは「ラバウル小唄」にも歌われているように旧日本軍が大量の

兵力を投入したところでもあった。しかし、日本からは遠く離れていて食料や弾薬などの補給線

をアメリカ軍に絶たれ、多くの兵士が飢えとマラリアなどに冒され亡くなっていったところである。

 私の父の末の弟も、その内の一人であった。小説「野火」にも書かれているように戦友の死体

を食べなければ生き残れなかったほど現実はすさまじいものであった。記録によれば1945年

8月の戦争終結までに六万人が戦闘で戦死し、十一万人が飢えとマラリア等の病気で亡くなった

と言われている。大量の兵力を送り込んだときには、戦況は悪化の一途をたどっていた時であ

り、あたら尊い命を無駄にしてしまった。如何に軍隊というものが冷酷無比なものであるかと言う

ことが良く分かる事例であった。そんな中に私のおじさんも居たのかと思うと、若くして命を失った

叔父さんが不憫でならない。

 今日は、この地にわずかに残っている旧日本軍の戦跡を見に出かけた。窓の壊れたマイクロ

バスに乗って着いたのは椰子の木やバナナの木が林立するジャングルに近いような場所だった。

多くの椰子の木は栽培されているものでプランテーションと呼ばれていた。ここで生活している

人の仕事場であった。

 このあたり一帯も先の大噴火で大量の火山灰が降り、旧日本軍の飛行場後は火山灰の下に

埋まっていた。今は観光資源として陸式一攻と呼ばれていた爆撃機と零戦の残骸だけが掘り出

され見学出来るようになっていた。

 ここには、この周辺から集まったと思われる地域の人達が歓迎のための花飾りを道の要所

に飾って待っていてくれた。また、広場には民芸品が並べられていた。そして、子供達数人が

ラバウル小唄を歌ってくれた。誰が教えたのだろうか。歌えば日本人観光客が喜ぶことを知っ

ていて歌っているようだった。私達の一行の中にも一緒に歌っている人もいた。

 また、一人の若者が近くにあった高い椰子の木にするすると登り始めた。そして、椰子の実を

幾つか落としてくれた。その一つを下にいた男の人がきれいに削って飲み口を作り、飲むように

勧めてくれた。私達は喜んで回しのみをした。完熟に近い椰子の実で中の液体はやや発酵して

いるように感じられた。私達はお礼に一ドル札を何枚か置いて帰った。みんなの心温まる歓迎

を受け、ここを後にした。

 次に見学したのは山本五十六海軍司令部地下壕跡だった。ここには旧日本軍の海軍司令部

があり、山本元帥がブーゲンビル島近くで撃墜される数日前まで、ここに滞在していたと言われ

ている。今残っているのは分厚いコンクリート製の屋根の狭い迷路のような地下壕だけであった。

地下壕の中には以前見学に来た人達が記念に書き残した落書きがあった。

 次に眼下に海が見える小高い丘に行った。ここには、この地で亡くなった戦死者を追悼する

ために建てられた大きな記念碑があった。記念碑にはパプアニューギニアや周辺地域の地図

が描かれていた。おそらくは旧日本軍が展開していた南方戦域を表していたのではないだろう

か。ここからはトパーズ号が停泊しているラバウル港が見えた。そして、記念碑周辺には激しい

激戦地であった事が嘘のように美しい花が咲いていた。

 そして、午前中の最後の訪問地はバージトンネルだった。ここは海から二百メートル程離れた

ジャングルの中にあった。旧日本軍が現地の人を動員して作らせた大きなトンネルがあり、中

には沖に停泊した船から荷物を陸に輸送するためのバージという小型船があった。残された船

にエンジンはなく鉄製の船体だけが赤錆びて横たわっていた。奥行き百メートル近いような大き

なトンネルの中に五隻の船が残されていた。トンネルの上には軍施設である事をカムフラージュ

するために用に植えたと思われる竹が今も青々と茂っていた。

 ここでも大勢の人が土産物を並べていた。果物や首飾りや木彫り製品など雑多なものが並べ

られていた。また、若者達が歓迎の踊りを踊って見せてくれた。少しはにかんで挨拶をする子や、

実を噛んで真っ赤になった口の中を笑いながら見せてくれる女性など、実に人なつっこい人達

だった。私達はここへ来る前も、ここから次の場所へ移動するときにも、道ですれ違う大人や

子供達に手を振って迎えられた。日本人には、何かしら親近感を持っているように感じられた。

あるいは観光資源に乏しいこの地に来るのは、日本人だけなのかも知れない。

 私達は、ここから乾燥してもうもうと舞い上がる火山灰の道を一時間ほど走り、隣り町のココポ

に移動した。火山噴火の難を逃れラバウルから移ってきた多くの人が、この町に住んでいた。町

はずれの小高い丘の上にあるゴルフ場の休憩所が今日の昼食会場だった。

 大勢のツアー客なので別な場所で作った中華料理を運んでくるのだと聞いていた。ところが

準備されていたのは素朴な現地料理だった。作っているところは見ていないので想像での話だ

が、椰子の葉に包んで蒸し焼きにしたと思われる野菜や肉がたくさん並んでいた。それらを椰

子の葉で作った器に入れて食べるようになっていた。調味料らしいものは何も使っていない素朴

な味の料理だった。代表的なものはタロイモやバナナや鶏や魚の蒸し焼きだった。久々に野菜

のおいしさを感じた昼食であった。(タロイモがこんなに美味しいものだとは思わなかった)

 この国で現地の人とコンタクトがとれる言葉と言えば英語だった。食後、周辺を散歩している

時、若い女性達がいたので話しかけて見た。私の未熟な英語でも何とか話は通じたようで嬉し

かった。

 午後はココポにある博物館へ行った。博物館の正式名称は「東ニューブリテン歴史文化博物

館」だった。ここには旧日本軍の武器やアメリカ軍の武器の他、歴史的な遺物や民芸品などが

展示されていた。ショーケースには入れてあったが、保管状態はきわめて悪く博物館と言うには

ほど遠い状態だった。

 ここで急に雨が降り始めた。南の国特有のスコールだった。この雨は生活用水に利用されて

いて屋外の大きなタンク二つに溜めるようになっていた。

 雨宿りの間、六十九歳だという男性と話をした。彼は旧日本軍が駐留していた頃、七歳か八

歳だったと思われるが、片言の日本語が話せ、日本の歌も良く知っていた。私は、この島のこ

の世代の人と、どこかで出会うことを願っていたので思いが通じて本当に嬉しかった。

 雨が少し小降りになったので再び車に乗ってココポ市場に行った。ここには大勢の人が店の

軒先で雨宿りをしていた。私達が駐車場に車を停めた頃から雨は小やみになっていた。まずは

スーパーマーケットの中に入ってみた。お米や塩や砂糖の袋が床の上に積み上げられていた。

また、工具やシャツなども同じフロワーで展示販売されていた。肉類は全てパックされた冷凍物

だった。どこで作っているのだろうか。缶詰はどこから輸入しているのだろうか。この島で作られ

た物ではないようであった。良く確かめてみれば良かったと後悔した。

 また、店の隣には近隣から持ち寄ったと思われる野菜や果物などがたくさん並べられお客を

待っていた。中には、たばこの葉を干して売っている店もあった。私達はここにしばらくいていて

ラバウル港へ向かって出発した。

 来る時には砂埃が舞立つような道だったが一雨降った後だったので、涼しくなり快適な道に

なっていた。その代わり港近くになってますます本格的なスコールになってきた。窓ガラスの壊

れた私の座席には容赦なく大粒の雨が降り込んで座席は瞬く間に水浸しになってしまった。や

むなく場所を移動して補助席に移った。港近くまで戻ると道路は川のようになり、大量の泥水が

海に流れ込んでいた。出かける時にはあれほどきれいで魚がたくさん見えた海は茶色く濁って

いた。

 この島に私達のようなツアー客を迎えるような設備はなかった。従って、今回利用したマイクロ

バスも窓の壊れたオンボロバスだった。ツアーの移動手段には小型のトラックも使っていた。

 ラバウルの道の大半が火山灰に埋もれていた。従って、分厚い火山灰の道にタイヤをとられ

ながら、エンコする事を気遣うような場所も何ヶ所かあった。

 パプアニューギニアは環太平洋火山帯の上にある。従って、地震も多く火山活動も活発だった。

ラバウル周辺にさえ三つの活火山があり、過去、これら火山が吐き出した大量の火山灰は積も

って分厚い層になっていた。1994年の大噴火の時には、前々からいつ噴火するか分からない

と聞いていたらしく大きな被害に遭う前に避難したのだとガイドの女性は話していた。

 また、雨期のシーズン毎に大量に降る雨は十年も過ぎると灰を押し流し、何とか人が住める

ような環境になるらしい。何故か火山灰の新たに降り積もった場所では果樹や野菜が良く育つ

とガイドの女性が話していた。新しい土地には植物に必要なミネラルなどが多いのだろうか。

 ガイドの女性は現地の人だった。生活はどのようにしているのかと訪ねてみると、お役人以外

に定職を持つものはきわめて少ないようだ。また、工場と言ってもラバウル周辺には椰子から

油を抽出する工場やコカコーラの工場ぐらいしか見当たらなかった。大半の人は定職を持たず、

椰子やバナナのプランテーションで働いたり、土産物や農産物を売って暮らしているようだ。

 実に質素で貧しい生活だが、贅沢を言わなければ海は近く山に入ればバナナや椰子の実は

たくさんあった。その他、マンゴーなどの果物も豊富だった。今は火山灰に埋もれてしまったが、

以前はサトウキビなども生産していたようだった。いずれにせよ、わずかばかりの観光収入と自

給自足に近い生活のように思えた。また、この国の95パーセントの人がクリスチャンだとの事

であった。そう言えば大きな建物の少ないこの国で大きな建物と言えばほとんどが教会だった。

 実に陽気で人なつっこい人が多いことは先にも書いたが、船が入港した朝は港で歓迎の踊り

を披露してくれた。また、夕方にはブロードウエイショーラウンジで現地の人達による「シンシン

ダンスショー」があった。これも踊りというのだろうか、大人達数人が舞台の上で細い枝で作った

鞭でお互いの体を叩き合った。その度に体に塗った白い粉が飛び散った。多分に勇気を競い

合う宗教的な意味合いの強いもののように感じられた。

 次は子供達によるダンスだった。キリスト教を信じることによって好きな女性を迎えることが出

来るようになったという物語を踊りにしたものであった。体に模様を描き頭には面を付けた帽子

のようなものを被っていた。単調な動作を何度も繰り返す踊りだった。踊りの後には記念撮影が

あった。お面をぬいだ子供達はとても可愛く思わず抱きしめたくなるような澄んだ美しい目をして

いた。私も家内も彼らと一緒にカメラに収まった。

 私にとって思い入れの強かったラバウル訪問は終わった。心からこの地で死んでいった多くの

英霊に対し霊安かれと祈らずにはおられない。ただでさえ蒸し暑いこの地で、叔父達はどんな

思いで銃を握っていたのだろうか。食べるものもなくマラリアや栄養失調に苦しんで亡くなって

いった叔父達の事を考えると、いかなる理由があろうとも再び銃を取るような事があってはいけ

ないと強く心に誓った。

 そう言えば入港時に見えた小さな二つの島。あの島を見ては日本の二見ヶ浦の夫婦岩を思い

出し懐かしんだという兵隊達の心が偲ばれた。日本から遠く離れた南方の戦地でふるさとに思

いを馳せたに違いなかった。

 ラバウル周辺も近年都市化の影響もあって犯罪が増えているようであった。今回の旅行者の

中にも危うく現金を脅し取られそうになった人もいたようだ。とは言うものの、南国の穏やかな国

であった。海から見た陸地の眺めは緑が濃く、どこへ行っても素朴な感じが色濃く残っている国

であった。

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