最後の訪問地へ

2005年1月18日(火)

 この旅日記もいよいよ締めくくりを迎えようとしている。船はシドニー港を出て、一路パプアニュ

ーギニアのラバウルに向かっている。ここは戦前日本軍の前線基地があったところだ。戦中派

にとっては「ラバウル小唄」等でも知られたところである。

 一方、廊下には荷造り用のガムテープが幾つも設置され、船内のあちこちでは若者を中心に

サイン帳の記帳交換が行われ始めた。船内は下船が近くなり、にわかに慌ただしくなってきた

ようだ。

 船内企画も軌跡祭だとか卒業式だとか下船を意識しての企画が始まった。私達が担当して

いた「しゃべり場きけ場」は戦跡地ラバウルを意識して「戦争と平和」や「憲法」と言ったテーマ

での話し合いの場を作ろうと準備していた。しかし、なかなか内容が絞り込めなくて夕食前から

夕食後も夜遅くまで話し合いを行った。結局、この日は結論が見いだせないままに、明日の朝

もう一度相談しようと言うことで解散をした。

 一方、ラバウル企画では、戦前戦中派の人達に戦争体験を話して貰おうという企画がピース

ボートスタッフサイドで進められていた。こちらは私より年齢が上のシニア層を中心に相談が行

われていたが、なかなか方向が見出せないようであった。

 この日の大半はニュージーランド南島旅行記を書くことに費やした。パソコン入力に疲れたら

一休みを兼ね七階に上がって知り合いの人にサイン帳を出してサインを頼んだ。

 こうした慌ただしい中ではあっても、また、安息日ではあっても、新たに乗船した水案による

企画が始まっていた。カジポンというニックネームの水先案内人は多くのビデオテープを持ち

込んでいた。そのテープは音楽や絵画、アニメから恋愛映画、歌舞伎と多岐にわたる実に幅広

い分野のものだった。

 これらのテープの一部を紹介しながら音楽や絵画や映画の鑑賞の仕方を解説してくれた。彼

の芸術鑑賞への熱い思いがどの解説にもあって話が面白いだけでなく、なるほど交響曲という

ものは指揮者によってこうも異なるものだと言うことが良く理解できた。

 また、芸術は戦争と対局にあって平和だからこそ生まれてくるものだという彼の話にも説得力

があった。ともかく、彼の話は大変面白くて芸術好きになった人が大勢いたのではないだろうか。

 夜遅く一度部屋に帰ってパジャマに着替えたのだが、家内の帰りが遅く何か忘れているような

気がした。そういえば誕生会の前祝いをしようと話していた事を思い出し、大慌てでまた服に着

替えて波へいに行った。すると家内とY.TちゃんとA.S君が三人で飲んでいた。まだ、誰も来

ていないとのことで飲み仲間に加わった。しばらくして、Yちゃんのおばあちゃんとお母さんも加

わった。こうして、この日の晩も遅くまで飲んで部屋へ戻った。

2005年1月19日(水)

 シドニー港を出た途端に船は大きく揺れ始め約一日半近く揺れていた。その揺れも午後から

少し治まってきた。低気圧の影響だったのだろうか。船の揺れが収まってから、むっとするよう

な暑さを感じるようになった。いよいよラバウルが近くなったようだ。

 今日からは定常と代わらないような船内企画が始まった。特にカジポンの芸術パラダイスは

ブロードウエイショーラウンジを貸し切り状態で続けられていた。また、新たに始まった「牛の助

参上」というタイトルの企画は部落差別の問題をテーマにしたもので、被差別部落出身のN.K

さん自らが講師となっての企画だった。私はこれらの企画に散発的に参加しながら、一方では

自らが関わっている「しゃべり場きけ場」の企画を具体化するために連日、若い人達と一緒に

「ああでもない」「こうでもない」と議論を続けていた。

 今回の「しゃべり場きけ場」では「戦争と平和」や「憲法9条」などが主なテーマとなっていた。

この種の活動について経験のない若い人達はどんな切り口で討論を進めれば良いのか分から

ないようであった。そんなわけで、何回議論をしても方向付けが出来なかった。

 夜には若い仲間の誕生会によばれていた。誕生会はトパーズダイニングルームだった。私達

は後半食だったが前半食の人達と一緒に夕食を食べ誕生会を祝った。その後で「しゃべり場

きけ場」の結論が出ていなかったので続きを議論した。もう一つ「マナー」とか「しつけ」に関する

各世代毎の考えを聞こうという企画もあったので、提案者であるYさんの部屋に行って考え方を

聞いた。

 その後で「放送禁止歌」という企画に行ってみた。誰が放送を禁止しているのかと言うことで

取材をしたドキュメンタリー映画だった。禁止歌になった曲の中には私達がフォークグループを

結成して歌っていた歌も何曲か含まれていた。懐かしい歌が多かった。いつしか小さな声で一

緒に歌っていた。

 夜もかなり更けていた。「あん」の横に行くと家内が座っていた。家内はピースボートスタッフの

K.H君と待ち合わせをしていたので、横のヘミングウエイバーで一杯飲みながら待つことにした。

家内は先日のトパーズテレビの実績が買われ、二度目のキャスターを要請されて先ほど収録を

終えたばかりであった。

 K.H君はしばらくしてやってきた。彼らピースボートスタッフは残り少なくなった日程の中で数

多い企画を担当していてフル回転の状態だった。今日も徹夜になるかも知れないと話していた。

本当にご苦労様。私達は一度波へいに寄って部屋へ戻った。夜中の十二時近くだった。

2005年1月20日(木)

 上甲板に出ると、むっとするような暑さと湿度を感じるようになった。水平線上の雲はまさしく

入道雲そのもので、いよいよパプアニューギニアが近いことを感じさせるような海の景色だった。

船内では慰霊祭に向けての準備が進んでいて、その企画を担当していたT.I君から終戦後の

生活について、慰霊祭で発表して欲しいとの依頼を受けた。快く了解しておいた。

 また、私達が担当していた「しゃべり場きけ場」でも同じような事を考えていたので、今日も朝

早くから眠い目をこすりながら、九時近くまでヨットクラブで具体化のための相談をした。結論と

しては、明日二十一日の企画では「戦争と平和」という大ぐくりなテーマで話し合う事に決めた。

 実は今日、私にとっては大変嬉しいことが一つあった。私の応募作品がみんなの投票で一位

に選ばれた。数点応募した写真の内の一枚で「かあちゃん、あそぼうよう」という題名を付けた

モアイの写真だった。手前に仰向けに横たわったモアイと、その向こうに15体のモアイが小さく

写っているという構図の写真だった。応募作品の中にはこのアングルでの写真は一枚もなく、

どこで写したのだろうと、みんな驚いていた。表彰式は昼の十二時四十五分からシアターで行

われた。最初に応募作品全部のスライドショーがあった。そして、その後で主催者であるピース

ボートスタッフのS君から応募作品の内数点の評価があり表彰式が行われた。

 表彰式の後、色んな人から「おめでとう」と声をかけられた。また、ある人からは一位になった

写真をくれないだろうかという依頼も受けた。また、南極に行った人と私のマサイマラの写真を

交換しようと言う事になり、忙しい時間の合間をみてパソコンでCDを焼いたりした。

 あれやこれやと船内企画の中には聞いてみたいものもたくさんあったが、明日の「慰霊祭」の

原稿を書いたりしている内に時間が過ぎてしまった。

 夕方の食事の時にはマジッククラブの誕生会だった。メンバー三人の誕生会が一緒に行わ

れた。その後、マジッククラブの解散会があったのでてPボート文クラブの解散会へは出席でき

なかった。本当に何かと忙しい一日だった。

2005年1月21日(金)

 今日は大きな行事があった。終戦六十周年企画としての慰霊祭だった。その前にウインジャ

マールショーラウンジで「戦後六十周年を考える」という企画があった。会場はいっぱいの人だ

った。ここでは、もし貴方に赤紙が来たらという前提で若者達にインタビューした結果が報告さ

れた。こんな意外性のある企画でなければ若者達にとって戦争は遠い存在であった。

 この後、戦争体験者の話を聞くという時間に移り、この発表者として三名が予定されていた。

ところが一名が欠けたと言うことで、急遽、私が一番バッターとして原稿を読み上げる事になっ

てしまった。私は昨日書き上げたばかりの原稿を、みんなの前で読み上げた。下記に添付した

文が、その内容である。

 私には戦時中の記憶はなかった。従って、書いたのは両親から聞いたこと、また、幼い頃の

思い出などだった。私は行きたくないと思っていたラバウルの戦跡地見学に行くことになったい

きさつを読んでいる頃から、悲しみがこみ上げてきて先を読めなくなってしまった。何度も言葉

につまりながら、やっと最後まで読み上げた。

 この後、引き続いて企画担当のT.I君がA.Nさんに戦争中の体験について色々と質問をした。

A.Nさんは空襲で自分の家が焼けてしまい、親戚の家を点々とした思い出を話していた。

 会場では、私の体験に自分の体験を重ね合わせ涙を流した人が大勢いた。この企画が終了

して色んな人から声をかけられた。それぞれに苦しかった事や悲しかった事が次々と思い出さ

れたようであった。大急ぎで書き上げた原稿だったが、みんなの心を打つものがあったようだ。

 会場の人は、この雰囲気のままに慰霊祭の会場に移動した。場所はヨットクラブの後方デッキ

だった。簡単な祭壇が用意され、献花が準備されていた。戦没者ゆかりの人が花を受け取った。

こうして、戦時体験者の慰霊の言葉や黙祷、そして、この「慰霊祭」を企画した若者代表として

H.Tが反戦の決意を読み上げた。いつもはしっかりした娘さんだが、この時ばかりはこみ上げ

てくる感情に声が詰まって読めなかった。必死で読もうとする姿が痛々しいほどだった。実に名

文とも言えるような決意文であった。

 戦争とはまったく縁のない若者にも、それぞれに感じるところがあったようだ。そして、戦没者

の多くの魂が眠っている海に花が投げられた。そして、紙テープが空に舞った。その紙テープは

いつまでも船を離れることなく空中に漂っていた。私には、まるで戦地に散った魂が、この船に

乗って遠い故国へ帰りたがっているようにも思えた。私は海面を見下ろしながらあふれ出る涙

をどうすることも出来なかった。

 私の後ろからは「ラバウル小唄」等が聞こえていた。こんな場所で戦歌をとも思ったが戦争体

験者には戦争体験者なりの思いがあるのだろうと咎める気持ちにはならなかった。黙って背中

で聞いていた。こうして慰霊祭は参加者に様々な思いを抱かせながら終了した。実にたくさんの

人が参加していた。

 この後、「船の上の小さな音楽会」が開かれた。途中まで聞いて「牛の助に聞くQ&A」が開か

れていたので、そちらの会場へ移動した。ここでも講座を聞かずに、とんちんかんな質問や意

味のない意見を言う人がたくさんいた。これら多くの人は私より年上の人達だった。彼らの頭の

中はどんな構造になっているのだろうか。こんな人達が作ってきた戦後が今の姿なのだ。今の

若者がものごとを知らないと言ってこの人達に若者を責めることが出来るのだろうか。

 一度、部屋に帰ったがすぐに次の企画が待っていた。私が司会する「しゃべれ場きけ場」での

戦争と平和というテーマでの話し合いだった。ともすれば主催者側と参加者の意見のやりとりと

いう場になりやすいので、それを避けどうすればお互いの意見交換の場にする事が出来るのか

司会者としては非常に難しいテーマを抱えての話し合いだった。

 この日は議会制民主主義というルールに従って総選挙で自分達の意思表示をすべきだと言

う意見が多かった。短時間ではあったが実りある話し合いの場になったのではないだろうか。

 また、この企画と直接の関係はなかったが、戦後60周年企画で感じたことを手紙に書いて政

府宛に出そうという計画が提案され具体化する事になった。


「再び悲しい思いをしないために」    この文は私が戦後六十周年企画の中で読み上げたものです。

                                       2005年1月21日


 私は昭和19年(1944年)5月4日京都四条河原町で生まれました。当時、京都のように歴史

と伝統のある町でさえ空襲を受けるのではないかと噂され、田舎のあるものは疎開をするよう

に勧告を受けたそうです。

 父の故郷は広島県の東にある神辺という田舎町でした。ここへ父は母と私を連れて疎開しま

した。しかし、戦時中の事なので仕事もなく、日々の食べ物にも事欠くような状態でした。父は

毎日何キロも山道を歩き遠く離れた農村まで農作業の手伝いに行きました。そして、農家から

はお米やサツマイモなどを貰って帰りました。その食料が戦時中の私達家族の生活を支えまし

た。

 また、神辺の上空を何度もB29というアメリカ軍の爆撃機が通過しました。その度に両親は

幼い私を背にして遠い防空壕まで走ったと話していました。何度かの空襲警報の時、神辺から

遠く離れた福山が爆撃されました。その時には福山方面の空が一晩中赤くなっていたそうです。

福山市には軍事基地があったので爆撃を受けたのです。市内は焼け野が原になり、たくさんの

人が亡くなったそうです。そして焼け跡の福山駅からは遠く離れた芦田川の堤防が見えたそう

です。

 戦争が終わっても苦しい生活は変わりませんでした。食べるものがなく、みんな飢えていまし

た。父や母は近くの山や河原の荒れ地に畑を開きました。父は幼い私に弟の面倒を見させな

がら畑を耕していました。その時、弟が川に落ち危うく一命を落としかけた事もありました。

 また、母が幼い私を背負い三重県の実家に帰省した時の事です。母の両親は娘の事を気遣

って両手に余るような食料を持たせてくれました。福山まではやっと帰ってきたのですが、神辺

まで帰る電車がなく、やむなく線路道をとぼとぼと歩いていました。その時、神辺に帰るという

男の人がいて両手の荷物を持ってくれました。その時ほど、人の心の温かさを感じた事はない

と話していました。

 また、京都から神辺に疎開をするときの電車の中での出来事です。父と母はお昼になったの

で持っていた弁当を食べ始めたそうです。周辺の人も同じように弁当を食べていたのに向かい

側に座っていた学生さんは弁当を持っていませんでした。気の毒に思った父と母は少しだけで

すがとおにぎりをあげたそうです。その学生さんは数日間何も食べていなかったそうで、涙を流

しながら何度も何度もお礼を言っていたそうです。

 このように食べるのに事欠くような事は何年も続きました。小学校のお昼休みの事です。昼食

時間になると教室を出ていく子が何人かいました。みんなお弁当を持ってくることが出来ない子

供達でした。また、お正月にはお弁当代わりにお餅を持ってくる子もいました。

 冬になっても履く足袋がないので素足のまま霜焼けだらけの子もたくさんいました。多くの子

供達は運動靴ではなく、下駄や夏と同じゴム草履を履いていました。お風呂に何日も入れない

子もいて首筋が黒くなっていました。

 私達の世代にはお父さんが戦死した子がたくさんいました。高校に入ったとき多くの学生が

奨学金を貰っていました。大多数がお父さんを戦争で亡くした母子家庭の学生でした。中には

お父さんが戦死して家が貧しく牛が飼えないので、自分が牛の変わりに鋤を引いているのだと

話していた同級生もいました。昭和37年頃のことです。多少豊かになったとは言え戦争の後

遺症がまだまだ残っていた頃の事です。

 私のおじさんは新婚間もなく徴兵で南方に出征しました。最後に見かけたという人の話では、

ここニューギニアだったと聞いています。いつかおじさんの霊を弔いたいという思いがやっと実

現しました。ここニューギニアは激戦地だったと聞いています。後方からの支援もなく終戦間際

になって短い一生をこの地で終えてしまいました。自分の故国に帰ってきたのは、たった一枚

の死亡通告だけでした。おじさんのお墓には遺骨はありません。若くして亡くなったおじさんの

胸の内を思うとき悲しくてなりません。

 実のところ、ラバウルでは戦跡地を見るつもりはありませんでした。おじさんの事を思うとあま

りにもつらすぎるからです。しかし、観光コースは他の申込者で一杯でした。これもおじさんの

魂が呼んでいるのだと思い直すことにしました。明日はおじさんが亡くなったであろう戦跡地を

廻り霊を弔ってきたいと思っています。戦死者のみなさんの霊安かれと心から祈っています。 

地球一周旅日記のページへ戻る

ホームへ戻る