タヒチからニュージーランドへ

2005年1月6日(木)

 トパーズ号は昨日の夕方にタヒチのパペーテ港を出て、ニュージーランドのオークランド港へ

向かっていた。翌朝、船のデッキへ出てみると空一面に雲が広がっていた。水平線上の厚い雲

からは雨が降っているようであった。そんな景色が船の右舷にも左舷にも広がっていた。昨日

までの晴天がまるで嘘のようであった。

    

水平線上の厚い雲からは大量の雨が海面に落ちているようだった。

まず、瀬戸内海ではとうてい見られるような景色ではない。太平洋ならではの雄大な景色だった。(写真上二枚)

 私はパソコンへの旅行記の入力をとりあえず済ませておきたかった。タヒチのモーレア島の第

一日目のことは島で書いておいたので二日目からの入力を始めた。部屋にいたのでは掃除の

邪魔になってはと思いパソコンを七階まで持っていって作業を続けた。

 すると先日来、時々言葉を交わすようになった人が話しかけてきたので知らん顔も出来ずパ

ソコンを一時的に閉じて三十分近くも話し込んでしまった。この人は倉敷に親戚があり、若い頃

は学生服の仕入れに私が住んでいる児島にも何度か来たと話していた。また、備前焼や備前

刀等の骨董品についても詳しく蒐集についての色んなエピソードを聞かせてくれた。Kさんとい

う富山県の人だった。

 そんなわけで旅行記の入力がすっかり遅くなってしまった。何とか入力を済ませパソコンを置

きに部屋へ戻った。私はこの日が安息日だと言うことをすっかり忘れていて、カラオケの打ち合

わせがある日だとばかり思い込んでいた。その時間も聞いていなかったのでピーセンに行って

スタッフのM.Hさん宛の張り紙をして待っていた。すると偶然にも彼女が通りかかったのでいつ

から始めるのかと聞いてみると打合せは明日だとの事だった。

 船内での活動は何もかも明日からのようで、今日は文字通りの安息日だったのだ。部屋に戻

っているとH.Yさんから電話があった。家内の針治療の続きをしてあげようと思っているので電

話をしたとのことであった。H.Yさんにも次の予定があるようだったので、早い方が良いと思い

家内をヨットクラブまで迎えに行った。家内は安息日で他に行事もないことから知人と話し込ん

でいた。

 私は船内の図書室から借りてきた「ロスアラモスからヒロシマへ」という本を読みかけていた。

この本はアメリカの原子爆弾の開発に関係した若い物理学者の奥さんが開発当時の思い出を

本にしたものだった。

 彼女は結婚間なしに国の特命だと言うことで何も教えて貰えないままにロスアラモスに移住し

た。以来、数年間、開発が終わり広島や長崎にこの爆弾が投下されるまでのこと、また、投下

された後の広島や長崎の悲惨な状況を聞いて大きなショックを受けたこと、そんな心の変化を

両親に書き送っていた。それらの手紙は両親が大事に持っていて、これを整理して本にまとめ

たものだった。

 前書きにもあったように翻訳は日本の主婦が行ったようだ。従って、主婦が書いたものを主婦

という立場から翻訳したものだったので、書いた人の思いが、より一層身近なものとして感じら

れた。一挙に読み終えてしまいたいほど興味のある本だったが、この頃、何かと用事が多くほ

んの一部しか読んでいなかった。(結局、この本は最後まで読むことが出来なかった)

 安息日ではあったが、今日の行事は一つだけあった。タヒチから乗船してきた水先案内人と

の顔合わせであった。今回乗船してきた人の一人はオーストラリアで先住民の文化や法律等を

教えているサザンクロス大学の教授だった。この人はピースボートに何度も乗船しているとの事

だった。

 もう一組はニュージーランドの先住民族であるマオリ族の親子だった。お母さんの方はマオリ

の権利回復やマオリの伝統を残していこうとしている人、また、息子さんは大学に在学中でマオ

リの事についてお母さんと同じ立場で活動をしている人だった。

 もう一人のオーストラリアの女性はシドニー大学の講師で、ツーリズムで平和の文化を創ると

言う立場での活動をしている人だった。

 日本人としては荒井(ABO)誠さん夫婦が乗船していた。ABOさんは東京の有名なライブハウ

ス「JIROKITI」のオーナーであり、自らもマオリ族の民族楽器ディジュリドゥを製作し演奏をして

いる人だった。奥さんはピアニストだそうで二人の競演が楽しみだった。また、今回は子供さん

を連れて家族四人でこの船に乗っていた。

 そして、もう一人の日本人は田中優さんだった。彼は江戸川区役所に勤めながらNGO活動

をしている人で環境、反戦、経済学と幅広い分野に通じている人のようだ。公務員になるまでも

色んな職業に就いたと話しておられたが、彼自身の経歴は実にユニークだった。今は二、三の

大学で講師をしたり、頼まれた地方講演等を精力的に行っておられた。彼は自らをマニアだと

言っておられたが、これが知りたいと思ったら、その調査に熱中してしまうのだと話しておられた。

こうして集めた膨大なデータから彼独自の理論を構築しておられるようだ。

 例えば戦争反対にしても単なる戦争反対ではなく、戦争は何が原因で起きるのか徹底的に

調査をし、今回のイラク戦争が石油の利権が絡む問題であれば石油が必要なくなれば戦争の

意味がなくなるのではないかと考え、石油を使わなくても良いような世の中を提唱しておられる。

そうすれば、そのための戦争などなくなるのではないかと言うわけだ。

 石油の大半はエネルギー源として使われているわけで、石油に依存しない社会を作るために

太陽光発電を提案されていた。たった八畳分のパネルさえあれば平均的な四人家族であれば

十分電気はまかなえる。と言ったように具体的で実現可能な提案をしておられる。私は今まで

の水パの関連もあって、今回は田中優さんの水パになることに決めた。

 夜には波へいで田中優さんを囲んで水パの顔合わせ会があった。また、この日は「しゃべれ

場聞け場」の次回テーマについての相談もあったので両方掛け持ちで参加した。こうして、夜中

の十二時近くまで波へいにいて部屋に戻った。

 実は近い内に日付変更線を越える事になっていた。そのために今までの十一時間の遅れは

一挙に消えてしまう事になっていた。そんなわけでオークランド入港までは実質四日間しかない。

この間に田中優さんの多くの講演や対話集会を開くことになっていて大変忙しい日程が待って

いた。その上、二回目の船上写真展が開かれることになっていて、その応募写真も準備しなけ

ればならなかった。

新たなる水先案内人(写真説明)

また、今回もタヒチから多くの水先案内人が乗ってきた。

水先案内人(講師、演奏家)の紹介があり、引き続いて挨拶があり、担当のピースボートスタッフとCC(通訳)の紹介があった。

その後、自己申告によってこれら水先案内人と行動を伴にする私達、水先案内人のパートナーが決まった。

私は環境問題に興味があったので田中優さんの水先案内人パートナーになることを決めた。

    

    

司会と水先案内人(写真上四枚)

    

CCとGETティーチャー(スペイン語、英語の先生)

    

早速、夕飯時には時間を調整してトパーズダイニングで食事を伴にした。

こうすることによって水先案内人とそのパートナーの間は急速に親しいものになっていく。

また、講座などでは聞けないような話を聞くことが出来るのもパートナーとしての楽しみだ。(写真上三枚)

2005年1月7日(金)

 図書室に新しい新聞が入った。これらの新聞はどのような形で入ってくるのか分からなかった

が紙質も印刷スペースも通常のものとは異なっていた。本物の新聞を大きな紙にコピーしたも

のか、大型のファックスで受信したものか、そんな感じだった。

 とにかく日遅れではあっても新しい新聞が入った日の図書室周辺は大変な人だかりだった。

新潟地震の時にも大勢の人だったが、今回の関心事は何と言ってもスマトラ島沖の大地震に

ついてだった。記事は何日にもわたって書かれていて実に衝撃的なニュースだったことが良く

分かる。

 今日からまた自主企画を初め多くの行事が通常に変わらないボリュームで動き始めた。私は

入力が終わっていない昨日の出来事をパソコンに入力した。いつまでも部屋にいたのでは掃除

の邪魔になると思い、七階のパソコンスペースへ行ってみた。ここは既に大勢の人が使ってい

て、とても入り込めそうな状況ではなかった。

 実は写真展が行われる事になっていて一人六点まで応募できる事になっていた。私は前回

ステーシー賞という名誉な賞を貰っていた。従って、今回も是非応募するように関係者から依頼

されていた。そんなわけで締め切り日が今日の夕方になっていた事もあり、今まで撮りためた

膨大な写真の中から大急ぎで六点を選び出さなければならなかった。今回は船内企画等も応

募の対象になっていたので、風景写真以外にも色んな写真が出展されるであろう事が予想され

ていた。しかし、私が応募した写真は前回同様景色を中心にしたものになってしまった。せめて

展示作品にでも選んで貰えれば幸いであった。

 出展写真の選定や昨日の出来事の入力をしていてH.Yさんの「東洋医学で健康づくりをして

みませんか」という自主企画の事をすっかり忘れていた。腕時計を見ると昼の十二時近くにな

っていた。大急ぎで荷物をまとめ会場であるウインジャマールショーラウンジへ行ってみた。かな

り大勢の人が来ておりH.Yさんの話を熱心に聞いていた。今日は初日であり東洋医学の概論

やツボとは何かと言った話が中心だった。明日からは具体的な話をすると言うことで一時間の

企画は終了した。

 今日のメインは何と言っても田中優さんの講座二本だった。最初の講座は「石油争奪戦争を

越えて」というタイトルの話がブロードウエイショーラウンジで行われた。イラク戦争は石油争奪

戦争なので石油に依存しない社会にしていけば無用な戦争は避けられるのではないかという

話であった。

 今回のイラク戦争の話から始まって国際間の紛争の多くが石油や天然ガスの利権にからむ

問題であり、如何にすれば石油や天然ガスに依存しなくても良いような社会を作る事が出来る

かという話であった。膨大なデータを駆使しての話は非常に説得力があり、会場の人は田中さん

の話に聞き入っていた。今まで色んな講座を聞いてきたがこんな事は珍しい事だった。一時間

半が足りないようなボリュームの話であった。

 そして、その後で休憩と明日以降の講座に関する打ち合わせがあった。今回行われる講座の

タイトルは二つまでもが私の提案したものが採用されていた。嬉しいことであった。引き続き夕

方の五時からは場所を替えて「ダムはムダ」という講座がウインジャマールショーラウンジで開

かれた。田中さん自身が全国を歩き回って実際に調査したダムが紹介された。戦後作られた

多くのコンクリート製のダムは治水や利水や発電のためだった。その多くがすでに老朽化し崩

壊の可能性があったり、湖底が土砂に埋まって機能しなくなったものが少なくないようだ。

 黒部川にある幾つものダムは青い水を湛えて美しい水だと思っていたが、湖底にはヘドロが

堆積し酸欠状態になっているようだ。これらの堆積物は放流によって富山湾に流れ出し、海を

汚染しているようだ。ダムはなくても治水の面でも利水の面でもほとんど困る事はないという事

が田中さんの説明で納得できた。それにも関わらず国は何故作り続けるのであろうか。そこに

はダム建設にからんだゼネコンなどの利権の問題があるようだ。

 中国では一つの水系の上流にあったダム一つが崩壊したために、ドミノ倒しのように下流域

にあるダムが次々に崩壊し十数万人という多くの犠牲者を出してしまった。また、今急ピッチで

建設されている山峡ダムも早晩大量の土砂で埋まってしまうのではないかと思われている。

 そんな事もあってアメリカでは使い物にならなくなった多くのダムを壊し、川を元の姿に戻して

いる。私は私のホームページに海の砂が少なくなった原因は海砂の採取と川にいくつものダム

が作られて上流からの土砂の供給がなくなったからだと書いている。その事は今回の講座でも

田中さんから話があった。海岸の砂が失われてしまうと魚の産卵場所がなくなり、消波効果が

失われ台風や津波の時などにはもろに大波の被害を受けることになりかねない。

 海岸の多くには波の力を弱めるために景観を壊すようなテトラポットがたくさん置かれている。

しかし、昔のように広い砂浜さえあれば簡単に波の力を弱めることが出来る。今回のスマトラ沖

大地震による津波や昨年瀬戸内海を襲った台風の時でも広い砂浜があれば被害を少なくする

ことは出来たはずなのである。話は横道にそれてしまったが、この講座を聞いて目から鱗とは

この事だと感じたので、私の考えている事も少し書き添えてみた。

 講座の途中で写真展の応募作品を持って受け付け会場に行った。大勢の人が次々に自信作

を持って来ていた。私も選り抜きの六点を受け取って貰った。

 講座が終わって少し時間があったのでピースボートスタッフのM.Hさんのおしゃべり関係を

聞きに「あん」に行ってみた。M.Hさんは今回乗船しているスタッフの中では一番経験が長く、

ピースボートが今のような形で運航されるずっと以前から関わって来た人だった。物静かでは

あったが一本筋の通った人のように見えた。その姿が何かしら謎めいた女性に見えて乗船客

の多くから「Mさん、Mさん」と呼ばれて慕われていた。彼女に対するファンも多いようだった。

 「あん」の横に先ほど紹介した新しい新聞が置いてあった。新聞には大津波に関する記事が

一面にでかでかと書かれていた。日本国内でも如何にセンセーショナルな事件であったかと言

うことが良く分かった。

 私達はH.Mさんのおしゃべり関係を途中まで聞いて、夕食を一緒にしようと合わせをしてい

たのでトパーズダイニングへ行った。ここで田中優さん達と合流し、一緒にビールやワインを飲

みながら夕食を食べた。田中優さんから講座では聞けなかった面白い話をたくさん聞いた。実

に楽しい食事だった。

 夕食後はABOさんのディジュリドゥの演奏があった。会場は一杯の人だった。会場に遅れて

行くと演奏は既に始まっていた。真っ暗な会場の中はディジュリドゥの重低音が響き渡っていた。

何とも書き表しようがないほど野性的な音で、人間を原始時代に引き戻すような音であった。

 また、アイヌの楽器であるムックリをABOさんが演奏し奥さんがディジュリドゥを吹くという夫婦

の競演もあった。その後、奥さんのYさんがピアノを演奏しABOさんがディジュリドゥを吹いた。

また、可愛い子供さん二人の演奏もあった。そして最後にはオーストラリアから来ているサザン

クロス大学の教授との競演で終わった。

 私達は途中まで聞いて会場を後にした。何だかこのまま部屋へ帰るのが物足りなくて迷った

挙げ句、結局、いつものように波へいに寄って帰ることになった。こうして何かと行事の多い長

い一日がやっと終わった。

 この日は卓球大会も行われていた。「あん」と「アゴラ」横のスペースが卓球会場になっていた。

その他、ファッションショーの準備だとかダンス甲子園の練習などで船内は大にぎわいの状態

だった。

 一方、下船の日は日一日と近づいていた。私達夫婦はこの船で知り合った人にコメントを書

いて貰うためにノートを回し始めた。この日はCCのみなさんにお願いするため、Mにノートを渡

した。また、Eからもメッセージを頼まれていたので書いて家内に回した。その他、Mの誕生日

に向けてのお祝いの言葉など、みんなも少しずつ下船を意識した行動を開始したようだ。

 この日の昼食時に何度かピースボートに乗っているという人と一緒の席になった。今回の順調

な航海について話していたら、過去のピースボートでは海上で燃料切れを起こしたり、インド洋

が大荒れで船がすごく揺れた話や運航スケジュールが大幅に遅れ幾つものツアーが中止にな

って、大金が払い戻された事などを聞いた。そんな過去の航海に比較すると、この航海はまれ

にみる順調な航海だったと言えるのではないだろうか。どうかこのまま神戸港まで無事帰ること

が出来るように祈っている。ちなみにスタッフのM.Hさんは次の48回にも乗船が決まったと話

していた。仕事とは言いながらご苦労さん。

船中行事あれこれ(写真説明)

   

洋上は穏やかな日ばかりではない。この日の空は雲に覆われていた。島影一つない太平洋上(写真上二枚)

   

H.Yさんが始めた「東洋医学で健康づくりをしてみませんか」という講座。

こうして乗客からも自主活動としての様々な催し物が行われている。

彼女は地方で鍼灸師として活躍しながら農村の老人達の意識向上を目指している。

ここで用いられた資料作成の手伝いをさせて貰ったことが縁で今も交流が続いている(写真上二枚)

    

    

田中優さんの話には非常に説得力がある。戦争が悪いというだけでなく、なくすためには何をすべきかという提案がなされているからだ。

この日の講座も脱石油を目指すことが、イラク戦争のような悲惨な戦争をやめさせる一番良い方法だという提案だった。(写真上五枚)

室内では珍しいスポーツの催しである卓球大会(写真上)

    

ピースボートスタッフの中には私達の想像を越えた体験の持ち主が少なくない。M.Hさんもその一人だった。

そのトーク番組。多くの人が面白いエピソードや体験談が聞きたいと詰めかけていた(写真上二枚)

    

    

この日の最大の催し物はブロードウエイショーラウンジで行われたABOさんのディジュリドゥ演奏とと奥さんのピアノ演奏だった。

それにオーストラリアの大学教授の打楽器が加わっての演奏会。演奏会にはABOさん夫婦の子供達二人も加わっていた。(写真上四枚)

    

一転してこの日は良い天気になり洋上には明るい太陽光が降り注いでいた(写真左)

同じ岡山県から参加した女性と(写真右)

2005年1月8日(土)

 日付変更線まであと三日となった。この日、船上での1月11日は幻の日になってしまうようだ。

今までは小刻みに一時間ずつ時計の針を遅らせてきた。その結果、日本との時差はマイナス

十九時間となった。これを一挙に元に戻すことになる。

 さて、船内行事も下船を意識してか、船内生活の集大成のような催し物が増えてきた。今日

は「ダンス甲子園」という自主企画で行ってきた民謡やチアリーディングやエアロビクスなどの

発表会が行われた。家内はエアロビクスのインストラクターをしていたので仲間達とエアロビク

スで出演した。会場のお客さんの採点で上位3位までが受賞する事になっていた。

 一位になったのは家内と一緒にエアロビクスのインストラクターをしているYちゃん達二人だっ

た。彼女たちは今までにも二人で演奏などを行ってきた。Yちゃんがお琴、友達の女の子が尺

八代わりにフルートを吹いていた。

 この日も二人は「ダンス甲子園」には似つかわしくない浴衣スタイルで「春の海」を演奏した。

そして舞台は一度暗くなり再び照明が入ると、浴衣を脱ぎ捨ててチアリーディングスタイルにな

っていた。見事に息が合ったチアリーディングだった。そして、最後は再びお琴とフルートの演

奏で締めくくるという素晴らしい演出だった。私は迷うことなくこのチームに一票を投じた。静と

動の使い分けが実に鮮やかだったからだ。私の予想通り多くの人の共感を呼んで、彼女たちが

第一位を獲得した。おめでとう良くやった。

 今日は朝から多くの参加行事があった。マジッククラブも終盤を迎え、今まで披露されてきた

マジックや小道具を使った新しいマジックを教えて貰いつつも、みんなの心は少しずつ離れ始

めたようだ。参加者も一時ほど多くはなく欠席者も増えてきたようだ。

 私は一緒にやってきた人の名前や住所などを聞いて名簿の整理にかかっていた。今日も何

人かの人に名刺を貰ったり、メモ帳に住所や名前を書いて貰った。

 その後、Pボート文クラブがあった。この中で興味深い話を聞いた。それはTさんが主催してい

る「モーニングポエム」という自主企画の中で英語で詩を作っているという話だった。英語を話

せないものが英語で詩など書けるはずがないと思っていたのだが、この企画では知っている単

語だけを並べても詩になると言うことだった。むしろ下手な文法などを駆使するよりも単純に単

語だけを並べる方が遙かに素直な感情が表現できるようだ。俳句や短歌を知らない子供が作

ったものの方が共感を呼ぶのと同じ事かも知れなかった。私はH.Yさんが主催する「東洋医学

で健康作り」があったので途中で抜けさせて貰った。

 「東洋医学で健康作り」は第二回目の講座だった。今日は主として体中に点在するツボにつ

いての説明があった。これらは肩こりだとか腹具合が悪いだとか風邪気味だとかと言った日常

のありがちな不快症状を緩和させるためのツボであった。これなら自分でもツボを探し当てそこ

を押さえたり揉んだりするだけで不快症状を緩和する事が出来る。明日はいよいよ最終の講座

となり、健康維持のための養生灸を教えて貰うことになっていた。

 午後は田中優さんの三回目の「考えたいお金の使い方」という講座だった。優さんの講座の

すばらしさを感じた多くの人が詰めかけて、会場である「あん」は満席になってしまった。私達水

パのものでさえ遠慮がちに座らなければならないほどの盛況であった。こうなることを見越して

地味な見出しにしたつもりであったが、そんな事では誤魔化されなかった。

 この日の講座も私が抱いていた長年の疑問を一挙に解消するような中身の話であった。私

達の預貯金の多くは、アメリカの国債を買うという行為によって間接的にアメリカの戦費として

使われていること。また、その国債はドルの下落により紙くず同然になりかねない危険性を孕

んでいること。日本は国として多くの負債を抱えているが国民の預貯金の方が多いので信用が

保たれていること。しかし、いずれ近い将来、逆転する日がやってくること。その時には完全な

債務国になり円に対する信用はゼロになってしまうこと。等々、考えることさえ恐ろしい話が次々

に飛び出してきた。

 そうなった時、多くのものを外国に依存している私達の生活はどうなるのだろうか。優さん自

身はユーロ立てのドイツマルクを買って自分の資産の保全を計っていると話していた。

 また、私達が生活を切りつめ蓄えてきたお金の多くは中央(政府)に集められ勝手に配分され

ている。大半のお金は地方から集められてきたのに、使うときには中央が勝手に分配し地方に

はほんの少ししか回ってこないと言う奇妙な仕組みになっている。このお金をもっと有効に自分

たち自身のために使うことは出来ないのか、そんな事がきっかけでエコバンクなどが生まれて

きた。

 みんなから集めたお金は三パーセントくらいの安い金利で貸し付けられ、借りたお金は省エネ

家電等の購入に使われる。こうして、少しずつでも省エネが進めば原発やダムを減らすことが

出来るというのがエコバンク設立の考え方である。やれば出来るし考えれば色んな方法がある

わけで、お金を有効に活用すると言う意味合いと、少なくとも戦争のためには使わせないと言う

強い意思表示になるのではないだろうか。この講座では多くの学ぶべきものがあった。

 私は休む間もなく講義を依頼されていた「百姓する人集まれ」に行った。この日は隣で別の企

画をしていて参加者が少なかった。しかし、毎回来てくれる熱心な人もいて話していても張り合

いがあった。また、自分の経験を話してくれる人もいて楽しい自主企画だった。

 この企画を立ち上げてくれたのはK.Hさんだった。私自身は二回目からの参加者で経験者

から何か参考になるような話を聞くことは出来ないかと思って参加したのだが、参加者の多くは

経験の浅い人や、これから始めてみようと思うような人ばかりであった。従って、私のような専門

知識もなく失敗ばかり重ねてきたものにでも話が出きるような集まりだった。ともかく失敗の経験

だけは豊富だったので、そんな経験談をもとに話をした。この企画を立ち上げてくれたK.Hさん

に心から感謝したい。

 そして、明日に予定していた「しゃべり場きけ場」の準備に行った。今回はマナーなどについて

の意見を聞いてみようと言うことがテーマで行うことになった。そのための準備として、こういうと

き貴方ならどう考えるかという投げかけをして、それに答えて貰うという方法でやることになって

いた。

 そして、夕食を済ませた後は「ダンス甲子園」だった。私は家内に写真撮影を頼まれていたの

で最前列に席を確保した。隣にはK.Oさんが座っていた。

 この日は家内が主役だった。多くの若い子達や年輩の人からも先生、先生と慕われて、うれ

しそうだった。また、お互いに「ご苦労さん」と声を掛け合って労をねぎらっていた。こうして、この

日の行事はすべて終わり、部屋へ戻る前にスポーツバーに寄って一杯飲んで帰った。今日も

朝からフル回転の一日であった。

ダンス甲子園

ダンス甲子園と名付けられたこの企画。とにかく老いも若きもダンスダンスでした。

最優秀チームは観客の投票によって決まります。

   

最初はプロ並みの腕前を有するチームが出演。とにかく上手い(写真上三枚)

    

さて、司会者二人も派手な衣装で登場(写真上二枚)

    

こちらは少しお年を召した方々のフラダンスでした(写真上二枚)

    

ミニスカートに赤、緑、黄、白のシャツの元気娘達、へそだしスタイルが何とも若々しくて良かった(写真上二枚)

なんといかめしい。何でもこれはマオリ族の戦士が戦いに臨むときの踊りらしい(写真上)

    

飛んだり跳ねたり、この頃の踊りには躍動感があります。それにしても熱心に練習していたね(写真上二枚)

こちらは派手なコスチュームに身を包んだ熟年男女の社交ダンスでした(写真上二枚)

    

ピースボートが売っているお揃いのシャツが印象的でした(写真上二枚)

    

一升瓶をみんなで回し飲み、その上、酔いどれスタイルでの踊り。

それにしてもトランペットの演奏は何の意味があったのでしょう(写真上二枚)

    

    

やはり極めつけはこの踊りでした。初めは何やらおしとやかな浴衣姿でのお琴とフルートの演奏。

突然、その衣装を脱ぎ捨ててチアリーダーに変身。というわけで舞台の天井にも手が届きそうな派手な演技でした(写真上三枚)

    

    

これこそ老いも若きも一緒になって汗を流しました。これはダンスと言うよりは体操かな。

それでもエアロビは踊りの要素もありますな(写真上五枚)

    

これは又、粋な衣装。どうやら着物柄の生地を使って作っていたのはこの衣装だったのですね(写真上二枚)

    

私も二度ほど練習に参加しました。おじさん、おばさん達による秋田おばこです(写真上二枚)

    

これも元気のいい若者達のダンスです。それにしてもこのジャンプ見事に揃っています(写真上二枚)

    

そして、最後の踊りは若い男性陣が決めました(写真上二枚)

    

さあ、審査結果は。上の三組が賞を貰いました。

中でも最も投票数の多かったのは浴衣姿からチアリーダーに大変身したYちゃん達二人でした(写真上三枚)

後はお決まりの記念写真。家内は若い娘さん達に囲まれて嬉しそう(写真上)

2005年1月9日(日)

 今日は次の寄港地、ニュージーランドのオークランド上陸説明会があった。上陸説明会の後、

私達は「氷河とサザンアルプスの南島をゆく」というオーバーラウンドコースを選んでいたので、

この説明会場に行った。説明によると気温はかなり低いようで日中でも十六度C、夜間は九度

Cまで下がるとの事だった。

 その後、動植物に関する検疫やエイズ等に関する自主申告の用紙が配られた。この中の幾

つかの質問事項に答える形で記入しシアターで担当官による審査を受けた。審査は二段階に

分かれていて最初のチェックが先ほど渡されたチェック表によるもの、次は会場で手渡された

パスポートと先ほどのチェック表を二つ合わせての審査があった。動植物の検疫に関しては今

までのどの国よりも厳しかった。

 さて、この日もたくさんの行事が朝から晩まであり、船内を走り回っていた。午前十時半から

は「百姓している人集まれ」があり、講師を頼まれていたので一時間半ほど質問を聞きながら

話をした。今日のテーマは過去二回話したことのおさらいと、これから日本に帰っての畑仕事

について話した。

 久々に昼食は家内と一緒だった。家内はこの日、朝から喉が痛いと言って診療所で診察を受

けた。そんなわけでエアロビも休んで部屋で寝ていた。

 昼食後は田中優さんの講座「ゴミから見た世界」という話があった。日本はODAと言う形で東

南アジア各国に多くの資金援助をしている。しかし、この金の多くは日本の資源開発のために

使われているようだ。その一つが国内のゴミの大半を占めている紙だった。熱帯雨林が伐採さ

れ、その後に成長が早いユーカリの木が植えられている。ユーカリは成長が早い代わりに周辺

の水や養分を吸収しつくしてしまうらしい。そのため、いったん失った熱帯雨林を再び取り戻す

事は大変難しいようだ。

 また、熱帯雨林を伐採した後にはパーム椰子も植えられている。椰子油を採取して日本へ送

るためらしい。椰子油は洗剤など色んな事に使われているようだ。

 また、一時は日本国内の廃品回収では最も歓迎されていたアルミの再利用が停滞している。

原因は輸入アルミの方が安いからだ。アルミインゴットの方が廃品を回収して使うよりは安く手

に入る。この輸入アルミが安いのは輸出国であるブラジルなどの電力料金が安いためである。

 ブラジルには発電用の大きなダムが作られているが、このダムは日本からのODAにより日

本のゼネコンなどが建設したものだ。しかし、作られたダムで発電した電力の大半はアルミの

精錬に使われている。アルミは電気の固まりだと言われるほど電力を必要とする。このように

電気はブラジル国民のために使われるのではなく、日本へのアルミ輸出のために使われてい

るのが実状だ。

 日本国内では大量の廃棄物や資源ゴミを作り、椰子油の垂れ流しにより河川を汚し、その上

に多くの熱帯雨林をつぶしてしまうと言う事をやっている。これらは日本だけのために行われて

いる事だと言ってもけっして過言ではない。

 その上、使用済みの紙は消却や埋め立てのために地方自治体に大きな負担を課している。

大量の紙廃棄物の大半は企業から出てくるものであることを聞くと、このままで良いのだろうか

と考えさせられてしまう。私も在職中にずいぶん無駄な紙の使い方をしたことを思い出して大い

に反省をしている。

 こうした話を聞いた後、地球温暖化の原因になっているCO2を削減するためのゲームを行っ

た。「WSecoエコ省エネゲーム」という遊びだった。このゲームを通じて太陽光発電などの前に、

省エネ等やるべき事がたくさんあるという事に気付かされた。

 既にツバイなど南方の島では高潮による被害が出ている。海岸が大きく削られ島の一部が失

われているのだ。昨年の台風時にも瀬戸内海沿岸では高潮による大きな被害があったばかり

だ。決して他人事ではなかった。しかし、今すぐCO2の排出を止めたとしても、これから約200

年間は気温上昇が続くのではないかと聞かされ、いささか暗澹たる気持ちになってきた。

 私が関わっていた「しゃべれ場きけ場」では、マナーとか躾についての考え方や今までやって

きた事を聞いてみようと言う企画だった。あらかじめテーマを決めておいて、紙に書いたテーマ

を指名された人に読み上げて貰い、それについて、その人や会場の人に話して貰った。

 この日は晩に計画されていたファッションショーの準備があり若い人達の多くはそちらの準備

が忙しかった。従って、来て欲しかった若い人の参加が少なく、これで開けるのだろうかと心配

したが次第に人も増え意見もたくさん出てきた。これに気を良くして次回もこの続きをやろうと言

うことを確認して終わった。

 今夜の最大イベントは「ファッションショー」だった。モデルになった人の中にはシニアもいたが

若者達が企画し若者達が演出したショーだった。また、単なるファッションショーではなくテーマ

があった。テーマはピースボートのファッションショーらしく「四、陸、七、海」にちなんで「家族の

繋がりと温かさ」だった。

 舞台のスクリーンに部門毎の写真が映し出され、その後、モデル達が様々な衣装を着て登場

した。衣装はベトナムで買ったアオザイや日本から持ってきた着物の他、船内で作った衣装も

たくさん使われていた。また、化粧や髪のセットは「獅子」など美容師の経験者達が行い、若者

の多くが知恵を出し合って作り上げた手作りのファッションショーだった。とても素人が作り上げ

たものとは思えないような見事なショーであった。

 限りある船内の材料を使って良くここまで作り上げたものだと感心した。若者達に心からご苦

労様と言っておきたい。今までにも多くの船内企画を見てきて彼らの才能には目を見張るもの

があった。どうか、この才能をこの船だけで終わらせることなく日本へ帰ったら新しい職場でも

社会でも生かして欲しいと願っている。また、彼らの才能が生かせる社会にして上げたいと思う

気持ちで一杯だった。

 私はこの後、田中水パの打ち合わせがあるとのことで、会場の波へいに行った。まだ、誰も

来ていなかった。その内、雨が降り始め海上は大しけ状態になった。場所を屋根のあるところ

に移したがとても寒かった。CCのロビン達と話しながらみんなが揃うのを待った。田中さんは

疲れたのか部屋で寝ていたと話していた。

 この日の波へいも二つ掛け持ちだった。もう一つは家内の活弁仲間のMちゃんの誕生会が

あった。私は誕生会が始まるギリギリまで田中さんの席にいてそこへ移動した。K.OさんやM

ちゃんの同室の女性達の呼びかけもあって大勢の人が参加していた。又、Mちゃんの交流の

幅広さもあって、こんな人までもと思うような人が参加していた。

 誕生会は他の誕生会がそうであるように乾杯で始まった。そして午前十二時になるとドリカム

の「HAPPY HAPPY BIRTHDAY」の曲と伴に大きなバースデーケーキが出てきた。そのケー

キをMちゃんがカットし、後でケーキはみんなに配られた。彼女へのプレゼントは多くの人が心

を込めて書いてくれた一冊のノートだった。誕生会がお開きになった後、彼女はノートを開いて

うれし泣きで涙を流していたとK.Oさんから聞いた。よほど嬉しかったのだろう、おめでとう。

 また、会場では剣玉がまわってきて、これにも寄せ書きをした。Mちゃんは剣玉が得意らしく、

みんなのサイン入りの剣玉で技を披露してくれた。会場に来ていた診療所のドクターからもビー

ルの差し入れがあった。みんなの温かい祝福を受けてMちゃんは幸せだった。

船上のファッションショー

数ある企画の中でも見応えのあったのは、このファッションショーではなかっただろうか。

限られた材料をフルに活用し、更に新たなる衣装を作り、若者だけでなくシニア世代まで動員した

企画力にはただただ頭の下がる思いだった。

出番を待つ出演者達、会場前の廊下は人で溢れていた(写真上)

    

    

    

    

    

春夏秋冬と季節毎のコスチュームは人の一生にたとえたものであったろうか。

そして家族の温もりを表現したものであったろうか。(写真上十一枚)

    

    

    

    

    

民族衣装を思わせるコスチュームは艶やかでもあり悩ましくもあった(写真上十枚)

    

    

粋な着こなしを若者だけでなくシニアの男性も表現していた。

みんなモデルになりきっていた(写真上五枚)

    

    

さて、これ又艶やかな着物姿。なかなか着こなし上手なモデルばかりであった(写真上五枚)

    

    

    

    

白を基調とした衣装はすべて手作りだった。

褐色の肌との取り合わせが印象的だった。

それにしても奇抜な衣装もあって驚かされた(写真上九枚)

    

    

    

    

    

    

    

これは祈りがテーマであろうか。人の内なるものを表現しようとしていたのであろうか。

そして、ファッションショーのテーマを灰谷健次郎さんの詩で紹介していた(写真上十四枚)

    

    

    

    

    

    

    

    

    

    

    

    

    

    

さあ、フィナーレは出場者、企画担当者すべてが舞台から降り手をつないで。

盛大な会場の拍手を浴びた(写真二十八枚)

    

主催者代表挨拶。この準備に何日かかったであろうか。徹夜の日もあったのではないだろうか。

本当にご苦労さまでした(写真上左)

    

会場を出ていく人達(写真左)

この二人は映像係だった(写真右)

    

会場の中や外では記念写真を写す人でいっぱいだった(写真上二枚)

2005年1月10日(月)

 ここのところ少し遠ざかっていたマジッククラブに顔を出したが、H.IさんからABOさんが竹笛

を作っているので行ってみたらと誘われた。マジッククラブの方は、これ以上聞いても忘れてし

まうほどになっていたので途中で抜けて竹笛作りの方に参加することにした。

 ABOさん達は強い風が吹く後方の甲板の上にブルーシートを敷いて作っていた。使っている

材料は中国から仕入れたという蓬莱竹だった。竹は非常に柔らかく加工しやすかったので瞬く

間に外観だけは出来上がった。後は音の出る部分の仕上げとリードを取り付ける事だけだった。

 ここだけは自分がやらなければとABOさんはこの日の分だけでなく、昨日作った分の音合わ

せも一人でやっていた。そんなわけでABOさんはてんてこ舞いだった。

 私は手が空いていたのでABOさんの指示に従って助手を務める事にした。ABOさんは自分

の作業に集中できると言って私の手伝いを喜んでいた。その内、一度は止んでいた雨が再び

降り始め、急遽、場所を移動しなければならなくなった。場所をブロードウエイショーラウンジの

舞台上に移して作業を続けた。お昼までには何とかと思っていた私の笛も音が出るようになった。

 ところが何を勘違いしたのか左手と右手の指を置く位置を反対にしてしまい小指で押さえる穴

が反対の位置になっていた。何気なく押さえて決めた位置だったので、私の場合はやや左利き

なのではないかと思える節もあった。ともあれ記念品なので、これで我慢することにした。

 家内はこの日風邪で寝ていた。かなり良くはなっていたのだが、明日は上陸日なので用心を

していた。買っていたインスタントおじやで良いというので昼食からの帰りにヘミングウエイバー

に寄ってお湯を貰うことにした。この日の昼食はTさんと一緒だった。

 午後二時半からは田中優さんの何でもQ&Aの時間だった。田中優さんの講座は大変な人気

で毎回大勢の人だった。この日も会場が狭すぎるほどの人だった。

 昨日までの講座を聞いていれば今日は何を質問すべきか分かるはずなのに勝手な主張をし

たり、質問の主旨が何なのか分からないような事も多く、中身のあるQ&Aにはならなかった。

 この日は明日からの長期旅行準備で忙しかった。先日応募した写真の内、モアイの写真が

展示対象作品に選ばれていた。この作品がまさか一位になろうとは、その時には想像だにして

いなかった。

 本好き集まれという自主企画を立ち上げていた田中水パのF.Jさんが田中優さんに尋ねたい

ことがあるというので同席することになり約束の時間にTクラブへ行ってみた。そこで日米関係の

事について色々と意見交換した。ここで出た優さんの話は耳新しい事ばかりだった。

 日本からのお金の多くはアメリカの債権を買うという形でアメリカの国家予算を支えている。

アメリカという国は実に国家予算の60パーセントが軍事費に使われている国だ。こうしてみると

結果的には私達のお金はアメリカ軍を支えているわけで、その金がいまイラクで使われている。

 また、アメリカ国民の何人かに一人という割合で軍需産業に関係する企業で働いている。いわ

ばアメリカという国は武器を生産し、それを輸出して稼いでいる国だ。その上に、それだけでは

飽きたらず自ら戦争を引き起こし作った武器を使うことによって、この国の経済は成り立ってい

る。このゆがんだ構造を変えない限り戦争は終わらないようになっている。実に恐ろしい国なの

だ。

 その上、戦地へ派遣する兵士までもが傭兵であり、金で買われた兵隊なのだ。こういった産業

が成り立つほどアメリカという国は戦争と深く結びついた国なのである。それだけに、この国に

戦争をやめさせることは容易な事ではない。田中さんに言わせればくわえた肉を牙を剥いて離

そうとしない犬からどうやって肉を離させるか、そこが問題だと離していた。まさに絶望的とも思

えるような状況である。

 さて、そんな状況ではあっても何らかの行動を続けていかなければならないとして、私はかつ

て一軒一軒訪ね歩いて反戦活動してきたことを話してみた。田中さん自身には、そんな経験は

なく「そういう泥臭い活動も必要なんだなあ」と言って頷いていた。

 家内は活弁の佐々木水パだった仲間達と佐々木さんにビデオレターを出すのだと、その集ま

りへ出かけて行った。

 「あん」では自主企画で、先日の「紅白歌合戦」のとき撮影したビデオを当日スタッフだった若

者達が見ていた。ビデオはほとんど終盤に近く私が舞台に登場してくるところだった。それから

白組が優勝し優勝カップを受け取るところまでを見た。

 その後、「帰ったらピースボートで働きたい人」という企画が始まっていた。私は途中から参加

した。半分くらいは終わっていて詳しいことは聞けなかったが、ピースボートというものがどのよ

うな形で運営されているか良く分かった。地方に居てはほとんど仕事はないようだが、とりあえ

ず私と家内は働きたい人に登録した。

 そして、この日の大きな企画は田中優さん最後の講座である「エコとピースで飯を食う」だった。

その後、下船を明日に控えての田中優さんの送別会が行われた。その席では地球大学で学ん

でいるという人と話をすることが出来た。この人は日教組に入って活動をしていた人で、なかな

かしっかりとした考えを持ち、何よりも包容力のある心穏やかな人に思えた。良い人に巡り会っ

た。こうして、明日からのニュージーランドのオーバーラウンドツアーを前にした長い長い一日が

終わった。明日オークランドに着いたら長い旅に出る。

(この続きは2005年1月12日(水)から始まる。従って1月11日(火)は時差調整のため消滅

した事になる。)

船内のスナップ

    

俳句、川柳を熱心に投稿する人がいた。そしてこんな折り紙も作品として展示してあった(写真上二枚)

    

これはコースターであろうか。タヒチでも見た熱帯魚や南極のペンギン等も描かれていた(写真上二枚)

    

    

この日は波も高く風も強い日だった。

それにもめげず後方デッキではABOさんの縦笛を作る講習があった(写真上四枚)

    

    

笛を作った日は小さな嵐のようだった。海には白波が立っていた(写真上四枚)

    

そんな日があるかと思うとこんな穏やかな日もあった(写真上二枚)

いよいよ航海地図には日本も小さく出てくるようになった。

    

華やかなファッションショーなどが行われる一方では、こんなまじめな学習も行われていた(写真上三枚)

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