イースター島からタヒチへ

12月29日(火)

 今日のイースター島は島半分が雲に覆われていた。こんな小さな島なのに場所によって天気

が異なるような事があるのだろうか。この日は夕方近く雨は船の上にまで降り始め、雨の中の

出港になってしまった。

 さて今日は、きのう波が高くて上陸中止になったツアー客や自由行動の人達が、昨日と同じ

ように早朝からテンダーボートに乗って上陸を始めていた。雨が降ったのでは楽しみにしている

モアイ見物は台無になってしまうのではないか。私は今にも降り出しそうな空を見上げながら、

上陸が今日になってしまった人達のことを気の毒に思っていた。

 イースター島滞在が一日延びた船の上は、のんびりとした安息日のような一日だった。船内

での行事がない日は、静かで時間もゆっくり流れていくようだった。デッキの上で話をしたり、本

を読んだりと、休日を楽しんでいるような感じだった。お昼は昨日と同じように弁当だった。お昼

になると仲間同士が思い思いの場所で、ピクニックにでも来たような気分で食事を楽しんでいた。

 いよいよ今年も残すところ数日となってしまった。船内では観光と並行して年末年始の企画が

始まっていた。私は紅白歌合戦で大トリを歌うことになっていて、責任の重さを感じていた。幸い

にも風邪の方は良くなって、何の心配もなく参加することが出来そうだった。今日、午前中は企

画の打ち合わせ、午後は音合わせ、夕方はまた企画の打ち合わせと、紅白歌合戦に向け大変

忙しい一日だった。

 そんな状況の中で、野菜作りの講座資料やH.Yさんから頼まれていた鍼灸講座の資料作り

をしていた。また、H.Iさんからも凧作りの手伝いを頼まれ、病み上がりだったが養生をする暇

もなくフル回転の状態だった。

 晩の八時半からはトーク番組である「しゃべれ場聞け場」が始まり、この日のテーマになって

いた「就職」について夜遅くまで討論が続いた。私のような退職者の発言や助言は多かったの

だが、現役組である若者の発言が少なかったのは残念だった。

 最近の就職事情に関しては、私達の時代とは大きく変わりつつあるようだ。かつては売り手

市場だったものが買い手市場になっている。景気も十分回復したとは言いがたい。こんな状況

の中で就職についての悩みは大きい。彼らは劣悪な労働条件の中でも甘んじて仕事に就いて

いる例も少なくない。そんな中で精神的に追いつめられ、通院しながら半病人のような形で勤務

している人も少なくない。現に、この船にもそんな状況から抜け出したくて退職して船に乗った人

もいるようだ。

 とにかく、多くの悩みと先々の不安を持った若者達を乗せて、この船は夕方早くイースター島

沖の海上からタヒチに向けて出発した。タヒチへの到着は年明けになる予定だ。どんな景色や

人達との出会いがあるのだろう。

12月30日(木)

 ここのところ毎日のように時差が発生していた。日本との時差がどのくらいになっているのか

確認をしなければと思いつつ忘れていた。(翌日の朝確認したところ、日本時間では午後十時

四十五分、船時間午前六時四十五分、従って、日本との時差は十六時間だった)

 今日は久々に家内と一緒にヨットクラブで朝食を食べた。ヨットクラブの後方デッキに出てみる

と日の出直前だった。しばらくすると水平線とその上にある雲の間から朝日が顔を出した。今日

も一日穏やかな上天気を予想させるような朝日だった。

 船には色んなものが住み着いていた。東京を出た頃は背黒セキレイが住み着いていた。その

鳥もベトナムを過ぎた当たりから見かけなくなってしまった。その後も渡り鳥が一時羽を休めた

りしていたこともあったし、トンボが数匹飛んできた事もあった。

 そして、今朝は鈴虫が住み着いているという話を聞いた。あの寒かったパタゴニア遊覧の頃

どうしていたのだろうか。教えて貰ったポール下の小さな隙間をのぞいてみたが、穴は暗くて鈴

虫の姿は見えなかった。むろん鳴き声を聞くことも出来なかった。

 今日もピーセンの前の掲示板には先のスマトラ島沖の大地震に関する新しい記事が貼り出さ

れていた。マグニチュードが9.0という想像を絶するような大地震は、近隣諸国を含め死者の

数さえ把握出来ないほど多くの犠牲者を出しているようだ。その数は7万人とも10万人を超え

るとも言われていた。

 私達の船は、ほんの数十日前に被害海域であるマラッカ海峡を抜けインド洋を航海してきた。

津波による大きな犠牲者が出た地域はこのインド洋に面した国々であった。これから、どのよう

な形での捜索や復旧作業が行われるのであろうか。アメリカ等はイラクに駐留している軍隊を

これら被災地域の救済と復興に向ければ、被害国からは感謝されイラクから手を引くための良

いきっかけになるのではないだろうか。

 さて、船上では年末から年始に向けての色んな行事に関する準備が着々と進んでいた。私は

紅白歌合戦で大トリを歌う事になっていたので、衣装の準備や音合わせの準備などと忙しかっ

た。そんな事もあってかどうやら風邪の方も良くなったようだ。

 午前中はマジッククラブに行き、11時から散髪の予約をしていたので散髪に行った。ここは

ブルガリア人の女性が経営していた。言葉が通じないからと言って黙っているのも悪いと思い、

十分通用するとは思えない片言の英語で話しかけてみた。とぎれとぎれの話しだったが、ブル

ガリアにも四季があり雪も降るようだ。また、果物やブルガリアのジャムやヨーグルト等も有名

で美味しいとの事だった。この船にもブルガリアやウクライナといった旧ソ連圏の国々からも色

んな人がクルーとして乗り込んでいた。

 昼食後、時間があったので7階にいたら新聞局のY.Sさんから年末やお正月の過ごし方につ

いてのインタビューを受けた。また、前々から聞きたいと思っていた自衛隊の話を幹部だったT.

Tさんに在職中の話を聞いた。T.Tさんは警察予備隊時代に入隊し、それ以後、定年まで自衛

隊で過ごしてきた人だった。

 自衛隊の前身だった警察予備隊時代からの話も含め、今日に至るまでの詳しい話を私が質

問する形で聞かせて貰った。経験者からではないと聞けないような話ばかりで、自衛隊員だった

という本音の部分も含めて大変参考になった。また、時間があれば聞かせて欲しいとお願いを

してこの日は失礼した。

大晦日とお正月準備(写真説明)

年末からお正月にかけては多くの行事が予定されていました。そのための準備が連日、夜遅くまで続いていました。

    

ヘミングウエイバーの前の広場では、お正月に向けての準備が慌ただしかった。

こんな素晴らしい門松まで準備されていた(写真左)

そして、ヘミングウエイバーの中にも日本酒などがすらり準備されていた(写真右)

    

この頃から私の入っていた「しゃべり場きけ場」が始まっていた(写真左)

ピーセン横の掲示板にはインドネシアのスマトラ島近辺で発生した大地震と

大津波関連の衝撃的なニュースが貼り出されていた(写真左)

    

何ヶ所かに設置されていた掲示板には私の作った下手な俳句も掲示してあった(写真左)

これは、トパーズ号専属バンドの演奏会と船内で上映されている映画を紹介する掲示板(写真右)

    

東北地方出身者が中心になって指導してくれた「秋田おばこ」の練習風景(写真左、右)

    

掲示板の中の作品もすっかり正月関連のものに様変わりした(写真左、右)

    

トパーズ号の左側通路を肺ガン通りと呼んでいた。ここは喫煙スペースであり喫煙者の溜まり場になっていた。

そこで、ここに集う人達がそれを逆手にとって肺癌延命神社なるものを作ってしまった。

初詣はここでどうぞというわけだ。ここで集まったお賽銭は大津波の犠牲者の救済カンパとなった(写真左、右)

    

熱心な折り紙愛好者達は船内新聞まで使って作品を作っていた

その集まりと作品(写真左、右)

そんな忙しさとはまったく関係なく南国の日差しを浴びながらジャグジーを楽しんでいる人もいた(写真上)

 その後は明日に迫った紅白歌合戦の宣伝のための記者会見に行った。夕方四時から歌の

練習を予約しておいたのにほんの少しと思い昼寝をしたのが間違いだった。すっかり寝込んで

しまい目が覚めたら夕方の六時だった。結局、練習は出来ないまま夜のブロードウエイショー

ラウンジでの音合わせまで練習はお預けになってしまった。

 船内で取り交わす年賀状の受付の締め切りが今日までになっていた。船内で親しくなった人、

クリスマスカードをくれた人達に感謝の意味を込めて年賀状を書いて出した。

 そして夕食後、紅白歌合戦のリーハーサルを兼ねた歌の練習に行った。実行委員の一人が

衣装を準備してくれていた。ところが丈が長く私には合いそうになかった。その上、帯もなく草履

や足袋もなかった。着物はあきらめようかとも思ったのだが、せっかく準備してくれたのだからと

いう思いもあって、ピ−スボートスタッフに相談してみたら自分が持ってきた着物の帯と雪駄が

あると言うことで、彼のものを貸して貰うことにした。

 こうして丈の長い着物は家内が裾を上げてくれ何とか体裁は整った。みんなに感謝しなければ

ならなかった。リーハーサルを兼ねた練習はあっけないほど早く終わってしまった。歌は時間の

関係上、二番までを歌うことになった。少し負担は軽くなったような気がした。

 何とか衣装や歌の準備が終わったので自主企画の「小さなスナック」へ行った。K.Oさん達

が計画し主催しているスナックで今日で二回目だった。今回はK.Oさんの友達である若い女性

達も手伝いに来ていた。その中の一人は粋な着物姿だった。

 ピースボートスタッフのTのお母さんと一緒の席になった。彼女の話を聞いていると私達夫婦

と何もかもよく似ていた。以前から何かしら私達に共通するものを感じたのは、同じような人生を

歩んできた人だったからかも知れないと思った。

 船内のお医者さんであるMさんもこのスナックに来ていた。私達の隣の席に座っていた。私が

「祝い船」を歌ったことから娘を嫁にやる父親の話になった。先生にはこの船に一緒に乗ってい

る娘さんともう一人娘さんがおられるようだ。二人とも結婚はこれからだと話しておられたが、家

や見栄のためだけの結婚はするなと小さい頃から言い聞かせているのだと話しておられた。

 私も娘の結婚についての話をし、すっかり意気投合してしまった。結婚式に費用をかけるくら

いなら結婚までにやりたいことを出来るだけやっておけと、外国にも留学させたのだと話してお

られた。医者という一見華やかに見られる社会に生きてこられながら、堅実な考えを持っておら

れる方だった。先生は外科医だったと聞いていたが、その仕事を辞めて旅行を楽しんでおられ

るとの事であった。従って、この船の船医を引き受けられたのも、自分の旅行を兼ねての事の

ようだ。後に聞いた話ではイギリスにも旅行されたと話しておられた。結構、色んな旅行を楽し

んでおられるようだ。

12月31日(金)

 朝日を見ようと思いデッキに上がってみた。朝日は既に水平線を離れていた。そのデッキで

ラジオを聴いている人がいた。放送していたのは紅白歌合戦だった。和田あき子が歌っていた。

もう後半戦に入っていたのだろうか。日本時間では午後十時四十五分前だった。

年末風景あれこれ(写真説明)

    

おおよそ日本国内の年末とはほど遠い南国の大晦日(写真左、右)

    

夕焼けに赤く染まった美しい雲を眺めている人の顔も赤く染まっていた(写真左、右)

    

日本とはますます時差が大きくなっていた。もう時差を計算することすら億劫になっていた(写真左)

船内でも年賀葉書は届くようになっていた。むろん船内の人が船内の親しい人に出す年賀状だ。

明日の早朝に配るため、その仕分けに追われていた。配達人もむろんボランティアだ(写真右)

    

お正月企画の一つに「初釜」がある。船内で行われる大茶会の練習や準備にも追われていた(写真左、右)

    

一方、船上ではカウントダウン集会のための準備やリハーサルが行われていた(写真上三枚)

    

    

さあ、いよいよカウントダウンの集会が始まった。ステージには数日前に発生したインドネシアの

大地震と大津波によって亡くなった人達の追悼の儀式が行われた。

そして歌が始まり踊りが始まった(写真上四枚)

    

    

船のレーダー用の球体には新しい年の文字が浮かびステージには「ハッピイニューイヤー」の文字が浮かんだ。

そして、ステージではシャイさんが中心となって楽器の演奏と歌が始まった(写真上五枚)

大晦日は何と言っても紅白歌合戦(写真説明)

紅白歌合戦は短時間ながら大晦日の大イベントだった。

    

昼間、紅白歌合戦開幕に先だって記者会見が行われた。

記者会見では出場者全員と司会者が並び一人ずつインタビューを受けた。

この模様はトパーズTVで放映された(写真左、右)

    

裏方の準備にも余念がなかった(写真左、右)

    

一方、出演者達は本番前のステージに立って本番前の打合せと練習を行った(写真上三枚)

    

さあ、いよいよ本番です。出場者全員に緊張が走ります(写真左、右)

    

司会者二人も着物姿で。こちら二人は何か余裕がありそうです(写真左、右)

    

若者達はメークもバッチリ、くったくなく騒いでいます(写真左、右)

    

こちらは出演者、そして審査員の一人に選ばれた家内のファッションデザイナー(写真左)

どうです審査員になったこの二人。派手さではどちらも負けてはいません(写真右)

    

ステージ横には第47回紅白歌合戦の文字が(写真左)

大トリとなり熱唱した私「風雪ながれ旅」でした。バックには紙吹雪が舞いました(写真右)

  

そして、審査員と会場の得点を合わせた総合得点では白組の圧勝でした。

クルーズディレクターから優勝カップを受け取る白組代表の私(写真左)

終わってしまえば敵も味方もありません。出演者全員での記念写真(写真右)

 今日はいよいよ船上で迎える大晦日だ。船内では紅白歌合戦以外にも色んな企画が準備さ

れていた。その一端に出演者として参加できることは嬉しい事だった。何とかみんなに喜んで貰

えるような行事にしたいと思っていた。

 午前中は今年最後となったマジッククラブに出席をした。先日開かれた第二回の発表会でも

多くの新しいマジックが披露された。それらの復習をする事になっていた。その中の二つ、I.I

さんのマジックとJ.Tさんのマジックの種明かしがあった。

 午後は紅白歌合戦のリハーサルがあった。最後の採点の時のことや歌と歌の間のことなど

時間的な打ち合わせや全体の流れの確認が多くて、個人的な練習時間はほとんどなかった。

 家内の方は明日の新春お茶会の準備が忙しかった。何しろ午前と午後に分けて多くの客を

招待するようになっていたからだ。

 晩の食事は年越しそばだった。記念にと思い写真を写しておいた。その後、大急ぎで髪を整

え衣装を持って会場であるブロードウエイショーラウンジへ行った。家内も紅白歌合戦の審査

委員になっていたので私の衣装を着せると大急ぎで自分の衣装を着始めた。そこへタイミング

良く家内の衣装のコーディネーターを頼んでいた友人が来てくれた。こうして控えの間は何となく

楽屋裏といった感じで本番前の慌ただしさに騒然としていた。

 紅白歌合戦はとうとう自分の順番がやってきた。借り物の衣装だったが何とか格好はついた。

私は大トリとしての任務を果たすべく力が入っていた。そのためか歌詞の一部を間違えてしまっ

た。ほんの少しの間違いだったが完璧を目指していただけに悔いが残った。結果は審査員と会

場の人の票によって行われた。会場には野鳥の会だという人が出てきて紅白の数を数えていた。

審査員の票は分からなかったが会場は圧倒的に白が多かった。と言うことで白組が優勝した。

こうして私も何とか出演者としての面目を保ち白組のトリとしての任務を終えた。

 今年最後の大きな行事が一つ終了し、会場はプールサイドでのカウントダウンコンサートへと

移った。私達は紅白歌合戦の会場の掃除を終わって屋上に出てみた。カウントダウンの小道

具として会場入り口で蛍光ランプを渡された。棒状のもので折り曲げると色んな色の蛍光色を

出すものだった。これを腕輪にしたり思い思いの形で身につけて会場に入った。

 イベントの最初に行われたのは先日のスマトラ沖大地震の緊急アピールだった。そして歌手

のShyさんのライブや船内のダンシングチームによる踊りの披露などがあった。その後、今年

の重大ニュースの紹介等があってカウントダウンに入った。午前零時になると照明が消え、頭

の上からたくさんの風船が落ちてきた。そしてシャボン玉が吹き出してそれにストロボライトの光

が当たりとても幻想的な演出がなされていた。

 デッキの照明が一斉に消えた時、今まで見えなかった星空が急に頭上に広がり満点の星空

となった。大きく天の川が船の上に横たわりとてもきれいだった。むろん、この星空の中には南

十字座もあった。私達は多くの友人達と抱き合って新年を祝った。また、色んな人が紅白歌合

戦での労をねぎらってくれ、互いに新年の挨拶を交わした。今までの新年では考えられないよう

な体験と嬉しい出来事の連続だった。

 会場は若者達を中心に大いに盛り上がっていたが、家内の明日の茶会の事などもあったの

で少し早めに会場を後にした。そして、船首デッキまで行ってみた。ここは照明も少なくきれいな

星空だった。デッキに寝ころんでしばらく星空を眺めたあと七階に降りた。

 七階ではお茶会の責任者になっていたY.K達がまだ会場作りをしていた。ここで少し手伝い

ヘミングウエーバーに寄って少し飲んでから部屋に帰った。午前二時少し前だった。

 日本列島はすっぽりと寒波の中に入っているというニュースが張り出されていた。この寒波に

向けて沖縄からの低気圧が北上して日本列島各地では大雪になっているというニュースだった。

 児島の家(私達の家)では、東京から帰省した息子はどうしているだろう。年末年始には電話

代を安くしているという事なのでかけてみようかと思ったが、大勢が一斉にかけたためにかかり

にくくなっているようだった。結局、電話をすることも出来ず寝てしまった。 

 こうして色んな意味で思い出に残る2004年は終わった。私は今年6月になると61歳になる。

トパーズダイニングでは大晦日特別メニュー(写真説明)

    

大晦日の夜は何と言っても年越し蕎麦です。そして、赤魚の煮付けと栗御飯でした(写真上二枚)

    

そのメニューを書いた掲示板のメニュー表(写真上三枚)

2005年1月1日(土)

 船上はお正月ムードに包まれていた。寝不足での眠い目をこすりながら朝食を食べにヨット

クラブに行った。昨晩のカウントダウンの時と同じように、ここでもまた多くの人と新年の挨拶を

交わした。

 一度、部屋に戻り家内はお茶会があるので着物を着ていた。私はシャワーをしてH.Yさんと

の約束があったので大急ぎで待ち合わせ場所へ行った。既にH.Yさんは原稿を持って待って

いた。用件は鍼灸治療の自主企画を立ち上げるための原稿作りの依頼だった。H.Yさんは自

分の地元で鍼灸院をしておられる専門家であった。自分でも出来るお灸を教えたいというのが

自主企画を立ち上げる目的だった。タヒチへ着くまでには原稿を作らなければならなかった。

 昨晩は部屋へ戻ると船内での年賀状が来ていた。船内には船内発行の年賀状を買うと配達

をしてくれるという企画だった。私達もこの年賀状を買って何人かの友達に出していた。出したい

人の中には部屋番号が分からなくて出さずにいたら相手の方からくれた。そんなわけで早速返

事を書いた。年賀状の配達はボランティアだったので年明けには配達して貰えなかった。仕方

がないので自分で部屋を探して配っておいた。

 その後、マジッククラブに行った。ここでは新年の互例会が行われていた。新年のお酒を酌

み交わしながら新春の抱負などを話しあった。

 私は十一時からのお茶会の招待券を持っていたので、大急ぎで服を着替えて七階のお茶席

に行った。ここでお茶の接待を受けた後、お茶会関連の写真を何枚も写した。お茶会以外にも

午後からは各種行事が予定されていた。

 昼食の後半食は午後一時半からだった。この日は特別食が準備されナプキンも新しいもの

だった。黒いプラスチック製の重箱におせち料理がいっぱい入っていた。また、ほんの一口程

度だったが、お酒もお屠蘇代わりに付いていた。一品毎の量としては少なかったが品数が多く、

その上、炊き込みご飯とお雑煮まで付いていたので腹一杯になってしまった。久々の和食に大

満足だった。

 食堂を出ると正月番組の「新春 年の差クイズ」の呼び込みをしていた。お年寄りの代表四人

と若者の代表四人によるクイズ大会だった。誰が企画したのか会場の笑いをわざと誘うような

演出をしていた。素直に笑える企画で、よく考えているなと感心させられた。

 結果はお年寄りに華を持たせるようになっていた。それにしても景品の一つが肩もみ券という

のも面白かった。もっともお年寄り全員が元気者ばかりで、肩もみ券よりステーシーの写真CD

を選んだのも面白かった。今日も何人もの人から昨晩の紅白歌合戦の事で声をかけられた。

実に面はゆい思いをした一日だった。

 午後のお茶席が始まった。午前中は自分自身が招待客だった事もあり、写真はほとんど写し

ていなかった。そんなわけで午後はずっとお茶会が終了するまで写していた。着物や浴衣姿が

華やかで、とても船上での正月とは思えなかった。この日のお茶席に着物がないので浴衣を着

て草履や足袋の代わりにサンダルや白いソックスを間に合わせにはいていた女性もいたよう

だが、さして違和感はなかった。

 お茶席はゲストとしてトパーズ号の上級船員やクルーズディレクターの井上直さんなどを招待

して終わった。こうして和気藹々の内に朝からのお茶会はすべて終了した。責任者だったH.K

はすっかり疲れていた。本当にご苦労さん。それにしてもみんな良くやった。大成功だった。

 後で家内から聞いた話だが指導をしてくれたお茶の先生が流派にこだわらず、みんながやり

やすい方法を考えてくれたので、参加者みんながのびのびと楽しめたようだ。また、お茶などに

縁のなかった娘さん達も初めて茶筅を持ち、一生懸命お茶を点てていた姿もほほえましかった。

 いったん船室に戻りH.Yさんに頼まれていた原稿を作りかけていたが、ブロードウエーショー

ラウンジで行われていた「楽園の裏側」というタヒチから来ていたガブリエル・テティアラヒさんの、

この国で行われた核実験という話が聞きたくて出ていった。ところが昨晩の寝不足のためか話

を半分も聞かずに寝てしまった。ほんとうに残念な事をしてしまった。

 また、部屋に引き返したがノックしても応答がなかった。部屋の鍵は家内に渡していたので部

屋に入れなかった。お茶会の反省会も終わっていたので、上の階のどこかにいるのだろうと、

もう一度上に上がってみたが見つからなかった。うろうろしていても行き違いになるばかりなの

でヘミングウエーバーにビールを飲みに入った。丁度、知り合いのM.SさんとT.Sさんが一緒

に飲んでいたので仲間に入れて貰った。M.Sさんは前半食だったが昼食のおせち料理で腹一

杯になったので夕食は抜くと話していた。そんなわけでT.Sさんが抜けた後も二人で話をした。

 M.Sさんは発明が趣味で、長年の研究開発で自動車エンジンに付いての特許を持っていた。

この発明は理論的には完成しているのだが実用化には至っていないと話していた。また、趣味

で化石を集めていると話していた。私も一時期、化石を集めていたことがあったので大いに話が

はずんだ。こうして家内がここへ迎えに来るまで話し込んでいた。

 一度部屋へ戻り、夕食代わりのカップ饂飩を食べた。こうして今夜のイベントであったビンゴ

ゲームの会場に行った。前回と同じように何も当たらなかった。もっとも当たる人の方が少ない

のだから当たり前のことだった。

 会場からの帰りには波へいに寄った。家内はお茶会のメンバーとお茶会の打ち上げだった。

私は晩酌代わりに軽く酒を飲んで先に帰った。今日もまた一時間の時差が発生していた。

船の上のお正月風景

夏を感じさせるような船上でのお正月。恐らく経験のない人には想像しにくいのではないだろうか。

現に私も初めての経験であり、体験するすべてが珍しいことばかりだった。

勝手の違う船の上の生活ながら、皆さんの努力により家に居るときより遙かにお正月らしい体験が出来たので紹介したい。

    

スタッフがいるピースボートセンター、中には夏のままのスタイルも見かけたが、こんなしとやかな着物姿も。

(上の写真三枚)

    

    

日頃は洋食中心の食事が多いトパーズダイニングだが、この日ばかりは重箱(?)に入ったおせち料理が。

日本酒も付いていたよ。おせち料理をすべて食べ終わるとお腹がパンパンになってしまった。

みんなと楽しく味わったおせち料理(上の写真五枚)

    

新年と言えば書き初め、広い部屋には新聞紙が敷き詰められ思い思いに筆を握っていた(写真左)

この頃から「しゃべれ場きけ場」が始まっていた。このアンケートボックスの横には大きな鏡餅も(写真右)

 

    

    

「新春年の差クイズ」と称する催し物が行われていた。

若者代表は奇抜な服装で、お年寄り代表はけっこうお年をめした方もいて、お互いにとんちんかんなやりとりが面白かった。

お年寄りにルーズソックスなんかの質問もあったよ。(写真上七枚)

    

    

    

    

    

    

新年と言えば何といっても初日の出。洋上で迎える初日はとても眩しかった。

新聞局の若者達の中には、昨晩の寝不足もあって何となく虚ろな目をしていたような(写真上十二枚)

壁には、新年を寿ぐたくさんの絵手紙が展示してあった(写真上)

    

    

私の所属していた「マジッククラブ」では新年会が開かれた。そして、この日も熱心にレッスンが(写真上五枚)

ビンゴゲームも数えれば何度か行われた。この日も新年を祝って「初ビンゴ」(上の写真)

    

初日も良かったが洋上で見る夕日も美しい(写真上三枚)

しとやかに着物を着こなした美女二人(スタッフ)に挟まれて鼻の下が長くなった私(写真上)

新春お茶会

お茶会が盛大に催された。担当責任者のKは昨晩遅くまで会場づくりをしていた。

見かねた私達夫婦もほんの少しお手伝いをした。

そして、本番当日。見事と言う外はないほどに船の一角は立派な茶席に変貌していた。

茶筅など手にしたこともなかった娘達が、先生方の手ほどきを受けながら神妙にお茶を点て様子は

見ていても微笑ましかった。

    

    

    

私も客の一人になって(写真上二枚)

    

お手前を披露するY子。何となく緊張の様子(写真上左)

    

    

家内はひたすら裏方として娘達のサポートを(写真上右)

    

    

    

お茶会は午前と午後催された。午前は一般客を招待してのお茶会(写真上十八枚)

    

    

    

    

    

外国の船員さんの中には正座が出来ず、ずっと中腰だった人も(写真上左)

    

    

    

    

午後は白い制服姿の副船長や高級船員を招待してのお茶会。

大役を終えてホッとした表情がほほえましかった(写真上左)

担当者全員が揃っての記念写真(写真上)

    

    

   

 

今日は本当にご苦労さまでした。まずは指導してくれた先生方にお礼のお茶を。

そして自分たちも心ゆくまで美味しいお茶を味わいました。

その後はみんなで記念写真を(写真上八枚)

    

    

    

そして反省会。この日から数日間、責任者だったKは疲れて寝込んでしまった。本当にご苦労様(写真上六枚)

    

    

茶道具の中でも大切なのはお茶碗。トパーズダイニングで借りてきた茶碗を代用品に(写真上右)

    

会場周辺には心のこもった手作りのお正月飾りでいっぱいだった(写真上六枚)

2005年1月2日(日)

 ここのところタヒチへの着岸を目前にして毎日のように時差が発生していた。タヒチに着く頃は

日本との時差は−17時間、つまり日本の時間より17時間遅れと言うことになる。今日はタヒチ

の上陸説明会があった。

 上陸前のあわただしさの中で正月二日目の行事として朝から餅つきが行われた。あらかじめ

餅つき経験者が募集され、その人達を中心に行われた。そもそもは若者達が中心で行うので

その指導方々お手伝いをして欲しいと言うことだったようだが、始めてみると若者達は下手間

やその他の方に回ってしまい、結局、シニアの男女が最後までやらざるを得なかったようだ。

 船上での餅つきは有志の人が杵と臼を持ち込んだようだ。杵と臼は二セット準備されていた。

ところが船には蒸し器がなかった。仕方がないので餅米は炊いたようだ。ところが水加減が分

からず、とんでもなく柔らかく炊きあがってしまった。従って、搗き上がったお餅はべとべとになり

流れるようなお餅だった。仕方がないので搗き上がった餅をしばらくそのままにしておいて少し

固まってから使ったようだ。その後、何臼目からは、水加減も分かり良いお餅になったと関係者

は笑っていた。

 この日「百姓したい人集まれ」と言う第二回目の講座があった。私は、その講座の講師を依頼

されていた。主催したのはK.Hさんだったが、資料は私が作り、プリンターを持っていたI.Aさん

がプリントアウトしてくれた。みんなの協力があって実現した自主企画だった。

 こうして第三回目にしてやっと本格的な自主企画がスタートした。今日は他の企画と重なって

いたからか参加者は前回より少なかった。しかし、待っていてもこれ以上増えることはなさそう

だったので始める事にした。熱心に聞いてくれる人が多くて話していても張り合いがあった。

 中には、こんな人も関心を持っていてくれたのかと思うような若い女性の参加もあって、何とな

く頼もしく感じた。こうして講座は盛況のうちに終わった。

 時計は午前十一時半を回っていたのでカメラを持ってプールサイドのデッキに上がってみた。

講座の始まる前には餅つきだけだったが、舞台ではお琴とフルートの演奏が始まっていた。先

に来ていた家内が貰った搗き立てのお餅を持って待っていてくれた。これを食べながらお琴と

フルートの演奏による「春の海」を聞いた。

 最後尾のデッキには、おみくじや段ボールで作った絵馬なども置いてあり、また、お正月らしく

シニアの人達が凧揚げをしていた。のんびりとしたデッキの風景だった。南国の太陽が燦々と

降り注ぐまぶしいデッキの上だったが、船が走っているので風通しの良い日陰は涼しかった。

 家内はシアターに行くというのでここで別れ、私は再び舞台の方へ戻った。しばらくすると獅子

舞が始まった。本格的な舞はこの後も演じられたのだが、幕間を利用しての舞だった。演じた

のはニックネームが「獅子」というM.Mさんという若い女性だった。

 以前の船内行事の時にも舞ってくれたので彼女の獅子舞はみんなも良く知っていた。彼女は

6歳の時から舞踊や獅子舞を習ってきたと言い、その腕前は素晴らしかった。多才な人は何で

も出来るようで、ヘアーメイクや化粧などもプロの腕前で多くの若者が彼女の世話になっていた。

小柄な体ながら七面六ぴの大活躍であった。世の中には色んな才能を持った素晴らしい人が

いるものだ。

 また、お琴の演奏をしてくれたYさんもチアリーディングやお琴の演奏と、この日大活躍だった。

彼女もまた「獅子」に負けないほどの多才な人だった。彼女は船に乗る前は英語の講師をして

いたそうだ。

 その後も舞台ではマジッククラブの知り合い二人がやってくれた福笑いや、踊りを習っている

というお年寄りの踊りなど楽しい出し物が続いた。

 そして、この日の最後を締めくくったのは先ほどの「獅子」が演じた獅子舞だった。舞が終わっ

た後に希望者は彼女との記念撮影があり、私は一番にツーショットで写真を写して貰った。

 お餅を食べた後だったのでお腹はあまり空いていなかったが食堂へ行ってみた。するとTさん

や彼女の知り合いの男性がいたので同席させて貰った。おまけにビールまでご馳走になってし

まった。

 昼食を終え、いったん部屋へ戻った。家内も戻っていた。ほんの少し休憩と思いベッドに横に

なった。目が覚めたらタヒチへの上陸説明会の午後二時四十分を過ぎていた。大慌てで説明

会場のブロードウエイショーラウンジへ行った。説明を半分ほど聞き逃してしまった。

 この日は新年でもあり着飾ったピースボートスタッフ全員の挨拶があった。また、長い間私達

の世話をしてくれたジャパングレースの責任者の交代の挨拶があった。彼は十九ヶ月この船に

乗っていたそうで、これからは本社での勤務だった話していた。

 私はH.Yさんに頼まれた鍼灸の原稿を仕上げ、出来上がりを見て貰うためパソコンを持って

いた。それを家内に預けてピースボートスタッフのY.H君に借りていた帯のお礼を言うために

ピースボートセンターに行った。ところが一度は見つかったと聞いていた帯は出てきていなかっ

た。あるだろうと言う見込みでの話だったようだ。困ったことになってしまった。

(この帯はどこを探しても見つからなかったが、下船近くになって新聞局の部屋で見つかった)

 困ったなと思いながら引き返しているとKさんと言う人に呼び止められた。実はシニアを集め

て歌のない歌謡曲をやろうと考えているので、歌の指導をお願いしたいと言うことだった。先日、

鮫島由美子の歌を鑑賞した際、参加者の中から自分たちも歌ってみたいという希望があった

らしく、それで、ピーセンに相談してこの企画を作ったとのことであった。一応、協力しますと返

事をして別れた。

 その後、ウインジャマールショーラウンジでタヒチでのオプショナルツアーの説明会があった。

私達はタヒチのモーレア島一泊の観光コースを選んでいた。

 この説明を聞いた後、約束をしていた時間になったのでH.Yさんに会って鍼灸資料の原稿を

見て貰った。Y.Hさんは自分自身も健康には気を付けているとのことで、飲料水として深層水

をたくさん買ってきていた。しかし、下船を一ヶ月後に控え、たくさん余っているので飲んで欲しい

と大きなペットボトル3本を持ってきてくれた。水は幾らでも必要だったので喜んで頂戴した。

 また、H.Yさんは自分自身が鍼灸師であると同時に、自分自身の健康管理にも非常に気を

遣っているようで、その一つがこの深層水であり今回の自主企画でやろうとしている健康管理

のための養生灸であった。

 原稿はこれでOKとなりピーセンでプリントアウトして貰った。原稿のプリントアウトが終わった

ので早めにH.Yさんに渡そうと思い彼女の部屋に電話をしたのだが繋がらず原稿の手渡しは

翌日になってしまった。

 その後、ブロードウエイショーラウンジでタヒチの水爆実験反対の活動家であるガビさんの話

を聞きに行った。話はほとんど終わっていた。この後、「あん」でガビさんとのおしゃべりの時間

があったので、そちらの方へ参加する事にした。家内は別の企画に行くことになったので、ここで

分かれた。(ガビさんの名前はガブリエル・テティアラヒさんという)

 私はガビさんに聞きたいことが二つあり、これらについてのコメントが欲しかった。一つは原水

爆実験に関することであり、もう一つはタヒチ周辺の地球温暖化による被害状況であった。

 私が工業高校の学生だった頃、学校のクラブ活動である原子力研究班に入っていた。その

頃はアメリカやフランスが競うように水爆実験を太平洋上の島で行っていた。

 高校の原子力研究班では、これら核実験の度毎に大量に降ってくる死の灰の調査をしていた。

調査方法は、水爆実験のニュースが入ると近くの山にワセリンを塗ったA4サイズ位の紙を置き

に行き、数日後に取りに取りに行った。持って帰った紙は焼いて、残った灰の中の放射能量を

計るという方法で、どれくらいの放射能が落下しているかを調べていた。その量は驚くほどのも

ので、環境問題が大きな課題になっている今日であれば大騒ぎになるような量であった。しかし、

当時は日常茶飯事の事であり、世論もさほど注目していなかったように記憶している。

 しかし、この当時の放射性物質は色んな形で私達の体に取り込まれていて、その量は半端な

量ではなかったはずで、後々の発ガン等の遠因になっているのではないかと思っている。

 ガビさんの話によると、フランスが行った核兵器の実験に関しては現地の人には何の説明も

されていないとの事だった。また、日本等にも調査を依頼したのだが、フランス政府が入国を阻

んで調査できなかったようだ。従って、ムルロワ環礁周辺はもちろん、タヒチでの被害について

もいっさい明らかにされていない。また、核実験には多くの現地労働者が利用されたが彼らの

健康に関しても一切公表されていない。すべての関係書類はフランス本国に持ち帰っていると

の事であった。

 多くの現地労働者や地域住民に発ガンや健康障害、また、奇形児が生まれている。それらは

今も残っている放射能被害によるものだ。ガビさんは実験が始まって間もなく反対運動を起こし

一貫して反対運動を続けてきた人だ。一時はフランス政府によって暗殺されるのではないかと

懸念された時期もあったようだ。しかし、多くの平和運動の団体の支持や資金援助を受けて運

動を続けてきた。今は世界中にその名を知られた平和運動の先駆者的な存在になっている。

 また、太平洋上に浮かぶミクロネシアという共通民族の自主独立のための運動もしているよ

うだ。彼は先住民族らしく船内でも裸足で歩いていた。恐らくどこへ行くときにも裸足なのではな

いだろうか。その姿は実に堂々としていた。

 もう一つガビさんに聞きたかったのは地球温暖化による影響であった。今までにも何度か報

道されているように、海抜0メートルに近い南国の楽園だったツバイでは海水面の上昇によって

島全体が水没の危機に瀕している。住民6000人を近隣諸国に受け入れて貰おうと交渉して

いるようだが、受け入れ国がなくて困っている。

 こんな常習的な水没の危機にあるツバイの問題だけでなく、今回の大地震による津波による

犠牲者はかつて内陸部に住んでいた人達であった。これらの人達は昨今の世界的なグローバ

ル化によって現金収入を求めて都市周辺に移って来た人達であった。彼らの祖先はかたくなに

不便な内陸部に住んでいた。それは、そこで自給自足の生活が出来たことと、先祖からの言い

伝えを守り、海岸は危険だと言うことを知っていたからに違いない。

 その地を植民地化で追われ、日々の収入を得るために海岸周辺へと出てきたようだ。その結

果、人口過密な海岸周辺の居住地を作り、そこに住む多くの住人が今回の津波の犠牲者にな

ってしまったのではないだろうか。そうだとすれば、これは天災であると同時に人災だと言っても

過言ではない。

 私達がピースボートに乗る前の台風でも瀬戸内海沿岸部が異常潮位による大きな浸水被害

を受けてきた。今後も予測しがたい天災が襲ってくることは間違いないようだ。今回の大地震は

その単なる予兆現象でしかないような気がしてならない。

 ガビさんの深刻な話を聞いたせいか、私の初夢はうち寄せる大波によって海岸近くの家が激

しく揺れている夢であった。この大波の夢は繰り返し私の夢の中に出てくる景色で、打ち寄せる

大波から必死に逃れようとしている私自身がいます。これが近い将来、地球温暖化によって海

面の上昇がもたらす実体だろうか。初夢には似つかわしくない恐ろしい夢であった。

 その他、船内行事としてはShyさんとの酔いどれトークがあった。彼は一人で音楽活動をして

いるフォーク歌手だった。沖縄出身の人で、今回もギターを持ってこの船に乗り込んできた。そ

して、この船の若者達と色んな演奏活動を続けてきた。自分で作った曲をみんなに紹介し、一

昨日のカウントダウンコンサートでは彼の水パとの合同演奏が行われた。私はガビさんの話が

終わった後で終了間際の席にお邪魔をした。ビールを飲みながら開放的な気分になり、歌を聞

いたり一緒に歌った。私も若かった頃、この日と同じようにみんなで円座を組みフォークソング

や労働歌を歌っていた事を思い出した。

 船内ではカルタ会や書き初めもあり、お茶会や餅つきや福笑いもありと、国内にいるときより

も余程お正月らしい雰囲気であった。こうして船内行事をみていると、国内でのお正月がお仕着

せのテレビ番組を見て、飲み食いをして寝るだけの実に味気なくメリハリのないお正月であった

かという事が良く分かった。

 船上だから出来るのだと言うこともあるだろうが、どれ一つ実現不可能な事はない。そう考え

ると貧しかった昭和30年頃のお正月やお盆や秋祭りのことが無性に思い出されて来た。来年

のお正月からはお正月らしい事を何か一つでもやっていきたいと考えている。

船上のお正月あれこれ

こうしている間にも船はひたすらタヒチを目指していた。華やかな正月行事の一方で上陸説明会や

タヒチからの講師(水先案内人)も乗ってきて講座も始まっていた。

    

    

ガビさんと呼ばれ親しまれていたこの講師(水先案内人)は船中を歩くときも裸足だった。

彼から聞くビキニ環礁などでの水爆実験の被災状況は生々しかった(写真上四枚)

    

    

シャイさんは沖縄出身のフォーク歌手、この日も酔いどれトークと称する歌の集まりがあった(写真上四枚)

    

    

    

  

    

「新春初笑い」と称する企画はスタッフや芸達者なお客さんが一緒になって楽しませてくれた。

コントあり、落語あり、漫才あり、南京玉すだれあり、出し物もバラエティに富んでいた(写真十一枚)

船の上で満一歳を迎えたこの子、お母さんとプール遊びを楽しんでいた(写真上)

洋上餅つき大会

洋上でお餅つきをしたい。その思いで臼が二つ持ち込まれていた。ところが船の上には蒸し器がなかった。

仕方がないのでトパーズの厨房の御飯を炊く釜で餅米を炊いて貰った。ところが水加減が難しく出来上がった

お餅はべたべたで形にならなかった。それでもきな粉をまぶしたり、あんこをまぶしたり、みんな喜んで食べていた。

    

    

    

船上のプールサイドでお餅つきが始まった。お代わりが欲しかったら幾らでもどうぞ(写真上六枚)

    

    

    

そして、こんな風景も(おみくじ、絵馬、凧揚げなど思い思いに楽しみました)

    

プールデッキに作られた舞台と司会者

お琴と尺八(実はフルート)の演奏「春の海」

    

    

    

まさに玄人の芸、獅子舞を演じたのはこんな可愛い女性でした。

    

   

久しくやったことのない「福笑い」、本当に楽しいひとときでした。

お年寄りとは思えない舞でした。

お正月と言えばお琴と尺八の演奏、福笑い、そして獅子舞、日本舞踊、こんなバラエティに富んだ出し物が(写真十四枚)

 

いよいよタヒチは目の前、この日、上陸説明会とスタッフ一同の新年の挨拶がありました。

旅行会社ジャパングレースの幹部職員の交替挨拶。長い間、お世話になりました。

2005年1月3日(月)

 今日からフル回転の日々に戻った。おかげで体調も良くなり元に戻ったようだ。風邪引き前は

は食欲もなく体力も落ちていたが、その食欲もやっと戻ってきた。

 朝はいつものようにマジッククラブに行った。この集まりは日々賑やかになっていた。今は先の

発表会のおさらいをしていた。従って、私にとって新しいネタはなかった。まだ拾得出来ていない

人に教えてあげる番だった。

 そして、この日は最後にD.Sさんのマジックの紹介があり、それに必要な小道具の紹介があ

った。小道具は東京の通販店で売っているようなので帰国したら早速、インターネットで調査し

てみようと考えている。

 ここを十一時に出て、気になっていた中高年集まれと言う企画に行ってみた。既に大勢の人

が来ていた。五十人余りの人がいただろうか。私の知り合いも何名かいたのでその横に座った。

主催したT君は、これまでにもこの船の行き届かない点に不満を漏らしていた人だった。一時は

船を降りようかと真剣に考えた事もあったようだ。

 従って、今回も目に余る若者達の不作法な行動に対しシニア達の不満をぶつけようと言う主

旨の企画だった。確かに一部には目に余るような事もあるが、それは私達シニアにも共通する

事で特別若者達だけの問題ではない。また、一部のシニアの中には露骨に性的欲望を満たそ

うとしているものや、セクハラ的な行為をしているシニアの男性もいるとの事で、これこそ由々し

き問題ではないだろうか。

 若者達の目に余るような行動があれば、叱るのではなく理由を言って止めて貰う、この姿勢は

大切な事だ。しかし、シニアの女性の中には彼らとのトラブルを恐れて何も言えない人もいるよ

うで、Yさんが提唱したようにシニアだけの集まりではなく、各世代が集まっての話し合いが必要

なのかも知れないと思った。

 また、ある人が指摘していたように日本の親子は欧米の親子にくらべ家庭での話し合いの時

間が五分の一だそうで、これでは子供に対する躾だけでなく親子のコミュニケーションさえ取れ

ない状態ではないだろうか。今、不満を述べている大人の側にこそ問題があるような気がして

ならなかった。

 こうした問題よりは若者パワーに感心させられる事の方が多かった。船に乗る前には怠惰な

若者の姿ばかりを目にしてきたので、船上での彼らの活躍を見ていると、まるで別人の姿を見

ているような気がした。今の若者達も捨てたものではないと感じていた。

 夕方の六時半から開かれた「しゃべれ場きけ場」の中でも、ある若者が船の乗る前には何も

かも自分には無理だと思っていたことが、みんなと一緒にやることで自分にも出来るのだと気

が付いたと話していた。今度、船を降りたら今まで無理だと諦めていたことに挑戦してみたいと

話していた。まさに、これこそ船マジックではないだろうか。この船で自信を付けた若者は多い

ようだ。

 H.Yさんの自主企画の申請が気になっていたので昼の十二時十分から行われているディレ

クターズミーティングに行ってみた。この日はタヒチ後の帯企画の申請日でもあり大勢の人が

来ていた。H.Yさんの側には家内がいてアドバイスをしていた。

 ここの申請が問題なく終わったのでトパーズダイニングへ昼食を食べに降りた。昼食が終わ

り自主企画の「歌のない歌謡曲」が始まるまでしばらく時間があったので一度部屋に戻った。

 部屋で一休みして午後の二時四十分からの歌のない歌謡曲という自主企画に参加した。この

企画をした人は、ただ歌が好きだと言うだけの人でカラオケにも行った事のない人だった。そん

な人が企画したためか参加者が少なく彼自身ががっかりしていた。私は、こんなものだろうと思

っていて別に意外には思わなかった。こういう企画では選曲にも工夫が必要であり、演歌をみん

なで歌うという事自体難しいことであった。

 しかし、こんな事をやってみようと思ってこの船に乗ったのではないのだから、準備も十分では

なく仕方がないことでもあった。主催者には、また、やりましょうと励ましておいた。

 一方、船内ではカラオケ世代から思い切り歌ってみたいという声が出ていることも事実だった。

そこで午後ティーの時、ピースボートスタッフのM.Hさんに会ったので、何かそんな不満解消の

場を作ることは出来ないかと相談してみた。するとM.Hさんも同じような事を考えていたようで、

日本に帰る前には一度演歌だけを中心にしたカラオケ大会のようなものを企画してみようと言

うことになった。その時には我々世代にも企画に加えて欲しいと頼んでおいた。どのようになる

か楽しみだった。また、二、三の人にはこういう企画が持てそうなので、その時は手伝って欲し

いと頼んでおいた。(結局、この希望はいつの間にかうやむやになってしまった)

 午後ティーは蒸し暑いヨットクラブで開かれていた。ガビさんが持ち込んだタヒチの製品と中村

さんが置いていったオーガニックコーヒーがメインだった。ガビさんは私のことを覚えていてくれ

たようで、ガビさんが持ち込んだバニラエッセンスの使い方についてCCを通訳にして説明して

くれた。私からもガビさんが話してくれたタヒチの農業は月の満ち欠けでやっているという話に関

連して日本でも太陽暦が持ち込まれるまでは月の運行による陰暦というものを使って農業をし

ていたこと、また、すべての生き物は月の影響下にある潮の満ち干に支配されていることなど

を話した。

 ガビさんからは、お天気さえも月の満ち欠けから占うことが出来るという面白い話も聞いた。

こんな話をしていて感じた事は、彼らの祖先と我々の遠い祖先とは共通の文化を持っていたの

ではないかという事だった。しかし、残念ながら時間がなくて話し合うことが出来なかった。 

 この日は非戦映画祭という企画が行われていた。先日の報道にもあったように自民党の中で

は、いよいよ憲法改正のための体制作りが始まったようだ。メンバーの中には首相経験者や

衆参両院の議長経験者も入っているようだ。これら自民党の中の賛否両論者を入れることに

よって自民党内自体の足固めを行っているようだ。

 そんな事もあって今回の企画が持たれた。劇映画やアニメ映画などとともに記録映画が上映

された。その一つが従軍慰安婦の問題だった。見終わったとき何とも言えないいやな気持ちだ

った。企画したスタッフに感想を聞かれてコメントのしようがなかった。ただ一つ感想として述べ

たのは戦争というものは人間を狂わせてしまうこと、戦争は人間を極限状態に追い込み、人間

が人間でなくなってしまうこと、異常状態の中で冷静を保つことは非常に難しいことなどを話して

おいた。だからこそ憲法9条の精神は守らなければならないこと、私自身もそう言う立場で社会

主義運動をやってきたことなどを話しておいた。

 その後、私の親の世代ぐらいの人が来て戦後の荒廃した世相や近隣諸国との関係や若い世

代のモラルの欠如の事などを話し合った。私はそれぞれに私なりの考えを話しておいた。

 そして、「しゃべり場きけ場」に行った。この日の会場は正月気分を出すために畳を敷いた。

その上で円座になり参加者の新春の抱負を聞くことにした。ともすれば特定の人に偏りがちな

会話の場をみんなの場にしようということで、一人の発言時間を短くし多くの人に抱負を述べて

貰うことにした。

 又、司会は私とF.Jさんが担当することになった。こうして約一時間、いつもよりは短い時間

だったが、それぞれの決意や思いを話して貰った。みんなそれぞれに期することがあるようだ

った。また、船内のマナーに関する問題が提起されたが、これはこれでピースボート側の見解

を含め、後日、別企画で話し合うことにした。

 夕食は和食メニューだった。それに気を良くして月桂冠を晩酌に頼んだ。これが利いてこの後

の非戦映画祭ではほとんど寝てしまっていた。映画は沖縄の伊江島で米軍基地撤去を叫び続

けてきた人の活動を記録したものであった。

 ふと時計を見ると、波へいでの紅白歌合戦の打ち上げを予定した時間だった。大急ぎで会場

へ行ってみると集まりはこれからだった。家内もその場に来ていて一緒になった。そして、屋外

のデッキで打ち上げが始まった。スタッフの若い人や我々世代の審査員や出演者など雑多な

集まりだった。一緒にやってきたとは言いながらゆっくりと話をしたことはなかったので、こうして

席を伴にして話し合うと気心も良く分かり和気藹々と大変楽しい飲み会になった。私達は明日の

こともあったので途中で失礼した。こうして上陸前の長い長い一日が終わった。

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