謎多き島イースター島

12月28日(月)

 早朝、トパーズ号はイースター島の沖合に停泊した。船内テレビで見ると町明かりが点々と見

えていた。どうやら停泊予定の第一候補地であったイースター島の中心地であるハンガロアの

沖合にいるようであった。

 着替えを済ませ上甲板の船首デッキに出た頃は、薄明かりの中に島影がくっきりと見え始め

ていた。話で聞いていた通り、島全体の印象は木の少ない禿げ山が目立つ島だった。しかし、

近年の植樹によるものか山裾には椰子やその他の木々が生えており、もう百年もすれば島全

体は木で覆われて景色は変わってしまうのではないだろうか。イースター島は東太平洋海嶺の

東側に位置している。元は火山島であったようで、島内の各所には、その名残の死火山が点在

していた。

イースター島沖合到着(写真説明)

 果てしない大海原、海も空もどこまでも青い。それにしても、この海の広さはどうだろう。やはり、この地球は「水の

惑星」なのだと今更ながら実感していた。イースター島はもうすぐだ。この海のどこかにポツンと置き忘れられた島の

ように突然現れるに違いない。この船にレーダーやナビゲーションシステムなどという近代装備がなければ見過ごし

てしまうのではないだろうか。

 船首部分のデッキでは燦々と降り注ぐ太陽の光を浴びながら時速30キロの航行スピードが作り出す洋上の風を

浴びながらのんびりと読書をする人、ただ、無心に日光浴をする若者等がいた。

    

紺碧の海と空(写真左、右)

船首デッキでくつろぐ人達(写真上)

 まだ、夜も明けやらぬ早朝にデッキに出てみると上空には満月が残っていた。そうか夕べは十五夜だったのか。

その月も次第に薄くなり白々と夜が明け始めた。すると洋上遙かに島影が見え始めた。待ちに待ったイースター島

が突然のように目の前に現れた。

    

満月(写真左)と夜明け前のイースター島(写真右)

    

朝焼けの空(写真左)と鳥人儀礼で知られているオロンゴ岬(写真右)

    

夜明け前のイースター島をバックに。(写真左)

太陽が雲間から顔を出すと海面は一気に白く輝き始めた。(写真右)

    

一番の迎えのボートが船に近づいてきた。(写真左)

明るくなったデッキの上でイースター島を見ている人達。(写真右)

    

本日の献立。イースター島らしくモアイ像が印刷された献立表だった。(写真左)

私達に配られる今日のお弁当のメニュー。(写真右)

ここでも早速、船の修理が始まった。(写真上)

 この日は波が高かった。それも日が高くなるに連れて風が出てきたため、より一層高くなって

きた。上陸には慎重を期すために時間がかかった。そのため、予定時間より一時間近く遅れて

いた。

 イースター島には漁船のような小さな船が停泊できる小さな入り江があるだけで港がなかった。

そのため、上陸にはテンダーボートという小さなエンジン付きの船を利用した。この船が一度に

運ぶことが出来る人数は6名だけで、この島のボートを総動員したとしても900人もの人を上陸

させるとなると容易な事ではなかった。

 母船に取り付けた足場から波で揺れるボートの上に波の動きに合わせて乗り移った。乗客の

中には高齢者もいたり、足の不自由な人もいた。そんな人を安全にボートに移すためには慎重

の上にも慎重を期さなければならなかった。この大上陸作戦は、この日の午前中で中断してし

まった。波が高くなってボートに乗り移るのが危険になったからだ。

 私達はかろうじて上陸組に入っていた。テンダーボートに乗り移り座ると間近に水面が見えた。

トパーズの上甲板から見ているとさして高いとは思えないような波だったが、テンダーボートに

乗り移ってみると意外に高い波だった。海岸近くなると波はもっと高くなり、島の若者達が波乗

りを楽しんでいた。その波は岸辺近くの岩に当たり白く砕け散っていた。

 こうして大波の背をいくつも乗り越えながらイースター島へ着いた。海岸近くには、たくさんの

土産物店が並んでいた。そして、ツアー用の車が列を作って待っていた。こうして、いよいよ、

この島の観光が始まった。

 島全体を観光しての感想は地味の乏しい火山島だという印象だった。こんな島に何故人が住

み着き、こんな変わった文化を築いてきたのか、そこがこの島の魅力と言うべきだろうか。今、

大半の山は木の生えていない禿げ山となっているが、もともと樹木が生い茂るような島であった

とは考えにくいような岩だらけの島だった。。

 確かに生活のために木々が切られ、その後、植林を行わなかった事が今日のような島の姿

になる原因の一つだったとしても、それが全ての原因だとは考えにくかった。やはり火山島特有

の火山礫や火山灰で覆われた肥料分の乏しい土地であった事が、木の定着や成長を妨げてき

た大きな原因ではないだろうか。

 今、島には二千六百人近い人が住んでいて、この中には日本人四人も含まれていた。日本の

遙か彼方の絶海の孤島に日本人が四人も住んでいることにまず驚かされた。今の島の主たる

収入源は観光だった。大半の人が何らかの形で観光に依存して生きているようだ。

 むろん、観光の目玉と言えばモアイ像だろうが、仮に、この島にモアイ像が存在しなくても手つ

かずの自然は素晴らしかった。従って、それらが十分観光資源になり得たのではないだろうか。

残念ながらバスから見ただけなので写真に撮るチャンスを逃してしまったが、白い砂浜に紺碧

の海水がうち寄せる海岸の色は何とも表現のしようがないほどきれいな色をしていた。確かに

セイシェルの海もきれいだったが、美しさにおいて遙かに超えるものがあった。

イースター島上陸(写真説明)

 イースター島はチリ領だが、チリ本国から遙か離れた約3800km西に位置している。タヒチからも約4000km、人が

住んでいる最も近い島ピトケアン島からでも約2000km離れている太平洋上の孤島だ。通常、タヒチからか、チリの

首都サンチャゴからの航空便でしか、この島へ来ることは出来ない。

 海面は、デッキから見下ろしていたときの感じより波が高い。というよりうねりが大きいと言った方が適切なのだろ

うか。大きな船から小さなボートに乗り移るのはなかなか容易な事ではない。過去には転落した人もいたと言うから

注意しなければならない。

 また、九百人近い乗客を数人ずつのグループに分けて運ぶのだから時間もかかる。この日も海の様子を見ながら

搬送が繰り返されたが結局、波が高くなってきて途中で中止になってしまった。この海域は常に強風が吹いている

ようだ。

    

トパーズ号からは救命ボートが降ろされ、いつでも救助に駆けつけられるような体制で運搬が開始された。(写真左)

私達は訓練以外では身につけたことのない救命胴衣を着てボートに飛び乗った。(写真右)

 

激しく岩場に波が打ち寄せている。この高い波を利用してサーフィンの興ずる若い人もいた。(写真左、右)

    

島に上陸すると早速、みやげ物屋の声がした。

この島では、さしたる産業もなく観光収入がより所となっているようだ。(写真左)

上陸した海岸近くにも幾つかのモアイ像が立っていた。船から見えていたモアイだ。(写真右)

  

この島の主たる交通手段はジェット機だ。遺跡を保存する意味からも大きな船が停泊できるような港は作られていな

い。従って、大きな客船からお客さんを運ぶにはテンダーボートという小さな船を使っていた。(写真左)

沖合に碇を降ろしたピースボートの「トパーズ号」(写真右)

 私達は最初に鳥人儀礼が行われたというオロンゴ岬に行った。この岬の沖合には小さな島

が三つ並んでいた。その昔、相対する部族の戦士が自分の部下一名を選び、沖合の島に行

かせて軍艦鳥の卵を持ち帰る早さを競ったようである。

 岬から一番遠くにある島まで約1.5キロメートルあるそうで、選ばれた者はオロンゴ岬の火

口湖の葦で船を作り、浮き袋代わりに沖合の島(モツ・ニュイ)を目指したようだ。今で言うトラ

イアスロンのようなものだったろうか。まず、オロンゴ岬の崖を駆け下り、岬と島の間の海を葦

で作った船を頼りに泳ぎ渡った。そして、島にたどり着くと島の険しい崖をよじ登り軍艦鳥の卵

を見つけると誇らしげに高々と持ち上げたという。オロンゴ岬の方では各部族の者達が固唾を

飲んで見守っていたに違いない。卵を一番に持ち帰った方の戦士が勝ち名乗りを上げ、その

年の島の政治を執り行う王に選ばれたようだ。その王は鳥人として崇められ、岬の岩には顔

は鳥で体は人間という像が刻まれていた。

 この岬にはシェルターのような石室がいくつもあった。アメリカの考古学者が発見するまでは、

ほとんど壊れていて石だけが残っていたようだ。使われている石は板のような平らな石だった。

これを何枚も積み重ねて壁を作り、壁の上にも同じ石を組み合わせて屋根にしていた。出入り

口は大人一人がやっと出入り出来る程度の小さなものだった。

 今は大半が復元され、出入り口が海に向かって並んでいた。これら石造りの部屋が何のため

に作られ、どんな時に使われたものか分からない。これらは常時使われていたものではなく、

鳥人儀礼の時に何かの必要があって使われたのではないかと考えられている。雨風をしのぐ

ためのシェルターだったとも言われているが、その必要があったのかどうか、ここの気象だと

考えにくかった。

 この付近には岩に刻まれた鳥人の像や葦船を作ったという火山湖等、珍しいものがあった。

また、何よりもここからの眺望が素晴らしかった。

 私達がこの場所を訪れたときには春風にも似たそよ風が吹き、いつまでもここにいたいような

心安らぐ場所であった。ちなみに超人伝説として伝えられている行事はモアイ像を建てていた頃

からずっと後のことだ。

オロンゴ岬の鳥人伝説(写真説明)

 二つの部族間での抗争がきっかけとなって信仰の対象であったモアイをお互いに倒しあうようになった。そして、

モアイ信仰が終わり、マケマケ信仰(鳥人儀礼)が始まったと言われている。これは1年間この島を統治する王を

選ぶ行事であったようだ。部族の戦士が一名の部下を選び、オロンゴ岬から沖合の島に軍艦鳥の卵を取りに行き、

1番早く持って帰った部下の上官である戦士が次の1年間、王(鳥人)としてすべての実権を握ることができたようだ。

王となった戦士は鳥人として人々の尊敬を集めたようだ。

この地図は「Great Bridge」さんのサイトからご了解を得てお借りしました。

Great Bridgeさんのサイトはここをクリックして下さい。

    

ここでも女性がおみやげ物を売っていたがその背後に「オロンゴ」という石造りの標識があった。(写真左)

この岬は一方が切り立った崖になっていた。この崖を若者達は先を争って駆け下りていったのだろうか。(写真右)

    

この岬の先に小さな岩だけの島が三つ並んでいた。(写真左、右)

    

この島のすべてが遺跡だと言っても過言ではない。私達は何度もその場所に入ってはいけないと注意を受けた。(写真左)

こんな石があちらこちらに露出していた。表面が非常にざらざらしていて火山性の岩だと言うことが良く分かった。(写真右)

    

(1)                                  (2)

    

(3)                                  (4)      

何のために作られたのか定かな事は判らない。海に面した方向に大人一人がやっと出入りできるような小さな

出入り口(写真2)が作られた岩屋がたくさん並んでいた(写真4)。

これらは(写真1)のように、ほとんどは崩れていたようだがアメリカの考古学者が幾つかを復元したようだ。(写真2、3、4)

   

(1)                                 (2)

(3)

その鳥人儀礼の一部はこうした自然石(写真1)に掘られた彫刻(写真2)から推測されている。

この彫刻の向こうに沖合の小さな島が見える。(写真3)

    

(1)                                  (2)

    

(3)                                  (4)

この島は大きな三つの死火山が三角形をした島の形の頂点を成している。

その頂点の一つになっているのが、このラノ・カウ火山である。(写真1、2、4)

この火山はここに人が住み着いてからは一度も活動をしていない。

しかし、火口の中には今も硫黄のような白いものが吹き出している。(写真3)

軍艦鳥の卵を目指した若者達はこの火口に生える葦を浮き袋代わりにして海に飛び込んだと言われている。

    

(1)                                  (2)

    

(3)                                 (4)

    

(5)                                (6)  

    

(7)                            (8)

 島には在来種といわれるような木はほとんど残っていない。今生えているのは入植者達が持ち込んだと言われて

いる椰子やユーカリの木などである。ピースボートもこの島の植生を復活させるべくチリ本国から椰子の木を持ち

込んで植樹をしているようだ。しかし、その数はわずかだ。

一本の木もない高原状の丘が続いている。(写真1)

これはイチジクの木のようだ。入植者が持ち込んだものだろうか。(写真2)

草原で咲いていた雑草である。この中で馴染みの植物はタンポポだけだ。(写真3、4、5、6)

これは日本でもおなじみの花なので外から持ち込まれたものではないだろうか。(写真7、8)

火口の端と遠くになだらかな山が見える。(写真上)

 次に行ったのはアフ・アキビという七体のモアイ像がある場所だった。多くのモアイ像は海岸

近くに建てられているが、ここのモアイ像だけは内陸部に建てられていた。しかもモアイは全て

海の方を向いていた。この七体のモアイ像はこの島を発見した七人の英雄達の業績をたたえ

て建てられたものだとのことだった。

 英雄伝説はこう伝えられていた。ある島に住んでいた部族の長が不吉な夢を見た。その夢は

自分たちの島が海に沈んでしまうという夢だった。長は部族内の屈強な若者7人を選び、島民

が移住できるような島を探してこいと命じた。こうして長い航海に出た若者達はこの島にたどり

着き、後に島の住民も移り住むようになった。その時の七人の若者の業績を称えて後に建て

られたものだとのことだった。従って、ここのモアイ像達は若者達が来た海の方を向いている

のだとの説明があった。

アキビの七体のモアイ 英雄伝説(写真説明)

この島へのアクセスは通常航空機によるものだ。島にある唯一の飛行場。(写真上)

    

ここにあるモアイは他のモアイとは異なり海の方を向いている。

自分たちが来た海の彼方を眺めているのだと言われている。

それだけでも特異なモアイだと言うことが出来よう。(写真右)

    

周辺の景色は、写真のように遠くになだらかな丘が見える草原だ。(写真左)

草原の一部には柵が設けられ牛の放牧が行われていた。(写真右)

    

横に立った女性と比べてみるとモアイの大きさが分かる。(写真左)

これは豆科の植物だろうか。紫色をした花が珍しかった。(写真右)

   

モアイの表側と裏側(写真左右)

    

モアイの周辺はすべて遺跡になっていて何気なく並べられた石も意味のある遺跡のようだ。(写真左右)

 ここを後にして次に訪れたのは、海岸近くの椰子の木が生えている場所だった。ここは昼食

会場になっていた。私達が着いた時には先に出発したグループが食事をしていた。私達以外

にもよその国の観光客が何組か来ていた。

 椰子の林の少し先には小さな入り江があった。この島の子供や若者だろうか、ボール遊びや

サーフボードを楽しんでいた。私達は椰子の木の下でお弁当を開いた。ツアーの引率者である

ピースボートスタッフと現地ガイドのトミーも一緒だった。

 ここの椰子はチリから移植したものだと聞いていた。従って、この椰子は甘い汁を分泌するら

しく根元には小さな赤い蟻がたくさんいた。これらがズボンの中へ潜り込んで噛むようだ。食事

の間中ちくちくと噛まれて痛かった。

 私達は昼食を済ませ海岸近くにあるモアイ像を見に行った。ここには五体のモアイ像と少し離

れたところに一体のモアイ像があった。このモアイ像がこの島では一番古いものだとの事だった。

これらモアイ像が発見されたとき、側に目玉のようなものがあったことからモアイ像には目玉が

あった事が分かったようだ。この時発見された目玉は博物館に展示されているとの事であった。

 今、島内にあるモアイ像には、ほとんど目がない。しかし、目があった当時のモアイは、もっと

生き生きとしていて強烈なインパクトがあったのではないだろうか。その当時の姿を想像すると、

かつて島の住人達が部族の守り神として崇めていたというのも十分理解できる事であった。

 また、その横の五体のモアイ像の背中には不思議な模様があった。模様の一つはトカゲだ

そうで、この島へ移り住んだ時、部族の長が持ち込んだ三種類の動物の一つだとのことだった。

 そもそもモアイは何故作られるようになったのだろうか、そして何故作るのをやめてしまった

のだろうか。その理由は定かではない。一説によると、この島の人達は部族の長が亡くなると

生前の偉業を称えて亡くなった長をモアイ像に刻んで残してようだ。しかし、モアイ像一体を作る

ためには製作者に大量の食料を与えなければならなかった。しかし、次第に島の人口が増え

自分たちの食料の確保すら難しくなった。そんなことからモアイ像を建てることが出来なくなり

止めてしまったのではないかという事だった。何となくありそうな話ではあったが、その他にも

幾つかの説があって真相は分からない。

 真相が分からないのは彼らが文字を持たなかったことと、白人達がこの島にやってきたとき、

島の歴史や伝統を伝えるための手段を強制的に取り上げてしまったからだ。

島で一番古いモアイだと言われているアナケナ・ビーチと昼食(写真説明)

 アナケナビーチではアフ・ナウナウのプカラ(茶色の帽子)をかぶったモアイで有名だ。伝説によると、ここは

イースター島の最初の支配者ホツ・マツア王が上陸した場所だと言われている。 特異な色と形をしたプカラと

顔の彫りの深いモアイの美しさはイースター島一だとも言われているようだ。

 この周辺には珍しくヤシの木が群生し、白い砂浜がアフ・ナウナウのモアイとともに特異な景観を作りだしている。

    

私達はこの島のオアシスとも言えるような入り江近くの椰子林の中でお弁当を食べた。(写真左右)

  

ここのモアイは七体の内四体が独特の形をしたブカラを頭に載せている。(写真左右)

このブカラは彼ら自身の髪の毛を束ねたものだとも、美しい羽根飾りを模したものだとも言われている。

    

モアイの表と裏側(裏側には奇妙な渦巻き模様が細い線で描かれていた)。(写真左右)

    

横になったままのモアイ、寝転んでいるのは家内。(写真左)

この島では一番古いとされているモアイ。一体だけ離れたところに立っていた。(写真右)

    

近くは両側の小さな岬に囲まれた波穏やかな入り江になっていた。白い砂浜がとてもきれいだった。(写真左右)

    

この浜では波乗りに興じている子供達がいた。(写真左右)

    

  

海岸近くやモアイの下には椰子の木だけでなく、こんな花が咲いていた。(写真上五枚)

 昼食後、アフ・トンガリキという場所へ行った。ここは15体ものモアイが立ち並んでいる場所

だった。ここへ着くまでしばらく海岸を走ったのだが、その海はたとえようもなく美しかった。そこ

は小さな入り江になっていて、底は珊瑚で出来た砂浜のようだった。海底の真っ白な砂に太陽

の光りが反射し、水がエメラルドのように美しく輝いていた。その色は今まで見たこともない神

秘さをたたえていた。とても言葉では表現できない色であった。セイシェルの海の色もきれい

だったが、それ以上の美しさだった。

 また、モアイ像が並んでいる海岸もきれいだった。ここでは何枚も写真を撮った。十五体もの

モアイ像でありながら、どれ一つとして同じ形のものはなかった。全て大きさも異なり、表情も

異なっていた。あえて同じところと言えば両手の指先を前の方できちんと合わせているところ

くらいだろうか。ここにも倒れたままのモアイ像が何体かあった。また、モアイ達に載せられていた

と思われるブカラも何個か置かれていた。

アフ・トンガリキのモアイ群像(写真説明)

 四国にある株式会社タダノという建設用クレーンや車両搭載型クレーンを製造販売している会社が、倒れたままに

なっていた十五体ものモアイを立て直したと言われている。ここはモアイを切り出したラノ・ララクからも小さく見える。

 アフ・トンガリキは 1960年のチリ大地震に伴う津波によって破壊され、アフという聖なる祭壇の石も、いろいろな

場所に散らかったようだ。また、アフ・トンガリキはイースター島の立っているモアイの中では一番大きなものだ。

 

さすがに十五体ものモアイが並ぶと壮観である。おそらく立てた年代が異なるために大きさも形も異なるのであろう。

様々なモアイが集落があったと思われる方向を向いて立っていた。今は失われているが目の部分に大きな目が

あったら当時の人でなくとも畏敬の念を感じたに違いない。(写真左右)

 

少し離れたところにも一体のモアイが横たわっていた。どこに立っていたものであろうか。(写真左)

そのモアイ越しに十五体のモアイを見ると横になった母親の上に子供達が載っているように見えた。

私はこの写真にカルガモの親子を想像して「母ちゃん遊ぼうよう」という題名を付け船内で行われた写真展に応募し

見事一等になった。(写真右)

  

このすぐ側で小さなモアイを制作中であった。何のために作っているのだろうか。(写真左)

モアイの大きさを実感して貰うためにモアイの前に立っている赤い服の女性と大きさを比較して貰いたい。(写真右)

    

元はいずれかのモアイに載せられていたと思われるブカラが側に置かれていた。(写真左)

このモアイは初期のものだろうか、家内と大きさを比べてみれば分かるように比較的小さなモアイだった。(写真右)

    

モアイは大きな入り江の海岸近くに立っていた。

この海の海岸近くには白い珊瑚の砂があり、それが太陽の光を反射して神秘的な水の青さを作りだしていた。(写真左右)

    

モアイ周辺に咲いていた草花。左の写真はアザミのようだが、ここにも紫色をした豆科の花が咲いていた。(写真右)

 最後に行ったのはモアイ製造場所であった。ここはラノ・ララクという古い火山の麓であった。

島内唯一のモアイ像を作ることが出来る岩場だった。

 そもそも、これほど大きなモアイ像を刻むことは容易な事ではなかったはずだ。金属器のない

この島では黒曜石のような硬い石で削るという方法しかなかったようだ。モアイ像の材料となっ

た石は凝灰岩といい多孔質で柔らかい石のようだ。死火山の山腹に材料の石があり、ここから

切り出されて運ばれたようだ。

 ここには切り出す途中で放置されたモアイ像がたくさんあった。材料となる石を切り出して刻む

のではなく、形を整えて切り出していたようだ。切り出し途中のモアイ像は全て上向きになって

横たわっていた。

 こうして作られたモアイ像はどのような方法で運んだのだろうか。それも大きな謎になっている。

この岩山の反対側には大きな火口湖があった。その火口湖に面した方にもたくさんのモアイ像

が半ば土に埋もれたままで立っていた。ここからもモアイ像を切り出していたようだ。

 それにしても不思議なのは不必要なほどのモアイを何故作り続けていたのだろうか。ここに

放置されたモアイ像の方が島内に立っているモアイ像より多いように思えた。

 この古い火山の中腹から見渡す周辺の景色は広大であった。その中に点々とお椀を伏せた

ような山や三角形の低い山があった。この小さな山も元は火山だったのではないだろうか。今

は牧場や畑になっているところにも大小の火山礫がごろごろ転がっていた。

 ここでは野菜などの栽培も難しいようであった。また、島の中で目にした動物は牛と馬だけで

あった。特に馬をたくさん見かけた。大半は野生化した馬だとの事だった。昔は食用にしていた

そうだが今は食べていないとの事であった。

ラノ・ララク採石場 モアイの製造工房(写真説明)

 ボイケ半島にある火口湖の一方が採石場になっていた。ラノ・ララクと呼ばれている場所だ。ここでは夥しいモアイ

が運搬中に、あるいは切り出し中に放棄されていた。いったい何があったのだろうか。永久に続くと思われていた

モアイ信仰もある時を境にぴたりと中止されたようだ。

    

この小高い山の中腹にモアイを切り出し中であったり、運搬中であったと思われるモアイが放置されていた。(写真左)

また、ここから先ほど見学したアフ・トンガリキが小さく見えていた。(写真右)

    

三つに割れたモアイ、運搬中にでも割れたのだろうか。(写真左)

首から下は土中に埋もれたモアイ。(写真右)

    

同じ方向を向いた三体のモアイ、これも土中から出ているのは首から上だけだ。(写真左)

横に立っている女性と比較して貰いたい。このモアイが如何に大きなものかがお分かり頂けると思う。

これほど巨大なものは、各部族が競って大きなものを作り始めた事によるものだと言われている。(写真右)

    

大抵は立っているモアイなのだが、このモアイは珍しく座っている。(写真左)

同じ場所から何体ものモアイが同時に切り出されていたようだ。(写真右)

  

火口湖の斜面が凝灰岩という比較的加工しやすい岩で覆われている。その岩壁一面がモアイの製造場所となって

いた。(写真左右)

    

運搬中だったと思われるモアイが何体も土中に埋まったまま放置されていた。(写真左)

これも何らかの遺跡のようであるが、使用目的は良く分からない。(写真右)

    

こちらは火口の内側の方だ。こうして火口の内側と外側で並行して作られていたようだ。(写真左右)

    

火口の稜線に沿って登る道があった。山頂付近にはたくさんの人の姿が見えた。(写真左)

下を覗くとかつては火口だったところに水が溜まって池のようになっていた。(写真右)

    

火口とは反対側に目を転ずると草原が広がり、小さな火山のような山も見えた。草原では何頭もの半ば野生化した

馬が草を食んでいた。(写真左)

モアイと私。(写真右)

    

この馬もかつては移民達の貴重なタンパク源にもなっていたようだが、今は放置されたままのようだ。(写真左)

ここは植林されたと思われる大きな木があり、草原の中のオアシスのようになっていた。(写真右)

    

弟だろうかあるいは妹だろうか、乳母車に乗った赤ちゃんをお兄ちゃんがあやしていた。(写真左)

バスは再び走り始めた。岩が飛び出した地味の乏しい大地がどこまでも続いていた。(写真右)

 私達は予定より少し早めに観光を終わり港に着いた。夕方だというのに太陽はまだ高く湾内

では若者や子供達が海で遊んでいた。非常に人なつっこく手を振ると愛想良く答えてくれた。

そして、私達が日本人であることを知っているのか片言の日本語で話しかけてきた。

 私達は帰りも島の小さな船でトパーズ号まで送り届けて貰った。そして、大急ぎで船室に戻り

シャワーを浴びた。観光に使われていたマイクロバスは冷房もなく窓を開けたままで走っていた。

そんなわけで体中埃まみれだった。着ていた服もすぐに洗濯をしなければ落ちないほど汚れて

いた。

トパーズ号への帰還(写真説明)

 十分とは言えないまでも今日一日の島内の見学は終わった。遺跡の不思議さもさることながら海の蒼さには何度

も神秘さを感じた。そして木らしい木がない島内はどこかも視界を遮ることがなく、それだけでも異質な世界に迷い込

んだような気がした。

 乾燥した道を走るときはもうもうと土煙を巻き上げ冷房のない車の中へ容赦なく入り込んできた。私達は埃まみれに

なっていた。

 

港近くに戻ってくると子供達が海岸の岩場で水遊びをしていた。朝見かけた子供達だろうか。(写真左)

海岸近くには民家が多く、ここだけは町らしく見えた。(写真右)

    

ショッキングピンクの服がよく似合うみやげ物屋のおばちゃん。(写真左)

テンダーボートに乗って、いざトパーズ号へ。(写真右)

 

次第に港が小さくなりイースター島が小さくなっていった。(写真左)

そして、沖合に停泊しているトパーズ号が近くなった。(写真右)

お客さんを乗せてきたボートだろうか、Uターンをして帰っていった。(写真上)

    

(1)                                  (2)  

    

(3)                                  (4)

お客さんが乗り降りするときには一日中この救命ボートが海にいた。今日一日の役目を終えて船に吊り上げられた。

                                                       (写真1、2、3、4)

    

(1)                                  (2)

 

(3)                               (4)

(5)

この日はお天気が良かったこともあって、船に戻ってからも空は明るくいつまでも飽かずに島を眺めていた。

                                                     (写真1、2、3、4、5)

 こうして一日の観光は終了した。夜は島の若者が主たるメンバーのラパヌイダンシングチーム

の踊りがあった。その中で紹介された「あやとり」は日本の「あやとり」とそっくりだった。日本か

ら遠く離れたこの島に何故こんなものが伝わっているのだろうか。ここでのあやとりは先祖から

の言い伝えを残す手段として使われていたようだ。

 かつて縄文時代日本を船出した海人(あま)達はアウトリガー船を駆使して広くポリネシア各地

へ散っていったと伝えられている。彼らが持ち出した文化は言葉や縄文土器や「あやとり」として

残ったのだろうか。そこには人類の壮大なドラマがあるような気がしてならなかった。彼らが演

ずる何とも言えぬ心地よい音とリズム、それらを聞きながら過ぎ去った遠い過去に思いを馳せ

ていると、日本から遠く離れた異国の地とは思えないような親しみを感じた。そう感じたのは私

だけだっただろうか。モアイ像を建て、鳥人伝説を作り、今日もなお「あやとり」を受け継いでいる

人達がここにいる。それだけでも嬉しくなってしまった。この旅は私の知り得る知識を検証する

旅でもあった。

イースター島二日目(写真説明)

 本来なら一日目に全員が上陸をするはずだったが、急に波が高くなり上陸は途中で中止になった。

従って、イースター島沖合の停泊が一日延び、先に上陸したものは船の上でのんびりと過ごした。

    

太陽は厚い雲の下から顔を出したが、すぐに雲に隠れてしまった。(写真左、右)

    

横から射し込む朝日の中で、デッキに立っている人達のシルエットが出来ていた(写真左)

イースター島の中央部(写真右)

    

イースター島の向かって左側半分(写真左)

イースター島の向かって右側半分(写真右)

    

昼食である弁当を食べてしまいのんびりと過ごす人達(写真上三枚)

ラパ・ヌイ ダンシングチーム(写真説明)

寄港第一日目の夜にはラパ・ヌイ(イースター島)からラパ・ヌイダンシングチームの人達が踊りや民俗芸能を

見せに来てくれた。

    

司会や通訳をしてくれたピースボートスタッフやCCの女性。(写真左右)

    

そして、ダンシングチームの団長さんの挨拶。(写真左)

いよいよ、この島の若い女性達による踊りが始まった。(写真右)

    

ダンシングチーム内の美女二人。(写真左右)

   

ダンシングチームは老若男女によって構成されていた。中にはこんな少年も。(写真左)

それぞれの踊りには何か意味が込められているのだろうが・・・・。(写真右)

 

大きな背中には茶色の顔料で模様が描かれた。これも何かのおまじないか。(写真左)

踊りは会場の人も交えて次第に賑やかになった。(写真右)

    

(1)                         (2) 

    

(3)                                (4)

そして極めつけはこの「あやとり」だった。「あやとり」は文字を持たなかったラパ・ヌイ(イースター島)の人々が

自分たちの歴史を伝える手段であったようだ。その「あやとり」は私達が子供の頃したことのあるものとまったく

同じだった。私達の文化に繋がるものを感じたのは私だけだっただろうか。

 

(1)                                   (2)

 

(3)                                     (4)

(5)

そして、再び女性達によるダンスが始まった。(写真1、2、3、4、5)

    

踊りの後は交流会になった。ラパ・ヌイの人達に囲まれて写真撮影。

写真左が私、写真右は家内と家内の友人。

    

会場の入り口に貼ってあったラパ・ヌイのポスター。(写真左)

船内の掲示板に並んでいた折り紙のモアイ(写真右)

                                             2006年1月28日写真掲載

追記

5月12日NHKの放送から

 私達がイースター島の人達から見せて貰った踊りをラパヌイダンスと言った。この「ラパヌイ」

とはイースター島の言葉で「大きな土地」という意味のようだ。この島は上空から見ると三角形

をしているようだ。島の大きさは日本の小豆島くらいらしい。彼らの先祖がこの土地へ来たとき

に以前住んでいた島に比べて大きく感じたから、こんな名前を付けたのだろうか。

 彼らの祖先はBC2000年頃から移動を開始し、東南アジア地方から、この地方に南下して

きたと言われている。従って、彼らの祖先がたどってきたと思われる島々には、彼らの文化の

象徴である石の像が残されているようだ。そう言えば、私達がイースター島の後で訪れたタヒチ

のホテルの庭にもレプリカだったが石像が飾ってあった。

 彼らの祖先が最後にたどり着いた島であるイースター島で石像文化はモアイとして花開いた

のではないだろうか。壮大な石像文化である。

 島の中には約900体のモアイがあると言われている。これらは私達が見てきたように大きさ

も形も様々である。また、現地の説明でも聞いたようにモアイは神として崇められたものではな

く彼らの村長(むらおさ)を祀ったものだ。従って、モアイの基壇の下には村長のものと思われる

骨が整然と並べられているようだ。この基壇の事を「アク」と言い、神聖な場所なので誰も立ち

入ることは出来ない。私達も厳重に注意された。

 モアイ作りが最盛期の頃には、島には五十を越える部族があって、それぞれの部族がモアイ

の大きさを競ったようだ。作り始めた頃は二メートル位だったものが、最盛期の十五世紀頃に

は十一メートルにもなっていたという。

 また、モアイの中には頭の上に赤い石を載せたものもあったが、これは帽子ではないようだ。

彼らの祖先は赤い髪の毛を束ねて頭の上に巻いていたようだ。帽子と思っていたのは髪の毛

だったのだ。

 当時の集落はモアイの前に作られていた。モアイによって集落は守られていた。私達が見学

したオロンゴ岬での石を積み上げて作った穴蔵のようなものが住まいであったようだ。自然に

出来た洞窟の前に石を積み上げて作ったもので、入り口は人間が腹這いにならなければ入れ

ないような小さいものだった。こんな小さな入り口が、あちこちにあったようだ。洞窟の中には火

を炊いた跡や煙を抜く穴等もあり、彼らの生活の場としての痕跡があるようだ。小さな入り口は

外敵の襲撃を防ぐための工夫らしい。私達が見学したオロンゴ岬のものも鳥人儀式の時にだけ

に使われたものではなく、常時、人が住んでいたのかも知れない。

 この住居を「トゥパ」と言い六十人〜八十人位の人が一緒に住んでいたと言うから相当大きな

洞窟だったようだ。彼らの神様は「マケマケ」と言い洞窟の中には「マケマケ」が描かれている。

 私の旅日記にも書いているように、モアイは「ラノララク」という標高200メートルの山の中腹

にある岩盤をくり抜いて作られていた。中腹から山裾にかけて完成品と思われるモアイが半ば

土に埋もれて放置されていた。

 この山は火山(内側には火口湖がある)であり凝灰岩で出来ているようだ。従って、モアイは

花崗岩のような緻密な石で作られたものではなく固い軽石のようなざらざらした石だ。モアイは

最初に顔や体の表部部分を彫り、その後で背中の部分をくり抜いて岩盤から切り離したようだ。

ここには作りかけのものを含めて三百体ものモアイがあると言われている。

 かつて、キャプテンクックがこの地を訪れたとき大半のモアイは倒れていたようだ。部族間の

争いの中で次々に倒されていったものらしい。今も島の中には倒れたままのものがたくさん残

されているようだ。これらほとんどのモアイが顔を地面に向けて倒されているようだ。

 モアイの特徴は目の部分が大きく窪んでいる。ここに大きな目がはめてあったあったようだ。

この目には「マナ」という霊力があったらしく、霊力を封じるために顔を下にして倒したらしい。

 この島に日本の調査団が入り調査したところ、少なくとも西暦四百年頃までは椰子などの木

で覆われた緑豊かな島であったようだ。しかし、大きなモアイが作られるのに反比例するように

島の木は少なくなっているようだ。島の人口が増え畑を広げるために木は切り倒されたのかも

知れない。また、生活の道具として切られ、燃料にも利用され、ますます木は少なくなっていった

のではないだろうか。そして、ついには今のような裸の島になってしまったようだ。

 木がなくなると表土の流出は激しくなり肥沃な土地は失われてしまう。こうして畑作物は出来

なくなっていったのではないだろうか。部族間の争いも食料の奪い合いだったのかも知れない。

この放送の中で、これを文明の暴走だと言っていた。その後、大きな不幸がこの島を襲った。

ヨーロッパ人達の入植であった。オーストラリアと同じように多くの原住民が殺された。このため

一万人近かった原住民の人口は百十一人に激減してしまったと言われている。人口の減少と

伴に彼らの文化も失われ、歴史の伝承も失われてしまい謎多き島になってしまった。

 いま島の人達は過去の反省からモアイの復元とともに島に木を植えて緑豊かな島にしようと

取り組んでいる。マコイという木を植えている。モアイの復元も日本の企業(株 タダノ)の協力

等で三十九体まで進んでいる。

 過去多くの世界文明が彼らの生活を支えてきた緑豊かな森林がなくなる事によって消

えていった。森は全ての文明の源なのである。このイースター島の歴史を見るまでもなく、

今も言えることではないだろうか。人間は同じ過ちを繰り返しているように思えてならない。

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