リオからブエノスアイレスへ

12月6日(月)

今朝は珍しく霧が濃かった。船は何度も何度も霧笛を鳴らしていた。船上デッキで出会った人

も私と同じような事を感じていたようで、夏山の朝を思い出していたという立ち話をした。そんな

事を思い出させるような今朝の景色だった。その霧もその後間もなく薄くなって消えてしまった。

洋上はいつもと変わらない海の景色に戻っていた。

 今日は二つの映画を見た。一つは今朝早く出発したばかりのリオデジャネイロを舞台にした

「セントラルステーション」という映画だった。ストーリーは以下の通りだった。

 中年の女が駅近くで代書屋をしていた。依頼主は文字の書けない人達だった。毎日やって

くる大勢の客の一人が少年を連れた母親だった。しかし、その母親が突然の交通事故で亡く

なってしまった。母親を亡くした少年は食事も口にすることが出来ず駅の片隅に寝ていた。

 気になった女は少年を家に呼び食事を与えたが、女に男の子の面倒を見る気はなかった。

少年は女に手を引かれ人買いのところへ連れて行かれた。女は代書屋という仕事をしながら

預かった手紙の大半は捨てていた。捨てられてきた多くの手紙の内の一つが、少年の母親が

頼んだものだった。少年は少年らしい直感で、このおばさんはお金だけ取って手紙を出しては

くれないのではないかということを見抜いていた。

 一度は人買いに売り渡した少年だったが、女は友人に言われた言葉が気になって翌日少年

を連れ戻した。そして、少年の父親がいるという田舎へ少年を送り届けようと旅に出た。しかし、

途中でお金を使い果たし途方にくれていたとき少年のアイディアで代書屋を開業した。この頃

から女の心の中には変化が生まれていた。少年がここで預かったたくさんの手紙を今まで女が

してきたようにゴミ箱に捨てようとすると、女は少年の手から手紙を奪い取って近くの郵便局へ

持っていった。

 女は一度は少年を置き去りにしようとしたり、このまま連れて引き返そうかと考えた事もあった。

そんな苦労をしながら訪ね歩いてたどり着いた家に父親はいなかった。その代わり少年の腹

違いの兄が二人と、父親が代書屋に書かせたであろう手紙が残されていた。その手紙にはリオ

で亡くなった少年の母親を探しに旅に出ると書かれていた。

 女は兄弟に少年を託して早朝のリオ行きのバスに乗った。少年は女を追うがバスは出た後

だった。

 この映画が何を描こうとしたものか分からないが、代書屋という職業が映画になるくらいこの

国では文盲率が高いようだ。犯罪と無教育は結びつきやすい。教育は国家の根幹を成すもの

だが、少なくとも中学校程度の教育は国が金を出し義務教育としなければならない。

 もう一本は「天国は作るもの」という映画だった。船内のピースボートセンター前で書き下ろし

をいている青年が自主企画した映画だった。

 この映画は環境とアフガニスタンに何かをしたいという思いの青年達が起こした行動を映画

化したものであった。美しいと言われている沖縄の海岸にもたくさんの廃棄物やゴミが捨てられ

ていた。そのゴミを拾うことから始まった活動も、ゴミを出さない社会を作らなければという考え

に変わっていった。

 また、寒さに震えながら凍え死んでいくアフガニスタンの子供達にマフラーを送りたい、そんな

思いがきっかけで、マフラーなど編んだことのない女の子がみんなに呼びかけて大きな運動に

なっていった。多くの人の協力で出来上がった虹色のマフラーは、つなぎ合わせると千メートル

にもなる長さだった。そして、マフラーはアフガニスタンの子供達のところへ届けられた。

 そんな熱い思いの青年達は沖縄の伝統的なサバニという船で沖縄から鹿児島まで手漕ぎで

渡るという行動を起こした。船になど乗ったこともなかった若者達が古い船を探し、それを修理

して航海に出た。炎天下での暑さに苦しみ、台風の高波と闘い、やっとの思いで鹿児島にたど

り着いた。そんな若者達の行動をドキュメンタリーとして制作した映画だった。

 「成せばなる成さねばならぬ何事も」そんな言葉がぴったりとするような映画だった。

12月7日(火)

 海は大荒れだった。雨が降り風がきつかった。一時は霧もかかり何度も霧笛が鳴っていた。

大きな船だが海が荒れると前後左右に大きく傾く、その度に足下がふらつき、みんな体を斜め

にして歩いていた。船の両左右にある長い通路をみんな同じ方向に体を傾けて歩いている様子

は実に滑稽であった。

 今日はツアー説明会があった。私達夫婦はイグアスの滝へ行くツアーとガウチョショーを見る

ツアーを選んでいた。どんな旅が待っているのだろう。イグアスの滝までは遠く日帰りの飛行機

旅行だった。

 神様はバベルの塔を作っている人間を見て天罰を与えた。そのために人間の言葉は共通語

を失ってしまった。言葉が通じないということの不便さは、この船に乗ってより強く感じていたこと

だった。言葉の壁は意識すればするほどストレスになってくる。こちらもそうであるように話相手

も同じ事を感じているに違いなかった。思いを伝えようと一生懸命話しても理解して貰えず、諦

めてしまう事が多かった。

 船には色んな思いを抱いて乗った人がたくさんいた。むろん、私達のように単に旅行目的の

人もたくさんいた。しかし、過去を断ち切りたい、何とか新しい自分を見つけたい、そんな思い

の人も少なくなかった。そんな人にとって、この船の中で何か見つけられただろうか。しかし、

自分を変えることが出来るのは自分でしかないことを考えるとなかなか難しいようだ。

12月8日(水)

 陸地が近くなったのだろうか。朝食時にはカモメが船上を飛んでいた。上昇気流の中なのか

羽をうまくコントロールしながら優雅に舞っていた。そして海の色はいつしか濃い青色から淡い

緑色に変わっていた。

 そうして夕方近く、私達が絵の勉強をしているとき船内放送があった。船はラプラタ川に下流

域に達したとの事であった。学校の授業でしか聞いたことのない川の名前だった。ラプラタ川

久々に聞く川の名前だった。

 ラプラタ川は大河であった。下流域の川幅はどれくらいあるのだろう。両岸は全く見えなかった。

この川の中心付近にブイが浮かんでおり、この中を船は進んだ。

 久々の晴天だった。屋上デッキのプール脇にはジャグジーがあった。この船に乗って初めて

ジャグジーに入ってみた。既に先客が二人いた。私達夫婦と先客二人がラプラタ川の空を見上

げながらジャグジーを楽しんだ。考えてみれば日本を遙かに離れた異国の空の下でのんびりと

ジャグジーに入る事など想像できたであろうか。

 今日はマジッククラブ、わくわく寄港地、そしてクンジーさん達が主催する「絵を描きたい人集

まれ」という自主企画に参加した。スーさんに誘われたからだ。スーさんは絵の先生だった。

従って、教え方も専門的で理解しやすかった。久々に絵を描くという面白さ、楽しさを味わった。

なまじ子供の頃から絵が上手だと言われ、各種の賞を受賞していただけに、絵はうまく描かな

ければならないという強迫観念にいつもとらわれていた。その意識がなくならない限り描けない

だろうと思っていただけに良いチャンスだった。マジックに絵画、こんなに良いおみやげは他に

はなかった。

 船内ではフルネームや姓名で呼ばれることは少なく、多くの人があだ名で呼び合っていた。

私達夫婦はかっちゃん、むっちゃんと呼ばれていた。その方がお互いに気楽で親しみやすくて

良かった。(中高年者の中には嫌っている人もいたが)

 マジッククラブも人の入れ替わりが多かった。今回は発表会後だった事もあって新たに入会

した人も多かった。

 昼食時、M化学に勤めていたというSさんにあった。彼の方は私のことを知っていたらしく、気

軽に話しかけてきた。五年前、M化学を退職しU化学に勤めていたと話していた。私にとって両

社とも少なからず縁のある会社だった。

 営業畑だったとかで世慣れた感じのする人だった。今は住み慣れた博多近くに住んでいると

話していた。こんな船上で出会うとは奇遇と言えば奇遇であった。

船上風景、そして催し物

自主企画や趣味の集まり等、何にも興味のない人にとっては、とかく退屈になりがちな船内。

その船内には映画館もあり図書館やプールもあった。

そして何よりも退屈させないだけの催し物が幾つも行われていた。

    

スタッフの体験談などトーク番組も多かった(写真左)

また、歌が好きな人にはトパーズの専属バンド「ステップバイステップ」の歌手による歌唱指導も行われた(写真右)

    

どこまでが海でどこからが河口か分からないような大河「ラプラタ川」

    

ジャグジーを楽しんでいるときには河の色が変化してきた(写真上二枚)

    

両岸も見えないほどの大河が延々と続く。巨大船も航行可能なように川の中にはブイが浮いていた(写真上三枚)

「ステップバイステップ」コンサート

トパーズ号専属バンドも時に応じて趣向を凝らしたコンサートを開き楽しませてくれた。

    

    

    

ステップバイステップは歌手を入れて六名で編成されていた。

いずれ劣らぬ名手ばかり(写真上六枚)

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