南アフリカ訪問記

11月22日(月)

 丸一日近く船は激しく揺れた。日本を離れた後台風の影響からか少し揺れた時期もあったが、

久々に経験する激しい揺れだった。やはりここは名だたる海の難所「喜望峰」近くだったからか

も知れなかった。

 やっと揺れが治まった日の朝早く、南アフリカの海の玄関口であるケープタウンに着いた。

周辺がまだ暗闇の中、遠くに点々と町の明かりが見えていた。その後、しばらくしてデッキに

上がってみると薄靄の中に、ケープタウンの象徴であるテーブルマウンテンが私達の前に屏風

のように聳え立っていた。

    

空が明るくなり始めた頃、目の前にはケープタウンのシンボル「テーブルマウンテン」が見えてきた。

テーブルマウンテン全景(写真左)と続く山々、ライオンヘッドと呼ばれている山。(写真右)

    

やがて屏風のように見えていたのは頂上が平らな山である事が分かってきた。(写真左)

船首デッキでテーブルマウンテンをバックに家内と。(写真右)

 その山は山頂がほぼ平らで、山と言うよりは壁のように思えた。この日の観光はこの山の見

学からだった。遠目には平らに見えたこの山も山頂はごつごつと起伏の多い岩山だった。

 山は堆積岩が隆起したもので、同じ地層は翌日旅した喜望峰の先端近くまで続いていた。山

に登るには徒歩という方法もあるようだが、私達一行はケーブルカーを利用した。ケーブルカー

は壁のように切り立った山腹を舐めるようにして一挙に山頂のステーションまで登っていった。

 山腹にはこの地方特有の植物が見られ色とりどりの花が咲いていた。山頂にも黄色い花が

たくさん咲いていた。遠目には同じように見えたのだが花は二種類あった。また、ウサギくらい

の大きさのネズミに良く似た動物が何匹もいた。この動物は人間を恐れる様子もなく、私達が

近づいても逃げようともしなかった。(K.Fさんに聞いたところロック・ダッシーという動物)

 私達が山頂に着いた頃から急に雲が懸かってきた。そして、下界の一部はかき消されるよう

に見えなくなってしまった。しかし、時折雲間から見える景色は素晴らしかった。

 私達の乗ったバスのガイドは先日まで水先案内人だったK.Fさんだった。K.Fさんはこの国

に来て八年になると言っていた。この国の観光ガイドはみんな胸にバッジを付けていた。ガイド

であることを証明するバッジだった。K.Fさんはここへ来てガイドの資格を取ったのだと話して

いた。英語での試験はそれだけでも大変なのに、この国の歴史や動植物のこと等幅広く専門的

な知識も必要だとの事で、合格はなかなか難関のようだ。

 K.Fさんの説明を聞きながら山頂を歩いている間に雲は完全に消えてしまい、眼下に雄大

な景色が広がってきた。一方には市街地中心部から郊外にいたる景色があり、一方には黒人

指導者ネルソン・マンデラさんが長く政治犯として幽閉されていたマヘ島があった。また、反対

方向の海辺の景色も素晴らしかった。うち寄せては砕ける白い波と青い海や空とのコントラスト

がすごくきれいだった。

テーブルマウンテン散策

遠目にはただの平らな岩山のように見えていたが、けっして岩だけではなく近くで見ると

色んな植物が花開いている植生の豊かな山であった。この山と同じ地層の山が遠くケープポイント近くまで続いていた。

    

テーブルマウンテンも見る角度によってはけっして平らではない。(写真左)

植生が豊とは言え本来は岩山、白人がこの地へ入ってきた後、持ち込んだと言われる松林があった。(写真右)

    

テーブルマウンテンの真下までバスで移動、車窓から見たテーブルマウンテン(写真左)


松林とは言いながら日本の松とは少し形が異なっていた(写真右)

    

バスの駐車場付近から見下ろしたケープタウン市内(写真左)

ケープタウンは南アフリカの南端、大きくカーブした湾内にあることが分かる。(写真右)

    

ライオンヘッドと呼ばれているテーブルマウンテンの横の山、何かしらスフインクスを連想させる形だ。(写真左)

ケープタウン市内をバックに家内の写真。(写真右)

    

山頂に小さくケーブルカーの駅が見える。(写真左 中央)

駅をめざしてケーブルカーが登っていく。このケーブルカーはそれ自体が360度回転するようになっていた。(写真右)

    

山頂駅をケーブルカーから見上げた写真。(写真左)

ケーブルカーから見下ろすと山腹には色んな花が咲いていた。また登山道もあって歩いて登っている人もいた。(写真右)

途中からはロッククライミングでしか登れない。

    

テーブルマウンテンから一望した景色。写真左と右は同じ場所で撮影したもの。

    

観光客が指さしているのがテーブルマウンテンの位置。(写真左)

テーブルマウンテン自体の模型。裏側から見た形なので左右が反対になっている。(写真右)

    

山頂にもこんな黄色の花がたくさん咲いていた。左と右は遠目には同じように見えるが葉の形などは全く異なっている。

    

黄色い花の群落をバックに家内を撮影。(写真左)

ケープタウン市内とは真反対の海を見下ろす場所に立って私。(写真右)

    

その真反対の海岸、荒々しい波が打ち寄せて白く砕けている。(写真左)

ライオンヘッドと周辺の海。(写真右)

    

再びケープタウン市内を見下ろす位置に戻って。(写真右)

大きなネズミと言ったような動物「ロック・ダッシー」象の遠縁に当たる動物らしい。恐れ気もなく人の側に寄って来る。(写真右)

    

山頂には何度となく雲が懸かり視界が閉ざされてしまう。この雲のために何も見えなかったというツアー客も少なくないと言う。

私達は非常にラッキーだったのだろうか。

    

市街地の拡大写真。非常にきれいな町だった。(写真左)

市街地の先に港が見え、私達が乗ってきたトパーズ号が見えた。(写真右)

ケーブルカーは一挙に下の駅を目指す。

途中に支柱が一本もないケーブルカーだった。

 私達はここを後にして郊外のワイナリーに向かった。ここはこの日の昼食会場でもあった。

ワイナリーの周辺にはワインを作るための広大なブドウ畑が広がっていた。こちらの季節は

晩春から初夏にかけての季節だった。従って、ブドウはこれから実を付ける時期だった。

 ワイナリーでは同行のツアー客全員が揃ってのワインのテイスティングがあった。5種類の

ワインが出され、このワイナリーのオーナー自らがそれぞれのワインの特徴を説明してくれた。

そして、その後食事になった。テーブルにはワインとブドウジュースが二本ずつ置かれていた。

 私達は二番目に試飲したワインが一番口にあったので、おみやげに二本買った。

 白ワインの製造方法として基本的には樽仕込みにはしないそうだ。一方、赤ワインはフランス

から輸入しているという樫の木で作った樽を使って熟成させているという説明があった。

ステレンボッシュのワイナリー「ゼヴェンヴァヒト」で昼食と見学

    

ケープタウンからバスは郊外に向かった。車中から見た市内の建物。ヨーロッパ調の建物が多い。

    

やがて着いたところは見渡す限りのブドウ畑が広がるところだった。(写真左)

そして、静かな湖畔に影を落としていたのがこれから行く「ゼヴェンヴァヒト」というワイナリーだった。(写真右)

    

ワイン工場とは言いながら美しい花が咲き乱れ緑豊かなところだった。

季節は日本の初夏なのだろうか。アジサイが咲いていた。家内とアジサイ。(写真左)

    

アジサイだけでなく日本でも最近よく見かける色鮮やかな朝顔も咲いていた。(写真左)

芝生がきれいな庭園の中で小さな湖をバックに家内と。(写真右)

    

同じ場所で家内だけ。(写真左)

湖の真向かいにあるワイナリーの古い建物と私。(写真右)

    

食堂では幾種類かのワインのテイスティングがあった。ワイナリーのオーナーから説明を受けながら試飲した。(写真左)

また、工場内を見学した。その時の案内嬢と通訳をしてくれたK.Fさん。(写真右)

南アフリカのワインは世界的にも有名で試飲したワインも美味しかった。ここで何本か買って帰った。

ワイン樽に仕込まれている赤ワイン。樽の材料はこの国にはなくヨーロッパから輸入している。

    

十数年近く前まではアパルトヘイトという人種隔離政策がとられていた。黒人は定められた場所以外に

住むことは許されなかった。今も家を見れば白人かカラードと言われているアジア系の人か

黒人か分かるほど、その差は顕著だった。

カラードというアジア系の人々が住んでいる家々。(写真左)

アパルトヘイトがなくなった今も収入の少ない黒人は非常に粗末な家に住んでいる。(写真右)

 これも後から聞いた話だが、植民地化が始まった頃、ケープタウン周辺には住宅建材として

使えるような木がなかったとの事だった。そんなわけで、これから訪れようとしていた港近くの

山林から切り出した木材をケープタウンまで運んだようだ。今も港にはその時運んだ木材の名

をとってハウト(黄色い樫の木)という名前が付けられていた。

 今、この国にある木々の多くは他国から持ち込んだもので、テーブルマウンテン周辺の山や

ワイナリー近くの山にあった松や、市内の並木として植えられているプラタナスやユーカリの木

などは、全てこの国のものではなく外国から持ち込んだものだった。

 昼食後は市内まで引き返し、テーブルマウンテンの山腹にあるカーステンボッシュ植物園に

行った。この植物園には、この地方の代表的な花であるプロテアやエリカ等を中心に色んな

植物があった。この日は晴天で空は真っ青だった。その青空の下でテーブルマウンテンと色とり

どりの花、そして芝生の緑の取り合わせが絵はがきのような美しさだった。

カーステンボッシュ植物園

澄み切った青空の下に、植物園はあった。背景にある山はテーブルマウンテンの一部だった。

あのごつごつとした岩山の下にこんなに美しい植物園があろうとは思わなかった。

    

園内は緑が美しい芝生と色とりどりの花の取り合わせがとてもきれいだった。

    

日本でもおなじみのストレッチア、この花は南アフリカの人種隔離政策に終止符を打たせたマンデラ大統領を称えて

「マンデラゴールド」という名前を付けている。(写真左)

実に巨大なアロエ。特別に大きい品種なのだろうか。(写真右)

種々様々なプロテアの仲間

南アフリカを代表する花だと言っても過言ではないだろう。形も色も様々のプロテアを見て貰いたい。

日本にムギワラソウという花がある。何かしら感じが良く似た花もあってプロテアがドライフラワーにもなると聞いて

なるほどと思った。

    

    

    

    

キングプロテアと言われている花。残念ながら折られて地面に横たわっていた。(写真左)

    

    

    

蘭の一種だろうか。黄色い花が咲いていた。(写真左)

ゼラニュウムの一種だろうか。この花はテーブルマウンテンの山腹にも咲いていた。

    

テーブルマウンテンをバックに私。(写真左)

植物園の中から市街地を望む。(写真右)

    

放し飼いにしている鳥たちだろうか。それとも野生の鳥だろうか。

左の写真はホロホロ鳥だが右の写真の鳥は鴨の仲間だろうか。

 この日は植物園の見学で観光は終わった。私達は一度船まで引き返し、おみやげに買った

品物を部屋に置いて送迎バスに乗った。バスは市内中心部のカッスルという元要塞だったとい

う建物の前に着いた。

 ここでは今夜、ピース・フェスティバル・イン・ケープタウンという現地の人達との交流会が開か

れるようになっていた。建物の中庭の芝生上には舞台が設置され楽器が並んでいた。しばらく

してジャズ演奏が始まった。

 今、南アフリカは晩春だとの事で夜はかなり冷えるようだ。芝生に腰を下ろしていると寒かった。

ジャズバンドによる演奏、パントマイムを演じる少年達のパフォーマンス、マシフメレレ・クワイア

という男女混声合唱団、スケープという三姉妹によるフォークソング等を聞いた後、迎えのバス

が来たので、そのバスに乗って船に帰った。昨晩はマジッククラブの打ち上げや福島康真さん

の送別会などがあり、寝るのが遅かったので睡眠不足だった。その上、風邪を引いたようで喉

の奥が痛かった。シャワーを浴びて早めに床に就いた。

ピース・フェスティバル・イン・ケープタウン

    

植物園を出て再び市街地に入ると道路は交通渋滞だった。夕方のラッシュアワーだろうか。(写真左)

市街地の大きな緑地帯、緑地帯を挟んで道は両サイドに分岐していた。(写真右)

    

お城とも砦とも言われている「キャッスル・オブ・グッド・ホープ」

ここの中庭でピースボートと現地南アフリカの人達との交流会が行われた。

左の写真は入り口、右の写真は中庭

    

現地の人達によるバンド演奏(写真左)と福島カツシゲさんによるパフォーマンス。

    

芝生に腰を下ろして舞台を見ている家内やピースボートの仲間達。(写真左)

現地の少年達の踊り。動きが非常にユニークだった。(写真右)

    

開会式の挨拶。(写真左)

現地の三姉妹によるフォークソング。(写真右)

    

芝生の上で特異な動きを見せてくれた少年達。(写真左)

黒人居住区(タウンシップ)から来た青年男女混声合唱団。(写真右)

    

建物の上から見たテーブルマウンテンと私。(写真左)

この頃からテーブルマウンテンの山頂を雲が覆い始め有名なテーブルクロス状態になってきた。(写真右)

    

「キャッスル・オブ・グッド・ホープ」の上はこのような通路になっていた。(写真左)

私達が上がって間もなくここへ上がることは禁止になった。

ここを出ると日は落ちて薄暗くなっていた。ここの真向かいにあったシティ・ホール。建物には大きな時計が付いていた。

この建物の外にあるバルコニーで1990年2月11日にネルソン・マンデラ氏が27年に及ぶ獄中生活から無条件釈放され

釈放記念演説を行った。この時、この建物の周りには10万人の人々が集まった。(写真右)

11月23日(火)

 翌朝は喜望峰まで行くとのことで五時ごろ起きた。集合時間は六時半だった。昨日同様バス

5台に分乗して出発した。私達は昨日同様4号車だった。

    

車中から町の景色。

港のあるウオーターフロントの入り口。(写真左)

バスが通った町の一角。ライオンヘッドが見えている。(写真左)

郊外の高級住宅街。白人の居住区。

 バスが着いたのはハウト湾にある港だった。ここは漁業基地にもなっていた。この周辺は

アガラス海流という暖流とベンゲラ海流という寒流がぶつかるところで昆布に似た海草が

たくさん生えており魚も豊富だとのことだった。

 観光船の最上階に座り、周辺の景色を眺めながら20分位過ぎただろうか。海面にたくさん

海草が顔を出している場所に来た。海面は白く泡立っていた。そして、その向こうの岩の上に

たくさんのオットセイがいた。周辺には生臭い異様な匂いが漂っていた。オットセイが発する体

臭だろうか。集団の中央にいるひときわ大きなオットセイは雄だろうか。盛んに首を持ち上げて

周辺を警戒していた。私達の乗った船は、ここに20分位いて引き返した。

 港には物乞いだろうか。派手な衣装を身につけた黒人グループが楽器を演奏しながら歌を

歌っていた。

ミナミアフリカオットセイ見物

    

観光船に乗る港の風景。周辺の山はテーブルマウンテンと同じような地質構造をしていた。(写真左)

港にはレジャー用の大きなヨットが係留されていた。(写真右)

幾層もの地層が露出した岩山

    

沖の小さな岩だけの島にはオットセイの群がいた。(この地方に生息するオットセイをミナミアフリカオットセイと言う)

右側の写真の中央にいるひときわ大きなオットセイがハーレムの主である雄のオットセイ。(写真右)

    

オットセイのいる島周辺は生臭い異様な臭いがしていた。

また、海面には一面に白い泡が漂っていた。どうも大量に繁茂している昆布が波にもまれて出来たものらしい。(写真左)

今見てきた島が見る間に小さくなっていく。(写真右)

    

私達の船と入れ替わりに沖に向かう観光船。(写真左)

まもなく出発した港が見えてきた。(写真右)

     

港にはいると出発するときには気付かなかったが、ここにもたくさんのオットセイがいた。(写真左)

港で私達の帰りを待っていた街角音楽家達。歌を聴かせて観光客からなにがしかのお金を稼いでいる。(写真右)

    

ここにもたくさんの土産物を並べて私達観光客を待っていた。(写真左)

港で私達夫婦。(写真右)

 私達はあわただしくこの場所を出発しケープポイントに向かった。バスは崩れ易くなっている

という山腹直下の海沿いの道を慎重に通り抜け、この地方固有の植物が群生する丘陵地に

出た。両サイドには灌木が群生していた。

 この周辺一帯は喜望峰自然保護地区になっていて、つい最近、世界遺産に指定されたばかり

だとの事だった。

 この植物群の端にケープポイントはあった。山頂には古い灯台があった。灯台まではケーブル

カーでも徒歩でも行けるようになっていた。山頂に設置された標識には色んな国の首都の方向

が記されていた。中には東京もあった。

 眼下には漁船がたくさんいた。そして、その沖合を鯨が泳いでいた。この周辺は漁業資源が

たいへん豊富なところで鯨もたくさんいるとの事だった。

ケープポイントと喜望峰

    

ケープポイントに向かう途中の景色。この当たり一帯は自然保護区で世界遺産に指定されたようだ。(写真左)

小さく見える岬が有名な「喜望峰」見落としてしまいそうなくらい小さな岬であった。(写真右)

    

ケープポイントの山頂に向かうケーブルカー。途中で上り下りがすれ違うようになっている。

      

ケープポイントの山頂には灯台があった。(写真左)

そこには世界の主要都市の方向を示す標識が付けられていた。私達の後ろの黒い柱。(写真中)

ここは漁業資源が非常に豊富なところだとかで漁船がたくさん操業していた。日本からの漁船も来ているようだ。(写真右)

    

家内の指さしている方向が日本の東京。(写真左)

ここから見る山もテーブルマウンテンのように台形の山だ。(写真右)

さすが漁業資源が豊かな海だと言うだけあって鯨が泳いでいた。

ケープポイントで見た植物

    

    

    

    

ケープホーンにもまた周辺にも色んな植物が群生していた。その内、目に付いたものを写してみた。

中にはプロテアの仲間もあったようだ。

    

上りはケーブルカーだったが下りは徒歩で下りた。さしたる距離ではなかった。(写真左)

下りる途中、喜望峰をバックに写真を撮った。(写真右)

登山口にあったケープポイントの標識と家内。

 ケープポイントを後にして再び自然保護区に入った。喜望峰の近くにはレイヨウの仲間だと

いう山羊のような動物や野生のダチョウがいた。そして海岸には大量の海草が打ち上げられて

いた。昆布の一種だそうだが食用にはならないらしい。もっとも南アフリカの人は海草をほとんど

食べないとの事だった。

 ここは写真スポットになっていて、みんな喜望峰をバックに写真を写していた。私達夫婦も他

の人に頼んでシャッターを押して貰った。

    

ケープーポイントから下り再び自然保護区の中に入った。あたり一面黄色の花が咲いていた。

バスの窓からは離れていたので十分な観察は出来なかったがプロテアの仲間ではないかと思われた。

プロテアの仲間だと思われる黄色い花の群落が見られた。

    

また、自然保護区の自然は豊で、このような動物やダチョウなどが生息していた。

カモシカのような動物はボンテボック。白と焦げ茶のコントラストが非常にきれいだった。(写真左)

ダチョウの雄と雌。(写真右)

    

ケープ・オブ・グッド・ホープと書かれた看板は写真撮影の人で順番が出来るほどだった。(写真左)

海鵜と思われる鳥が群れていた岸辺近くの岩と、岩に打ち寄せる荒波。(写真右)

    

海岸にはこんな昆布がたくさん打ち上げられていた。日本の昆布とは少し異なるようだが

何だかもったいないような気がした。(写真左)

私達が観光した立派なバスと家内。(写真右)

 次に向かったのはペンギンの生息地だった。ペンギンの生息地は海岸のリゾート地にあった。

周辺には民家やレストランもあって、こんなところにペンギンがと思うような場所だった。入り口

で入場券を受け取り中へ入った。海岸への細い通路を抜けると大きな岩があり、ペンギンは

その岩の上で群になっていた。活動時間ではなかったのか、みんなじっとしていた。体の小さな

ペンギンだった。

 ペンギン達を見た後、近くのレストランで食事をした。出たのは白身の魚だった。この周辺で

獲れるというサケやマスの仲間だった。癖のないあっさりとしたおいしい魚だった。

アフリカペンギンのコロニー「ボルダーズビーチ」

    

この小さな可愛らしい生き物はアフリカペンギンたち。大きな岩や岩陰、白い砂浜などに群になっていた。

    

ペンギンたちをバックに写真撮影。(写真左)

観察はこのような専用の通路から。家内を写す。(写真右)

    

少し興味があったのでこんな写真も写してみた。レンガを積んで何かを作っているところ。(写真左)

南アフリカには地震がないのだろうか。大きなビルもしきりの壁は鉄筋も入れずにレンガを積んで作っていた。

ここでも歌と踊りを見せてお金を稼いでいる人達がいた。(写真右)

    

山側の景色。一時は曇って小雨模様だったが、ペンギン見学が終わった頃から空は晴れ始めた。(写真左)

海側の景色(写真右)

    

昼食会場だった海岸の明るいレストラン。(写真左)

ペンギン保護区の入り口に咲いていた合歓(ネム)のような花。(写真右)

 こうして二日間の観光は終了した。ガイドや添乗員の心配りもあって、港近くのウオーター

フロントでショッピングが楽しめるよう大急ぎで船に引き返した。ウオーターフロントでは買い物

の前に電話をしようと言うことになりテレフォンカードを買って、おばあさん、帯高、娘に電話した。

別段変わったこともないようで安心をした。

写真は建築中の大きな建物。しきりはすべてレンガを積み上げて作っていた。この国ではレンガが重要な建設資材のようだ。

ウオーターフロント(トパーズ号が停泊した港)

    

港の横にあるショッピングセンターの中。近代的な建物だった。(写真左)

私達夫婦はこのショッピングセンター内の電話から日本の家族に電話した。

港の風景。カモメとトパーズ号。(写真右)

    

この一角にはショッピングセンターやレストラン、ホテルなどが並んでいる。

    

ウオーターフロントの一角。(写真左)

港に白い船体を横たえているピースボートのトパーズ号。(写真右)

トパーズ号の目の前にあった大きな美しい建物はホテルだった。

 船は17時にケープタウンを出港した。岸壁ではこの船を下りた地元のジュリアンさん、K.H

さん、東京から一緒だった歌手の坂口晶さん、そして坂口さんのマネジャー、福島カツシゲさん、

写真家のエリック、地元在住のスタッフ等が、この船が港内を離れるまで見送ってくれた。この

港でもテープが風に舞い、見送る側にも見送られる側にもひそかな涙があった。

さようならケープタウン

    

ここで船を降りた歌手の坂口晶さん。(写真左)

坂口さん、水先案内人のK.Fさん、クルーズディレクターのN.Iさん。(写真右)

    

水先案内人のジョアンナさんと迎えに来ていた娘さん。(写真左)

船が岸壁を離れるまで見送ってくれた人達。(写真右)

その他、多くの人達はゲートの外で見送ってくれた。

    

紙テープが風に舞い、船が岸から離れると一本、また一本と切れていった。(写真左)

とうとうトパーズ号は港の外に出てしまった。岸壁の小さくなっていく人達。(写真右)

    

遠ざかるテーブルマウンテンをバックに私。(写真左)

更に遠くなったテーブルマウンテンと家内。(写真右)

    

青く澄みきった空の下でテーブルマウンテンがくっきりと見えていた。船首デッキで名残を惜しんでいる人達(写真左)

ここから見ると左に大きく張りだしている半島の部分が見えないので、島のように見えていた。(写真右)

    

家内と私。(写真左)

家内とユッコ。(写真右)

    

黒人指導者ネルソン・マンデラ氏が長く幽閉されていたロベン島。(写真左)

港外まで見送ってくれたタグボート。(写真右)

 夜は船内のブロードウエイショーラウンジでピースフルナイトが開かれた。この日はさすがに

観客は少なかった。新たな水先案内人であるブラジル人のフランシスさんとアメリカ人のクリス

ティーンさんの二人による打楽器演奏会が観客全員参加で開かれた。こうしてケープタウン滞

在の二日間は終わった。

    

クリスティーンさんはドラムサークルの父、アーサーホールに師事したアメリカでも最高の音楽療法士。(右の写真右の人)

一方。フランシス・シルヴァさんはブラジルのサンパウロ出身の在日歴24年の人。

浅草サンバチームの火付け役でサンバチーム「アシェ」他を主宰している。(右の写真左の人)

この二人の絶妙なコラボレーションでリオまでの長い航海中、多彩な催し物があった。

    

この日は大勢の若者が中心になってドラムサークルあり踊りありの賑やかな舞台となった。

ケープタウンあれこれ

 私達の船「トパーズ号」が停泊した港のすぐ横に立派なホテルがあった。ホテルの前庭では

大勢の白人が食事をしていた。そのホテルの横には大きなショッピングセンターがあった。

ウオーターフロントというショッピングセンターだった。日本国内のショッピングセンターに劣ら

ない近代的なショッピングセンターだった。

 これらの建物に代表されるようにケープタウンは近代的な町だった。高層ビルの数こそ少ない

が市街地や市街地周辺を見る限り貧困とは縁のない町に見えた。しかし、郊外に一歩出ると

貧しい生活の人々の掘っ建て小屋がたくさんあった。

 一般に貧民と言われる人達は一日2$以下の収入しかないと言われていた。アパルトヘイト

がなくなった今もその当時の後遺症は残っていた。主要道路の周辺には職を求めている人が

あちこちに立っていた。失業率が40パーセントという驚異的な数字になっていた。

 老人には年金が支給されるので、それをよりどころに生活している家庭もあるとか聞いた。

就業率を上げるためには軽工業のような人手を必要とする産業を育成することが必要なの

ではないだろうか。

 また、失業率の高さとともに問題となっているのはHIV(エイズ)の問題だ。これも5人に1人

が感染者だというから深刻だ。失業率の高さと無縁ではないだろう。HIVは感染しても薬を飲め

ば発症を抑えることが出来る。しかし、その日の生活費に困るような人に薬を買うような余裕は

ない。そんな人がたくさんいるようだ。

 町は別荘や高級住宅地、中産階級の居住地、カラードと呼ばれるかつて東南アジア一帯から

連れてこられた奴隷の子孫にあたる人たちの居住地、そして黒人の居住地と分かれていた。

一歩郊外に出ると黒人の居住地が延々と広がっていた。

 かつてバスコ・ダ・ガマがこの地に上陸したとき、この地に住んでいたのはコイ人とサン人

だった。コイ人やサン人は俗にホテントットやブシュマンと呼ばれている人達だった。一時、

オランダの植民地となっていたが、その後にイギリスの植民地になった。

 従って、市内には植民地当時の建物が今も残っている。この国に貧困さえなければこんなに

住みやすい国はないのではなかろうか。真夏、気温はかなり高くなるようだが、日本のように

湿度が高くない。その分住みやすいと言える。ヨーロッパから来た人達が住み着いたのも良く

分かる。私達が訪れたワインセラーではアジサイが咲いていた。爽やかな初夏を感じさせた。

何かしら異国の地にいる気がしなかったのは私だけだろうか。

船内生活(服装)

 ベトナム、シンガポールを除いて暑さを感じない船旅だった。観光地も暑いとは言いながら

湿度が低いので日本の夏よりはしのぎやすいところばかりだった。そんなわけで船内も場所に

よっては上着が欲しい場所もあった。従って、上半身あらわな服装のものもいれば、冬服の

ような人もいた。私は半袖に少し寒くなるとカーディガンを羽織っていた。

 女性の服装はあでやかであった。カンガと言われる布をうまく活用しておしゃれをしていた。

一般に男性も女性もジーパン姿の人が多い。われわれ中年男性が一番ダサイ服装をしていた。

派手で不似合いな衣装のもの、家での自堕落な生活をそのまま持ち込んだような服装のもの等、

色々であったが、これはと思う服装の男性は見かけなかった。

                                    2005年3月17日掲載

                                    2005年10月2日写真掲載

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