南アフリカを目指して

 大いなる資源を有していながら、その資源はその地に住んでいる人達のために使われた事

はなかった。それが多くのアフリカ諸国の歴史だった。それは、これから向かっている南アフリカ

も例外ではなかった。アパルトヘイトという人種隔離政策は世界からごうごうたる非難を浴びな

がらも長く続けられてきた。

 また、アパルトヘイトがなくなったとは言え、この国の将来は決して楽観視できない。貧困と

エイズ、これらはアパルトヘイト時代の負の遺産として重くのしかかっている。私達は今その国

へ向かっていた。

11月16日(火)

 昨晩、ケニアのモンバサを出港した。この港で水先案内人の佐々木さんとピーターバンドが

降りた。佐々木さんはみんなの声援に感詰まったのか泣いていた。港では賑やかにピーター

バンドの演奏が行われていた。お互いの声がかき消されるようなジャンベの響きだった。船は

岸壁を離れ船首の向きを180度変えて自力走行に入った。紙テープが風に舞ってよけい寂しさ

を醸し出していた。手を振る佐々木さんが小さくなっていった。

 下船した人と入れ替わるように偉大なるパフォーマーがこの船に乗ってきた。世界大会で二

度までも金メダルを獲得したというミスターマシューであった。名前はマシューだが京都在住の

在日コリアであった。

 彼は若干19歳という若さでありながら、世界のエンタテナーが覇を競う大きな大会での連続

金メダルという偉業を成し遂げてしまった。聞けば彼の人生はまさにドラマの連続である。

 この船に乗る直前にもハプニングがあったようだ。ケニアのナイロビ空港に着いた時、怪しげ

な人達に拉致されてしまった。金品を巻き上げられようとした時、彼の商売道具が彼を助けた。

その道具を使って彼らに芸を見せたのだ。

 すると彼らは彼を彼らの住む貧しい街に連れて行った。そこで、みんなにその芸を見せろと

要求されたのだった。言われるままに芸を披露するとやんやの喝采を受けた。これから最終

便のモンバサ行きの飛行機に乗らなければならないのだと言うと、どこから手に入れたのか売

り切れになったはずの航空券を買ってきてくれた。強盗が善人に変わり、彼に感謝の気持ちを

表したのだった。

 「芸は身を助ける」とは言うけれど、まさにその通りのことが起きたのだ。こうして、出港直前

のこの船に飛び込んだとのことだった。彼がこの道に入るようになった経緯についても、とても

偶然とは思えないような出来事の連続だったようだ。何かに導かれるようにして今日に至って

いた。彼自身が語っているように、彼は彼が目標としている偉大なるパフォーマーの弟の生まれ

代わりかも知れなかった。

 パフォーマンスをする時は自分も楽しみ人も楽しませる、これが彼の信条だと語っていた。

訥々とした話の中に老成した芸人を思わせるような説得力があった。並ではない努力と強い

意志の現れが彼の芸を支えている。ともあれ、すごい人物がいるものである。

 その他、南ア問題に詳しい福島康真さん、コメディアンの福島カツシゲさん、対話による問題

解決の手法を説くジョアンナ・トーマスさん等といった多彩な水先案内人が乗ってきた。楽しみ

な事であった。

11月17日(水)

 今日から私の新たな水パとしての活動が始まった。今回は福島康真さんの水パになった。

南ア問題に興味があったからだ。今、南アはどうなっているのか、私が一番知りたいところで

あった。到達闘争はいったん目標に達した後が難しいと言われている。今までの力をどのよう

に温存し、かつ次のステップへと繋いでいくのか、これまでよりは難しい課題であった。

 従って、南アは依然としてアパルトヘイト時代の問題をそのまま引きずっていた。特に黒人

社会の生活向上は大きな問題であった。長く白人中心だった経済は容易に黒人を受け入れ

ようとはしない。また、持つものと持たざるものの格差は拡大するばかりである。

 そして貧困は犯罪を生む。エイズ問題もその延長線上にあると言えるのではないだろうか。

南アのみならずアフリカ諸国全体が抱えている問題であった。

 今日は岡山・広島県の人あつまれという自主企画を開いた。14時からにしていたが、その

時間になっても集まりは良くなかった。しかし、その後11人集まってくれた。次回の集まりは、

みんなが揃うであろうナミビアを出てからと言うことにして第一回目の顔合わせは終わった。

 この船の中には二つの生活域がある。一つはお客さんである私達の生活域である。そして、

目立たないところにこの船で働いているスタッフの生活域がある。しかし、乗客である私達が

彼らの生活を垣間見ることはなかった。彼らが客船の従業員ではなく、素顔の人間に戻るとき

は船が港に入った時くらいであった。船が港に入ると非番のものは私服に着替え船外に出て

いくようだ。

 そして、電話をかけたり買い物をしていた。彼らの一日はどのようになっているのだろう。甲板

などの清掃をする人達の朝は早かった。私達が日の出を見ようとデッキに出た時には、既に

掃除を始めていた。一方、夜遅くまで仕事をしている人達もいた。船内の公共スペースや階段

や窓の掃除をしている人達であった。私達が遅い夕食に向かうときにも5階のメイン通路では

数人の人達が掃除をしていた。

 その他、デッキにあるヨットクラブやヘミングウエイバー、スポーツバー、トパーズダイニング

ルームといった食堂やバーなどで働いている人達も大勢いた。

 ちなみに私達の部屋を掃除してくれているのは、少し太めのニッキーさんという女性だった。

その前はアッシーさんだった。アッシーさんは先のベトナムで船を下りた。フィリピンの女性だっ

た。ニッキーさんの国籍はどこだろうか。どうも旧ソ連圏であった国のような気がするのだが。

いずれにせよ、私達の気楽な船内生活はこうした人達によって維持されていた。

 船内では風邪が流行していた。マスクをかけた人や声をからした人などもけっこういるようだ。

船内の診察室の患者も多いようだ。船内には常時空調機が入っていた。従って、空気は非常

に乾燥していた。私はマスクをして寝ていた。それでも時々のどがからからになっていた。夜中

に何度か水を飲みに起きた。この乾燥が良くなかった。何しろ限られた空間で多くの人が生活

をしているのだから次々に感染してしまった。特に4人部屋などでは、もっとも感染しやすかった。

 さて、船内生活も一ヶ月近くになると気分的なゆるみも出てくる頃だった。ハイテンションだった

人達もいささか疲れ気味なのではないだろうか。よほど自己のペースをしっかり保っていないと、

色んな事に惑わされてしまう事になりかねなかった。

 それと同時に人間関係にもいやな事が見え始めた頃だった。初めは本性を隠していた人も

地が出て化けの皮がはがれてくる頃だった。

 最近、少しばかり色んな事を耳にするようになってきた。私達夫婦は、比較的そう言う話から

遠い存在だったが、それでも聞こえてくるのだから実体はもっとひどかったのではないだろうか。

この船に浮き世のいやなことを忘れようと思って乗った人が、またしても人間関係の煩わしさに

巻き込まれるなどといった事もあったようだ。どこまでいっても人間というものはどうしよもない

ものらしい。

 昨晩は少し早く寝た。その前の晩、福島康真さんの水パで遅くなってしまったからだ。早い時

間だとは言いながらも10時過ぎていた。家にいた頃に比べると、ずいぶん夜遅くまで起きてい

る事が多くなった。良いことなのか、悪いことなのか。

 同じ福島さんでもこちらはコメディアンの福島カツシゲさん、そのカツシゲさんのトークショーが

あった。彼が単身東京から沖縄までヒッチハイクをしたときの話だった。人生占いではないけれ

ど、あなたのお話を聞かせて下さいというふれこみで、いろんな町で色んな人と接したときの

エピーソードを語ってくれた。なかなか面白い話だったが、眠くてとても最後までは聞けそうもな

く途中で退席をしてしまった。

 ある若者(ニッシー)がピースボートセンターの前で「書」を書いていた。大勢の人だかりと順番

待ちの人がいた。私達夫婦も自分たちの名前を入れて書いて貰った。私達二人の名前を並記

した後、その下に自分が思いついた事を勢いよく書き始めた。特徴ある字も良かったが即興で

書いてくれた文章が良かった。私達二人を見ただけで書いた言葉だったが当を得た言葉だった。

偉い若者がいるものだと感心をしてしまった。彼は洋上運動会時、私の誕生月である黄組の

団長だった。外見にも彼の人柄と優しさがにじみ出ていた。

 どうやら自主企画で映画を上映したいらしく、その宣伝のためにこうして無料サービスしていた

ようだ。ミスターマシューと言い、彼と言い、この船内だけの事なのだろうか、尊敬に値するよう

な素晴らしい若者達がいた。実に頼もしいことだ。この船で、このような素晴らしい若者達に出

会ったことは大いなる収穫であった。

11月18日(木)

 何かしら腹の調子が良くない。家内は早朝のウオーキングを休んでベッドの中だった。私は

昨晩の睡眠不足が少し残っていたが、いつもの癖で一度目が覚めるとなかなか寝付かれず、

起きてウオーキングに出かけた。デッキに出てみると金星と木星が薄明かりの中に残っていた。

南十字座もかろうじて見ることが出来た。ケニアの頃よりはずいぶんと高度が高くなっていた。

その分だけ南下したことになる。

 今日も色んな行事が目白押しだった。福島さんの水パに加わった事を少し後悔していた。以

前の水パより時間的に拘束される事が多く、また、次の企画を決めるのにもずいぶん時間が

かかってしまう。私のように何でも手早くやってしまおうという性分のものには、何となくペースが

合わなかった。

 昨日の県人会の顔合わせの時、知り合いになった「まぬーさん」の徳性占いに行ってみた。

トランプのようなカードに色んな事が書いてあった。それを三度引いて基礎カード、表現カード、

関係カードとして並べて見る。基礎カードは日々を円滑にするための自分自身の基礎となる

徳性、表現カードは他の人から見た自分自身を印象づける徳性、関係カードは調和のとれた

関係を保つために必要な徳性となっていた。私の場合、基礎カードで引き当てたのは「責任」、

表現カードは「自信」、関係カードは「いやし」だった。何となく自分自身の徳性をずばり言い当

てているようにも思えた。

 マジッククラブでは、いよいよ21日の本番に向けて動き始めた。それぞれの出し物も決まった。

私は司会とトランプマジック一本に出演することになった。

 また、Pボート文クラブでは「海」に関する事で何かを書いて来ることになっていたので、私は

電子メールとして書いた文章の一部を紹介した。

 また、マサイマラ国立保護区に行ったもの同士が写した写真を持ち寄ろうと言うことになり、

午後に一回目の集まりがあった。私の提案で我々だけで写真交換するのではなく、多くの人

にも見て貰おうと言うことになった。今回は自己紹介と次回の集まりについて相談し解散した。

 その他、この日はマシュープレゼンツの「パニックアート」や「康真さんに聞こう」や「アフリカの

未来とHIV」等と盛りだくさんの一日だった。

 そして、もう一人の水先案内人であるジョアンナ・トーマスさんの「対立とのつきあい方」は、

こぶしを使わずに思いを伝えるという副題付きであった。ジュリアンさんはいま南アフリカの刑

務所で働いていた。入所している囚人達にコミュニケーションの大切さを教え、社会に戻ったと

き正しく更生できるような指導を行っていた。それはナイフや銃や暴力に頼るのではなく話し合

いで解決していくという方法について教えていた。囚人を更生させる方法には、宗教に頼る方法

もあるがジョアンナさんの方法は、もっと具体的なものであるようだ。こうして、この日も忙しい

忙しいで一日が終わってしまった。

11月19日(金)

 マダガスカルとアフリカ大陸の間を抜ける頃から海のうねりが大きくなってきた。それに連れて

再び船が揺れ始めた。

 船内ではトパーズ町内盆踊り大会があるとのことで朝から浴衣姿の女の子達が行き来して

いた。既にデッキのプールサイドでは会場作りも始まっているようだ。

 それに先だってGETの先生達によるグローバルフェスティバルなるものが開かれていた。私

が行ったときには終わりかけていたので、どんな事が行われていたのか分からなかった。各国

の模擬店のようなものだけが残っていた。それぞれの先生が自分の国の紹介をしていたのだ

ろうか。

 船上での季節はずれの盆踊り大会は、盆踊りや阿波踊りの他に南中ソーランやN.Iさんらの

和太鼓演奏、そして、おかめの踊りや獅子舞などと実に多彩だった。N.Iさんらの太鼓演奏に

せよ、おかめの踊りと獅子舞を演じた女の子にせよ、とても素人とは思えないほどの芸達者だ

った。また、夜店を真似た模擬店も出ていて大変な賑わいだった。せっかく盛り上がっていたの

に途中で雨が降り出してしまった。家内が風邪を引いていたこともあって、私達は一足先に下

に降りてしまった。宣伝ビラには浴衣コンテストなども書いてあったので、雨がやんでから行わ

れたのだろうか。いずれにせよ、賑やかで華やかな夜だった。

 マジッククラブは主立ったメンバーが中心となって準備を進めていた。今日は看板作りと演目

作りを行った。本番は21日であった。毎日、打ち合わせやリハーサルを行っていた。いざ本番

が近づいてくると、みんな張り切って意外な人が意外な一面を見せてくれるようになってきた。

 今日は「わくわく寄港地」として南アフリカの見所についての説明があった。長く、白人中心の

国であっただけにヨーロッパ的で近代的な町のようである。私達はケープタウンのシンボル的

なテーブルマウンテンと喜望峰を観光する予定だった。

ルワンダの悲劇

 あまりにも悲惨な事件がこのアフリカ大陸であった。数年前のことであった。ルワンダという

小さな国での大量殺戮事件であった。

 ルワンダには二つの部族が住んでいた。人口の多い方がフツ族であり、少ない方がツチ族

であった。二つの部族はある事件が起きるまで仲良く暮らしていた。両部族間の婚姻関係も多

く、外見的に両者を区別するようなものは何もないくらい混血が進んでいた。従って、お父さん

がツチ族でお母さんがフツ族だという家庭もたくさんあったようだ。

 従って、両者を区別するものは身分証明書だけで、身分証明書には父方の部族名が記され

ていた。この国は長く内戦状態にあった。相争っていたのは政権を握っていたフツ族政府とツチ

族の愛国戦線だった。しかし、国連の仲介もあって両者は和解した。しかし、その和解を快く

思わないものがいたようだ。フツ族の財界や軍閥関係者だった。

 そして、悲劇はある事件から始まった。フツ族出身の大統領が暗殺されてしまったのだ。暗殺

の少し前から事件を予告するような放送があった。そして事件後、奇妙な放送が本格的に始

まった。この放送は「千の丘ラジオ」というラジオ局が行っていた。ラジオは大統領暗殺事件後、

フツ族にささやきかけるようにツチ族に対する憎悪感をあおり始めた。初めは聞き流していた

フツ族の人達も毎日ラジオを聴いている内に、次第にツチ族に対する憎悪感やありもしない

疑いを抱き始めるようになってしまった。繰り返されるラジオ放送によって次第に洗脳されて

いったのだった。

 放送は意図的にツチ族の抹殺を示唆するものであった。また、フツ族間でもツチ族の殺戮に

加わらないものは村八分や脅迫を受けるようになっていった。こうして国内各地の小さな農村

にいたるまで殺戮の嵐が吹き荒れるようになり、ついに八十万人を越えるような被害者を作っ

てしまった。

 一方、殺戮に加わったもの達もある意味では被害者であった。今も村や家庭内にまで加害

者であったものと被害者であったものとの対立は続いていた。すべては「千の丘ラジオ」が作り

出したものであった。

 それにしても、こうも簡単に人間は殺人者になれるものであろうか。集団という狂気がそうさせ

るのであろうか。巧妙に陰で操るものや煽るものさえいれば、人は簡単に変わり得るものだと

いう格好の事例でないだろうか。

 それは、日本でも同じであった。かつて関東大震災の時、流言飛語に踊らされて一般市民が

暴徒と化して多くの朝鮮人を殺害した。昭和史に残る忌まわしい事件であった。真相は未だ明

らかにされてはいない。

 また、ナチスドイツ時代のドイツ国民も同じであった。隣人であったユダヤ人達を追いつめて

いったのもナチスに踊らされたドイツ国民だった。いつの時代にも、また、どんな国に於いても

起こりうる事件だという事をあらためて明記しておきたい。

 加害者である息子を持つ母であり、かつ被害者となったルワンダのある主婦がこう話していた。

「人間に欲望がある限り、自分にはないものをうらやむ心が狂気に走らす」のだと。何となく心

に重くのしかかるような言葉であった。

11月20日(土)

 今日、一時間の時差が発生した。今晩12時には時計の針を一時間遅らせる事になる。これ

で日本との時差は7時間となった。今、船内では朝の8時過ぎだが日本では午後4時過ぎとな

っている。

 今朝、デッキへ出てみると珍しく誰もいなかった。見上げる空には星がいっぱいだった。星座

や天の川などの位置は大きく変化していた。南十字座もずいぶん角度が高くなってきた。その

分だけ南下したことになる。

 9時前頃から急に海も空も大荒れになってきた。大きなうねりとともに白波が立っていた。久々

にゆったりとした一日を過ごした。家内は風邪を引いてすっかり落ち込んでいたが、昨日から

風邪薬を飲み始めて、やっと少し良くなってきた。船内では風邪が大流行している。先のツアー

時にはジャパングレイスの添乗員が風邪を引いていて気の毒な位ぐったりしていた。旅行を前

にしての病気は本当につらい。

 今日は明後日の「ケープタウン2日間」コースの説明会があった。私達は第一日目にテーブル

マウンテン、第二日目には喜望峰を見学する予定だった。南アフリカを知っている人は一様に

「南アフリカは素晴らしい国」だと口を揃えて言う。

 アパルトヘイトなど暗いイメージの南アフリカだが、それとは反対に明るく心温かい人々がたく

さんいるとの事だった。大変楽しみであった。

 洋上で電気製品が故障した場合どうすることも出来ない。先のベトナム旅行の際、居眠りを

していて手に持っていたDVカメラをバスの床に落としてしまった。一度はヘッドクリーナーをか

けて良くなったかに見えたが、やはり同じ警告が出るようになり使えなくなってしまった。これか

らはデジカメ2台で撮る他はなかった。

 その他、乗船直前になって電源トラブルの発生した家内のパソコンはとうとう液晶画面が見え

なくなってしまった。どうもパックライトの回路トラブルらしいのだが分からない。そして、いま一台

は買ったばかりのCDラジカセのCDが全く機能しなくなってしまった。室内にじっとしていること

は少ないのだが、せっかく持ってきたのにCDを聞くことが出来なくなってしまった。

 マサイマラに行った人の中には眼鏡を壊した人や一台しかないカメラがエラー表示で写せな

くなった人など様々であった。こんな人の事を考えれば他に代替手段があるのだから我慢しな

ければと思っていた。。

 さて、今日は「坂口晶さよならコンサート」が開かれた。彼女は東京から一緒だった。そして、

ケープタウンでこの船を降りることになっていた。

 第一回目の歌謡ショーが開かれた時、みんなびっくりしていた。「ええ、この船に歌手が」と

驚いたものであった。その後も歌謡ショーが開かれ、また、彼女が主催する歌唱指導もあって

船内には次第にファンが増えていった。

 つい先日は彼女が何故歌手になったのかという経緯について聞くという企画までもがあった。

そして、下船直前の今夜はファイナルコンサートと言うわけであった。私達は演歌部門の歌唱

指導を受けていたので前座として「箱根八里の半次郎」を歌った。そして、本ステージでは彼女

と川中美由紀の二輪草をデュエットした。

坂口晶ファイナルステージ

    

坂口晶カラオケ教室で歌唱指導を受けたグループがそれぞれの持ち歌で舞台に上がった。

石原裕次郎の「夜霧よ今夜もありがとう」を歌ったグループ。(写真左)

私達は箱根八里の半次郎を三度笠姿(?)のつもりで歌った。(写真右)

    

間に合わせの衣装で熱唱(?)している私。(写真左)

この日、演奏をしてくれたトパーズ号専属バンドの「ステップ・バイ・ステップ」(写真右)

   

坂口晶さんは舞台から降りて、色んな人と一緒に歌った。

   

衣装を着替えての熱唱。

   

そして、今日出演した主立ったメンバーと一緒に記念写真を写した。(写真左)

坂口晶さんと私達夫婦。(写真右)

(坂口さんはデュエットした私との約束をきちんと守り帰国後早々に電話をくれ、その後、鹿児島

県産の焼酎を送ってくれた。ありがとう。)

「こんな生き方あっても良いのでは、歌手「坂口晶」の場合」

 坂口晶(さかぐちあきら)という。彼女はレコードを持たない歌手であった。彼女は彼女のマネ

ジャーがピースボートに乗船したことがあったことが縁となって、この船に乗ったとのことだった。

 彼女の生まれは鹿児島県だ。鹿児島流に言えば薩摩おごじょであった。彼女のお母さんは

彼女を早く自立した女性にするために厳しく育てた。そんなわけで彼女自身も早くから自立した

女性として成長した。

 東京の短大へ進学し、一時はOLとして働いていたが、人の指示のままに動くのが性に合わ

ず、結局、好きな歌の道を選んだとのことであった。彼女は一般の歌手のようにプロダクション

に入っていない。一時は一人でやっていたようだが、何かと不都合があって今のマネジャーと

一緒に仕事をするようになったとのことであった。

11月21日(日)

 海が荒れていた。どうやらこの海域特有のものであるらしい。船酔いをする人にとってはつら

い一日であった。今日はマジッククラブの発表会だった。海が荒れているため足下がふらつく

ような会場だったが、予想以上の出来だった。夜は波へいで打ち上げを行った。

 明日はいよいよケープタウンに入港する。

ピースボート第47回クルーズ第一回マジッククラブ発表会

この日は朝から激しく揺れていた。船外は大時化だった。しかし、マジッククラブの発表会は予定通り開かれた。

小道具に使ったテーブルや椅子などが船が傾くたびに移動するような最悪のコンディションだった。

いささか船酔い気味ながら緊張していたので何とか無事に開催することが出来た。

大荒れに荒れた海、デッキには出られなかったので7階の窓から写した。

   

司会は私が務めた。(写真左)

マジッククラブ会長のSさんの六枚のハンカチ(写真右)

   

IさんとOさんの名コンビによる軽妙なハンカチマジック。(写真左)

単純な紐マジックながら見事な演出だったTさんのマジック。(写真右)

   

中国人よろしく片言が面白かったOさんとKさんの紐マジック。(写真左)

「えいっ」と一言、あら不思議。縛ったままの腕から紐が抜けた。SさんのマジックにNさんが介添え役で、

お客さんにも協力して貰っての紐抜けマジック。(写真右)

   

Mさんは先生級のベテランマジシャン、安心して見ることが出来ました。破った紙が復元するマジック。(写真左)

こちらはNさんの「連理の白紙」。切ったはずの紙が数珠繋ぎに繋がって、その上、何かしら言葉が書かれている。(写真右)

   

Oさんは蝦蟇の油売りに扮しての出演。かけ声もと共にカードが変化。(写真左)

こちらはカードを使ってのNさんのマジック。どうしてこうなるんだろう。(写真右)

   

私はIさんの介添えでカードマジック、この紙の模様が選んだカードと同じように変化。(写真左)

最後は先生のSさんのベテランらしい複雑なマジック。みんな不思議そうな顔をしていました。(写真右)

出演者みんなで記念撮影。はい、ご苦労さんでした。第一回のマジック発表会は大成功でした。

この後、更にクラブ員は増えました。

                                       2005年3月16日掲載

                                       2005年9月27日写真掲載    

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