アフリカ大陸への長い旅

11月3日(水)

 今日からアフリカへの長い旅が始まった。まず最初の訪問先はセイシェル諸島である。昨晩、

12時シンガポールを出港した船は今朝マラッカ海峡を走っていた。前方左手にはマレーシア

半島の海岸に立ち並ぶ建物が小さく見えていた。

マラッカ海峡を航海中の写真である。狭い海峡であり間近にマレー半島が見えていた。

    

マラッカ海峡を抜けると海の色は大きく変化した。いよいよ船はインド洋に入ったのだ。

これが大洋というものの本来の色だろうか。不思議なほど透明感のある美しいブルーだった。

ベトナムで仕立てたアオザイが届いた。船内ではアオザイを着た女性達の記念撮影会が行われた。

この日はフォーマルディナーの日でもあり、アオザイを初め各国の民族衣装に身を包んだ女性達で船内は一段と華やいでいた。

    

この頃から日を追う毎に時差が発生し始めた。その度に時計の針を遅らせるよう指示が出た。

左の写真はトパーズダイニング(大食堂)の写真だが、そのテーブルの上には右の写真のような時差を知らせる札が置かれていた。

    

当たり前のことだが、朝日も夕日も水平線から出て水平線に沈んでいく。夕日をバックにした数多くの写真の内の一つである。

    

自然の美しさをこころゆくまで堪能する事が出来るのは、やはり船の上という特殊な環境だからであろうか。

この自然を何とか壊すことなく守っていきたいと思ったのは私だけであろうか。

掲載の写真はいずれも夕日を撮影したものである。

    

インド洋に入ると海面にはトビウオ、空にはトビウオを餌にするカツオドリだろうか大きな鳥が船の周辺を飛んでいた。

この鳥はこの船をねぐらにしていた。夕方になると船首にあるマストに止まって羽を休めていた。

 昨日はシンガポールで25000歩ほど歩いていた。今回の旅が始まって一番長い走行距離

だった。その疲れも朝になって何とか解消されたようだ。今日はかねての予定通り安息日と

なっていて、自主企画を初めとする公式行事は何もなかった。船上は比較的静かであった。

友人や家族への手紙

 拝啓 お変わりありませんか。日本では相次ぐ台風の被害、その後に続いた新潟県の大地震、

イラクでの人質の殺害と不幸な事が相次いでいますね。また、先のアメリカの大統領選挙では

ブッシュが再選された事など、洋上にいながらも国内外の情報はわずかながらではありますが

入って来ています。

 私達の旅行も予定していた神戸港からの乗船が不可能となり、台風23号の影響を懸念しつ

つ神戸から貸し切りバスで東京へ旅立ちました。幸いにして東京晴海埠頭では晴天に恵まれ、

大勢の人の見送りを受け船出しました。

 その後、黒潮の流れに逆らうように南下し、第一の訪問国であるフィリピンに到着しました。

そして二番目の訪問国はベトナムでした。いずれの国においても朝から大勢の人達が出迎え

に来てくれました。ベトナムのブンタウ港では色鮮やかなアオザイを身につけた女性達が踊り

を披露してくれました。また、港を離れるときは出迎えの人達と交流会に参加した若者達が、

目を潤ませて手を振っている姿を見ていますと、私までもが貰い泣きをしてしまいそうでした。

 また、メコン河の下流域にあるブンタウ港に向かうとき、朝靄の中の広大なマングローブ林を

見て感動しました。かつてベトナム戦争当時、アメリカ軍の枯れ葉剤によって壊滅的な打撃を

受けたマングローブ林ですが、その後、植林によって見事に再生していました。

 翌11月2日の夕方、シンガポールを離れマラッカ海峡の細い水路を抜けインド洋に入りま

した。色んな海域を通るたびに海の色が変わります。黒潮という名前通り墨のように見える海

の色、フィリピン海域近くの抜けるようなコバルトブルーの海の色、マラッカ海峡の薄緑の海の

色と、海はこんなにも多彩な色を持っているのかと驚き感動しました。

 イルカの群れも見ました。トビウオが船に驚いて前後左右に飛んでいきます。そのトビウオを

捕まえようとカツオドリ達が幾度となくダイビングを繰り返していました。

 水平線の彼方にはいつも入道雲が出ています。マラッカ海峡からインド洋に抜ける水路は

海の大動脈である海上交通の要衝です。従って、私達が乗ったトパーズ号の横をたくさんの

タンカーやコンテナ船がすれ違って行きます。また、遠くにはマレー半島の山並みや海岸が

続いています。海岸近くにはリゾートマンションかホテルでしょうか。大きな建物がいくつも並ん

でいます。

 当たり前の事ですが朝日は水平線の彼方から上がり、夕日は水平線の彼方に消えていき

ます。その時々に見せる朝焼けや夕焼けがとてもきれいです。

 船内に目を転じますと毎日がお祭りのような賑やかさです。自主企画(船に乗っている人達

の趣味を通じての交流)と言われる色んな活動や、水先案内人(色んな分野で活動している

人達)と言われる人達の企画や、次の寄港地でのツアーの説明会などが行われています。

 むつみさん(家内)は自主企画でエアロビのインストラクターをしています。老いも若きもそれ

ぞれの企画に参加し、船上生活を大いに楽しんでいます。

 船内ではディナーパーティーの他、フルーツパーィやトパーズ号の専属バンドによる演奏や

歌謡ショーまでも行われています。昨日はブリッジツアーが行われ、初めて操舵室に入りました。

火災防止のための設備や船の自動操縦の設備や入港時にしか使わないと言うレトロチックな

真鍮製の舵等も見せて貰いました。

 船内では多くのスタッフが働いています。船内各所の掃除や部屋の掃除してくれる人、食堂

で給仕をしてくれる人、船内の修理をしている人、楽器の演奏や歌を聞かせてくれる人、ツアー

案内や添乗員の人、船内の催しや企画をしてくれる人、その他にも食事を作ってくれる人や

洗濯をしてくれる人、美容院や写真屋さん、売店、お医者さん等々です。むろん、このほかにも

機関室で働いている人もいますから、船内は小さな町のようなものです。また、船内生活を快

適にするためのピースボートスタッフやCCと呼ばれている通訳の人達などもいます。その他

には英語やスペイン語を勉強したい人のために外国人講師がいます。

 むろん、お客さんにも様々な人がいます。私達のように平凡な中年夫婦もいれば、今年95歳

なるという高齢者もいます。こうした人達の中には私達の想像を超えた人生を歩んで来られた

人も少なくありません。そんな人との出会いや話を聞くのも楽しみの一つです。

 また、水先案内人として乗ってくる講師の人達はそれぞれの分野で一、二を競うような人です

から、こんな人達と身近に接することも楽しみの一つです。今回は女性活弁士やケニアの演奏

家も乗船してきました。昨晩も水先案内人と水パという水先案内人と一緒に講座等の企画を

する人達(我々のようなお客さん)との顔合わせ会がありました。

 これからアフリカ大陸近くのセイシェルに向かいます。それまでしばらくの間、船上での生活

が続きます。今日は午後二時頃赤道直下を通過しました。早朝は南十字星(座)を見ました。

そして赤道祭の代わりに若者達が大勢で企画した船上大運動会が行われました。運動会は

生まれ月によって春組、夏組、秋組、冬組に分かれ、かりもの競走や綱引きや、玉入れ等、

年輩者も若者も一緒になって大いに楽しみました。昼はお弁当が配られ久々に運動会気分を

味わいました。

 こんな調子で毎日を楽しく過ごしていますのでご安心ください。では、みなさんお元気で。また、

お便りします。                                            敬具

 以上は私が娘や息子、家内の母に当てて書いた手紙です。この手紙を再度読み返してみま

すと、そう言えばあんな事もこんな事もあったと当時の事が懐かしく思い出されます。

3人の水先案内人乗船と顔合わせ(11月3日)

 シンガポールから一組と二人の水先案内人が乗ってきた。一組はピーターバンド。アフリカ

のケニアからやってきた打楽器を演奏するグループであった。彼らは船内での演奏だけでなく

打楽器の演奏指導などをしてくれるようだ。バンドリーダーのピーターはピースボートでは既に

おなじみの水先案内人だった。しばらくは日本に住んでいたこともあったとの事で、かなりの

日本通だとの事であった。日本ではテレビコマーシャルなども手がけたことがあるというマルチ

人間だった。ケニアでは元ボクサーであり動物に関しても詳しいようだ。演奏を聞かせて貰った

がアフリカ人らしいエネルギッシュな演奏だった。

 次はグローバル経済など経済学、社会学に詳しいSさん。小柄な体なので若く見えるが三歳

の子供のママさんだった。ご主人が協力的だったので、三十を過ぎて子供を出産したとのこと。

今回の乗船時もご主人が子供の面倒を見ていると話していた。話してみると知識は多岐に亘

って豊富だった。その上、早口で鉄砲のように飛び出してくる言葉に若々しさを感じる人だった。

 更に次は女性活弁士の佐々木亜希子さん。活弁と言っても知らない人が多い。映画が出来

た頃は音声が入っていなかった。そこで劇場では楽団と弁士がいて画面の動きに合わせて音

楽や説明や台詞(せりふ)を入れていた。それを今に復活したのが佐々木さんがこの船で始め

ようと言う活弁だった。

    

シンガポールからは三組の水先案内人が乗ってきた。

ピーターバンドのメンバー四人(写真左)と佐々木(写真右)さん、そしてNGO団体のSさんだった。

    

ピースボートスタッフから紹介を受けている佐々木さん(写真左)の真ん中の人と右側の人がSさん。

早速、Sさんによる講座が始まった。私は迷うことなくSさんのパートナーの一人となり司会も行う事になった。

マラリア対策説明会(11月3日、4日)

 いよいよ、アフリカ旅行が目前に迫ってきた。船内診療所のドクターからマラリア対策に関す

る説明会があった。これから向かっているケニアはマラリア流行地域になっているので予防薬

を服用しなければならなかった。この予防薬は一週間に一錠飲むことによって効果が出るとい

う薬だった。従って、現地到着の一週間前から飲み始め、旅行が終わっても飲み続けなければ

効果がないとの事であった。

 マラリアの病原体を運ぶマラリア蚊はどこにでもいるわけではない。その代わりどこで刺され

るかは分からない。その蚊がもしもマラリア感染者の血を吸った蚊であった場合、病気の元に

なるマラリア原虫を持っている確率はかなり高い。従って、予防薬の服用は必要だと言うわけ

だった。この薬はラリアムという薬だった。かなりきつい薬らしい。

 また、この薬には副作用があって心臓病の薬や抗アレルギー剤を飲んでいる場合、一緒の

服用は避けた方が良いらしい。私の場合、旅行前から湿疹に悩まされていたので抗アレルギー

剤を飲んでいた。そのためドクターに相談し、とりあえず服用期間は抗アレルギー剤の服用は

中止することにした。アレルギー症状が悪化するのではないかと心配だった。

フルーツパーティ(11月3日、4日)

 シンガポールを出発した明くる日から二日間フルーツパーティがあった。最初は緑色の食券

を持っているグループからだった。この日はお天気にも恵まれて上甲板でのパーティだった。

会場には椰子の葉が飾られ、アフリカから来たピーターバンドの演奏があった。

 あいにく私達のグループの時にはお天気が悪くなって会場変更になってしまった。会場の

トパーズダイニングには十数種類の南国フルーツが並び、フルーツを使った彫刻やお人形が

飾られ、会場中央ではピーターバンドの演奏が雰囲気を盛り上げてくれた。

 私が知っている果物としてはパパイヤ、マンゴー、パイナップル、プラム、ミカン等があり、

あの強烈な匂いのドリアンやこの旅行で知ったドラゴンフルーツ等もあった。そして、ヤング

椰子のジュースが付いていた。

    

楽しく、うれしいフルーツバーティが開かれた。シンガポールから仕入れた果物だろうか。

中央のテーブルにはこんな可愛いフルーツを使った飾りが幾つも置いてあった。

    

第一回目は屋外で開かれたが、二度目は海が荒れたので屋内になってしまった。

トパーズダイニングには各種フルーツやジュースが置いてあり、好きなだけ自由に食べることが出来た。

また、この日はピーターバンドによるトロピカルな演奏も行われ会場は南国ムードに包まれた。

    

フルーツパーティはビュフェ形式になっていた。好きなものを好きなだけ食べられた。

また、フルーツの前ではトパーズダイニングのスタッフ達が笑顔で出迎えてくれた。(写真左)

この日は掲示板に出されるフルーツがメニュー表として貼り出されていた。(写真右)

坂口晶のカラオケ教室(11月4日)

 坂口晶さんという女性演歌歌手が乗船していた。彼女のショーが一度行われ、せっっかく

プロ歌手が乗っているのだから歌唱指導でもしてくれないかと思っていたところ、それが実現

することになった。彼女の自己紹介では鹿児島県出身で子供の頃から歌が好きで歌っていた

とか。

 その後、上京し大学を卒業し故郷に帰っていたところ、地元の人に勧められ再びマイクを握る

ようになったそうだ。従って、特定の先生に付いて勉強したわけではなく、全くの独学だそうだ。

 地方周りを中心に活動を続けている。今回は私達と同じように東京から乗船したと話していた。

その先生が第一回目の歌謡指導をしてくれた。まず、発声練習と腹式呼吸の練習があった。

引き続いて練習曲の「涙そうそう」の歌唱指導があった。私の場合、息継ぎの仕方を教えて

欲しかったのだが、息継ぎはこうしなさいと言うものではなく、息が続かなくなったら鼻ですって

吐き出す方法(腹式呼吸)で発声すれば声帯を傷めることなく歌えるとの事だった。

 また、伸ばすべきところはこうすれば良いとか、濁音の付く歌詞は少し鼻にかかったような

発声をすればソフトに聞こえるといったアドバイスは大いに参考になった。次回からは4班に

分かれて、それぞれのグループが好きな曲を一曲選んで練習する事になっていた。

    

この船には思いがけない人が乗っていた。ジャパングレースが招待していた坂口晶さんだ。

フリーの歌手として、あるいは司会者として活躍している人だ。早速、坂口さんがカラオケ教室を開き、歌唱指導をしてくれた。

腹式呼吸が難しくて慣れるまで苦労したけれど、この指導の甲斐あって歌が上手になった人もたくさんいた。

    

指導が終わったら一人一人みんなの前で歌い、歌の評価を行って歌った人を励ました。

みんな和気藹々たる雰囲気だった。右の写真は坂口さんとカラオケ教室で。

活弁シネマライブ(11月4日、5日)

 女性活弁士の佐々木さんが水先案内人として乗ってきた。彼女はNHKの山形放送局の元

アナウンサーだった。この人が活弁をするのかと思うほどスマートな女性だった。外見的には

とても活弁士には見えなかった。

 11月4日、お披露目のための活弁による映画が二本上映された。家内は佐々木さんの水パ

となっていた。この日も活弁映画上映に先立って、受付をする若い女の子達の浴衣の着付け

等を手伝ったりと忙しくしていた。

 会場は超満員だった。多くは活弁と言うものを知らない若い世代だった。にもかかわらず終

わってみれば拍手大喝采だった。

 一本目と二本目の間には、おせんやキャラメルの販売員も現れて、昔の映画館を彷彿とさせ

るような演出だった。上映されたのはチャップリンのモダンタイムスを短編にしたもの、そして、

子宝騒動という喜劇だった。いずれの映画も佐々木さんの活弁だとは気付かないほど自然な

語り口であった。さすがプロだと思った。

 翌日は水パを含めた私達が実際に活弁士になる体験をしてみようと言う企画であった。(これ

をワークショップという)ここに私も参加してみた。テーマとなった映画は砂漠の旅回り一座の娘

と酋長の息子との恋物語であった。この映画の一部にみんなが思い思いのせりふをつけ発表

した。

 私はこの場を盛り上げる意図もあって一番に発表した。大喝采だった。それを受けて家内も

発表した。これがみんなの勇気を喚起したのか、次々と発表者が現れて大盛況の内に第一回

目のワークショップは終わった。

 次回はもっと多くの作品に活弁を付けるような企画があるようだ。大変楽しみな事である。

(帰国後の05年3月21日仲間の一人が沖縄に就職するので送別会があり上京する。その際

活弁仲間が集まることになっている。また、3月3日には佐々木さんのシネマライブが東京で催

された。残念ながら私達夫婦は参加できなかったが、その時の仲間が大勢集まったという電子

メールを受け取った。)今後、佐々木さんの活弁に関するサイトとリンクするように考えている。

    

佐々木亜希子さんはプロの活弁士だ。東京を中心に広く活動をしている人だ。従って、佐々木さんのパートナーになった人は多い。

その人達が中心になってライブ毎に会場作りを行い、お菓子の売り子になってレトロな雰囲気作りで会場を盛り上げた。

アメリカ大統領選挙を読み解く(11月5日)

 私達が旅行中、アメリカの大統領選挙が行われた。結果はブッシュが再選された。今後を

占うことは困難だが、イラク戦争を初めとして、このままの政策が続くと思うとうんざりしてくる。

船内では選挙結果をにらんでの緊急集会が開かれた。選挙結果の報告と今回の選挙をどの

ように解釈すれば良いのか、また、今後どんな事が考えられ、そのためにはどのような行動を

起こすべきなのかといったことが論じられた。

 今回は司会者がテーマについて説明し、それをピースボートスタッフであるアメリカ人のS君

が答えるといった形で進められた。アメリカ人自身がアメリカ人の視点から捉えた大統領選挙

を解説したので、アメリカ人が何故ブッシュを選んだのか良く理解できた。

 ブッシュの勝因は南部にブッシュ票が集中していること(これは共和党が南部に強いという

過去の選挙結果に見られる事。これには宗教的なものも絡んでいる)、そして、戦争中は大統

領を変えないと言うアメリカの伝統的な考え等が反映されているようだ。また、今回の大統領

選挙では争点がはっきりしていなかった。後半戦になってやっとケリーは反戦を明確にしたが

選挙戦当初はイラク戦争を容認するような発言をしていた。

 また、この集会の後、水先案内人のSさんのグローバル化に関する話があった。この中には

アメリカが意図的に進めてきたアメリカ的グローバル化を今もなお推し進めており、その政策に

関する限り共和党も民主党も変わらないこと。もっと、背景にある大きな力がアメリカという国を

動かしている。その限りに於いてはケリーが勝ってもアメリカの姿勢そのものは変わらなかった

のではないかと思える。

フォーマルディナー(11月5日)

 乗船直後にあったウエルカムパーティに引き続いて5日にはフォーマルディナーがあった。

船内で一番大きい食堂であるトパーズダイニングルームでの夕食だった。毎日がコース料理

なので、この日の料理が特別と言うほどのものではなかったが、会場へはみんな正装をして

出かけた。

 私は先のシンガポールのリトルインディアで買ったインド麻のシャツを着た。家内は日本で

買ってきたワンピースを着た。この日、ベトナムでアオザイを買った女性達の写真撮影会が

あった。そのためかフォーマルディナーでも色鮮やかなアオザイ姿の女性をたくさん見かけた。

トパーズダイニングルームはいつになく華やいでいた。

    

フォーマルディナーは華やかな雰囲気に包まれていた。この日は男性も女性も民族衣装を身につけていた人が多かった。

私はベトナムのリトルインディアで買った服を着て参加した。

    

この日のメニューは和食だった。メニュー表には和食懐石と書いてあり刺身なども出た。

ステップ・バイ・ステップコンサート(11月5日)

 フォーマルディナーの後は7階後方にあるブロードウエイショーラウンジにおいて、この船専属

の楽団であるステップバイステップによる演奏会があった。バンドによる演奏やバンドの専属

女性歌手による歌など楽しいひとときだった。各人にはグラスワインが振る舞われた。

 ドラマーの木琴による小鳥のさえずりを真似た演奏は素晴らしかった。このバンドの人達は

ウクライナ地方から来た人達だった。船内では色んな国から来た人達が働いているが、彼らの

ように旧ソ連圏から働きに来た人達も多いようだ。

スタッフ紹介(M.Hさんの場合)(11月5日)

 先にも紹介したが、私達の船内生活の切り盛りをしてくれているのはピースボートスタッフの

人達だ。男性も女性もみんな若い。それなのにしっかりしている。事務局長のN.IIさんを中心

に朝早くから夜遅くまで、私達の船内生活を楽しませてくれている。半ばボランティアのような

仕事であり、彼らには世間で言うところの給料なるものは支給されていないようだ。その代わり

生活をしていくための幾ばくかのお金は支給されていて、その金額は驚くほど安いようだ。

 その中の一人がM.Hさんだ。彼女は子供の頃からタレントをしていたそうで、雑誌の表紙や

テレビコマーシャルにも出演していたと話していた。その当時の雑誌やビデオを見せてくれた。

その彼女が一般の乗客としてピースボートに乗り、ラバウルでの感動的な体験があって、もう

一度この船に乗りたいと思うようになった話していた。

 けらけらと、とても明るい彼女だが過去には死にたいほど悩んだり苦しんりしたこともあった

と語っていた。今の彼女からはとても想像できない事だが。

 ダンスが得意な彼女は大学時代ずっと踊っていたそうで、今でもダンスは好きだと話していた。

彼女の得意なダンスでパレスチナとイスラエルの若者や韓国と北朝鮮の若者が交流出来る

ような場をいつの日か作りたいと話していた。是非、実現する日が来ることを願っている。

おしゃべり関係と題するトーク番組はピースボートスタッフ達のユニークな経歴を司会者の軽妙な

誘導でしゃべらせてしまおうという企画だ。さすが世界をまたにかけて活躍するスタッフは

実にユニークな経歴の持ち主が多い。

トパーズ号の歴史(11月6日)

説明担当はF&BマネージャーのM.Tさん(Fはフード、Bはビバレッジ飲み物という意味)

 トパーズ号は1955年に建造が始まり、1956年大西洋航路に就航した。1955年といえば

日本ではやっと太平洋戦争後の復興の兆しが見え始め、もはや戦後ではないと言われ始めた

頃であった。

 建造はイギリスの造船所で行われた。建造を依頼したのはカナダの陸海空の交通を一手に

掌握しているというカナディアンパシフィックという会社であった。現在の所有者はアメリカの

マイアミに本社があるというギリシャ系のオーナーであった。

 この船の建造後、同型船が他に二隻建造された。しかし、この船以外は一隻が1970年に

台湾の高雄で解体され、もう一隻は今インドで解体中との事であった。トパーズ号は人間の

年齢に換算すると100歳近い老体であった。

 トパーズ号を初め三隻の客船建造後、世界の主要交通手段は船から飛行機へ移っていった。

トパーズ号は何度か改装され現在に至っている。しかし、船内には建造当時を思わせるような

室内装飾が少なくない。階段の手すりやいたる所に使われている真鍮製の金具、また、部屋を

広く豪華に見せるための鏡、また、装飾のあるドアガラスなどである。

 この船のエンジンはいまどき珍しい蒸気タービンであった。蒸気タービンは振動が少ないとの

事で確かに静だった。スクリューは2個あり、可動型が多い中にあって珍しく固定型だそうだ。

 また、喫水が深く、船体が重いために入港時には着岸までに時間を要する。タグボートで押し

てもなかなか動かない。(船体は鉄板を鋲止めしてあった)

 建造当時の豪華船を思わせるのは室内装飾だけではない。船内施設としてもヘミングウエイ

バーだとかブロードウエイショーラウンジだとかウインジャマールショーラウンジなどの名前が

使われている。

 先日のブリッジツアー時にも説明があったが、火災報知器を始め、火災発生時はブロック毎

に遮断できるような防火扉も付いている。また、横揺れ防止の設備も設置され快適な船旅が

出来るようになっている。雨漏りもするような老朽船だが住んでみると愛着も湧いてくる。

 どうか、これからも安全運転で長生きして貰いたい。

ブリッジ見学

残念ながら機関室の見学は出来なかったがブリッジ見学と称する操舵室の見学が出来た。

    

操舵室の中には新旧の設備が混在していた。さすがに今はGPSによる自動操縦の時代であり

船の運航は通常自動操縦によるものだ。

    

船にとって怖いのは火災だ。そのため各所に防火壁が設置され、火災報知設備も常にチェックされている。(写真左)

真鍮製の古めかしい操舵はあったがめったに使われることはないようだ。(写真右)

    

見学に参加したものはみんな操舵を握らせて貰った。家内も得意顔。(写真左)

スタッフ達と記念写真。(写真右)

めったに見下ろすことのない船首デッキ、こうしてみるとすべてが見渡せる。

    

私達は四階に住んでいた。各階にはこのようなエレベータの出入り口がある。(写真左)

しかし、このエレベータはめったに使わなかった。いつも一気に七階まで駆け上っていた。

長く細い通路の一番奥に私達の部屋があった。(写真右)

番号は4064室だった。(写真下)これが船の中の私達の住所だった。

ジャンボでナイト(11月6日)

 ジャンボとはスワヒリ語でこんにちわと言う意味である。今夜はピーターバンドの初ライブが

行われた。本来なら上甲板のプールサイドで行われる予定だったが、お天気が良くないことと

海が多少荒れていたので、屋内のブロードウエイショーラウンジで行われた。当日、ピーター

バンドの水パになっている若い子達は民族衣装を身につけて集合していた。開場と同時に音楽

がかかり、彼らが踊りながら私たちを迎え入れてくれた。

 そして、司会者の挨拶の後、ピーターバンドのメンバー四人が舞台に登場した。リーダーの

ピーターは頭に白い羽飾りを付け、足には鈴をつけて角笛を吹きながら現れた。他のメンバー

も全身に白い化粧や民族衣装を付けて現れた。みんなから拍手大喝采であった。弦楽器一台、

他は打楽器という編成だが、これらのリズム音にいやが上にも会場の雰囲気を盛り上げていた。

 会場が盛り上がるに連れ、ピーターが立ち上がり会場の人を舞台に上げ一緒に踊った。私も

ピーターに引っ張り出されて踊った。何かしら体の中からわき上がってくるリズムを押さえきれ

なかった。大げさに言えば原始の心が呼び起こされたとでも言うのであろうか。 会場は大いに

盛り上がってお開きになった。

 ピーターは長く日本にいたと言うだけあって演歌も上手だった。ハスキーな声ながら声量が

あって聞かせどころを心得ていた。彼が歌うたびに拍手喝采であった。このバンドを陰で支え

ているのが日本人マネジャーであるYさんだった。彼はピーターのことをアフリカのお父さんと

呼んでいた。

 「ジャンボでナイト」で私達を楽しませてくれたリーダーのピーターさんが自宅で凶弾に

倒れたというニュースを聞いたのは下船後一年くらい過ぎてからでした。未だアフリカでは

貧困や政治的な腐敗などあって一部の地域はは無政府状態なのではないでしょうか。

ピーターさんの成功を妬んでの犯罪か、あるいは単なる強盗なのか定かではありません。

今はただ彼のご冥福を祈るばかりです。ピーターさん、ありがとう。

ジャンボでナイト

退屈な船上生活を大いに慰めてくれたピーターバンドのピーターさんが強盗の凶弾に倒れたという訃報に接しました。

愉快な人であっただけに余計にその死が惜しまれます。心から哀悼の意を表します。2006年8月付記

    

「ジャンボでナイト」と称するショーが開かれた。ピーターをリーダーとするピーターバンドメンバーが

それぞれのコスチュームで舞台に現れると割れんばかりの拍手だった。

会場の飾りはピーターバンドの水先案内人パートナー達が作った。(写真左)

司会者の女性はピースボートスタッフ、男性の方は水先案内人パートナーとなった男性。(写真右)

    

リーダーのピーターは自ら白い鳥の羽で作った飾りを頭に付けて舞台に現れ、楽器の演奏だけでなく踊りを披露してくれた。

    

ピーターは元ヘビー級のボクサーだったと言うだけあって体も大きくたくましく踊りにも迫力があった。(写真左)

楽器の大半は打楽器だったがエレキギターも加わっていた。(写真右)

    

そして、会場が盛り上がりを見せてくるとピーターが舞台から降りて客席の人を舞台に上がらせ一緒に踊るように促した。

私も熱気に後押しをされるようにピーターに手を取られて舞台に上がった。(写真左)

ピーターバンドのリーダーであるピーター。大変気さくな人で気持ちよく写真撮影に応じてくれた。

のど自慢大会(11月7日)

 わずかながらも緊張をした一日だった。出場者の募集があって数日後、大会は開かれた。

出場者は22名(内、飛び入り一名)だった。80歳になるという女性から20歳過ぎの若い女性

まで年齢の幅も広く、懐メロからポップスまで色んなジャンルの歌があった。その日は11時から

リハーサル、そして16時から本番だった。

 申し込んでは見たものの、選曲したのは久しく歌っていない南こうせつの「夢一夜」だった。

決して自信のある歌ではなく、ましてや舞台で歌うのは初めてだった。しかし、何でもやって

みようと言う意気込みで大会に臨んだ。

 リハーサルでは多少音程が低いようにも思えたのだが、無理をしたために高音部が出なくて

は困ると思い、カラオケのままの音程で歌うことにした。知り合いには声をかけて聞きに来る

ように頼んでおいた。そのためか、知り合いがたくさん来てくれていたようだった。

 本番では審査員が3名だった。ピースボートの事務局長であるN.Iさん、そしてSさんという

92歳になるおじいさん、審査委員長はプロ歌手の坂口晶さんだった。各審査委員の持ち点は

審査委員長が4点、他2名は3点で10点満点だった。年輩者の女性の中にはピースボートの

常連客もいて、乗船のたび毎に、のど自慢大会に出場しているという人もいた。10点満点者

の中には体の不自由な人や高齢者もいて、歌が上手下手というだけでなくプラスαの点数も

加算されていたようだ。そんなわけで10点満点の人は出場者の約半分近くを占めていた。

 賞は波へいでの食事券だった。私も見事10点満点を獲得し食事券を手にすることが出来た。

出場記念に家内が慣れぬ一眼レフカメラで写真を写してくれた。また、舞台でインタビューを

受けた際、岡山県倉敷市から来たと話したことがきっかけで、後から岡山県出身者や岡山県

に知り合いがいるという人などから声をかけられた。これものど自慢大会に出たおかげだった。

    

私にとって忘れられない思い出となった「のど自慢大会」。

会場となったブロードウエイショーラウンジ(写真左)と特別ゲストの坂口晶さん(写真右)

坂口さんは審査委員長でもあった。

    

審査委員は三名、持ち点は審査委員長が四点、他の二人は三点ずつだった。

私は10点満点を貰い、合格者の一人になった。

坂口さんの隣に座っているのは船内では二番目の高齢者Sさん(九十二歳)と、その隣がクルーズディレクターのN・Iさん

    

女性司会者と私(写真左)と、何度もこの船に乗って何度も「のど自慢大会」に出演している愛すべきはなちゃん。(写真右)

星座の観察

 この船にも私と同じような考えの人が乗っていたようだ。赤道が近くなった頃、こんな企画が

新聞に登場した。目的は星空の観察だった。日本の上空では見ることの出来ないような美しい

星空や星座が見られるのではないか、そんな期待を込めた企画であった。

 注意深く見ていたが、連日あいにくのお天気続きでなかなか良いチャンスに巡り会わなかった。

そして11月7日の晩、満天の星空を見ることが出来た。昴のようなぼんやりとした星の集団も

かなりはっきりと観察できた。

 その後、観察会はお開きになり波へいに行ったとき主催者のスバルさんとばったり出会った。

スバルさんは星を見る会の発案者の一人だった。共同企画をしたもう一人の人はパソコンに

天体観測のためのソフトを持ち込んでいるという本格派の人だった。

 スバルさん(スバルは自ら付けたニックネームで本名をOさんという)は私ぐらいの年齢で徳島

県の鳴門の人だった。天体観測が好きで色んな望遠鏡を買ったと話していた。現在、家にある

のは百数十万円もするという本格的なものだと話していた。今回、観察のため持ってきた双眼

鏡も手ぶれ修正機能が付いたもので数十万円はすると言っていた。なかなか気さくな人ですぐ

に友達になれた。

 釣りも本格派だし、家には風力発電装置も取り付けたと話していた。どうやら趣味から思考

まで私と同じような人らしい。

 翌朝、デッキに出てみると数人の人が集まっていた。南十字星が見たいと早起きをした人達

だった。スバルさんも来ていた。教えて貰った方向に南十字星が輝いていた。光は弱く高さは

水平線から15度ぐらいだろうか。水平線近くの雲間から斜め上空へ十字の縦線である星が

数個輝いていた。これから更に南下すると、もっと鮮明に見えるのではないだろうか。

 この日の12時半頃、トパーズ号は赤道直下を通過した。この日は洋上大運動会が開かれて

いた。海の神ポセイドンに扮したピースボートスタッフのY.H君(グロテクストも思えるような

格好は、とても海の神には見えなかったが)が登場して会場を大いにわかせた。

洋上大運動会(11月8日)

 この船が東京を出て以来、最大のイベントとも言うべき洋上運動会が開かれた。この日の

ために若者達が日々準備を進めてきたものだ。何しろ狭いデッキ上での運動会、どのように

するのだろうと思っていたが、案ずるより産むが易しと言うべきか、それとも、選んだ種目が

良かったのか、運動会は大いに盛り上がった。

 私たち黄色、春団は団長の努力もあって年輩者も多数参加し、四団中、参加者が一番多か

った。こうして綱引きあり、玉入競技あり、騎馬戦ありと運動会の常番とも言うべき種目が多種

多様にあって大変楽しかった。

 この日は昼食時ににわか雨が少し降っただけで上天気に恵まれた。洋上の日射しは強く、

すっかり日焼けしてしまった。しかし、風を切って走る船上は意外に涼しく、さして暑さを感じ

なかった。結局、参加者が一番多かった私の黄組春団が優勝だった。

 夜は8時半から一時間という時間限定飲み放題で春団の打ち上げがあった。この日はデッキ

で一日中揺られていたせいかシャワーを浴びた後もまだ揺れているようで妙な気分だった。

洋上大運動会写真展

洋上大運動会は赤道直下の激しい太陽が照りつけるプールデッキで行われた。

この日船は赤道を通過するようになっていた。かつては赤道祭が行われていたようだが今回は運動会だった。

    

プールデッキ正面には洋上大運動会と書かれた横断幕が掲げられた。(写真左)

運動会には老若男女を問わず大勢が集まった。グループは一年を四分割し生まれ月によって春、夏、秋、冬に分かれていた。

その色も黄色、青色、赤色、白色の四色に分かれていた。私は春組の黄色だった。(写真右)

    

ピーターバンドのリーダーであるピーターも春組だった。(写真左)

応援の練習を呼びかけている春組のリーダー達。(写真右)

    

いよいよ応援の練習が始まり開会式は近づいた。(写真左)

黄チーム団長のニッシー、彼は大会の前の日、黄チームへの参加呼びかけビラを徹夜で作った。(一枚一枚丁寧な手書きのビラだった)

    

いよいよ開会式、プールデッキを埋め尽くすほど大勢の参加者だった。(写真左)

男女二人が掛け合いで軽妙な司会進行を行い会場を盛り上げていった。(写真右)

    

いよいよ応援団旗の入場である。我が春組の黄色の団旗(写真左)

春組に引き続いて四チームの中で紅一点女性団長が持つ団旗が入場した。(写真右)

    

そして紅組、白組と続いた。

    

団旗の入場が終わるとクルーズディレクターの登場だ。赤白青黄と四チームの団旗の色をあしらった派手なコスチュームだ。(写真左)

そして、この運動会のスローガンは「みんなの笑顔で虹をかけよう」だった。(写真右)

    

四チームの団旗が集まって正々堂々と闘うことを宣言。(写真左)

舞台にはこれまた派手な衣装の女性が登場、会場は大いに盛り上がった。(写真右)

    

開会に先だって若い男性や女性達によるダンスが披露された。(写真左)

いよいよ、最初の競技である玉入れが始まった。逃げ回る相手チームのリーダーの背中にある

カゴの中に玉を投げ入れて、その数を競う競技だ。(写真右)

    

赤道祭の主役である海の女神に扮したピースボートスタッフが審査員席の前にいます。

赤いドレスが破れんばかりにパンパンに張っていました。(写真左)

そして、各チームの応援合戦も得点に入ると言うことで各チームそれぞれ工夫した応援合戦が繰り広げられました。(写真右)

    

赤チームの応援合戦の出し物は空手の形を披露し、人文字が組み体操のように見せ場を作りました。

    

白チームは愛をテーマにした演技で女装した男性までもが飛び出しました。(写真左)

綱引きがあるというのでどんな綱引きかと思えば、絡んだ細い紐の先にある空き缶に得点が入っているというものでした。(写真右)

    

何と言っても会場を湧かせたのは二人羽織でした。ものを食べる早さを競うものでしたが、

食べさせるというより口の中に詰め込むような競技になりました。(写真左)

そして、最後の競技はやはり騎馬戦でした。相手が頭に付けている(帽子だけではない)を奪った方が勝ち。(写真右)

青チームの女性リーダーも出場し男性にも負けないほどの大活躍でした。

    

競技が終わり大会委員長より結果発表がありました。(写真左)

優勝したのは総合得点が一番の多かった私達の黄チームでした。

黄チームはニッシーの呼びかけもあって参加者が一番多かった事も得点に繋がりました。

優勝と聞いて抱き合って喜ぶ黄チームのリーダー達。(写真右)

    

誇らしげに高々と優勝トロフィーを掲げる黄チーム団長のニッシー。(写真左)

そして、最後にスローガンに隠されたものが舞台に運び込まれました。(写真右)

    

何とそれは会場の片隅で参加者みんなの協力で作られた、ちぎり紙の虹と寄せ書きを書いた紙でした。(写真左)

今日の運動会を陰で支えてくれ、今日までの準備をしてくれたスタッフ達の目にも涙が浮かんでいました。(写真右)

    

運動会が終わりピーター達の演奏で運動会の打ち上げが行われた。(写真左)

最後は、この年の流行ソングとなったマツケンサンバで大いに盛り上がった。(写真右)

水パで司会(11月7日)

 のど自慢大会への出場前にSさんの二回目の講義があった。私とMさんが中年コンビで司会

をする事になっていた。事前の打ち合わせもなくいきなり本番となり舞台へ上がった。

 この日は開発途上国側の視点に立った今の日本のあり方を見てみようという話であった。

日本の食料自給率が40パーセントを割るかも知れないという深刻な状況の中で、今、輸入が

停止していまったらどうするのかというテーマが投げかけられ、そのあとで会場との質疑応答と

なった。

 司会はMさんが今日のテーマの説明を行い、後半の質疑応答の方を私が受け持った。幸い

にして水パがサクラになって質問をする必要がないほど、会場から多くの意見や質問が出て

時間が足らないほどであった。

 私の素性を知らない人は段取り良く議事進行を行う私にいささか驚いていたようだった。また、

こういった講座は若者中心の企画だと思っていた人も多く、私やMさんが舞台に上がって司会

進行をしたことに驚いているようだった。

 講師のSさんの歯切れの良い回答と久々の司会進行とで多少緊張したが何とか時間内に

終わり面目を保った。

船中、人さまざま

 会社勤めの頃から麻雀やゴルフといった仲間と何かをやることに慣れてきた人は、こんな船

の中でも同じような集団を作っていた。孤独を楽しんでいる人は別にして、男性の場合、私の

ように一人だけで行動しているものは割合少ないようだ。

 この人達のように集団の中にいなければ落ち着かないというのも長い間に身に付いた処世術

なのかも知れなかった。こんな中高年男性は一人で旅行している人が多かった。家にいても

何もすることがなく邪魔者扱いにされた人(?)、夫婦ではあってもお互いに趣味の合わない人、

奥さんに先立たれた人、旅行は一人が気楽で良い人など様々であった。

 これらの人の中には先ほどの麻雀や囲碁集団とよく似た集団があって、一日中たばこを吹か

しながら喫煙コーナー周辺でのんびりしている人もいた。

 また、いずれのグループにも入らず一匹狼よろしくあちらこちらに顔を出し、ダンスやカラオケ

等と同年輩の女性といつも一緒の人、こういう人は水先案内人の話などにはあまり関心がない

ように感じられた。世の中うまく出来ているもので女性の中にもこんな人がいて、にわか作りの

カップルになっていたりした。

 いずれにも属さない人もいた。こんな人はもの静かに書き物をしたり本を読んでいた。女性

の場合、数は少ないようだったが家から準備してきた手芸などを楽しんでいたようだ。

 船中では麻雀やトランプ、果ては花札まで登場して洋上大会なるものまで開かれていた。毎日、

入れ替わり立ち替わり碁盤と向き合っている人がたくさんいた。私は囲碁を習うつもりでいたが、

体調不良などもあって、とうとう下船までその時間を作ることが出来なかった。

 中には、せっかく高い料金を出して船に乗ったのに帰りたいという人もいた。何が原因かは

良く分からなかったが彼には集団での生活は向かないようであった。

 こんな船の中では自分から求めて行動しなければ何も変わらない。自分を変えようと思って

乗ったのに、それが出来なくてより落ち込んでいる人もいた。そんな人のためには映画館も

あるし、船室には小さなテレビがあり、いつも映画が流れていた。

 先日、そんな孤独な人が呼びかけた自主企画が先日あった。結構、たくさんの人が参加して

いた。中にはどんな人が来ているのだろうと興味本位に顔を出した人もlいたようだ。

 若者達の多くは洋上運動会の準備を夜遅くまでしていた。しかし、それが終わってしまったら、

その後はどう過ごすのだろう。(そんな心配は必要なかった。その後、新たな行事が次々に行

われていったのである)

 男性と女性の乗っている船だから、恋の一つや二つという事はないだろう。私達は情報に疎

い方だったが、色んな事があったようだ。

 船の中には有名人も少なくない。こんな人の多くは何度かこの船に乗ったことのある人で、

派手なコスチュームに身を包み、色んな行事に顔を出していた。その行動ははちゃめちゃでは

あっても憎めない人達だった。

 中には日々色んな衣装を身にまといおしゃれを楽しんでいる人もいた。のど自慢大会に派手

な衣装で登場した愛すべきおばあちゃんもいた。

 それぞれが浮き世を離れ思いきり船上生活を楽しんでいた。しかし、浮き世と変わらないのは

男性より女性の方が活動的で友達作りも上手だった事だろうか。

ピーターさんのトークショー(11月10日)

 ケニアから来た演奏家ピーターさんのユーモアあふれるトークショーがあった。今日の聞き手

は事務局長のN.Iさんだった。

 ピーターさんがピースボートと関わるようになった経緯については伝説的に語られている事が

あった。それは第36回クルーズの時であった。前のピースボートが使っていたオリビア号が

セイシェルに着いた時、エンジントラブルを起こしてしまったのだ。そのため何日間か港にとど

まることになってしまった。その頃、ピーターさんは豪華客船の飛鳥で同じ港に着いたばかりで

あった。

 そこへ船の故障で困り果てたピースボートの女性スタッフが二人来て「ぜひ、ピースボートで

ショーを開いて欲しい」と頼んだのだ。ピーターさんはケニアに帰ったらすぐにもボクシングの事

で南アフリカへ行かなければならなかった。何度も断ったらしいが女性二人がピーターさんの

鞄を持って逃げるという暴挙に出た。

 その時は本当に腹を立てて後を追いかけたそうだが、切羽詰まった女性スタッフの姿に根負

けしてピースボートに乗ったのがきっかけで今日に至っているようだ。聞けば聞くほど不思議な

巡り合わせだと言う他はない。

 ピーターさんは黒人演奏家としてショー出演のために1975年6月に日本に来た。栃木県の

那須ビューホテルに招かれたのがきっかけでだった。その後、日本に滞在したくてプロボクサー

になったり、フラメンコダンサーの長嶺やす子さんの専属バンドのドラマーが必要とのことで急遽

バンドマンになったりと色んな事をしてきたようだ。

 その後、音楽活動を通じて小林亜星さんと知り合い、サントリーオールドのコマーシャルソング

を吹き込んだのもこの頃の事だったようだ。そもそもボクシングを始めたのはケニアの監獄で

の看守時代の頃だった。看守仲間とボクシングクラブを作り、オリンピックのケニア代表選手と

してミュンヘンオリンピックに出場した。その時には銅メダルだったと話していた。今もケニアで

はボクシング協会の代表者をしているそうだ。

 彼の子供時代、学校は義務教育ではなかった。親も学校へ行くよりは家畜の牛を飼うことや

農業が大切だと考えていたようだ。彼はカトリックの信者であり、カトリック教徒の子弟が通う

学校は遠くていつもさぼってばかりいた。そんな時、習い覚えたのが民族楽器の演奏であり、

踊りだったようだ。

 余談になるがケニアで義務教育が始まったのは2003年からの事だそうで、今は先生も

学校も足りないのだと話していた。

 そして、この日のトークショーの締めくくりはN.Iさんが叩く和太鼓とアフリカの打楽器の競演

だった。お互いにプロの奏者として素晴らしい競演だった。

 なかなか話し上手なピーターさん、日本ではタレントでもあったとか。日本語を巧みに操り面白

おかしく話す話は人を飽きさせない。素晴らしいトークショーだった。

    

流暢な日本語で話すピーターさん、さすが長く日本に住んでいただけに経験も豊富で飽きさせない会話だ。(写真左)

最後はクルーズディレクターのN.Iさんとの打楽器によるコラボレーション。素晴らしいトークショーでした。(写真右)

明日はシェイシェル(11月10日)

 明日はいよいよセイシェル諸島のビクトリア港に上陸する。早朝、南十字座を見た。今日で

二回目であった。南十字座は一昨日よりは少し角度が高くなったようだ。それだけ南下したこと

になる。

 早朝、上空にかかっていた雲は消えてしまい水平線のわずかな雲間から朝日が昇った。水平

線近くには横一線に帯状のものが見える。あれは一体何だろう。水蒸気が朝の安定した空気

の中で漂っているのかも知れない。

 また、朝日とは反対の方向に放射状の薄い雲が何本も長く伸びていた。この雲が赤く染まり

オーロラのようにも見える。何とも幻想的な眺めであった。

 昼前の海の色、この海の青さを何にたとえれば良いのだろうか。どんな絵の具でも出すことの

出来ない色だった。また、どんな高性能のカメラでもこの美しさを写し取る事は出来そうもない。

今はこの景色とこの色を自分の記憶の中に刻んでおくしかない。

洋上の景色色々

朝の海

    

ほんのりと東の空が白み初め、やがて海面も明るくなってくる。(写真左)

まるでオーロラを見ているように淡い光りの帯が放射状に空一面に広がっていた。(写真右)

    

太陽が海面近くまで上昇してくると雲はピンクに染まった。(写真左)

そして、太陽が水平線より高くなると真っ赤な朝焼けが始まった。(写真右)

    

やがて朝焼けは空全体に広がり周辺を赤く染めた。(写真左)

朝の食事が終わる頃、日は高くなり空にはご覧のような美しい雲が広がっていた。(写真右)

昼の海

早朝のヨットクラブ。まだ人影もなく差し込む朝日の中で静かに来客を待っていた。これも船上の朝の景色だ。

    

昼間になると輝く太陽の下で、海は大きなうねりだけとなり、まるで昼寝をしているようにのたりのたりしていた。

鏡のような穏やかな海には、ぽっかりと水平線上の雲が映り、この世のものとは思えないような幻想的な景色を作り出していた。

    

私は何度も海を見てきたが、海というものの本当の美しさをこの旅で初めて経験した。

島影も船も何も見えない海、大きく弧を描いたように見える水平線、この地球が水の惑星だと言うことを改めて実感した。(写真左)

穏やかな水面を船に追われるようにして飛翔するトビウオ達。

飛翔するトビウオの影が水面に映り、飛翔した軌跡が水面に残っている。(写真右)

    

この航海の中では何度か経験した海の色だが、この神秘的とも思える色を何と表現したら良いのだろう。

その色の表面をまるで薄衣がそよ風に揺れるように、幾筋もの淡い光が帯となって揺らいでいた。(写真左、右)

夕方の海

    

夕暮れはただでさえロマンチックな気分にさせてくれる。太陽はわずかばかりの光りを残して静かに水平線に沈んでいく。

        

船上で味わう夕暮れは格別だ。日頃の慌ただしさの中でゆっくりと夕暮れなど味わうことのない私達は

雄大なインド洋の中で心ゆくまで、そのひとときを楽しんだ。(写真左)

日が落ちかけ少し薄暗くなった海面を夥しい数のトビウオが飛翔する。(写真右)

空一面がピンク色に染まった夕暮れ、太陽はすでに水平線に没していた。

アフリカの踊りの練習

    

日中は照りつける太陽の下でピーターバンドの指導により踊りの練習をした。

日射しはきついが海上を時速三十キロで走る船の上は意外に涼しかった。

 午後になって何の予定もなくぼんやりと過ごしていたところ突然船内放送があった。船の左舷

にイルカが現れたという放送だった。作業していた人も一斉に左舷の窓に殺到した。すると窓

のすぐ近くをイルカが飛び跳ねていた。かなりの頭数がいるように思えたが、何しろ海上に飛び

出している時間が短くて、数を数える事は出来なかった。あわててバッグの中からカメラを取り

出そうとしている内にイルカはどんどん沖へと遠ざかっていった。

 見えなくなるまで一斉に海上に飛び出しては沈んでいくというイルカ特有の泳ぎ方を続けて

いた。他にもイルカがいるのではないかとデッキに出てみたが二度と見ることは出来なかった。

偶然にもデッキにいた女の子がデジカメの写真を見せてくれた。その写真にはくっきりと数頭

のイルカが写っていた。

 明日はセイシェルだった。この日はSさんの講座も最後となってしまった。この日の講座は

Sさん自身が何故NGOに関わるようになっていったのかという経験話が中心だった。まったく、

NGOとは無関係だった女性がたった数行の募集記事によって採用され、今日に至った事を

話してくれた。私達とけっしてかけ離れた存在ではない等身大の経験話が、みんなの耳を傾け

させていた。そして、夜は彼女を囲んでのお別れ会(飲み会)があった。

    

華奢な体でどこにそんなエネルギーがあるのだろうかと思わせるようなSさん。しかし彼女から発せられる言葉は厳しい。

今の社会が抱えている問題点を鋭く指摘して聞くものを飽きさせなかった。

Sさん自身が今の仕事に関わるようになった経緯を語っている。(写真左)

Sさんの担当になったスタッフやCCの皆さんと私。(写真右)

 そんな事もあったので寝る時間がすっかり遅くなってしまった。明日はどんな景色が待って

いるのだろうか。

                                        2005年3月13日掲載

                                        2005年9月12日写真掲載         

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