多くの人との出会い

10月28日(木)

 初めてのツアーだったので多少疲れていた。また、一昨日までと同じような船上生活が戻って

きた。昨晩の興奮の跡が船上に残っていた。昨晩は日比混血児達との交流に行った若者達と

送ってくれるフィリピンの人達との涙の別れがあった。東京を発つときとは異なる別れのシーン

だった。風になびく紙テープがたいへんきれいだった。

 そのテープが船上のあちこちに残っていた。船の周辺にはカツオドリが空を滑空しながら海

に飛び込んでいた。この海域は餌が豊富なのだろうか。何度も何度も同じ事を繰り返していた。

 昼食後イルカをみた。何頭かが先頭を泳ぎ、その後を追うように群になった数頭のイルカが

追いかけていった。記録映画等でよく見るシーンのように船と競争しているのではなく、どうやら

餌を追いかけているらしい。

 紺碧の海に白い雲、映画で何度も見た事のあるシーンだった。トパーズ号は南シナ海を一路

ベトナムに向けて航海していた。明後日の早朝には到着の予定だった。 フィリピンを出たら海

は穏やかになると誰かが言っていたが決して穏やかではなかった。

 早速、今日はベトナムでのツアー説明会があった。クルーズディレクターのN.Iさんが男性用

のアオザイを着て現れた。フィリピンのツアーではさしたるトラブルもなかったという報告があり

感謝の言葉があった。これだけの大集団の責任者としては心労を察するにあまりある。ご苦労

さんと言わなければならないのは私達の方だった。

 昼食時、沖縄県から来たという人に出会った。今回のフィリピンツアーでは基地跡の状況を見

たかったので、そちらのツアーに参加したとの事だった。話していると沖縄という厳しい環境に

住む人だけあって、私達が考えてもみなかったような事を幾つか話してくれた。

 聞いている内に、若い頃、私達が取り組んできた運動は実に上滑りなもので、何かしら恥ずか

しい事のように思えてきた。

 今回の船には色んな人が乗っていた。亡くなった主人と約束をしていた金婚式が迎えられなく

てご主人の写真を持って参加したという女性や逆に奥さんを二年前に亡くしたという男性、年齢

も一歳の子供から九十四歳の高齢者まで実に多岐に亘っていた。

 これらの人が渾然一体となり、各種の行事や講座、会議、また、そのための準備等で毎日が

お祭りのような賑やかさであった。多くの行事が行われているのはアッパーデッキという7階の

フロアー全体であった。

 出会いの場はカラオケ、ダンス、エアロビ、阿波踊りなどの練習の場であり、私達夫婦のよう

に水先案内人のパートナーとなって活動をする場であった。また、囲碁はトーナメント方式で毎

日、大勢の人が碁盤と向き合っていた。

 私がパソコンコーナーでパソコンをしていると何人もの人に声を掛けられ、その内の何人かの

人とは名刺を交換した。この船に乗る前にそれなりに準備していた人はあらかじめ名刺を持っ

ていた。もう何人もの人と交換したという人もいた。

 体の不自由な方も何人か見かけたようだが介添えの必要もなく元気に行動しておられるよう

だった。

 最高齢者は岡山県の総社市から来られたYさんだった。十一月の誕生日で満九十五歳にな

られるという明治四十四年生まれのおじいさんだった。お顔だけを見ているととても九十四歳

には見えなかった。この人は小学校を卒業後、知人をたよってフィリピンのミンダナオ島に渡っ

た。そしてマニラ麻栽培の農園で下働きをしていたが、とても厳しい仕事だったので、そこをや

め地元の教育長の家に雇って貰った。その家でボーイの仕事をしながら学校に通わせて貰い、

一年間で小学校課程を卒業した。こうして、ついにはフィリピンの大学まで卒業し、地元に38歳

の頃までいて日本に帰った。日本へ帰ってからは高校の英語の先生の資格を取り、定年まで

の約20年間教職に就かれていた。退職後は予備校の先生をしながら自分の山に木を植えて

きたと話しておられた。その木が今は立派な木になったそうだが、大根よりも価格が安いと言っ

て笑い話にしておられた。実に数奇な運命を歩んでこられた方だった。

 その他にも色んな人が乗っていた。ある人はベトナム戦争中、商社の駐在員としてサイゴン

市内(今のホーチミン市)に住んでいた。日本から送られてくる新聞には連日のようにサイゴン

近くが攻撃されたと報じられていたが、当の市内に住んでいたものは、それほどの激しさは

感じなかったそうだ。日本からの新聞を見て初めて、そうだったのかと知ったくらいだったそうだ。

当時の新聞は読者の気を引くために出来るだけ大きく報じていたのかも知れない。聞いてみな

ければ真実は分からないものだ。当時のサイゴンはアメリカ軍の手によって厚く守られていた

ようだ。

 その他、ODA関連の仕事でフィリピンに何年間も滞在した人。在職中に体を壊して退職をして

きた人など船に乗った動機も様々だった。

 また、水先案内人として乗ってきた人との出会いも多かった。フィリピン事情に詳しいKさん。

NGO関連の仕事で東チモールにも行った事のあるSさん。昨日、フィリピンから乗ってきた

ベトナムで環境活動をしているファムティーターン・ヌイさん等である。

 私も家内も単なる自主企画だけでは飽きたらず、これら講師として乗船している人達の講座

を担当する水パになっていた。水パになることで、ピースボートスタッフや若い水パやCC(通訳)

との出会いも楽しみだった。

 この日も早速、ベトナムでの環境問題への取り組みについてヌイさんから報告を兼ねた問題

起があった。大勢の聴衆が詰めかけてくれた。私は少し体調不良だったが講座後の打ち上げ

には参加した。

 多くの場合、自主企画での出会いが多い。それらは発起人が船内新聞を通じて呼びかけた

ものであった。私が参加していたのは、マジッククラブ、Pボート文クラブなどであった。他にも

社交ダンスなど参加したいものもあったが、時間が重なっていて思うように参加できなかった

のが悩みだった。

 また、船内では多くの人が働いていた。少しでも英語が話せる人は、これらの人達にも話しか

けコミュニケーションをとっていた。船内で働いている人は大きく分けると次のようになるのでは

ないだろうか。まず、高級船員クラスは白い制服に肩章を付けていた。中には女性も何人かい

た。次は青いつなぎの作業服を着た人達。彼らはもっぱら船外の掃除や塗装など船の整備関

係の仕事をしていた。

 各船室の掃除やベッドメーキングはメイドさん達の担当だった。彼や彼女たちは淡い肌色の

制服を着ていた。船内の各所には真鍮で作られたものがたくさん使われていた。例えば階段の

手すりやドアであった。これらは中国系の人だろうか、担当が決まっているようで毎日ワックスを

付けてきれいに磨いていた。窓ガラスの掃除や鏡拭きなども彼らの担当のようであった。

 食堂でも大勢の人が働いていた。東南アジア系の人、中国人、ブルガリアやウクライナなどの

旧ソ連圏の人と思われるような人等であった。

私達の部屋の担当だったインドネシアの女性。

彼女は確かシンガポールで下船した。その後、旧ソ連圏の女性が担当になった。

 また、夜の酒場である波へいにはツアー客でもあるアルバイトの女性達が働き始めた。免税

店は外人女性が店員だった。一方、売店では二人の日本人が働いていた。彼らはピースボート

スタッフかも知れなかった。(後になってスタッフや準スタッフであることが分かった。また、お客

さんなども手伝っていた)

 そして、旅行会社であるジャパングレースの人やピースボートスタッフ、そしてCCと呼ばれて

いる(通訳=コミュニケーションコーディネーター)などであった。その他には英語の講師である

GETの先生達がいた。そして、水先案内人として乗っている講師達であった。

10月29日(金)

 昨晩で時差は2時間になった。時計の針を2時間遅らせた事になる。私達の部屋には窓が

ない。従って、時間を知るには時計しかない。

 今朝は5時に起床、外に出てみると少し曇っていた。それでも雲間に朝日を見ることが出来た。

空にはカツオドリが三羽滑空しながら水面の魚を狙っていた。どうやら海面に浮かんでいるトビ

ウオを狙っているようだ。それにしても彼らは夜間どこにいるのだろうか。この船のどこかで羽を

休めているのだろうか。そう言えば出発したばかりの頃、船上を飛び回っていた背黒セキレイ

の姿が見えなくなってしまった。フィリッピンに着いたとき上陸してしまったのだろうか。

 少し曇っていたせいか海の色が黒く見えた。相変わらず腹の調子が良くなかった。朝食は抜く

ことにした。ラジオ体操を済ませ部屋に戻って今日の計画やシェイセルのオプショナルツアーの

検討をした。

 今朝はマジッククラブは休んでヌンさんの水パ主催のお茶会へ参加した。その後、食堂に行っ

てみんなで食事をした。隣に座ったCCのKさんやGETの先生のBさんと友達になった。Kさんは

ピアノも歌もとても上手だった。食事の後、今後の企画についての検討をして散会した。

 家内達が参加している「フィリピン女性自立への架け橋」での物販のための、ファションショー

の写真を写して部屋に引き上げた。後は午後の四時から「自由に働くこつ」というKさんの講座

や夜の八時四十五分からのベトナムの文化と音楽、九時からのPボート文クラブの懇親会が残

っていた。

 結局、この日は何かと行事が重なり、また、体調不良(下痢)もあって、夜になっての催し物に

は行かれなかった。

 Kさんの「自由に働くコツ」に出席した後は、Mさんと少し話をした。彼女は広島市に住んでい

る人で、ペットボトルの回収を飲料水メーカーに法的に義務づけようと運動していると話していた。

一見、精力的に活動しているようには見えたが、かなり疲れているようだった。船に乗る直前ま

で先の台風被害の片付けに追われていたとの事だった。

 夜にはファムティー・ターン・ヌンさんの「ベトナムの文化と音楽」に出ることが出来ず、彼女と

は朝のお茶会が別れになってしまった。

 夜にはウインジャマールラウンジで坂口晶歌謡ショーが開かれていた。大勢の人が詰めかけ

ていた。彼女はアフリカのケープタウンまで乗船しているとの事だった。従って、ショーを楽しむ

のは次回にして、Pボート文クラブへ出席する事にした。明日からの旅のことを考えてビールは

遠慮しておいた。前回参加したツアーでの感想を話し合ってお開きにした。この日も波へいは遅

くまで賑わっていた。

 私は明日のツアーのこともあり部屋に帰るとすぐベッドに潜り込んだ。明日はいよいよベトナム

だった。

今日作った俳句を書いておく。

  青き海船追うイルカ雲の峰

  朝焼けに赤く染まりて雲の峰

    

まさに紺碧の海とはこの色のことを言うのではないだろうか。

水平線上には大きな入道雲があった。

航海地図には、いよいよ第二の訪問国ベトナムが入ってきた。

    

洋上大運動会に向けて準備が始まっていた。

ピースボートセンター前の掲示板には新潟県を中心とする大きな地震が発生したというショッキングなニュースが貼り出された。

右の写真は船内の写真屋さんが写したウエルカムパーティで船長と一緒に写した写真が貼り出された。

    

水先案内人として乗船したベトナムの大学生ヌンさん、環境問題をテーマにした話があった。

ヌンさんを囲んで水パの記念写真。

そして、右の写真は歓迎会を兼ねてのお茶会

    

屋上にはプールエリアがあり、ジャグジーや小さなプールがあった。

右の写真はプール脇で日光浴を楽しむ人達がいた。

    

ヌンさんと一緒にフィリピンから乗ってきたもう一人の水先案内人はフィリピンの日本人の父親探しをしている

子供や母親の支援をしている人だった。その人の水パの中には家内も入っていた。そして、フィリピンの女性達が

縫った衣装でのファッションショーが行われた。これらの衣装は他のものと一緒に売店で販売され支援金になっていた。

                                           2005年3月7日掲載

                                           2005年8月27日写真掲載

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