第一の訪問国「フィリピン」

10月27日(水)

 今日は朝5時に目が醒めた。デッキに出てみるとすでに朝日は顔を出していた。そういえば

昨晩時差が生じていて一時間時計を遅らせていたのだ。従って、昨日よりは一時間遅く起きた

ことになる。朝日が入道雲を下から照らして輝いていた。いよいよ陸地が間近に見えてきた。

海図上ではルソン島となっていた。湾内に入ったのか波は穏やかで、まるで瀬戸内海のよう

だった。朝食の時はマジッククラブのSさんと一緒だった。

 Sさんは体調を崩していて今回のフィリピンツアーはキャンセルしたとの事だった。私と同い年

の昭和19年生まれだった。同じ年齢の人とは何故かうまがあう。何故だろうか、不思議だった。

 食事中にタグボートが二隻来た。一隻は入管の管理官を乗せた船、もう一隻はトパーズ号を

誘導する船だった。こうして私達の船は静かに岸壁に横付けした。早朝だというのに岸壁には

大勢の人が来ていた。歓迎の人達のようだった。そして制服を着た人達が歓迎の演奏をして

いた。湾内の水の色は群青色でとてもきれいだった。

   

船の航路を示す海図にもフィリピンが見えてきた。

毎日更新される船の位置や気象情報を書いたもの。

    

早朝、沖合には陸が見えてきた。そして、明るくなると船の左舷にはフィリピンのルソン島が見え始めた。

    

着岸したスービック港には大勢の歓迎の人達が来てくれた。バンブーダンスや音楽隊など大変賑やかだった。

また、港内にはツアー客や交流会に参加する人達のバスが並んでいた。

 ツアーに出るものは何組かに分かれていた。私達のツアーは最後から2番目の10時出発

だった。300名という私達のような観光目的のツアーの他、現地交流を主体としたツアーも

あった。出迎えに来ていた人達はこれらの人を待っていたようだ。ピースボートは訪問国に毎

に色んな問題をテーマとした現地交流を大きな目的としていた。

 私達のバスは列を作って一番目の観光場所であるマングローブ保護公園に行った。この国

にはたくさんあるというマングローブ林の一つだった。スービック港からさして離れた場所では

なかった。美しい湾内にマングローブが生えていた。木の種類は二種類くらいあるようで、葉の

長細いもの、少し丸みを帯びたものがあった。今までにも何度か記録映画などで見たことの

ある景色だった。

    

観光バスで最初に着いたのはスービック港からそう離れていないマングローブの保護公園だった。

波静かな湾内にはマングローブの林が広がっていた。一口にマングローブとは言っても色んな木があるようだ。

珍しかったのは気根という木の根が浅瀬で顔を出していることだった。

また、中の写真のように種が落ちて芽が出ていた。

    

マングローブの近接写真、静かな湾内、そしてマングローブ林の中の木道。

    

マングローブ林を抜けると暑い南国の太陽が照りつけた。木陰にはいると少し涼しいが、むっとするような暑さだ。

近くの森は熱帯林のように色んな木が生えていた。

    

やはり南国だ。色鮮やかな花が咲き乱れていた。

 いま、フィリピンではアメリカ軍の撤退後、軍事基地だった場所の再利用計画を進めていた。

その一つが今回の寄港地であるスービック港周辺と飛行場跡地であるクラーク地区だった。

沖縄と同じように広大な敷地をアメリカ軍が占有していたわけで、この土地の再利用が大きな

焦点になっていた。沖縄の米軍基地の事を考えると実にうらやましい話だった。

 フィリピンの田舎町を通り抜け着いたのはラハールというところだった。今回のツアー目的は

10数年前に大噴火をしたピナツボ火山の被災地後を見学するのが目的だった。ここラハール

はピナツボ火山から遠く離れた場所だったが、周辺一帯には大量の火山灰が堆積していた。

降り積もった火山灰は場所によっては3メートルを超える量で、その灰は毎年雨によって流され

下流域に大きな被害をもたらしていた。国道に架けられた橋は何度も押し流され、今は仮設の

橋になっていた。

 降り積もった火山灰の上に新しい国道が作られ、私達が訪れた時にも工事が行われていた。

そこでは軍服姿の銃を持った兵士達が交通整理をしていた。みんな珍しがってカメラを向けて

いた。中には兵士と一緒に記念写真を撮っている人もいた。日本では考えられない事であった。

 13年という歳月は火山灰を少しずつ下流に押し流していた。それでも、この膨大な火山灰が

なくなる事はなく、失われてしまった広大な田畑はいつ戻って来るのだろうか。火山灰は雨に

削られて幾筋もの層になっていた。一見利用価値のなさそうな火山灰だったが、フィリピンの

人達はこれをコンクリートブロックの骨材として使っていた。彼らのたくましさを感じた。

 ここから先はずっと田舎町だった。周辺には田圃やサトウキビ畑が広がっていた。野生に見

えるマンゴーの木があり、湿地帯にはマングローブが生えていた。まだまだ手つかずの自然が

たくさん残っていた。

 川では子供達が水遊びをしていた。何となく私達の子供の頃を思い出させる景色だった。

大人達も仕事をしている様子もなく道路べりに長椅子を持ち出して昼寝をしている人もいた。

実にのどかでのんびりとした風景だった。

 家の庭先には収穫したばかりの籾が干してあった。中には国道である私達を乗せたバスが

走っているこの道にまで広げてあるのには驚いた。主食は米だとのことで、刈り取り前の田圃

や刈り取ったばかりの田圃、次の田植えの準備中の田圃など様々だった。この国では三毛作

も可能だとの事だったが、主として二毛作が行われているようだった。

 米作以上に作付面積の多いのはサトウキビだった。国道は刈り取ったばかりのサトウキビを

満載したトラックが何台も走っていた。

 住んでいる家は特別な家を除けば大半はコンクリートブロックを積み上げただけの家だった。

積み上げたコンクリートブロックはむき出しのままで、ブロック自体の大きさも決して同じでは

ないようだった。民家の中には屋根は草葺きで壁は網代で囲んだだけの粗末なものも幾つか

あった。

 制服を着た女学生をたくさん見かけた。この国の就学率の高さを示すものだった。貧しくとも

子供達には教育を受けさせたいという親の思いであろうか。ガイドさんの話では一軒の家に

何世代も親子兄弟が住んでいるとの事で、家々の軒先にはたくさんの洗濯物が干してあった。

 米軍のクラーク基地はなくなったが周辺にはけばけばしい色をした建物がたくさん残っていた。

パブだろうか。アメリカ人と思われる男性とフィリピン女性のカップルをたくさん見かけた。

    

人々の生活は決して豊かではないようだ。観光バスが走った道路べりには小さな家や店が並んでいた。

その眺めは私達が子供だった昭和三十年頃を思わせ、何となく懐かしさを感じるものだった。

驚いたのは道路を利用して脱穀をした米を干していることだった。それでも誰も文句を言わないのはこの国の大らかな国民性だろうか。

    

何しろ、おんぼろ観光バスで窓が汚れていて外の景色が良く見えなかった。従って、写真もこのようにぼけている。

上の三枚の写真は民家だろうか。平屋の小さな家だった。むき出しの壁はコンクリートブロックを積み上げただけの簡単な構造だった。

中の写真は建築材料となるコンクリートブロックを作っている工場、材料は大量に降ってきた火山灰だとの事だった。

右の写真は建築中の家。この国に地震はあるのかないのか、鉄筋の入っていない壁は簡単に崩れてしまいそうに思われるのだが。

    

この国の産業は少ないように思えた。左の写真は田舎のガソリンスタンド。

右の写真は金属だけでなく色んな廃品を集めた廃品回収業

道のほとりで昼寝をしている人、こうして物を売って商売をしている人等、のんびりとしたお国柄のようだ。

    

今も大量の火山灰は流出し続けている。この一帯をラハール(泥流地帯)という。

この泥流のために橋は何度架け替えても壊れてしまう。私達が訪れた時、やっと新しい橋と道路が完成したばかりだった。

うずたかく積もった灰は十メートル以上の厚い層をなしている。

この下には多くの農地や家が埋もれている。遠くに見えるのがピナツボ火山。

      

若い兵士がこの一帯の警備に当たっていた。

警察官はいないのだろうか。完全装備の若い兵士は気楽に写真撮影に応じてくれた。

    

農地の多くは米とサトウキビを作っていた。延々と続くサトウキビ畑と今にも壊れそうなトラックに満載したサトウキビ。

砂糖の生産は重要な産業のようだ。こんなトラックに何度も出会った。

    

ジプニーという乗り合いバスのようなものとトライシクルという乗り物、これがこの国の交通手段だ。

町に入ると日本語で書かれた看板があった。

 私達は広大なクラーク基地跡に建てられたホリデーインホテルの一階で昼食を食べた。豪華

な作りの建物だった。バイキング形式の食事だった。これがフィリピン料理だというものも幾品

か並んでいた。

 昼食が終わって外に出てみた。ホテル周辺は広大な公園になっていた。基地時代から植え

られたと思われる木々が巨大な大木になっていた。素晴らしく環境の良いところだった。

 食事後はクラーク博物館に行った。時間が短くて見学にならなかった。私は中へ入ることを

あきらめて外で写真を写していた。

    

アメリカ軍が駐留していた旧クラーク空軍基地内にある大きなホテルで昼食を食べた。

ゴージャスな建物と、この国の人達がめったに口にすることの出来ないような豪華な料理だった。

右の写真はホテルの外観。

    

ホテルの庭には何故か、こんなものが立っていた。あの「ロード・オブ・ザ・リング」の中に出てくるスメアゴルのようだった。

アメリカ軍が長く駐留していた基地内だけに、緑が多く良く整備されていた。

    

ここも旧クラーク空軍基地内にあるクラーク博物館。太平洋戦争当時の旧日本軍の展示品などが置かれているようだった。

私達は中へは入らず周辺を散策していた。

この国の人達は総じて器用な人が多いようだ。

おそらくは自分で改造したと思われるブリキがむき出しのジプニーが駐車していた。

 次に行ったのはSMショッピングセンターという巨大なショッピングセンターだった。建物の中

には色んなテナントが入っていて、倉敷のイオンショッピングセンターに似ていた。ガイドさんは

同じようなショッピングセンターが向かい側にもあり、両者は相争っているのだと話していた。

経営者は両方とも中国系の人だとの事だった。

 両替をしておいた10ドル分のフィリピンペソを使わなければ、ただの紙切れになってしまう

ということで店内を歩き回ってみたが、これといって買うようなものはなかった。仕方なく果物

でも買おうと思いスーパーマーケットでマンゴーと柑橘類を籠に入れてレジへ行った。

 レジ前には買い物カーにたくさんの品物を載せた先客達が順番を待っていた。このまま順番

を待っていたのでは集合時間に間に合いそうになかった。そんな私達の事を察してくれたのだ

ろうか二人の先客が親切に順番を譲ってくれた。

 二人に感謝しながら前に出て会計をして貰おうとするとレジ係が何か理解できないことを言い

他の店員が品物を持っていってしまった。何故そうなったのか訳が分からなかった。言葉が

通じないと言うのは実に不便だ。意志疎通が出来ないまま買い物はあきらめざるを得なかった。

(この件と同じような事は他の国でも経験した。取り上げられたと思い込んでいたのは間違いで

量り売りの果物だったのだ。従って、果物が置いてあった場所で計ってくるために持っていって

しまったのだ。そう言えば日本でもつい最近まで量り売りというシステムは残っていた。そのこと

を私達二人はすっかり忘れていたのだ。)

私達はがっかりして使えなかったフィリピンペソを握ったまま車内へ戻った。こうして一時間遅れ

のツアーはここを後にした。

    

町の中にあった「SMショッピングセンター」この大きなショッピングセンターは華僑が経営しているとの事だった。

店の規模は日本のものに比較して勝るとも劣らないほどの大きなものだった。

また、店内の品物も豊富で周辺の農村の貧しさとのコントラストが大きかった。

 次に行ったのはサン・ギレルモ教会だった。この建物は1995年にピナツボ火山噴火による

火山灰の泥流に飲み込まれ一階部分が灰に埋まってしまっていた。また、建物も少し傾いて

いた。そう言えば周辺の家々も屋根だけを残して埋まっていた。

 教会の入り口では子供達がレイを持って立っていた。到着の遅い私達を待っていてくれたの

だった。失礼なことに私はレイを売って生活費を稼いでいる子供達だと思ってノーサンキュウ

だと言ってしまった。実は売っていたのではなく歓迎のためのレイだったのだ。そんな先入観で

見ていた自分を恥じていた。そして心の中で子供達に詫びていた。周辺はすっかり暗くなって

いた。

 教会の中では子供達が私達観光客を前に賛美歌を歌ってくれた。更にこの日、誕生日を迎

えたツアー客二人には追加のレイをかけてくれハッピバースデイの歌を歌ってくれた。当の本人

でなくとも感動のシーンだった。この日遅くまで待っていてくれたかわいい子供達に別れを告げ

夜の国道を飛ばした。

    

私達が建物の半分以上が灰に埋まったサン・ギレルモ教会に着いたのは周辺が暗くなってからだった。

それでも少年や少女達は手作りのレイを作って待っていてくれた。レイにしている花はとても良い香りだった。

右の写真はかつて一階部分の窓だったところ。

    

少年、少女の聖歌隊は美しい澄んだ声で歓迎の歌を何曲か歌ってくれた。

歌が終わって一緒に写真を写した家内。

 途中、トイレ休憩に入ったドライブインで持っていたフィリピンペソをやっと使うことが出来た。

買ったのは果物ジュースと缶ビールだった。こうして、この日の遅い夕食を船中で済ませ一日

が終わった。(この時買ったジュースと缶ビールは、その後ずっと飲む機会もなく部屋にあった)

 ここの国の人達の生活レベルは低いように見えるけれど、そんな事とは関係なく、それなりに

今の生活を楽しんでいるように見えた。失業率もかなり高いようだが、日本人のようにあくせく

せず、なるようになるさと言うような楽天さが見られた。

 その事がこの国の良さであり文化なのではないだろうか。水案のKさんが話していたように、

歌や踊りが上手なことも、この国のステータスの一つだということもうなずける事であった。

                               2005年8月27日写真掲載

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