非常訓練とウエルカムパーティ

10月23日(土)

 船はいよいよ外洋を走り始めた。朝から十数秒位の周期で左右に大きく揺れている。よく見

ると前後にも揺れている。ラジオ体操の足下が少しふらつく感じだ。中には船酔いの人もいる

ようだ。しかし年輩者も含めて大半の人は元気だ。年輩者が元気なのは若者達の元気と明る

さを貰っているからかも知れない。何かしら私達年輩者も少しばかり興奮の中にあるようだ。

 自主企画についての打合会があったが、若者達に負けない位,、多くの企画が持ち込まれて

いた。エアロビあり、折り紙あり、太極拳あり、手品ありと内容も実に多種多様だ。家内は他の

人とエアロビの指導員を買って出た。明日から早速始まるようだ。

 船は台風24号を避けながらフィリッピンを目指していた。この日の午前中に三重県沖を通過

するとの事だった。一望千里とはこんな景色なのだろうか。四方どこを見ても海ばかりである。

 海は群青色、、汚れのない澄んだ真っ青な色である。早朝、朝日の昇るのを見た。正真正銘

の海から出てくる朝日だった。海と空の境界を赤く染めて昇る太陽は実に荘厳だ。今のところ

あまり暑さを感じない。しかし、気温は徐々に高くなっているようだ。

 午前中に緊急避難訓練があった。新しい乗客を迎えた時には必ず実施されるようだ。そして、

午後は自主企画の打ち合わせとウエルカムパーティやウエルカムディナーがあった。老いも

若きもおしゃれをして会場に向かった。

 家内は自主企画の際、頼まれたのだと言って、女の子達三人の浴衣の着付けを手伝いに

いった。早速、若者達との交流が始まったようだ。

 パーティ会場へ入る時には船長が出迎えてくれ、一緒に記念写真を写してくれるというリップ

サービスがあった。しかし、パーティとは言いながら質素なもので、入り口で小さなグラスの

シャンパンが配られただけだった。、あとは船長からクルーの紹介があって楽団演奏、参加者

の主立った人がステージ上でダンスを楽しんで終わりだった。もう少し全員参加の企画が欲し

かった。

 主立ったクルーの中にはお医者さんやジャパングレース(旅行代理店)の代表、コック長など

日本人もいた。船長はギリシャ人、その他に女性クルー二人はブルガリアの人だった。どうやら

各国混成のチームのようだ。

 これらの後、午後9:30からパーティ前に説明会があった水先案内人の越田さんの講座に

ついての打合会があった。その後、引き続いて「波へい」で懇親会が開かれた。各自飲み物を

注文し乾杯と自己紹介をした。中にはNHKの「映像の世紀」という番組に感動したので、是非、

みんなに見て貰いたいと思って録画を持ち込んだという若者もいた。参加者も実に色々だった。

 また、女性達の多くはCC(コミュニケーションコーディネーター)と言って通訳として採用された

人達だった。彼女たちが参加した動機も様々でユニークな経歴を持った人が多かった。こんな

交流を通じて若い人達との接点が徐々に出来てきた。

     

早速、非常訓練が始まった。あらかじめ決められた場所に、それれぞれのグループに分かれて集まることになっていた。   

クルーズディレクター自らが太鼓のばちをを持って歓迎のための演奏してくれた。

    

そして船長主催のウエルカムパーティーが開かれた。船長がお客さんと一緒になって写真を写すというリップサービスもあった。

    

ウエルカムパーティーは七階のブロードウエイショーラウンジで開かれ、食事は四階のトパーズダイニングだった。

    

動き始めた船の上では早速修理が始まった。こうして一航海中、色んなところで修理が行われていた。

穏やかな天気に恵まれ、屋上の船首デッキでは三々五々景色を眺め、日光浴をする人や読書をしている人がいた

    

私達の命を守ってくれる救命ボートや救命具の数々。

    

この船が建造された当時のエンブレム、建造した造船所の名前が書いてあった。

この船には無賃乗船の小さなお客さんが居た。東京から乗ってきたのだろうか。背黒セキレイのようだ。

    

早くもツアー予約のお客さんが詰めかけた船内のツアーデスク。

ここで今まで予約した予約の取り消しや追加予約を受け付けて貰う。ジャパングレースが担当している。

この日は和食だった。これから旅行中毎日、その日のメニューが張り出される。

    

屋上の後方にあるヨットクラブ、ここでも軽食や午後ティーなどが出される。

屋内と屋外にテーブルがあり、左の写真が屋外で右の写真が屋内。

ヨットクラブは夜になると「波へい」という居酒屋になる。その「波へい」のアルバイト募集のポスターが張り出されていた。

    

では、船内施設の一部を紹介しよう。

左の写真はインターネットデスク、メールでは何度かお世話になったが、使い物にならないくらい通信スピードが遅い。

また、料金も高い。早い時期の改善が望まれる。

    

「アゴラ」と「あん」、いずれも同じ七階のフロアーにある。小さな集会や行事に使われていた。

使用する場合はディレクターミーティングでの事前予約が必要だ。

    

船が経営している免税の店、比較的高級品が売られていたが通常お客さんはほとんど居なかった。

右の写真は何かとお世話になったピースボートが運営している売店、日用品、文房具、お菓子、シャツ等を売っていた。

売店の向かい側がピースボートセンターと新聞局になっていた。ここがこの船の中心とも言うべき場所だった。

10月24日(日)

 今朝、新潟地方で大きな地震があったという話を聞いた。天災は留守中の気がかりなことの

一つだった。

 今朝も6時前には起きてラジオ体操の後、太極拳に参加した。海は海面近くが少し曇って

いた。少しして雲の間から朝日が顔を出した。しかし、昨日ほどお天気は良くないようだ。午前

中、うねりが次第に大きくなり、デッキに出る時の注意が放送されていた。

そんなわけで、船酔いの人が次第に増えてきた。デッキでうずくまっている人、折り紙の途中で

帰った人等がいた。階段の途中にはいくつもの吐瀉物を吐き出す袋が置いてあった。

 また、船が大きく傾く時には警報が発せられるようだ。この日は何度も警報音を聞くことに

なった。

 午前中は二つの講座に参加した。一つは折り紙、もう一つは手品グループの打ち合わせ

だった。どのグループへも参加者がたくさん押し掛けていた。家内達のエアロビも場所が狭い

くらい大勢だったと話していた。

 こういった自主企画への参加も寄港先の旅行が始まれば、次第に少なくなり落ち着くところ

へ落ち着くのではないだろうか。

 船は沖縄列島沿いに南下していた。レセプションの横に海図が掲示されていた。そこには

南大東島沖を夕方の6時通過と記されていた。張り出された航海情報によると船の速度は

15ノットだった。黒潮の流れに逆らうようにゆっくりと進んでいるようだ。台風は台湾近くにある

との事で台風を避けて迂回するような感じで南下しているのだろうか。

 今日は多くの人と名刺交換をした。電子メールやパソコンが出来るのが楽しくてたまらない

ような中年女性やアマチュア無線歴の長い中年男性、大阪で福祉介護士資格をとってボラン

ティアをしているという男性等だった。(この人達とは後に大変親しい友人になった)

 10時から折り紙教室で折り紙を教えて貰い、その後、マジック教室の打ち合わせに出てみた。

私がパソコンを初めて以来、パソコンコーナーがにぎわうようになってきた。今日は三人も来て

いた。これからは、この場所も確保が難しくなりそうだった。

 今、名刺交換をして知り合いを増やしている。パソコンをしている中年女性、パソコンで日々

の出来事を書いているという男性、手品の講師を頼まれているアマチュア無線の男性、色んな

コーナーに必ず顔を見せる女性などである。

 家での生活のサイクルと違い夜更かしをする事が多くなってきた。昼食前に眠くなり30分位

仮眠した。その後、ヨットクラブに行き一人で食事をした。そこでTさんと出会った。この人は

神戸のポートターミナル以来の顔見知りだった。また、同席した人はいつもパソコンでメールを

送っているMさん夫妻だった。

 午後も予定がいっぱいだった。その間を少しでも利用してパソコンにこの旅行記を書き込ん

でいる。

 「スービックなぜ交流がおもしろいのか」というテーマの集会に参加した。これは地域交流を

盛り上げようと言う企画だった。観光目的の私達には直接関係はなかったが話を聞いてみた。

講師はフィリッピンに詳しい水案のKさんだった。この日も参加者で会場は満席だった。

 夕食後は休む間もなくフィリッピン音楽とトークライブがスポーツバーであったので水パとして

参加した。どうやら終わるのは12時を回りそうだったので、前日までの寝不足もあり途中で

失礼した。それでもベッドに入ったのは12時近くになっていた。

    

船は南大東島沖合を航行していた。近くまで台風二十四号が来ており、台風の影響を出来るだけ避けながら航行していた。

このような航路地図が航海域に従って張り出されていた。

右の写真はGET(英語やスペイン語講座)の先生達による開講のデモンストレーション。

    

この船に乗って初めての和食メニューだった。早くも和食が恋しくなっていたのでうれしかった。

この船の要所要所に張り出されていた部屋の位置を印したパネル。赤い点が、今の自分の位置を表している。

ちなみに私達の部屋は四階だった。四階後方にはトパーズダイニングルームがあったが、同じ四階なのに

一度五階に上がって、再び一階下へ降りなければならなかった。

                                   2005年3月7日掲載

                                   2005年8月21日写真掲載

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