1日目(7月15日・・・日本時間)

 瀬戸大橋線とシャトルバスで高松空港へ、高松空港から飛行機に乗って関西空港に着いた。

高松空港へのシャトルバスの中から一緒だったアメリカ人と思われる女の子も、両手いっぱいに

荷物を持って飛行機の搭乗手続きをしている。

関西空港の出発ロビーで

 関西空港で無事搭乗手続きを済まして機上の人となる。機内は香水の臭いがぷんぷんしている。

これから先、色んな香水の臭いにずっと、つき合うことになろうとは思いもよらない事であった。

飛行機には何の手違いからか、ビジネスクラスに乗ることになり大変ラッキーであった。

ビジネスクラスは席も広く、前後の間隔も充分あり、全てにゆったりしていた。その上、スリッパや

洗面道具等のサービスもある。食事も一皿ずつ盛られていて、 メニューまで付いている。

ラッキーだったビジネスクラスの機内、ワインで乾杯

我々のような庶民には滅多に経験できないことだ。飛行機はNW024(ノースウエスト社)、

機上は既にアメリカの行政管轄下にある。アメリカ連邦国航空局である。

 座席の横から液晶画面のテレビを出したり、機内食や飲み物サービスを受けたり、物珍しさと

退屈さとをまぎらわしながら、それでもいつしか眠ってしまっていた。

 機内アナウンスがあって目を覚まし、そっとカーテンを開けてみると、眼下は広大な大地が

広がるアメリカ大陸であった。長方形の縞模様は農園であろうか。この広大なアメリカの

大地を見た時、初めて、はるばる何千キロという長い距離を超えてやってきたという表現の

しようがないような感動が湧いてきた。水奈子は単身、このアメリカ大陸へ着いた時、どんな

感動を抱いたのだろうか。

窓を開けると眼下には広大なアメリカ大地が広がっていた。

 広大な農園地帯の次は、大きな山脈、そして湖沼地帯へと続く。大きく蛇行して流れる大河。

琵琶湖の何倍もあるような湖(スペリオール湖)が白く光っている。すべてのスケールが大きすぎる。

まるで鳥になって飛んでいるような感じだ。私はくいいるように飛行機の狭い窓にかじりついて、

次々に展開する眼下の景色を眺めていた。この広大な穀倉地帯を空から見下ろした時、

どうあがいてみても、この国の農業には太刀打ち出来ないと思った。世界の胃袋を支えていると

言っても過言ではないだろう。

 やがて飛行機は雲の上を飛び始めた。一面が雲の海。白く光りまぶしい。眼下には大小の

湖沼地帯が現れ始めた。その湖沼地帯はどこまでも続いている。日本のため池等、比較に

ならない数である。氷河期に氷河によって削られた台地の傷跡だとの事だった。

 アメリカに着いて一番に降り立ったのはミネアポリスだった。この町はミネソタ州にある。

ミネソタ州で思い出したのはミネソタの卵売りという歌だった。私が子供だった頃、流行した歌だ。

この歌にも歌われているように、ここはアメリカでも有数の大農業地帯なのだ。

自然の豊かな所のようで、空港の土産物店にも狼やインディアンの彫刻などといった自然を題材に

したようなものが多かった。

 ミネアポリスには定刻より40分ほど早く着いた。心配していた入管手続きを無事済ませ、アメリカの

第一歩を印す。幸い日本人旅行者が多いせいか、空港スタッフの中には日本人もいて助かった。

すべての手続きを済ませた後、空港の建物の中を歩いてみる。大きな建物の中にはファーストフード

の店や、土産物の店がたくさん並んでいる。そんな空港の中の町のようなところを、いろんな肌の色を

した人が行き交っている。アメリカの第一歩をしばし楽しんで、ポップコーンを食べながらアメリカの

ビールを飲んだ。やっと、アメリカに着いたという実感が湧いてきた。

 やがて再び飛行機への搭乗の時間となり、機上の人となる。ところが定刻が来ても、いっこうに

飛び立つ気配がない。どうしたんだろう。様子を尋ねようにも言葉が通じない。機内アナウンスが

あって、アメリカ人達はぞろぞろと降りていく。スチュアーデスに聞いても大げさなゼスチャーで

NOと言うだけで、いっこうに埒があかない。日本の飛行機では考えられないような対応の悪さだ。

言葉が通じない不自由さを、この時ほど感じた事はない。

 幸い声をかけた人が日本人で、何度かアメリカへ来たことのある人だった。この人を通じて

やっと事情は飲み込めた。この人も一人で心細い思いをしていたに違いない。お互いに日本人で

あることに心強さを感じながら、飛行機から一旦空港ロビーまで降りた。こんな場合、言葉が

通じないと言うことがどんなに不自由で不安な事かつくづく感じさせられた。

 どうやら、飛行機の故障で2時間位は動きそうにないとのこと。ただひたすら待つのみだ。

アメリカ人達乗客の大半はどこかへ行ってしまった。不安な気持ちでおろおろしているのは

私達だけだった。結局、2時間近く待たされたあげく、別の飛行機に乗り換えることになって

しまった。そうなると、今度は荷物はちゃんと乗り換え用の飛行機に移し替えてくれたのだろうかとか、

別の事が心配になり始める。手帳にスーツケースの絵をかいて、単語だけの英語でちゃんと

移し替えてくれたかと聞いてみた。OKとの軽い返事。本当に通じたのだろうか。結局、ミネアポリスを

飛び立ったのは、それから更に2時間後だった。

 実にガマンガマンの再出発だった。無事飛び立って、機内は拍手喝采。アメリカ人の陽気な

ジョークなのだが、アメリカ人とて、いらいらする思いは変わらなかったようだ。我慢していたのが

こんなジョークとなったようだ。機内は笑いと拍手で沸き立った。

「娘待つ ボストンめざし ひたすらに 翼にすべてを まかせてとばん」こんな歌を詠んでみた。

 ボストン時間21時少し前、ボストン空港着。娘は心配しながら空港ロビーで待ちくたびれていた。

久々の娘との再会だった。夜も遅く、空港でゆっくりしている暇はない。荷物を引き取り、あわただしく

表のタクシーに乗る。黒人の運転手、おんぼろ車、客席と運転席の透明なプラスチック板の仕切、

何もかもが日本と異なり、目新しいものばかりだった。

 この日のボストンは久々の雨とかで、霧雨が降っていた。雨に煙るボストンの町並みだ。

周辺は暗くてよくは見えないが、木がたくさんあり、古い町であることがなんとなく分かる。

アルカポネが細い路地裏から、ひょっこり現れても不思議ではないような町の雰囲気だ。

ホテルの建物は1085番。建物には、大きな道路に面した建物にはみんな番号が付いている。

番地のようなものなのだろうか。ホテルとは言いながら、古いアパートか民家を改造したような

建物だった。従って、フロントがあるわけでもなく、いきなりホテルのマスターのような人が出てきて

大きなトランクを軽々と肩に担いで部屋に案内をしてくれる。各階3室くらいあるようだ。

風呂はだだ広いところにバスタブがあり、古めかしいシャワーが備え付けられていた。

もちろんトイレもその中にある。どの部屋にも人がいるようだが、どんな人達が泊まって

いるのだろうか。遅くではあったが、ホテルのマスターは快く宿泊の手続きを済ませて、

出ていくときは必ず部屋の鍵と玄関の鍵は掛けていくように注意をして出ていった。娘は

ジョーク混じりのやりとりをしながら、マスターからの注意を聞いていた。ずいぶん英会話が

上達したものだ。私達は娘の会話を頼もしく思いながら聞いていた。

アメリカ第一夜、市内のレストランで遅い食事を取る。

 夜遅くではあったが、マスターに聞いたピザ店を捜して遅い食事をする。店内は大勢の

若者たちで賑わっていた。ここは夜の遅い街なのだろうか。たのんだピザのあまりの大きさに、

とても全部は食べきれず、箱に入れて持って帰る。明日の朝食代わりだ。夜遅くトランクを開け、

娘から頼まれていたものを取り出した。それが終わって、やっと長い1日が終わった。時差を

入れると今日一日は何時間だったのだろうか。すっかり疲れ切っていた。娘と家内は一緒の

ベッドで寝ることに。おやすみなさい。

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