運命(さだめ)

 私は運命というものを信じませんでした。と言うより運命は自分で作り切り開いて行くものだと思っていました。

今もその考えは変わりません。

 しかし、これが運命というものだろうかと、いささか不思議な気持になるときがあります。それは、こうなれば

良いのにとか、こんな事が実現すれば、どんなに素晴らしいだろうとかと、漠然と考えていたことが次々と実現

していくのです。すべては、ささやかな願い事や日常に起こる小さな出来事ばかりです。それでも、それらの中

には大切な事や重要な事もたくさんあります。

 今日は、こうした経験について、私が自覚し始めてからの事を振り返りながら書いてみようと思っています。

私は子供の頃から自我の非常に強い人間でした。と同時に、平等意識が強く、自分だけが特別な存在である

必要もないし、逆に他人と差別されるのも我慢出来ませんでした。従って、この世の中、お金持ちも社会的な

地位がある人も、みんな平等でなければならないという強い信念を持っていました。これは誰に教えられたと

いうものではなく、自然に小さい頃から私自身の中に培われてきたものでした。従って、その思いが正義感と

なり、理に合わないものに対しては、激しい怒りとなってぶつかってきました。

 社会に出て、抵抗なく労働運動に入っていったのも、そういう思いがあったからではないかと思っています。

こうして約25年間、二十歳にもならない青年時代から、労働運動や社会主義運動に身を置いて来ました。

しかし、どっぷりと浸かってしまうような心境にはなれず、どこか醒めたところが常にありました。いつも、心の

どこかに、これで良いのだろうかという自問自答はありました。しかし、自分の意志からではなく、労働運動を

やめなければならなかった、その時まで労働運動は私のライフワークだと決めていたのも事実です。

 いきさつはともかく、労働運動をやめたその日から百八十度の方向転換が始まりました。と同時に、今まで

とは異なった視点で、ものが見え始めたのです。それまでは、我を張って自分しか見えていなかったのだと

思いますが、少しだけ、客観的に自分を見ることが出来るようになったのです。むろん年齢的なものもあった

のかも知れません。

 本業は電気屋でしたから受電室管理のために三交替勤務にも入りました。昼勤時には設備の保全や、新設

に当たっての設計や、建設工事の監督もやりました。電気屋と言っても限られた人員ですから、それこそ何でも

やりました。

 私が労働運動をやめた頃から始まったのが、TPM(トータル・プラント・メンテナンス)という活動でした。TPM

の手法は、仕事とはこうあるべきだと、常々考えていた私の思いにピッタリと当てはまる活動でした。こうして、

長いTPMとのつき合いが始まったのです。TPMの標語で金賞をとったのも、こんな私の考え方に当てはまる

ものがあったからだと確信しています。

 TPM活動の最中、東広島へ研修に行く機会にも恵まれました。同僚に先を越されたという焦燥感があった

だけに、自分にも順番が回ってきたときには、大変うれしく思いました。約半年間、毎月三日、東広島に通い

ました。講習の内容は設備保全に関する実務を中心としたものでした。真夏の冷房のない部屋でヤスリがけ

をした事等、懐かしく思い出されます。決して楽な研修ではありませんでしたが、非常に良い勉強になりました。

終了式には研修生の代表としてお礼の挨拶をさせて貰うという栄誉にも恵まれました。すべては川が流れる

ように、あるべき方向に流れ始めていたように思います。

 保全技能士の実技試験の時もそうでした。一度目は残念ながら合格出来ませんでした。それもそのはず、

試験勉強も十分ではなく、その上、仕事では一度も触れた事のないシーケンサという設備を使っての試験

だったからです。どちらかというと私の苦手な分野の試験でした。正月休みもなく、明けても暮れても実技

試験のシーケンサに取り組んでいました。

 実技試験には電気配線もありました。小さな部品に何本もの配線をするのです。すでに老眼になり始めて

いた私にとって実に苦痛としか言いようのない試験でした。試験は限られた時間に配線を終え、試験問題の

タイムスケジュールを見てシーケンサに入力し、出来上がった回路を動かしてみます。それがOKであれば、

次の回路の入力へすすみます。三段階の入力が、すべて間違いなくなっていなければいけません。試験官

が見ている目の前で、これらの作業を行います。次は、配線の不備なところを見つる試験です。断線、配線

違い、配線すべきところに配線がないところを探し出して、正常な回路にします。

 三科目の全てが、時間ぎりぎりでした。他の仲間がほとんどダメだった中で、私と私と一緒に行ったN君の

二人だけが合格しました。まさに難関中の難関を、さしたる試験情報も過去問題もない中で勉強し、合格した

のです。

 神が手をさしのべてくれたような気がしたものです。このような試験の場合、一度、二度と落ちる回数が多く

なるに連れて、焦りが出てきますから、ますます合格が難しくなってきます。そういう意味からも、私の合格は

奇跡のような気がしてなりませんでした。

 その後も色んな資格試験に挑戦をしました。その都度、それなりに努力もしてきました。大抵の資格試験

には事前講習があります。多くの場合、自費で受験しましたから講習会にも行けませんでした。問題集と

教科書のみで勉強してきました。しかし、大抵は一度で合格する事が出来ました。このように人生の後半で

必要、不必要を問わず、多くの資格試験に挑戦し、資格を取得してきました。

 そして、極めつけの挑戦が定年の一年前に取得した高圧ガス製造保安責任者甲種の資格試験でした。

好んで受けたわけではなく、やむを得ず受けさせられたと言った方が良いでしょう。私の課であったUTY課が

VAM課という課と統合することになり、私は保安環境室長になりました。そのため、資格が必要となり、是非

受けて欲しいと頼まれ、やむなく受験しました。大変難しい試験だと聞いていましたたし、試験日まで二ヶ月

余りしかありませんでした。大抵は事前講習があり、少なくとも半年前くらいから準備しているような試験です。

毎日欠かすことなく勉強しましたが、何しろ三科目を一度に受験しなければなりませんでしたので、一科目

当たりの勉強時間はおのずと限られたものでした。11月の上旬に、一日がかりの試験を香川大学の寒い

教室で受けました。私のような高齢者は誰も見あたりませんでした。最後にあった計算問題が中心の学識と

いう科目が出来ませんでしたので諦めていました。ところが一月末に届いた試験結果は合格になっていた

のです。私は我と我が目を疑いました。早速、インターネットでも合否の確認をしてみました。合格者の中に

私の受験番号がありました。間違いではなかったのです。

 まさに神の導きによって合格したとしか言いようのない結果でした。その代わり、約一年半ほどは想像も

しなかったような苦労を背負い込むことになってしまったのです。保安環境室の責任者になった事も、その後

の仕事も全ては、私のために準備されていたことなのではないかと今でも思っています。私でなければ出来

ないことではなかったとしても、私が適任者だと選ばれたような気がするのです。こんな事が世の中にはある

のです。これが人の運命(さだめ)というものなのでしょうか。

 こうして、苦労はしましたが、サラリーマンとしての終盤になって、多くの仕事を解決することが出来ました。

この間、私を支えてくれた多くの人にも恵まれました。それは会社内の人ばかりではなく、社外の人もたくさん

いました。

 もちろん、これらの運を棚ぼた式に待っていたわけではなく、ここ一番というところでは、積極的に行動しま

した。行動したことが次の結果を生み、全てが、あるべき方向にうまく回転していったような気がするのです。

 これは随分前から経験している事ですが、あの人に用事があると思っていますと、必ずといって良いほど

その人物がひょっこり現れます。多くは、会社の中でのことですが、その他の場所でも偶然のように出会う

事が、たくさんあります。こんな経験を、どう説明すれば良いのでしょうか。昔の同僚で何とはなく疎遠になった

人や、気まずく別れた人との再会もあり、その人との関係修復も出来ました。私の意識が変わったことにより、

もともと見えていたものに、私自身が気付くようになったのかも知れません。あるいは、今までも見えていた

のだけれど私自身が見ようとしなかったのかも知れません。心を穏やかにして、落ち着いて見るようになると、

そんなものが一挙に見え始めたのかも知れません。ともかく、私の周りの環境が大きく変化したことは間違い

ありません。

 私は若い頃、非常に感情的で人との対立もたくさんありました。それらを改めるべく努力もしました。今では

腹が立っても、あるいは理不尽だと思っていても、我慢我慢と自分に言い聞かせています。腹立ちまぎれに

ひとこと発すると、収拾がつかなくなってしまいます。だからまず我慢を決め冷静に、あるいは時間を置いて

考えるようにすると、腹も立たず気付かなかったものも見えてきます。そして、相手を怒らせるたり反感をかう

ことも少なくなりました。何はともあれ我慢が必要なのです。

 私自身の心の持ち様や気構えの変化が、すべての流れを変えはじめたのかも知れません。今は出来るだけ

流れに逆らわず、身の回りで起きた事にも身を任せるように生きています。従って、試験であっても合格するも

よし、合格できないでも、それはそれで仕方のないことなのだと考えるようになりました。その代わり出来るだけ

の努力だけはしています。その努力の結果が今回の合格だったのかも知れません。合格したらそれはそれで

責任ある立場に長くとどまる事になってしまいます。重い荷を背負って歩かなければならない期間が伸びること

になってしまいます。しかし、それもまた仕方のないことかも知れません。人知を越えた大きな力(意志)によって

動かされているような気がしてなりません。

 私は今年定年ですが、やっとここまでたどり着きました。幼い頃から人には語れないような様々な試練があり、

その試練にも何とか耐えてきました。それらの一つ一つが今の私の原点になっています。私の人格もその中で

作られて来たと思っています。繰り返しますが、それもこれも全ては運命という大きな流れの中での出来事で

あったような気がしてなりません。子供は親を選べません。私が、私の両親の子として生まれてきたこと自体、

運命としか言いようがありません。その親に育てられ人格も形作られ、今の私自身がここにあるのです。今も

私は明日をも知れない運命の中で生きているのです。

 こんな不思議な体験は果樹作りや野菜作りでも感じています。果樹作りを始めて二十年間位は作るのが

難しいとか、何も出来ないとか不満ばかりが先に立ち、力や体力まかせに取り組んでいました。足繁く畑に

通っては消毒や水やりや草取りをしていました。しかし、いくら頑張ってみても結局ダメなものはダメでした。

 その内に仕事が忙しくなり畑仕事に費やす余力がなくなってきました。以前のように畑にばかり目を向ける

ことが出来なくなったのです。従って、果樹や野菜も出来の良いものがあればまったく不作のものもあります。

それも仕方がないことと諦めています。そんな管理でも出来の良い事もあるのです。何が良くてそうなるのか

分かりません。消毒もできないような忙しさでありながら、適度な収穫と店屋では滅多にお目にかかることの

出来ないような立派なものが収穫できるのです。これも私が何となく感じている人知を越えた力のようなもの

と何か関係があるのでしょうか。まさに奇跡としか言いようがありません。今はただ自然の恵みに感謝する

ばかりなのです。

追記

 書き残したいと思っていることが、うまく表現出来ませんでした。何を書いているのか理解しにくかったのでは

ないでしょうか。私が書きたかったのは、人それぞれに与えられた運命(さだめ)というものの、どうしようもない

ほどの大きな力についてです。それは、形になって現れるようなものではなく、自分自身にしか感じることが出来

ないものです。

 それは、如何に逆らおうとしても逆らう事の出来ない大きな力です。逆らうことの出来ないものならば、いっそ

その力に身を任せてしまったら、どうだろうと私は考えたのです。従って、タイトルも運命(さだめ)書き改めました。

                                                    2003年2月22日掲載

                                                    2004年2月2日補筆

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