東海村の臨界事故で被爆した篠原さんが亡くなった。この事故で亡くなった二人目の犠牲者である。

放射能の恐ろしさは目に見えない。いわゆる人間としては未知なるものだから、それを知るだけの感覚を持ち合わせていない。

匂いもない、色もない、洩れるときの音もしない、人間の五感とは全く無縁のものだからである。

チェルノブイリの事故は14年前の4月26日だった。もうもうと黒煙を上げ、原子炉が炎上したのである。

当時はソ連時代で、ソ連は国家を上げて消化活動を行った。原子炉の火事は通常の火事とは大きく異なる。

通常は冷却水が循環し、ウランが中性子によって崩壊するときに、大量の熱を発生する。通常は、この熱を冷却水で

冷却し、その熱を発電に利用している。しかし、この冷却水がなくなると、核燃料は解け始める。メルトダウンである。

抑制の利かなくなった炉内は急速に温度が上昇し、通常の消化活動では押さえきれない。

従って、放射能を遮蔽する鉛や砂、ホウ素などを大量に投入して核燃料の自然崩壊を抑制する以外にとるべき方法はない。

多くの労働者や消防士、軍隊が導入されて昼夜を問わぬ消火活動が行われた。

多くの犠牲者が出た後にかろうじて沈静化した。しかし、今日もなお高濃度の放射線は出続けている。

原子炉は厚いコンクリートの壁に覆われ、厳重な監視の元にある。この巨大なコンクリートの壁は、棺に似ていることから

石棺と言われている。しかし、強い放射能のためコンクリートの至る所にひびが入り、二次汚染が懸念され始めてている。

かつてこの地域はソ連有数の穀倉地帯だった。美しい自然は四季折々の恵みをもたらし、ここに住む人たちの

かけがえのない古里であった。澄んだ空気ときれいな水、そして豊かな森や林、肥沃で広大な農地、人々は

この土地を愛し、ここで生まれ、ここで死んでいくことに満足をしていた。

汚染後の姿も見た目は昔と全く変わらない美しい自然そのものである。

ただ一つ決定的に異なるのは、高濃度の放射能によって汚染されていると言うことだ。

この地を去りがたいお年寄り達の中には、この地へ舞い戻ってきている人もいるらしい。それほど住み良い土地であった様だ。

多くの居住地が廃墟と化し、二度と再び、この地に人が住めるようになることはないだろうと言われている。

事故当時、赤ちゃんであった子供達も事故の全てが理解できるような年齢になった。あるものは結婚したかも知れない。

しかし、いつも気になるのは被爆による体のことである。多くの子供達が事故当時、何も知らされずに屋外にいた。

その上に、高濃度の放射性の灰が降り注いだのである。体に入った放射能は甲状腺に集まり、甲状腺異常を

来した。手術で一時的に良くなっても、体中に入っている放射能は徐々に体を蝕んでゆく。

こうして大人も子供も多くの人が亡くなっている。いつまで続くか分からない果てしない放射能汚染との戦いである。

事故当時、ソ連政府は何故事故を隠そうとしたのであろうか。避難をもっと早く行っていたら、犠牲はいくらかでも

くい止められていたはずだ。

今回の東海村の事故でも、住民が知ったのは事故発生後かなり経ってからであった。どこの国でも政府というものは、

口では人の生命ほど貴重なものはないと言っておきながら、いざ現実になって見れば、いつも後回しにされるのは、住民であり国民だ。

亡くなられた篠原さんの冥福をお祈りすると共に、二度と再び放射能汚染を繰り返してはならない。

今一度、チェルノブイリの教訓を思い出してみたい。             2000年5月11日


参考資料:

  原子力発電とはどういうものかを調べてみました。ロシアの型と日本のものは基本構造は異なりますが。

               日本原子力発電

               原子炉圧力容器及び炉内構造物

       チェルノブイリ事故の詳細を掲載したサイトがありました。(日本の関連サイトをクリックしてください)

               京都大学原子炉実験所原子力安全研究グループ

       合わせて参考資料に掲載しておきます。

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