私の頭には、いまだに消えぬ大きな傷跡があります。この傷は、幼稚園の頃、階段を転げ

落ちたときに、階段の角で打って出来たものです。洗濯に行くという母について行き、作った

船を川へ浮かべてみるのを楽しみにしていました。大慌てで階段を駆け上り、降りる時に

足を踏み外してしまったのです。何針も縫うような、大きな切り傷でした。何故そんなに

急いだのかは覚えていませんが、母が出ていくのに遅れまいとしていたのだと思います。

 船が大好きだった私は、近くの瓦屋さんの燃料用の松の木の皮を拾ってきては、ナイフで

削り小さな船を作っていました。おもちゃとて満足にない時代です。自分で作った木の皮の

船は大切なおもちゃでした。これを川に持って行き、浮かべてみるのを楽しみにしていたのです。

 余談になりますが、怪我をしたのは夏真っ盛りの頃の事でした。軍医上がりの外科医の

治療は荒々しく、傷口の消毒も十分ではなく、傷はひどく化膿し、高熱が続き、目が見えない

くらいに腫れ上がってしまいました。傷を縫ってくれた医者の手ではどうにもならなくなり、

近所の人の薦めもあって、父の自転車で福山の中野外科まで行き、再治療をして貰いました。

もう少しで手遅れになるところでした。ぱんぱんに腫れていた顔が、帰りには元に戻り、

自分でも分かるくらいすっきりとした事を、昨日の事のように思い出します。父の背につかまって、

大峠(福山の手前にある大きな坂)の坂を越えた日の事を今も懐かしく思い出します。

 しかし、私の船好きは、こんな事件ぐらいでは、諦めてしまうようなこともなく、中学校を卒業する

まで、ずっと続きました。大きくなってからは、ゴム動力ながら戦艦らしき物も写真を見て作りました。

潜水艦も作ってみました。今から考えると、とても鑑賞に堪えるようなものではありませんでしたが、

一人で水に浮かべて満足していました。とにかく、ものを作ること、形になっていくことが楽しみだった

のだと思います。私のもの作りの原点です。

 小学校の頃は、船の模型作りに、余りにも熱中し過ぎて、成績が下がってしまいました。受持ちの

先生は、そんな姿を直接見ていたわけではないと思いますが、ピンとくるようなものがあったのでしょう。

参観日の時、母に何か、熱中しているような事はありませんかと聞いたそうです。参観日から帰って

きた母から、早速、船を作るのも程々にせよと叱られました。一度やり始めたら、のめり込んでしまう

程、熱中してしまうようなところがあり、先生は、そんな私の性格を見抜いていたのかも知れません。

しかし、一度くらい注意を受けたからと言って、容易に改まるものではありません。それからも、

しばらくは、そんな熱中時代が続いたと思います。

 ある日、中学校の先輩がヨットの模型を作り、高屋川で浮かべていたのがうらやましく、自分でも

作った事がありました。しかし、ゴム動力と違い、風を如何に受けるかという工夫が必要で、とうとう

満足のいくようなものは出来ませんでした。その先輩は後には商船大学に行ったという話を聞きました。

あこがれの先輩でした。

 船作りはこれが最後でした。そうして、私の感心はいつしか望遠鏡作りの方に移っていきました。


 夏の夜、河原に寝ころんで空を眺めていると、大きく弧を描きながら、流れ星が飛んで行きます。

見上げる空には、降るように星が輝いています。手を伸ばせば届きそうな位に星が近い夜でした。

私の住んでいた子供の頃の神辺の夜の空でした。

 中学3年の冬の朝、試験勉強の手を休め、庭に出てみると、オリオン座が真上にあります。大きく

広げたオリオンの両手と腰の三つ星がくっきりを光り輝いていました。背景には、薄い雲のように

天の川が流れていました。私達が子供だった頃、夜の空は本当にきれいでした。空を覆い尽くす

ような高い建物もなく、ましてや、星の光りを遮るような人工の光もありませんでした。自然の空の

広がりと、澄み切った夜空が、四季折々の夜空の美しさを見せていました。

 そんな空が手近にあったからこそ、子供の頃から天体に興味を抱き初めていたのかも知れません。

子供の頃から、何とかして、手近にこれらの天体を見てみたいという思いは、望遠鏡を作る事に

向けられました。安物のレンズのセットを手に入れたのがきっかけだったと思います。それ以来、

ずっと手作りの望遠鏡が側にありました。同じレンズを使い、何度作り変えた事でしょう。いくら作り

替えてみても、安物のレンズでは、それ以上の性能は望むべくもありませんでした。所詮、安物の

レンズは、ものの形を拡大はしてくれても、鮮明さにはほど遠かったのです。レンズには、物を拡大

する能力と、物と物を分離する能力(分解能)が必要です。また、色収差と言って、短レンズでは

目にする画像に色のにじみが出てしまいます。そんな知識を持たぬままに、一生懸命作り替えては、

同じ結果にがっかりしていました。レンズにとって大切な、これらの性能があることを知ったのは、

本格的なレンズが欲しいと思い、雑誌で知った専門店のカタログを手に入れてからでした。

 その頃、天体に興味を持つ人も少なく、ましてや専門誌等、私達には、ほとんど目にすることも

なかった時代のことでした。色収差とは何だろう。分解能とは、どう言うことなんだろう。疑問は

深まるばかりでした。そして、カタログに載っているレンズの値段は、わずかばかりの小遣いで

買えるようなものではなかったのです。そんな訳で、カタログは手にしたものの、新しいレンズは

とても買うことが出来ず、出るのはため息ばかりでした。

 結局、次に作った天体望遠鏡も福山で買った安物のレンズで組み上げたものでした。しかし、

その望遠鏡で覗いた月の姿は、今でも強く印象に残っています。色収差のため、虹がかかった

ように、薄ぼんやりとした画像でしたが、月のクレーターは、はっきりと見えました。アポロが月に

着陸する遥か前の事でした。

 望遠鏡を作る材料は馬糞紙でした。これに、ご飯粒をつぶして練った糊を接着剤にして、筒状に

巻いてゆきます。これが鏡筒となるのです。接眼レンズの鏡筒も同じ様にして作ります。筒の内部は

光の乱射を避けるため、墨汁で黒く塗ります。筒の固定は、ブリキ板を切って作りました。三脚は

手近な木材を削って作りました。仕上げはニスを塗って仕上げました。雨に濡れさえしなければ

丈夫な望遠鏡でした。今から考えると、望遠鏡の形をした張り子の虎のようなものだったような

気がします。その望遠鏡は高校の卒業の頃まで、大事に持っていましたが、その後、いとこの

子供に譲ってやりました。

 現代のものの有り余る時代から見れば、恐ろしく時代じみて、ちゃちな代物でしたが、私に

とっては、たった一つの未知の世界とをつなぐ架け橋でした。虹色にかすむ画像の中の月の

姿は、間近に見た天体の最初の姿でした。こうして、少年時代に始まった空へのあこがれは、

その後も癒されることなく、大人になった今日でも、続いています。今も夜空を見上げるのは

習慣となっています。天体に大きな変化がある時には欠かさず空を見上げています。

                                          2001年2月24日掲載

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