公民館講座「鉄と塩の文化」

 今回の講座は「鉄と塩の文化」という題で三回の講座でした。二回目の講座は都合がつかず、はじめと終わりの二回しか

聴講出来ませんでした。古くから近代に至るまで岡山県では鉄も塩もたくさん生産されて来ました。また、それらに関する遺跡

が非常に多いのも事実です。

 今回の講座の特徴は、私が下にまとめましたものを読んでいただければ分かると思いますが、単に知識の吸収という

ことに止まらず、いろいろと考えさせられることの多い講座でした。特に、第一回目の講師であった臼井先生は刀剣の専門家

でもありましたが、話は刀剣にとどまらず教育論や、つい最近訪れられた青ヶ島にまで話が及び大変中身の濃いものでした。

 下記に掲載したものは両先生から聞いた話を私流に解釈を加え書き改めたものです。多少、講義の内容とニュアンスの

異なる部分があるかも知れませんが、ご容赦いただきたいと思っています。

                                                2002年1月16日掲載


第一回  講師:岡山県立博物館総括学芸員  臼井洋輔先生

 臼井先生は岡山県立博物館の学芸員をされており、甲冑や刀に関する専門家だそうです。

 臼井先生の説によりますと文化とは必ずしも時代と共に進化していくものとは限らないのだそうです。私も同じように考えて

います。中には、昔よりもむしろ後退しているものも多いとおっしゃっています。例えば刀剣や備前焼についてです。古備前派

と称されている刀剣は平安時代から鎌倉期にかけてのものが最高であり、以後、質的には次第に低下してるのだそうです。

また先生は文化とは、どう進むべきかという視点を持たなければ意味がないとも言っておられます。ものの質が違うという

ことは、そのものに作り手の精神が如何にこもっているかということで決まるとも言っておられます。ただ作るということだけ

ではなく、作るものに対しての作る人の熱意や情熱が如何に注ぎ込まれているかということなのではないのでしょうか。

 さて話を製鉄に戻しましょう。今まで発掘された鉄の遺跡では刀剣の原料であった鉄の「けら」(今日流に言えば粗鋼と

いうべきものでしょうか)といったものがほとんど発見されていないのだそうです。当初、鉄は1メートル四方くらいの小さな炉で

作っていたようです。大きな「たたら」になるのは、ずっと後の江戸時代になってからだそうです。たたら製鉄では盛んに砂鉄

が使われましたが、古墳時代頃の製鉄では鉄鉱石を使っていたようです。後の砂鉄からの製鉄というのは日本独自のもの

で、5世紀半ば頃から始まったともいわれています。

 日本刀の特徴は「折れず、曲がらず、美しい」ことだそうです。この刀剣の技術が完成するまでには約1000年の歴史を

経ているそうです。縄文時代末期の製鉄遺跡が福岡県にあります。ここから数えて約1000年だそうです。良く切れると

いうことと、折れないということは鉄の性質からして相矛盾していることです。この相矛盾する二つの事を独特の技術で見事

に克服したのが日本刀だといわれています。この製法が完成したということは、当時の世にあっては正に革命的な出来事

であったようです。

 製鉄遺跡の7割が中国地方に集中しているといわれています。山陰側と山陽側ではほぼ半々の分布率だといわれて

います。しかし決定的に異なるのは原料です。山陰側は真砂鉄(純鉄に近い)ものを使っていました。一方、山陽側は

あこめ鉄(不純物が多い)というものを使っていたようです。今日、古刀といわれる名刀の大半は岡山県で作られたもの

です。あこめ鉄という不純物の多い鉄の欠点を見事に利点に変えたところに備前刀の優れた面があり、技術力の完成度

の高さを感じさせます。

 同じことは備前焼にもいえることです。備前焼も欠点の多い土を使っています。世界を代表する焼き物といえば釉薬を

使うものでは中国の景徳鎮、釉薬を使わないものでは岡山の備前焼だといわれています。兵庫の北関に関する書物の

中に備前焼の大量輸出の事が書かれています。当時輸出品の代表的なものの一つに備前焼が入っていたということは

特筆すべきことです。(北関は昔の有名な港だったようです)

 このように完成度の高い優れたものを作り出しておきながら、その後日本のもの作りは次第に効率的なものへ傾斜して

いってしまいます。特に明治維新以降、西洋文化を大量に取り入れ始めた頃から、ますます、その傾向は強まったようです。

しかし、今日のもの作りの現場を見てみれば分かるように効率主義ではけっして良いものは生まれません。ある意味では

成功したかに見える日本の製造業は、日本の伝統的なもの作りの精神を置き忘れてしまい大量生産にのめり込んでいった

ように思われます。

 かつて瀬戸内海周辺には風待ち港を拠点としての特徴ある地場産業が発達していたようです。船が着く港を利用しての

それぞれの地場に即した伝統産業が発展し栄えていたようです。それらは船という輸送手段によって有機的に結ばれて

いました。今日のコンビナートに見られるような決して均一なものではありませんでしたから、いったん景気が悪くなると

全てに影響が及ぶというような事はなかったようです。コンビナートのようなあり方は機能的で強固に見え、高度経済成長期

のような時には優れた面を発揮しても、今日のように長引く景気の低迷の中では互いに共倒れのような状態となり、非常に

脆いものであることが露呈されます。

 ここからは本論に入ります。砂鉄からは鋼が出来ます。たたらは低温での製鉄です。他の国では高温で製鉄し、後で還元し

綱を作るという方法をとっていました。従って、他の国とは全く異なる製法である特異なものだといえます。こうして作られた

玉鋼(たまはがね)といわれる不純物の多い鉄を、何度も何度も叩き直して鍛えていきます。そして、形を整えたところで

780度という非常に低温で焼きを入れるのです。

 日本刀のルーツには五箇伝と言われる五つの流派があります。この流派の中で780度で焼きを入れるというのは備前刀

だけです。他は全て830度で焼きを入れています。備前刀はあこめ鉄という不純物の多い鉄の欠点を逆に利用して見事な

刀剣を作り出しています。純鉄の場合、10回も延ばしては折り重ねを繰り返していくと腰がなくなり鉄がへたってきます。

しかし、不純物の多い鉄は実に15回もの折り重ねをしてもへたることがないのです。このようにして折り重ねを繰り返して

いくと鋼の32700もの薄い層が作られていきます。だから容易には折れない強い刀剣が出来るのです。

 同じようなことは備前焼にもいえます。備前焼の陶土は決して上等なものではありません。この陶土を使って練り上げた

製品を1200℃以下という低温で焼きます。温度を低くする代わりに40日間もの長時間焼き続けます。他の焼き物は

1200℃以上に温度を上げ、1〜2週間位で焼き上げます。焼き物は温度が高ければ良いという訳のものではなく、焼き物

に投入されたトータルエネルギー量がいかに多いかということが重要なことなのです。

 良いものが作られる時代というのは時代そのものにも熱があります。古備前といわれる陶器、古刀みんな同じです。それに

ひきかえ今日はどうでしょうか。同じようなことは美術品の鑑賞に関してもいえることです。良いものをじっくり見る。ただ数多く

見たというだけでは自慢になりません。

 話は教育にも及びました。教育のあるべき姿とは何でしょうか。今日の教育は文部省のカリキュラム通りに行うという

効率主義一本槍のやり方です。本来、もっと地元や地域に根ざした教育であるべきではないでしょうか。先生が話された

かったのは岡山県を頭に描いて話されていたのだと思います。つまり、かくまで優れた伝統文化や技術力を持ちながら、

画一化してしまった文化の中で、地域の特徴あるもの優れたものが次第に失われ、平均化した薄っぺらなものしか残って

いないということを嘆いておられたのではないかと思うのです。

 今の社会は許容範囲が非常に狭い、画一的な社会です。しかし、後に天才といわれる人の中には、子供の頃、愚鈍だとか

枠からはずれた行動が多く、馬鹿にされていたような人が多いことも事実です。本来、社会とはそういう人とも共生できる

ような、ゆとりのある社会でなければなりません。

 岡山県は複雑な環境に根ざした伝統文化のある県です。例えば備中松山城のある高梁の臥牛山を例にとってみますと

あの山にだけでも240種もの植物があります。世界中を見回してみても、いくら多いといっても一地域の中にせいぜい

100種もあれば多い方なのです。植物一つをとってみても、岡山県はそれくらい多様性を持っているのです。そういった

多様性をつい近頃までは非常に大切にしてきました。それはこの地域が古くから何でも受け入れてきた事にも由来します。

多様性こそ吉備文化の特徴なのです。

追記

 先生の話は尽きることがありませんでした。ここには、その後に続いた話の中で書き残しておきたいものだけを要約して

おきます。

1)岡山県では八目鰻型の炉がいくつか発掘されている。何に使われた炉か分からない。炭焼き炉とも言われているが

 炉の内部の焼け方が尋常ではない。かなり高温で焼かれている。炭焼きではこんなに高温にはならない。私は鉄鉱石

 の粉砕炉として使われたのではないかと思っている。同じような形態の炉がつい最近まで使われていた。べんがらを

 作る時の鉱石を粉砕するための炉に似ている。鉱石を高温で焼いて急冷するとバラバラに砕ける。当初、製鉄も

 鉄鉱石を原料にしていたからではないかと思っている。全国に150〜160基位発見されている。この内の75カ所位が

 岡山県であり総社には40カ所位ある。

2)刀を作るには原材料である多くの炭と鉄が必要である。それらの原料を調達するには河川が利用された。高瀬舟は

 岡山県が発祥の地である。岡山県には南北に走る3大河川がある。これらの河川を利用し原材料が運ばれた。つまり

 刀作りは刀作りの部門と原材料の供給部門とが完全に分業化されていたようだ。

2)製鉄時の炭は堅い炭である広葉樹(高温)が必要であり、鍛刀時には軽い炭である針葉樹(赤松)の炭でなければ

 ならなかった。特に焼き入れは粘土を付けた65センチの刀身を30センチ位の小さな炉で行っていた。そのため、

 全体に均一な焼き入れを行うためには、かたよりなく熱が行き渡るよう、刀を常に炉の中で動かしていた。 その際、

炭が重いと粘土がはがれ落ちてしまう可能性があった。そのためには柔らかく軽い針葉樹の炭が必要であったである。

3)焼き入れ時の温度は満月が地上に顔を出した時の色を目安にしたと言われている。その温度が780度であった。

 また、水の温度と気温がほぼ同じ頃の季節が焼き入れの最適期とされてきた。それは炉の中から刀を空気中に出しても

 急激に温度が下がらないという条件からであった。

塩の文化

 今回の講座は塩と鉄の文化という講座でした。先生は塩については専門ではないのでと断った上で次のような話をされた。

1)塩は何故必要になったかのか。縄文時代には自然のものをたくさん食べ、そこから塩分を吸収していた。従って、ことさら

 塩をとらなくても良かったのではないだろうか。ちなみに赤ちゃんが育つ子宮の羊水の成分は海水と同じだと言われて

いる。しかし、弥生時代に入りお米など穀物を作り食べるようになった。そうなると塩分の摂取は難しくなり必然的に何かの

 方法で塩をとらなければならなくなった。従って、塩が必需品となり製塩が始まったのではないだろうか。弥生時代以前、

 製塩土器は発掘されていない。ちなみに製塩土器の形はポーランドで発掘されたものと奇妙に似ている。洋の東西を

 問わず初期の製塩については案外似ていたのかも知れない。安定性の悪い底が先細りのこの土器を用い、煮詰めて

 作ったと言われているが、どの土器も煤けていない。濃い塩水を作り天日乾燥させたのかも知れない。未だに、使い方

 についてのはっきりとした解明が出来ていない。

2)その後、この形の土器は急速に姿を消してしまう。つい最近まで行われてきた入り浜式の製塩法に変わっていった

 のではないだろうか。

3)今ではイオン交換膜法という方法で作られている。この製法による塩は不純物のない純粋な塩である。本来人間には

 Nacl(純塩)だけでなく、その他のミネラル分も必要である。昔のように塩を食べることによってこの微量成分が摂取できなく

 なり子供たちが切れるという現象がおきているのではないだろうか。これも又、効率主義の弊害といえる。

4)ここで先生が先日訪れたという青ヶ島の話になる。先生が青ヶ島で買ってきたという青ヶ島の塩を配ってくださり、味見を

 させて貰った。それはまさに昔の製塩法で作った塩であり、塩辛さを感じるよりはむしろ甘みさえ感じるような奥深い味わい

 であった。如何に今日私達が無味乾燥な塩を口にしているかということが良くわかった。

 塩の入手先: 電話、FAX共用 04996−9−0241  青ヶ島村製塩事業所

5)岡山県の製塩遺跡は児島半島に集中している。はじめは農業と一体となって発展してきた。そして農地が広くなるに

 つれて次第に分業化していったようだ。(古墳時代に分業化したのではないだろうか)

 今日、日本は世界に名だたる輸出大国になっている。しかし、最近では中国に足下を洗われるような状態になりつつある。

岡山県の金川の明覚寺には日本に現存する世界地図の中では一番古いのではないかという屏風に描かれた世界地図が

伝わっている。安土桃山時代のものである。地図の中に中国との貿易品として、鉄、銅、やかん等が書かれている。逆に

輸入品にはたくさんの薬が書かれている。この構図は今も変わらない。しかし、輸出入のバランスは、ほとんど一方的とも

いえるほど輸入超過の状態だった。中国が今のまま力をつけてくれば、いずれ近い将来はこうなるのではないだろうか。


第三回(最終講座) 講師:津山郷土博物館  湊哲夫先生

 今回は鉄の文化で締めくくりとなりました。講師は津山市の博物館の先生でした。今回の話を聞いていて学問の世界と

いうのは、とかく大学同士の縄張りや主義主張があって、非常に閉鎖的な世界であることが良く分かりました。広島県

では広島大学の意向が大きく影響を与えているようで、遺跡の年代鑑定に他のものが意義を唱えようものならば、一切

の学術資料を見せて貰えないとか、この分野は誰それさんが第一人者なので、その人の学説には異議を唱えることが

出来ないのだとかいったような事がたくさんあるようです。

 先に大きな社会問題となった旧石器時代遺跡に関する捏造事件の背後にも、東北大学という巨大なバックがあり、

変だと思っていた人も面と向かってはおかしいとは言い出せなかったようです。こんな事例は他にもたくさんあるようです。

裏返して言えば、昔のことに関しては何も断定できるようなものがないのですから言いだしたものが勝ちだとか、その分野で

力を持っている人が言い出したら、その人の意見がまかり通るといったようなところもあるようです。

 従って、岡山県の製鉄遺跡も多々ありますが、それほど古いものではなく、反面、新しいものでもなく、ある時期に集中して

いたのではないだろうかというのが先生の考えでした。それも意図的に製造開発が進められたものが多く、当時としては

かなり組織的な製造形態であったのではなかろうかという話でした。

 発掘されるものの年代鑑定があやふやな以上、先生が話されたように書き残された文献などから類推するという事も

あながち不自然な方法ではないような気もします。考古学に関して私達はともすれば古いものが出ることを願望するような

ところもあり、妙な期待感を持っています。側面的な物証である古い時代の土器が一緒に発掘されたからと言って、必ず

しも同じ時期にあった遺跡であるということは断言できません。なぜならば炭焼き釜やたたらを築くとき掘り返した場所が、

たまたま、それよりは古い年代の土器が埋まっていた場所だったということもあり得るからです。

 今回の講座での根拠となった延喜式という書物には、当時の税とである全国の献納品の事が事細かに書かれています。

この中に当時の納入リストがあり、おびただしい鉄製品が岡山県周辺から納められています。これが、ある時期にだけ

集中している製鉄遺跡が多い理由かも知れません。

 いずれにせよ岡山県や広島県における古い形の製鉄遺跡はある時期に集中し、それより先にも、それより後にも

存在していません。そして製鉄は古い形の鉄鉱石を原料にしたものから、江戸時代に至るまで続いた砂鉄を原料にした

ものへと大きく姿を変えています。そして炉の形も大きさも大きく変化し、より大量生産を目指した「たたら」製鉄として

江戸時代末期まで続くのです。


製鉄に関して興味をお持ちの方は下の日立金属のサイトにアクセスしてみて下さい。

日立金属「たたらの話」

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