多神教国家に生まれた幸せ

 世界の紛争を見ていると、単に国家間とか人種間の争いだけでなく宗教に絡むものが少なくない。その多くは

キリスト教やイスラム教、ユダヤ教である。何故だろうか。

 キリスト教を始めイスラム教やユダヤ教など一神教と言われる宗教には、一神教であるがゆえに他を相容れ

ない怖さがある。そして、それが原因と思われる紛争が少なくない。過去には何度も歴史に残るような大きな

争いが生じている。キリスト教内での争い、キリスト教とユダヤ教のなお今も続く確執、そしてイスラム教と

キリスト教国家間の争い等々、数え上げれば切りがないほどである。

 これら一神教と言われる宗教の原型は砂漠やその周辺で暮らす民の中で生まれたと言われている。砂漠や

その周辺は、どちらかというと乾燥した不毛の大地である。羊の群を追いながら緑少ない大地をさまよう遊牧の

民であった。こんなこころもとない生活であって、みれば、何かにすがらなければ生きて行くことは出来なかった

のかも知れない。かつて上映された名作「十戒」や「ベンハー」という映画には彼らの生活や住んでいた周辺の

環境が良く描かれていた。

 これら「砂漠の宗教」と言われるユダヤ教やキリスト教やイスラム教など一神教に対し、「森の宗教」とも

言われる仏教の基になったのは多神教である。インドのヒンズー教がそうであるし、日本の神道も中国の道教

も自然の事物を神宿るものとしている。従って、神は一つだけでなく、一つのものを絶対視しない宗教である。

多くの神々が共に存在する宗教である。かつては太陽や自然そのものが偉大なる神様であった。

 祖父や祖母の世代は朝日に手を合わせることが習慣になっていた。日本の神道も仏教が入ってくるまでは

色濃く自然崇拝の考えが残っていた。そして、今も巨木や巨石が神宿るものとして注連縄が付けられ、山や

河も信仰の対象になっている。私達の周辺でも、ついこの間まで水神様や竈(かまど)の神様等、色んなところ

に色んな神様が祀られていた。インドネシアのバリ島などでは、今も、これらの神々が人々の生活と密接な

関係にある。

 多神教は多くの神々が共存する実に寛容な宗教である。そして、その底流にあるのは自然との共存である。

人も又、自然の一部であり、この自然の中で生かされているという考え方が基になっている。

 一方、一神教では自然は人のためにあると言う考え方である。従って、自然は開発されるべきものであり、

人の役に立たないものは必要ないという考え方である。この考え方の延長線上が今の世界の状態である。

自然は回復不可能にまで開発され、その結果として多くの動植物が死んでいった。あの豊かな大地と言われ

てきたアマゾンでさえも広大な密林が年を追う毎に失われている。この世の中にあるものは、すべて必要な

ものである。

 また、宗教間の対立にも根深いものがある。他を相容れないという姿勢は対立しか生まない。キリスト教圏

とイスラム教圏の人々の対立関係がなくならないという原因も、そこにあるのではないだろうか。特に一部の

妄信的で過激な人達はテロ活動など過激な行動に走っている。

 しかし、冷静に考えてみればオリンピック旗に印されているように、この地球上には五色もの肌の色が

異なる人達が住んでいる。そして、それぞれが独自の歴史や文化を持っている。こんなに多種多様な人達を

同じ考え方で束ねようというのは無理な話である。もっとお互いを理解し合わなければ共存は不可能である。

 私は八百万の神々がいるという日本に生まれた事を幸せに感じている。人はもともと自然の一部であり、

自然あればこそ自分自身が生かされている。この事を考えてみれば一神教のように絶対的な存在はあり

得ない。この事にもう一度思いをいたし、自然と共に、また、あらゆる宗教の人々と共に生きていく社会を

考えてみなければならない。

 私は典型的な多神教国家、日本に生まれた事に幸せを感じている。そして、そのことを八百万の神々に

感謝しつつ生きている。

                                                 2004年8月20日掲載

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