収集癖と言うものは、なかなか無くならないものらしい。私は今だに切手を収集している。

とは言いながら、系統だって集めているわけでもないし、諸外国のもの等を幅広く収集して

いるわけでもない。半ば投資と半ば趣味とが混沌とした、とりとめもない収集である。

 私は、私の長い間の文通の友である台湾の黄さんに切手を送っている。そのついでに、

自分の分も買っているような、そんな集め方である。従って、買ったままで袋に入っていたり、

シートのものがあったり、半端な枚数であったりと、その形も様々である。黄さんとの文通は

長い。私が独身の頃、日立製作所に就職した小林君から紹介された人である。黄さんは

日本が台湾を占領していた時代、日本の作った学校で勉強した人である。鉱山の技師である。

従って、日本語も書けるし、話すことも出来る。手紙のやりとりは日本語である。黄さんからは、

台湾の切手が送られてくる。そんな訳で、台湾の切手もたくさん持っている。これもまた、

未整理のままである。送ってくれる黄さんには大変申し訳なく思っている。

 そもそも、私の収集癖は切手ではなく、古銭の収集に始まった。小学生の頃、子供達の間に

切手収集の大ブームが広がった。つまり「月に雁」とか「見返り美人」の切手が、高値の花で

あった頃の事である。私は、みんなが切手の収集に夢中になっていた頃、切手と引き替えに、

一生懸命古銭を集めていた。お菓子のおまけに付いていたカードを集めて、古銭のカタログを

送って貰ったりしたこともある。

 古銭の収集方法は多岐にわたっていた。中でも思い出深いのは、お使いで行った八百屋の

レジの中に見つけた古銭の事である。「寛平大宝」という小さな古銭である。皇朝十二銭と言う

ものの一つであり、偽物でないとすれば、かなり貴重で高価なものである。何気なく見つけた

この古銭、店の人に恐る恐る貰えないかと聞いてみた。意外に気安くOKが出て、喜び勇んで

家に帰った事を思い出す。その後、小学校の掲示板に貼られた社会科の資料の中に、この

「皇朝十二銭」が写真で載っていた。その一つが、以前貰ったことのある古銭の一つだったのだ。

その時の喜びは今でも忘れない。誰に話すことなく、自分一人で喜んでいた。収集と言うものは

不思議なもので、一生懸命になっていると、色んなところから収集のルートが広がり、偶然に

座ったお堂の軒下からでも、鉄で出来た寛永通宝を見つけたりする事もある。

 そんな訳で、中学校に入って交友関係が広がるに連れて、益々、収集範囲が広まっていった。

しかし、高価なものは、なかなか手には入らない。「貿易銀」と言われる明治時代に使われた

特殊な銀貨や、「一円銀貨」と言われるような、大きな銀貨は友人に見せて貰っただけで、結局

手に入れる事は出来なかった。

 ある日、父の商売仲間でもある古物商の人が家に来たことがある。戦後、ものの不自由な頃、

田舎を回って買い集めたという古銭や骨董品の中に、こんなものがあったと腰に大きな真鍮製の

古銭をぶら下げていた。古銭はきれいに磨かれており、見事なものであった。恐らくは大陸の方で

使われていたものらしい。それを見たとき、喉から手が出そうになるくらい欲しかった。結局、その

おじさんは手に入れたいきさつだけを自慢げに話しただけで、触らせてもくれなかった。重量感の

ありそうな古銭の姿は今でも脳裏に焼き付いている。

 その他にも、こんな苦い思い出もある。弟の友達に切手に目がなかった子供がいた。私は

大切にしていた使用済みの「月と雁」の切手と「見返り美人」切手とで、二百円札という戦前の

珍しいお札とを交換した。それまでに目にしたこともないような珍しいものであった。喜び勇んで、

そっとしまい込んでいた。ところが、喜びもつかの間、その子の親が訪ねてきて、お札を返して

くれと言い始めたのだ。どうやら親に内緒で持ち出したものらしく、僕は、言い逃れの嘘をついて

でも、自分のものにしておきたかった。しかし、嘘はつけなかった。仕方なく、交換したお札を

すべて返した。戦前の二百円と言えば大変な大金だ。そんな、お札が交換したもの以外にも、

たくさんあったのだから驚きである。いったい、どんないきさつから、そんな大金が使われもせず、

その家に蓄えられていたのだろう。

 古銭の収集も今は開店休業状態である。収集する方法もなくなったし、意欲もなくなってしまった。

最近は細々と、近年に発行された硬貨のセットを通信販売で買っている。本屋さんや百貨店と

いったところに展示販売されているのを見ると、欲しくなって時々買っている。大量に手に入れる

ことは、大変難しい時代になった。

 家内の実家にあった丁銀や小粒といった江戸時代の銀貨や、一分金といった金貨などを譲って

貰ったのが、まとめて収集した最後だった。家内の実家には、他にもたくさんあったらしいのだが、

ほとんどは戦時中、供出という形で国に差し出したと言うことで、その内のわずかなものが残って

いたにすぎなかった。恐らくは戦時中、こんな形で多くの古銭が失われてしまったことだろう。

 私の収集として、高価なものは何もない。ありふれたものばかりである。本物かどうかは

分からないが、唯一、皇朝十二銭の「寛平大宝」が私の宝物である。ちなみに、この古銭を業者に

見せた事がある。ちょっと見ただけで偽物だと言った。何を根拠に言ったのか理由は明らかに

しなかった。それでも売らないかと持ちかけて来た。偽物だったら、何故買おうと言ったのだろうか。

明らかに、人を馬鹿にした話だ。偽物であろうが何であろうが、私には手に入れた日の思い出が

つまった大切な宝物である。


 一般的に収集癖というものは男の方に圧倒的に多いのではないだろうか。子供時代にも

切手の収集等をしていたのは、男の子の方が多かったような気がする。何故だろうか。

私の考えでは人間の本能に由来するものではないかと思っている。原始時代は食料にも

事欠く時代だった。男達は家族の元に食料をもたらすために狩り出る。得た獲物は

次の獲物を獲得するまでの貴重な食料であり、物々交換の重要な品物でもあった。そんな

事から食料を出来るだけ多く貯めておくという事は大切な事だった。そんな時代の習性が

今日まで引き継がれて来たのではないだろうか。収集癖は何故か男の本能に根ざしたものの

ような気がするのである。


 私の収集癖は光ものにも向けられた。宝石と言えば大げさになるが、きれいな石や金属の

結晶は例えようもなく美しい。黄鉄鋼の結晶をどんな経緯で手に入れたのか定かではないが、

小学校の頃から大切に持っていた。重量感のある金色に光るその石は今も手元に持っている。

 そして、光る石の収集は化石にも広がり、色んな種類の石にも向けられた。関心が向くと

不思議なもので、道ばたのさりげない石にも目が向いていく。道に敷いたバラスの中に雲母の

固まりを見つけたり、近隣の山にも脚を運んで拾い集めた。

 国分寺は神辺の御領と言うところにあった。この近隣の山は風化花崗岩だった。風化した

花崗岩は砂になり、雨に流され、その後に、たくさんの小さな水晶を残していた。それを探しに

良く通ったものだった。色んなところから情報を仕入れては、その近隣の山にも登ってみた。

結晶にはなっているものの半透明な大きな水晶だった。一時期、私は弟達と夢中で探し歩いた。

 神辺の竹田と言うところは蛍でも有名なところだが、ここには鉱山跡地があった。近所の友達と

自転車でここへ行き、硫黄臭の残る跡地から、たくさんの黄鉄鋼の原石を拾って帰った。ここの

石は大切にしていた黄鉄鋼のように、丸ごと結晶の固まりではなかった。石の間に小さな結晶粒が

混じっているような、そんな鉱石だった。それにしても、自分たちの住んでいるこんな近くにも、こんな

鉱山があること自体驚きだった。

 中学校の修学旅行は北九州だった。阿蘇山に登った時の感動は今も忘れない。巨大な火口と

そこから立ち上る硫黄臭、山肌は赤茶けたり、硫黄で黄色くなったりしていた。みんなは周辺の

景色をながめて感動していたのに、私は足下ばかりを見つめていた。珍しい火山岩が散乱して

いたからである。見るもの全てが珍しく、夢中になって拾い集め、鞄に詰めたことを今でも懐かしく

思い出す。家に帰って鞄から取り出したものは、土産ならぬ石ばかりだったので、父や母は驚くやら、

あきれるやら、家族みんなで大笑いした事だった。

 それらの石は、それまで集めていた石と一緒に、箱に入れて標本にして大切に持っていた。

しかし、就職をして家を出た際、私の思い出と共に、全てを失ってしまった。今、手元にあるのは、

先に紹介した黄鉄鋼と、わずかばかりの水晶だけである。

 それでも石の収集癖は未だおさまらず続いている。旅行先の秋吉台では道ばたの石灰岩の中に

フズリナや珊瑚等の化石を見つけては拾って帰ったり、その他の旅先でも変わった石を見つけると、

必ず一個や二個はポケットの中に入れて帰ってくる。家内には未だ変わらぬ変な癖に、いつも渋い

顔をされている。どこで拾ったか定かではない石が、家のあちらこちらに置いてあるからだ。

                                           2001年2月24日掲載

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熱中時代  その4

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