食を考える3

バナナと卵

 果物の話をしているとき会社の同僚が他の果物はあまり食べないのだがバナナだけは食べるんだと言っていた。理由を

聞いてみると、子供の頃、欲しかったけれど高くて買って貰えなかったからだと話していた。そう言えばバナナなどという熱帯

の果物を口にすることなど滅多になかったことを思い出した。その同僚と私の年齢とは10年以上の開きがあるのだが、

それでもやはりバナナは高嶺の花であったようだ。

 私の果物好きは並はずれている。季節のものが必ず側になければならないような気がしている。しかし、その果物好きも

あるいは欲求が十分に満たされなかった子供の頃への反動ではなかろうかと自分自身を分析している。子供の頃は果物に

限らず何もかにもが満たされぬ時代であった。もちろん果物などと言うようなものは一部のものを除いては贅沢品であった。

大人になって果物作りの機会を得て、子供の頃の満たされぬ思いが、一挙に果物作りに走らせたような気もしている。

 話を戻そう。そう言えば卵も高嶺の花であった。父の実家に行くと床下に鶏を飼っていた。その鶏が生む卵は非常に

貴重品であった。そして今でいうところの放し飼いによる鶏であったから大変栄養価の高いおいしい卵であった。お弁当と

言えば長く卵焼きが常番であった。弁当には卵焼きの他、ジャガイモの卵綴じ等々、様々に形を変えて入っていた。全て

卵がメインのおかずであった。

 そんな貴重品であった卵やバナナが、いつの間にか安いものの代表選手になっていた。わずか数十年の間に時代は

大きく変わったのだ。そう言えばスーパーマーケットの一角には、トロピカルフルーツと称してパパイヤやマンゴスチン等と

いった熱帯性の果物もたくさん並んでいる。そして、値段も決して手に入らないようなものではない。やはり知らない内に

日本は豊かな国になっていたのだ。

 たいていのものは時代と共に値段が上がるものだという常識が長くあった。しかし、逆に値段の下がったものの代表も

また卵とバナナではないだろうか。もちろん生活用品や電化製品にも値段の下がったものは少なくない。しかし、日常食べる

もので一番に思いつくのはやはりバナナと卵である。

チョコレート

 バレンタインデーといえばチョコレートが付き物だがいつの頃からこんな事がはやりだしたのだろう。僕らが子供の頃、

チョコレートというのは名前を聞くだけのお菓子であった。そんな小学生だったクリスマスのある日、父がチョコレートを

買ってきてくれた。当時でもお菓子屋さんやデパートの一角には明治や森永といったマークのついたチョコレートが置かれて

いた。しかし、買って食べるなどということは思いもよらぬ事であった。それを父が買ってきてくれたのだ。うれしくてうれしくて

ほんのひとかけらずつ味わいながら食べていた。幼い弟はさっさと食べてしまい僕にくれと言って催促をしてきた。僕は

やるのが惜しくて弟から逃げ回っていた。そんな懐かしい日々のことを思い出す。そのチョコレートはちょっぴり苦い大人の

味がするチョコレートだった。

 それからずっと後、饅頭屋の店先に大きなむき出しのチョコレートが菓子箱一杯に詰められていた。そのチョコレートには

製造元も書かれておらず、包装紙もなかった。もちろん森永や明治のように銀紙にも包まれていなかった。しかし、紛れも

なくチョコレートだった。僕の持っている小遣いでも買えるような値段だった。早速買って食べてみた。味はあの森永の味

ではなかったが、それはそれでやはりチョコレートだった。チョコレートに対する満たされぬ思いは、このチョコレートで十分

満たされたのだが、ある日、中から虫が出てきた。それも一匹だけではなかった。それ以来、気味が悪くなって買うのは

やめてしまった。今の時代なら大騒ぎになるところであったろうが、誰もその店に文句を言いに行くものはいなかった。

しかし、そんな事があっていつの間にか店頭から、そのチョコレートは姿を消していた。幼い頃の懐かしく苦いチョコレート

の思い出話である。

ニッケ

 今でもあるのだろうか。あのニッケの味と香りは子供時代、定期的にやって来る懐かしい味と香りであった。それという

のも常におみやげとしてもたらされたものであったからだ。私達の住んでいた神辺にニッケはなかった。会社の同僚の

話によると子供の頃、近所にあった大きなニッケの木の根を掘って食べていたと話していた。そう言えばニッケは木の

根っこのような形をしていた事をかすかに思い出した。

 何故、ニッケが定期的にやって来る味だったのか、それは親戚の兄さん達が石鎚さんから持ち帰るおみやげだった

からだ。兄さん達が石鎚神社の境内で掘ったものものなのか、あるいはおみやげとして売っていたものなのか、どこで

手に入れたものなのかは定かでない。

 当時、地元の青年団は毎年集団で石鎚さんにお参りをしていたようだ。お参りとは表向きの口実で青年達の息抜きで

あったのかも知れない。かすかな記憶では石鎚神社にお参りをし、その足で金比羅さんにお参りをして帰るのがコースで

あったようだ。従って、宿泊先では酒を飲んで大騒ぎもしたであろうし、勢いで遊郭へ繰り込んだかも知れない。それが、

年に一度の青年達ばかりの楽しみであったようだ。今日ほど旅行が手軽なものではなく、企画もののツアー等なかった

時代の話である。

 ニッケの味は様々な形を変えて身近にあった。ニッケ飴、ニッケ水、ニッケ紙等である。しかし、原料は全てニッケの木の

根っこだったのだろうか。今でこそ様々なものが化学合成されているが、その当時のニッケ味はどのようにして作っていた

のだろうか。合成等という技術ではなく全ては天然のものだったのだろうか。

 ニッケはニッケ水やニッケ紙といったお祭りの駄菓子には付き物のお菓子として今も懐かしく思い出される。友達と真っ赤

になった舌を出し合って大笑いした事もあった。ひょうたん型をした容器に入っているニッケ水も赤や黄色の原色に近い色を

していた。そんなお祭りの日の懐かしい景色がついこの前のことのように思い出される。

甘茶

 4月8日は花祭り、つまりお釈迦様の誕生日である。いかにもお釈迦様の教えにふさわしく明るく穏やかで、華やいだ

花祭りの行事である。「天上天下唯独尊」と唱えられたという独特のポーズをした小さな子供のお釈迦様がまつられていた。

繰り返し訪れる年中行事であった。この日は近くの西福寺の境内にたくさんの花で飾られた小さなお堂が置かれていた。

その中にお釈迦様は立っておられた。その小さな像に甘茶をかけるのである。そして持ってきた入れ物に甘茶のお裾分けを

貰って帰るのが私達子供のささやかな楽しみであった。

 甘茶とはいいながら、かすかに甘いだけで決してお菓子のような甘さではなかった。本来甘茶は薬草だといわれている。

従って古くから飲まれていたものではあったろうが、日常、口にするような事はなかった。いつまでこの行事が続いていた

のか定かではない。しかし、4月8日は花祭り、お釈迦様の誕生日だとは良く耳にする事なので今も続いている行事では

ないだろうか。桜の花を初め、春の花が一斉に開く頃になると、今も懐かしく思い出される甘茶の味である。

                                                           2002年3月7日掲載


花祭り(灌仏会  お釈迦様の誕生日)

甘茶

ヤマアジサイ(山紫陽花)と非常によく似ているそうですが、私は実物を見たことがありません。

(ヤマアジサイの一変種だそうです)

葉を乾かすとフィロズルチンという物質が生成されて甘くなります。甘味飲料や加工食品の甘味原料として使われる

ことも多いようです。

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