おかゆ

 今では味わうことの少なくなった味がいくつかある。それは病気の時に食べた食べ物の味である。病気の時といえば母が

作ってくれたお粥の味である。多くは冷や飯を温めなおして作ったものであったが、冷や飯や残り飯がないときには、お米

から炊いてくれた。その頃は電気釜等という便利なものはなかったからアルミニウムの鍋か土鍋で作ってくれた。少し塩味を

効かしたお粥に鰹節か梅干しが添えてあったように記憶している。病気の回復のはかばかしくなく食欲のないときにでも

不思議にお腹の中に収まっていった。

すり下ろしりんご

 熱っぽい時には何にも欲しくないものである。あんなに渇望していた甘いものにさえ食欲は湧かなかった。そんな時、

リンゴをすり下ろしたものを作ってくれた。リンゴといっても今日のように多種多様にあるわけではなく、しかも味の良い

もののなかった頃の事である。リンゴの代表といえば「国光」という名前をすぐに思い出す。固いリンゴだった。これを

大根下ろしよろしく、すり下ろしたものを食べさせてくれた。熱っぽい口に適度な冷たさと酸味が何とも言えず心地よかった

のを記憶している。

マヨネーズご飯

 一時期、ご飯時には必ず口にしていたものがあった。マヨネーズとチャーハンの元であった。マヨネーズは熱々のご飯に

かけ少しばかり醤油を垂らす。マヨネーズの味と醤油の味がミックスして何とも言えずおいしかったのを記憶している。

チャーハンの素が何を原料に作られていたのか定かではない。確かハウス食品のものであったと思う。本来はご飯を油で

炒めその中に混ぜ込むものなのであろうが、マヨネーズご飯と同じように熱々のご飯に振りかけてご飯とよく混ぜて食べて

いた。いくら食べても満腹感を感じる事のない年齢であったからだろうか。それとも今でも食べてみればおいしいものなので

あろうか。その時期以来一度も口にしていない。

黄粉(きなこ)とはったい粉

 黄粉やはったい粉はおやつに欠かせないものであった。大抵は八百屋で買っていたようだが、農家では炒った豆や麦を

石臼で挽いて作っていた。私の本家も農家であった。本家にも石臼があった。祖母が縁側でのんびりと回していたのを覚えて

いる。石臼の上の穴から炒った豆や麦を入れると下と上の石臼の隙間から粉がこぼれ落ちてくる。それを集めてはったい粉

(地方によって色んな名前があるようで麦焦がしともいうようだ)や黄粉として食べていた。はったい粉には砂糖を少し入れ

熱いお湯でよく練ると焦げ茶色の香ばしい粘りけのあるものが出来る。これをスプーンで掬って食べる。黄粉はこれ又、

砂糖とほんの少し塩を入れてご飯にまぶして食べていた。

 はったい粉にせよ、黄粉にせよ、今の子供達が喜ぶようなものであるかははなはだ疑問であるが、その頃の子供達に

とっては欠かせないおやつであった。あの当時使っていた石臼はどこにいってしまったのであろうか。農家の軒先や旧家の

庭の踏み石として利用されているのを時々見かけるのだが。私の家の庭先にも家内の祖母達が使っていたものが転がって

いる。

片栗粉

 病気の時に限った事ではなかったが、冬の寒い夜など片栗粉に砂糖を入れ熱湯で溶いたものを飲んでいた。今でも

ショウガの入ったものをショウガ湯としてして売っているから、これは今の子供達でも知っているかも知れない。冷え切った

部屋でふうふういいながら飲む味は何とも言えず満ち足りた幸福感があったことを思い出す。何はなくても体の芯まで

ぬくもりを感じ、心の中まで充足されてゆくのを子供心に幸せと感じていたような気がしている。

焼き芋

 昔の燃料といえば薪と炭が主流であった。炭は使い切ると炭俵が残った。炭俵は火をつけると勢いよく燃えた。燃え

尽きると一塊りの灰の山が出来、中はまだ熱く赤かった。この中にさつま芋を放り込んでおくと、しばらくして良い匂いが

してくる。焼き芋の匂いだ。灰の量が少ないときには山から取ってきたたきぎ用の松葉や近所から拾ってきた木ぎれも

一緒に燃やす。火の周りでわいわいがやがや遊んでいる内に芋は焼けてくる。時には急ぎすぎて芯の固いままのものも

あったが、そんな事はお構いなしに食べていた。サツマイモがないときにはジャガイモを焼いたこともある。これはこれで

サツマイモにはない風味と味で結構旨かったように記憶している。

 家の中には暖房用に火鉢があった。火鉢の炭は夜になると灰に埋けておく。父がそのほとりにサツマイモを入れてくれる。

そのサツマイモが明くる朝には焦げもせず丁度良いくらいに焼けていた。何よりも朝起きて火鉢の中の焼き芋を探すのが

楽しみであった。冬の間のささやかな楽しみの一つであった。

アイスキャンデー

 夏休み氷屋の前を通ると独特の匂いがしてくる。アイスキャンデーの匂いである。当時はアンモニアの冷凍機であった。

アイスキャンデーの匂いとは異なった匂いがしていた。これが冷凍機の冷媒の匂いだということを知ったのは、ずっと後の

ことである。アイスキャンデーは非常に固い氷菓子である。町のあちこちでは自転車の後ろに水色の四角い箱をつけ、

アイスキャンデーの旗を立てて売り歩いていた。私達兄弟は大衆浴場の帰りにキャンデー屋で買って貰うのが日課のように

なっていた。固くてとても歯では割れないようなものを口をすぼめては舐めていた。いくら固いとはいえ家に帰り着く頃には

溶けて細くなっていた。

かき氷

 かき氷は最高のご馳走であった。真っ赤なイチゴや黄色のレモン、本当のイチゴの味もレモンの味も知らず、ただ色と

味だけでイチゴやレモンを想像していた。今にして思えば、その色も味も似ても似つかぬほどのどぎつさであった。それでも

とてつもなくおいしいもののように感じていた。

 時にはどんぶりを持ってかき氷だけを買って帰り、砂糖水をかけて食べた事もあった。福山に行ったときに寄った食堂で

ミル金を食べたときには、こんなおいしいものがあるのだろうかと思ったことを思い出す。ミル金とはかき氷の中に湯がいた

小豆とたっぷりの蜜とコンデンスミルクをかけたものである。いまだにコンデンスミルクが好きなのは、このころの思い出が

あるからかも知れない。

駄菓子屋

 駄菓子屋の店先には、わずかばかりの小遣い銭を握りしめて子供達がたくさん来ていた。私達の小遣いは大抵10円で

あった。長い間、10円が価値のある時代であったような気がしている。50円等というお金を手にすることが出来るのは、

一年に数えるほどしかなかった。お祭りの時か正月の時くらいのものではなかったろうか。また10円で買えるものも限られて

いた。それ以上のものを買いたいときには二日か三日我慢する。

 その頃何を買っていたのか記憶はないが、今考えればおおよそつまらないものであったような気がするのだが。ただ、一度

ニッケ紙を買って口の中を真っ赤にして母にひどく叱られたことがあった。当時は食品衛生法なるものがあったのかどうか、

あっても正しく機能していたかどうか、はなはだ疑問であった。子供達が口にするようなもので、いかがわしいものもずいぶん

あったような気がする。ニッケ紙もそんなものの一つではなかったろうか。紙に塗ったニッケ味と舌にいつまでも残る色の

どぎつさが特徴であった。母にこっぴどく叱られて以来、色の付いたものには警戒をするようになった。友達がおいしそうに

ニッケ水を飲んでいてもいっさい口にはしなかった。子供心に体に良くないものだと分かっていたからであろう。

弟の病気

 弟が夜店で食べたのし烏賊が原因と思われる赤痢にかかった事がある。子供の頃、夏になると夜店が出て町は賑わって

いた。子供も大人も夕涼みをかねてそぞろ歩きをしていた。夏休みでもあり、わずかばかりの小遣いを手に夜店をのぞくのが

楽しみであった。

 そんな夜店にはラムネや爆弾ケーキやニッケ水といった冷たい飲み物や氷菓子の他にのし烏賊なども売っていた。烏賊を

ローラーに通し、つぶして柔らかくし味を付けたものであった。子供の大好きな食べ物の一つであった。弟は消化の悪い烏賊

と氷菓子を食べ消化不良になったのではないだろうか。夜になって急にお腹が痛くなり、その上熱が出た。一晩がまんして

寝かせ明くる日に藤田医院に連れて行くと疫痢だと診断された。本来なら法定伝染病なので隔離しなければならない病気で

ある。病院から帰って母が薬を飲ませようとしていた時、高熱のため引きつけ(高熱のための痙攣)を起こしてしまった。僕は

すっかり驚いて弟が死んでしまうのではないかと思った。外に飛び出し近所中に聞こえるような大声で叫んだ。「弟が死ぬ

る」、悲壮な声を聞きつけた近所の人がみんな駆けつけてくれた。引きつけ後、しばらくは生死をさまようような状態だったが、

注射の効果が出始めたのかやがて小康状態となった。弟はかろうじて一命を取り留めたのだ。もう少し医者に診て貰うのが

遅れていたらあるいは手遅れとなっていたかも知れない。

 その日以来、僕は感染をしてはいけないという医者のアドバイスもあって本家に預けられることになってしまった。こうして

一夏の大事件は夏休みが終わる頃になり、僕が家に帰って一件落着となった。衛生状態も悪く、親もそんな事を気にする

ような時代ではなかった。その後、学校で「あかすけの一生」という赤痢に関する啓蒙のためのスライド(幻灯)を見せて

貰った。弟の赤痢の経験があり、妙に実感を伴う内容であった事を今でも覚えている。

時代はリバイバル

 こうして私達は貧しいながらも、その時々のものを口にしながら大きくなっていった。それがいつの頃まで続いたのか定か

ではない。相変わらずお祭りに行けばニッケ水もニッケ紙も売っていたし、爆弾ケーキも売っていた。しかし、豊かになるに

つれて次第に姿を消していったものも少なくない。最近になって懐かしいもののリバイバルのようにニッケ水を見つける事が

ある。おそらくは昔のように曰くありげなものではなく、きちんと法律に従って作られたものであろう。見た目は似ていても中身

はまるで異なるものに違いない。時代は大きく変わり豊かな時代となったのである。

                                                        2002年2月17日掲載

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