あらためて多くの被災者の皆様にお見舞い申し上げます。

長田町の焼け跡   1995年2月25日撮影

5年前の2月25日、私は神戸の町に立っていた。震災があって約1ヶ月後の事だった。もっと早く被災地に行って

みたかったのだが、他人の不幸を好奇心の目でのぞくことにためらいを感じていて、なかなか決心がつかなかった。

東京やその近辺での災害であったなら、あるいはよう行かなかったかとも思う。

被災地が近かったことは私の好奇心をいやが上にもかき立てていた。家族はこぞって反対だった。理由は自分が

躊躇していた理由と同じだった。

しかし、一度は見ておきたいという思いは断ちがたく、結局1ヶ月後にはリュックサックとカメラを持って出発していた。

姫路まで新幹線で行き、そこから更に普通電車に乗り継いで三ノ宮で降りた。

新幹線だと目に触れる機会の少ない沿線沿いの家が間近に見える。明石を過ぎた頃からブルーシートの屋根が

次第に増えてきた。線路沿いの民家は古い家が多く被害をよけい大きくしているように見える。

加古川から明石を過ぎ神戸が近づくにつれて被害の程度は更に大きくなり、建設途中の明石海峡大橋が見える

あたりまで来ると倒壊した家屋を多く目にするようになってきた。倒れていない家でも、ほとんどの家は屋根瓦がずれ

落ちており、ブルーシートが痛々しい。さながら爆撃を受けた戦場の跡を見ているような感じがして、私は電車の窓に

張り付くようにして外を眺めていた。

姫路からの電車には両手に荷物を持った人、あるいは大きなリュックサックを背にしている人など、多くは被災地に

行く人やら、買い出しに行って帰る人のように見受けられた。

私は物見遊山のように思われるのが恥ずかしく身を小さくしていた。電車の中は混んではいなかったが満席に近い

状態であった。それにも関わらずみんな言葉少なく静かだった。

電車は三ノ宮駅に到着した。何処で降りても良かったのだが、とりあえずここで下車した。駅から一歩踏み出すと

寒中にも関わらずテント暮らしの人達の姿が目に付いた。まだまだ仮設住宅の行き渡っていない時期だった。

線路沿いを歩き、町の中に入っていくと大きな工場と思われる敷地の中では、すでに重機が入って倒壊したビルを

解体していた。

大きな会社の敷地内では倒壊した建物の取り壊しが進んでいた   1995年2月25日撮影

線路も各所の石垣が崩れかけている。三ノ宮から元町に入る。元町商店街はさすがに新しい店が多いせいか被災の

程度はわからないくらい軽微だ。しかし、一歩裏通りに入るとそこは惨憺たる状況で、電柱は傾いていたり、ビルも

ビルの横に建ち並ぶ民家も傷ついていない建物は全くない。本来なら多くの人で賑わうのであろう昼食時の商店街

や裏通りの飲食店街も人通りは少なく閑散としている。

      

左 比較的新しいビルが座屈している    中  家に押しつぶされた自動車    右  墓地の中  1995年2月25日撮影

元町から中華街に入ると石作りの彫像がみな倒れている。それでも店を開いているところがあり、この周辺だけは

何となく活気があるのが印象的だった。店によっては全く無傷に近いものもあり、私が昼食を食べた店もちゃんと

営業しており土産物のお菓子も売っていた。運不運というのであろうか、こんな大きな地震にあっても被害らしいものが

ほとんどないところもあって明暗を分けている。

     

左のビルは1階と2階が座屈している、左のビルは真ん中から裂けている   1995年2月25日撮影

私は三ノ宮を出てから長田町の方に向かって歩いていた。途中海岸の方が見たくなって海に向かっていた。

ここらあたりは大きな工場や会社の建物がたくさんあるところだ。神戸製鋼所の建物も多くが被害を受けていた。

印象的だったのは新築の高層ビルとその横の古いビルの被災の程度の違いだ。新しいビルの方は少なくとも見た

目には全く損傷はなく、この大地震にもびくともしていないようだ。

一方古いビルは何階かの部分が完全につぶれてしまっている。これを見てもいかに大きな地震であったか良くわかる

と同時に新しいビルにはすぐれた技術が生かされていることが立証されたようなもので新旧の明暗を分けていた。

道はいたるところが陥没し縁石がよれよれになっている。

    

道路も大きく陥没しフチ石もよれよれになっている  1995年2月25日撮影

海岸まではかなりの距離を歩いた。すれ違う老人達はまるで夢遊病者のように無表情だ。本当に気の毒だった。

民家は倒壊とまではいかないまでも元に戻すことは不可能だろう。空き家となった家の庭には家財道具や布団が

散在している。倒れた家の中から老夫婦が何かを持ち出そうと一生懸命窓から出入りをしている光景も見られた。

崩れた民家の壁からのぞいていた板は戦後のもの不足の時代に建てたものであろうか、国光というリンゴ箱の文字

が残っていた。そういった家のモルタルの下板はほとんどシロアリにやられていた。これでは地震には耐えられないはずだ。

     

細い路地には家財道具が放り出されている、壁の中の板はシロアリに食い荒らされている  1995年2月25日撮影

海岸は大きく海に向かって傾斜していた。真新しい護岸もコンクリートの壁が海に落ち込んでおり、隙間には海水が

入り込んでいた。修理をするのには相当のお金がかかるだろう。ここから向かい側に小さく埋め立てのポートアイランドが

見えていた。海岸周辺にも人影はなく閑散としていた。活気が戻るまでには多くの時間が必要な事だろう。

比較的新しい護岸も裂けて海に落ち込んでいる  1995年2月25日撮影

海岸周辺から再び町を目指した。途中公園に立ち寄った。公園にはすでに仮設住宅がびっしりと建ち並んでいた。

すでに入居者のものと思われる荷物や洗濯物が建物周辺にはあって被災者達の生活がはじまっていた。

そして今回の被災地としては最も被害の大きかった長田町に入った。まさに目を覆うばかりの状況で裏も表もなく

焼け野が原となっていた。かつては多くの人達の日々の生活の場であったであろう街並みは跡形もなく焼け落ちて

しまっていた。後には焼け残った鉄屑だけがうずたかく積み上げられていた。焼け残った鉄筋コンクリートの建物も

壁を残すのみで中は丸焼け状態だった。戦争の焼け跡を目にしたことはないが、写真などで見た広島や長崎の景色

と全く同じだった。私は声もなく呆然と焼け跡に立っていた。

    

長田町の惨状は目を覆うばかり   1995年2月25日撮影

長田町の商店街は下町らしい雰囲気ある所だったのだろうか。狭い通路とアーケード、両側は隙間のないほど軒を

接して店の家並みが続いている。焼け残ったところも裏は焼けこげており、アーケードは黒く煙でくすぶり、その火勢

の強さを物語っていた。もう夕闇がせまっていた。このまま日が落ちてしまえばここはゴーストタウンとなってしまうのだろう。

帰路の途中、高速道路や高架橋の折れ曲がった状況を目の当たりにして自然の力のものすごさを感じた。地震が

もう少し遅い時間であったなら、この高速道路でも多くの被災者が出たに違いない。不幸中の幸いであったと言える。

太い橋脚は持ち上げられ再び沈んだとき自重にたえきれなくて、途中が大きく変形して膨らんでいる。

道路は生活や復興のために最優先に補修が始まっていた。

    

私は鷹取の仮設駅に出て再び車上の人となった。急に肌寒く感じ始めていた。夢中になって歩いていたので今まで

寒さも感じなかったのだ。

天災は突然予告もなく襲ってくるものです。今回の教訓を生かすべくあらゆる面から阪神淡路大震災をもう一度

見直そうという研究が始まっています。私達も喉元過ぎればではなく、改めて震災の教訓を思い起こし、不測の事態

に備えていきたいものです。

今回は震災5年を迎えたのを期に、私の見てきたものをここに書き残しておきたいと思い書き始めました。

被災者の皆さんには、なを傷の癒えぬまま5年目を迎えられた方も少なくないと思います。どうか皆さん方の将来が

少しでも明るい将来となることを祈っています。

そして亡くなられた多くの方々に心から哀悼の意を表します。

                                                     2000年1月27日

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