歌謡曲「下津井 お滝 まだかな橋」

 「下津井、お滝、まだかな橋」という歌謡曲を中村美律子さんが歌っています。地元でさえ知ら

ない人もいるような、忘れ去られようとしている「まだかな橋」が、どんな事から唄われるように

なったのでしょうか。唄っているのは、歌のうまさでは定評のある中村美律子さんです。

 そんな事から久々に「まだかな橋」を訪ねてみました。すると、そこには中村美律子さんが

大写しになった「下津井、お滝、まだかな橋」のポスターが貼ってありました。「まだかな橋」は

倉敷市下津井にあります。とは言っても、あるのは石碑だけです。正確には石碑の立っている

ところに橋の痕跡がわずかに残っていると言った方が良いかも知れません。

 倉敷市下津井は古い港町です。福山市の鞆と同じようにその昔、瀬戸内海航路の重要な

港でした。鞆の港がそうであったように天然の良港でした。大きな土木工事など出来なかった

時代ですから、下津井港は天然の入り江を利用した最良の港だったようです。

 また、下津井沖は潮の流れが非常に急なところです。動力船のなかった時代、船は櫨(ろ)

か帆で走行していました。従って、潮の流れに逆らって進むことは非常に困難でした。船は

潮の流れが弱まった時を狙って港を出ていったのではないでしょうか。そんな事から下津井港

は古くから「潮待ち、風待ち」の港として栄えました。

北前船の着く港

 かつて、この港には多くの北前船が入ってきました。最大で八十余艘もの大船団が入って

きたと言いますから、白い大きな帆で下津井沖は埋まったのではないでしょうか。その眺めは

実に壮観だったに違いありません。今もその当時の古い写真には白い大きな帆の千石船が

写っています。

 北前船という千石船は江戸時代(十八世紀後半)から明治初頭にかけて運航していました。

北前船とは 関西や瀬戸内海と蝦夷(北海道)との間を往来していた貿易船です。当時の船主

の広大な家屋敷が、今も石川県加賀市瀬越というところに残っているようです。

 北前船の航海は西廻り航路が主で、基本的には大坂を基地にして蝦夷へ向けての一1年

一航海だったようです。「総だち」といって、北国の船乗りたちは2月頃に春祭りを済ませた

のち大坂に向かって出発し、五日から六日位で大坂に着き出帆の準備に入りました。そして、

四月初めに出帆し、瀬戸内海、日本海の寄港地で商いをしながら蝦夷地に到着したようです。

 蝦夷地では六月頃に海産物を買い込み七月から八月頃に出帆し、大坂へは冬の初めまで

に戻ると言った航海だったようです。北前船の積荷は蝦夷に行く下りが米、酒、塩、砂糖、紙、

木綿などで、大坂に行く上りは昆布、鰊などの海産物や〆粕(肥料である干したニシン)等で

した。

 北前船の積荷の利益は「千石船一航海の利益は一千両」と云って、下り荷三百両、上り荷

七百両といわれています。単純に比較することは難しいのですが、当時の労働賃金ベースで

考えますと一両が二十万円から三十五万円と言われていますから、一千両を二十万円で換算

しましても二億円になります。死と背中合わせの航海(今のような丈夫な船ではなく航海技術

の問題や天気予報などなかった時代)だったとしても非常に儲けの良い商売だったと言えます。

そんな事から船主は次々に船を増やしていったようです。

干したニシンで栄えた町

 先にも書きましたが、ここ下津井港周辺は潮の流れが速かったことから船の「潮待ち、風待ち」

の港として古くから栄えてきました。天然の良港であった下津井は北前船が入ってくる港としても

有名でした。北前船は主として北海道から干したニシン(〆粕とも干鰯(ほしか)とも言われていた)

を運んできました。化学肥料等なかった時代には人糞尿や牛馬の糞、そして干したニシンが

貴重な肥料でした。干したニシンはお金で買っていましたから金肥(かねごえ)と呼んでいました。

 干したニシンは主として綿花を栽培する際の肥料として使われていました。ここ倉敷周辺は

一級河川である高梁川が上流から運んできた夥しい土砂によって埋まり遠浅の海が広がって

いました。早くから干拓が行われ広大な田畑が造成されました。しかし、干拓当初の田畑は

塩分が濃く米作りには不向きだったようです。その点、綿花は比較的塩害に強い農作物でした。

一方、綿作には多くの肥料を必要としました。そのために干したニシンが必要だったのです。

 北前船が入るという知らせがもたらされると近郷近在から多くの商人や豪農達が干したニシン

を買い付けに来ました。また、荷下ろしのための人夫や下働きの女性達も近隣の町や村から

集められました。下津井の狭い通りは、こうした人や荷車で行き来も出来ないくらい混雑したと

言います。港町ですから井戸が少なく、そのための水売りと言った商売等もあったと言います。

大勢の人と金が動く町では色んな商売があったようです。

まだかな橋

 また、街には遊郭もありました。私が下津井を初めて訪れた頃には建物が残っていました。

北前船が港に入ると船乗り達の上陸を待ちかねているお女郎さん達が「まだかな、まだかな」

と声をかけたそうです。その「まだかな」という声が、そのまま小さな橋の名前になりました。

それを「まだかな橋」と言います。元は海岸にあったこの橋(桟橋)も海岸の拡張工事で埋め

立てられてしまいました。今は元の海岸近くの埋め立て地の下になってしまい、わずかに遺構

と思われるものが残っているだけです。

 最近、演歌歌手の中村美律子さんが「下津井、お滝、まだかな橋」という、この橋をテーマに

した歌を唄っています。

 北前船は日本海側にある色んな港に立ち寄り商売をしましたが、その際、立ち寄った港々に

伝わる歌などが本歌になって「下津井節」が出来たと言われています。馴染み客とお女郎さん

との床の中での秘め事が歌詞になっています。「とこはい、とのえ、なのえ・・・」の「とこはい」は

床を這うという意味であり、「とのえ」は馴染み客であり、「なのえ」は馴染み客の相手をしている

お女郎さんのことだったようです。

 今は下津井節大会なども開かれ、広く親しまれている下津井節ですが、その昔、子供達が

唄うと親達が「そんなはしたない歌は唄うものではない」と叱っていたと聞いています。

 一航海で一千両という大金を荒稼ぎをする船頭さん達の給金は高く、また、自分たちの手持ち

の資金での商売も目こぼしがあったと言いますから、船頭さん達の大盤振る舞いもあったのでは

ないでしょうか。港、港に女ありと言われたように、ここ下津井にも馴染みのお女郎さん達が

いて、積み荷を降ろす間の長逗留があったのではないでしょうか。

 「まだかな橋」のもう一つの説は、船に出向いたお女郎さんがなかなか船から降りてこないので、

やり手婆さん達がお女郎さんを急かして「まだかな、まだかな」と呼びかけたという説もあります。

いずれにせよ色事の絡んだ橋の名前だと言うことには間違いないようです。

下津井節 今昔

下津井節は全国大会が毎年開かれ日本一が競われています。また、近年のブームに乗って

近代的にアレンジされた「とこはい下津井節」が作られ踊りの振り付けも行われ色んなイベント

で踊られています。

「今も歌われている下津井節」

昭和4年に選ばれた歌詞と作者

○下津井港はョ這入りよて出よてョまともまきよてまぎりよてョ(古作の元唄、成立年代不明)

トコハイトノエナーエソレソレ 

○下津井港にョ碇を入れりゃョ街の行燈の灯がまねくョ(高本作を改訂)

トコハイトノエナーエソレソレ

○追いて吹こうとョ下津井入りゃョままよ浮名が辰巳風ョ(高本作)

トコハイトノエナーエソレソレ

○船が着く着くョ下津井港ョ三十五丁艪の御座船がョ(高本作)

トコハイトノエナーエソレソレ

○下津井よいとこョー度はお出でョ春は鯛綱秋は釣りョ(合作)

トコハイトノエナーエソレソレ

○下津井女郎衆はョ碇か綱かョ今日も出船をまた留めたョ(高本作を改訂)

トコハイトノエナーエソレソレ

○自石瀬戸からョお船がみえるョあれは肥後様九曜星ョ(奥田吉次郎作)

トコハイトノエナーエソレソレ

○祇園山からョ沖見渡せばョ出船入船帆掛け舟ョ(国安作)

トコハイトノエナーエソレソレ

○親父おも梶ョ下津井見えたョここは久須美の渦の中ョ(高本作)

トコハイトノエナーエソレソレ

○うちの主さんョ下津井沖でョ浪にゆられてメバル釣ョ(高本作)

トコハイトノエナーエソレソレ

○下津井名勝はョ城山桜ョ祇園祭に色の町ョ(高本作)

トコハイトノエナーエソレソレ

○金渡楼からョ女郎衆が招きやョ沖の船子の歌がやむョ(芸者の唄っていたものを改訂)

トコハイトノエナーエソレソレ

「とこはい下津井節」

1.下津井港はョー 入りよて出よてョー

  まともまきよてョー まぎりてョー

2.下津井港にョー 碇を入れりゃョー

  街の行燈のョー 灯が招くョー

3.船が着く着くョー 下津井港ョー

  三十五丁艫のョー 御座船がョー

・・・・・・・・・・・間奏・・・・・・・・・・・・・

4.追風吹こうとョー 下津井入れョー

  ままよ浮名がョー 辰巳風ョー

5.下津井港はョー 碇か綱かョー

  今朝も船出をョー また留めたョー

6.船頭面舵ョー 下津井見えたョー

  ここは久須美のョー 渦の中ョー

「下津井 お滝 まだかな橋」

作詞 喜多條 忠

作曲 弦 哲也

備前、瀬戸内、下津井港

北前船が港に入る

にしんは要らんよ

あんたが欲しい

箱の枕を鳴らせておくれ

早く その橋 渡っておいで

まだか まだかで 一年待った

まだかな橋よ

備前、瀬戸内、下津井芸者

「汐のお滝」たア あたいのことさ

髪付け油の 島田が揺れりゃ

どんなお方も骨抜き鯛さ

早く その橋 渡っておいで

まだか まだかで あんたを待った

まだかな橋よ

海は凪でも 心の海はよ

あんた恋しと 嵐が吹くさね

ひとつ どんどろ 港を定め

北前船が白い帆たたむ

三味線稽古で 手だこも出来た

酔うたあんたに聴かせる為に

早く その橋 渡っておいで

まだか まだかで 幸せ待った

まだかな橋よ

http://kashinavi.com/song_view.html?17795

 幾ら芸や体を売るのが商売だったとは言え、男と女の世界ですから色恋沙汰の一つや二つ

はあったでしょう。また、貧しさ故に遊郭に売られた女も少なくなかったはずです。思いあまって

身投げをしたという芸者やお女郎さん達が祇園神社の崖の下に幾人も流れ着いたと言います。

けっして華やかなばかりが色町ではなかったはずです。悲しい出来事や恨み妬みもあったこと

でしょう。そんな人の喜びや悲しみを見続けてきたのが「まだかな橋」でした。

 そんな出来事も遠い昔の事になってしまいました。当時、波に洗われていたという祇園神社

の崖下には新しい道路が出来、「まだかな橋」も土に埋もれてしまいました。かつての防波堤

は道路脇に残され、新しい海岸は下津井の家並みから遠く離れてしまいました。しかし旧道

沿いには、わずかながら昔の面影を留めた町並みが残っています。一度は訪ねて欲しい

そんな町です。

※お詫び

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御連絡下さい。

                                 2007年3月15日掲載

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