此岸(しがん)の彼方に

 人間は死ぬとどうなるのだろう。これは私の幼い頃からの疑問でした。今もその疑問は疑問

のままです。臨死体験者の多くが、魂の抜け殻となった自分の体を少し高い位置から見下ろして

いると言います。しかも多くの人が暗いトンネルのようなところを通り過ぎると「光り溢れ」る場所

があったとも言っています。「光り溢れる場所」とは、いったいどんなところなのでしょう。

 ある人に言わせれば「光り溢れる場所」なるものが、本来、魂の戻るべき場所であり、現世

(今生きている世界)は仮の世界だと言っています。現世で徳を積んだ人は、来世では「光り

溢れる苦楽を感じない世界」に行けるけれど、徳が積めなかった人は、再度、現世に生まれ

変わり修業のやり直しをさせられるとも言います。

 また、悪行を働いたものや運悪く現世への通行切符を手に入れる事の出来なかったものは、

地獄へ堕ちてしまうとも言われています。地獄へ堕ちると、修業はすべて最初からやり直しと

なり、運悪くすれば畜生道や餓鬼道に堕ちてしまうとも言われています。畜生道とは、どんな

世界なのでしょうか。苦痛を伴う動物界へ生まれ変わると言うことでしょうか。餓鬼道とは、更に

それ以下の苦行の世界と言うことになるのでしょうか。

 「チベット死者の書」(川崎信定訳)では、亡くなった人の供養について詳しく書かれています。

四十九日間という長きにわたる死者の供養が何故、必要かについても詳しく書かれています。

むろん畜生道や餓鬼道や地獄についても詳しく書かれています。

 昔の人はこうした世界が実際にあるものと考えていたようです。現に私達の世代でも幼い頃

は本気で信じていました。天国や地獄など科学的にあり得ないことだと言い始めてから、世の

中が乱れ始めたような気がしてなりません。

 現世と来世、そして魂なるものはあるのでしょうか。しかし、よくよく考えてみれば、現世は修業

の場であるというのは何となく頷けるような気がします。私達は子育てについて、子供を育てると

言います。しかし、その実、子供を育てることによって学ぶべき事がたくさんあります。

 つまり子育ては、子供を育てるという苦労を通じて、実際は私達自身の心の修業をしている

ような気がするのです。子供は自分の血肉を分けた、いわば自分の分身のような存在です。

しかし、なかなか自分の思うようにはいきません。生涯何度もある反抗期、その反抗期には

その度に親は子供のことが気になり心配させられます。しかし、これは自分自身の成長過程

で通り過ぎてきた道なのです。いわば我が子の反抗期は、自分自身の過去を映し出している

ようなものなのです。そうは思えないでしょうか。

 家族で一番近しい関係は自分の妻であり夫です。生まれも育ちも異なる二人の男女が一緒

に生活をする。誰しも体験したことのないことです。価値観が異なれば異なるほど意見は食い

違います。夫婦であっても決して同じ方向を見ていないと言うことを思い切り感じる時が度々

あります。つまり自分以外は、みんな赤の他人と言うことなのです。

 当然と言えば当然の事なのですが、とかく私達は親しければ親しいものほど同じ方向を向いて

いると信じたがります。実は単なる思いこみなのですが、現実はそうは思いたくないのです。

そんなわけで、ついつい相手も自分と同じ考えだと思いこみ、あるいは勘違いして、意見が合わ

ないと、何でそんな事が分からないのかと腹が立ち喧嘩になります。

 私達夫婦は、普段は仲の良い夫婦です。しかし、先日行った活弁の練習の時、何度も何度も

意見が合わなくて喧嘩になりました。二、三日は口さえきかない日がありました。私はこれくらい

なら良かろうと妥協をしてしまう多少ルーズなところがあります。一方、家内は妥協を許さない

性格です。当然の事ながら考え方が異なるのですから、どちらかが折れない限り意見の対立は

続きます。

 これさえも人生の修業の一つだと思えば何でもないことなのです。些細な事で意見対立しても

何も生まれては来ません。しかし、分かっていてもなかなかそれが出来ないのです。そこに人間

の弱さや難しさがあるように思います。

 人間には百八つの煩悩と五欲があると言われています。五欲は、生きていくためには持って

いなくてはならない欲です。財欲、色欲、食欲、名誉欲、睡眠欲等と言われるものです。過ぎた

財欲のために人を殺し傷つけ、世の中のルールを無視するものは、なかなかなくなりません。

次いで色欲は性欲でもあります。子孫を残すという、生き物なら持っていなくてはならないもの

です。食欲が無くなれば人間はやせ細って死んでしまいます。生きとし生けるもの全てが持って

いるものです。名誉欲、これはリーダーシップと置き換えることが出来ます。人間がサルの末裔

だと考えれば集団を統率するものが必要です。しかし、これに固執するのあまり、人生を棒に

振ってしまったものも少なくありません。睡眠欲、これは食欲と同じように生きていくためには

欠くことの出来ないものです。

 五欲の中で社会ルールを作り厳しく戒めているのが財欲、色欲、名誉欲です。人間の心の中

で常にブレーキをかけておかなければ、いつ暴走を始めるか分からない欲ではないでしょうか。

 私達は現世で遭遇する様々な出来事や他人との交流の中で常に修業をしています。そうした

修業は人によって様々に現れ方が異なります。何で自分ばかりが、こんなに苦労しなければ

ならないのだろうと悩むことが生涯には何度もあります。しかし、その苦労や苦しさに耐えてこそ、

次の展開が見えてくるのだと思います。ここで挫折し変な妥協をしてしまうと、次からの展開は

まるで異なったものになってしまいます。挫折したまま進めば来世もまた地獄に堕ち畜生道の

やり直しになるかも知れません。

 昔の人達は、表現こそ稚拙だったかも知れませんが、そこのところが良く分かっていたのでは

ないでしょうか。だからこそ、あんな地獄絵図を書き残し、生きているものの戒めとし、次の世代

のものに教訓として書き残したのだと思います。

 「知るを足る」という言葉があります。また、「過ぎたれば及ばざるが如し」という教訓も残されて

います。欲もほどほどにしなさいと言う温かい思いやりの言葉です。今の日本は、戦後の疲弊

の中から復興し、経済的にも生活面でも最高レベルにあります。しかし、何故か心満たされない

ものを感じています。隣人を簡単に殺傷し、人をだまし人のものをかすめ取って生きているもの

がたくさんいます。地位も名誉も手にしたものが、「知るを足らず」に更に欲を起こして賄賂を手

にしています。

 みんなの魂がふらついています。より所のない魂がこの世をたくさん彷徨って(さまよって)

います。何もかも満ち足りているはずの日本人が、魂のより所をなくしてしまったのは何故なの

でしょうか。

 自分の存在を確認したくて、生きている証(あかし)が欲しくて、自分の体を傷つける若い人達

がたくさんいると聞いています。また、同じ屋根の下で生活しながら心と心が繋がっていない親子

や家族がたくさんいます。

 いつ我が子に寝込みを襲われるか分からないと言う家族とは、一体どんな家族なのでしょうか。

私には想像がつきません。こんな家族に素晴らしい天国は開かれていません。待っているのは

地獄だけです。生き地獄から更に本当の地獄へ堕ちていく、実に救いようのない世界です。

 この地獄から抜け出すことは、さして難しい事ではありません。自分自身の生き方や考え方を

百八十度方向転換すれば良いことなのです。今の生き方と正反対の生き方に変えれば良いこと

なのです。何も難しい修業や努力は必要のないことなのです。

 仲の悪い家族は、家族みんなが心を改めて仲良くするように努力すれば良いことです。自分

だけ努力しているのに誰も協力してくれないと思ったら負けです。いつまでたっても家族関係は

変わりません。

 相手を変えようと思ったら自分は何倍もの努力が必要です。相手はたとえ家族であっても赤

の他人と一緒です。そして相手の心は自分の心と合わせ鏡のようになっています。相手の心の

中に自分の心が映っているのです。自分が欲求不満のまま相手に向かうと、相手も欲求不満

のまま向かってきます。こうした場合には対立が生まれるだけです。この世は修業の場だと言う

ことを忘れないようにしましょう。日常の行い全てが修業なのです。お坊さん達だって修業の

ために、この世へ生まれて来たのです。お坊さんにも徳の高い修業を積んだ人もおられれば、

私達凡人と変わらないレベルの方もおられます。生来、人を諭す立場にありながら欲に走る

人は、畜生道に堕ちてしまいます。

 ましてや社会的な地位にありながら、リーダーシップを取るべき立場にありながら、悪時に

手を染める人は畜生道か餓鬼道に堕ちてしまいます。従って、社会的な地位が高い人ほど、

自分に厳しく他人には徳を持って接しなくてはならないと思うのです。

 「稔(みのる)ほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉があります。社会的な地位が高くなれば

なるほど、世のため人のため尽くすのが人としての道なのです。残念ながら今の政治家の中に、

このような高潔な人がおられるでしょうか。

 ともあれ、私達は生きている間はずっと修業が続きます。修業を重ね、やがてこの世を去る

ときが来れば、彼岸の彼方にある「光り溢れる場所」にたどり着くのです。間違っても地獄や

畜生道や餓鬼道には堕ちたくないと思っています。合掌。

参照(ネット上の情報を掲載させて頂きました)

彼岸とはその名の通り「岸の向こう」。その向こう岸とは悟りの世界のことです。サンスクリットでは

パーラミター(波羅蜜多)といいます。様々な苦に悩む煩悩の世界(此岸)に対する言葉ですが、

日本の特に浄土系の信仰では一般に死後は阿弥陀如来の導きにより人は彼岸に渡ることができる、

と考えられているため、既に彼岸の世界へ行った人たちを供養するとともに、まだ辿り着けずにいる

人たちに早く向こうへ辿り着けるように祈る、というのがこの彼岸の仏事の趣旨となります。

                                       2008年1月14日掲載

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