ピースボートIN児島始末記

 実はあることがきっかけとなって、この同窓会の計画は始まった。それはピースボートの中で

開かれた「のど自慢コンクール」の常連であったY氏から届いた一通の年賀状がきっかけだった。

彼とは、第一回目のピースボート同窓会の時から一緒に参加した間柄でもあった。

 その年賀状には、ここ児島でピースボート同窓会を開いて欲しいと書いてあった。確か、前回

の同窓会の案内を貰ったとき時、幹事であるS氏に今回は参加できないが次回は私の地元で

ある児島で開催しませんかと提案をしておいた。そんな事もあったので、あるいはY氏もS氏から

そのことを聞いていたのかも知れない。

 勝手にこちらで計画を進めるわけにはいかないので一応S氏に打診をしてみると、もしそちら

が構わないのであれば計画してくれないかという返事が来た。了解の手紙には今までの参加者

名簿と通信費として現金五千円が同封してあった。

 Y氏は体が少し不自由であった。高い段差の上り下りには介添えが必要だった。一人でここ

まで来ることが出来るのだろうか。彼の希望とは言いながら、そのことの方が心配だった。船の

の中では周辺に大勢の人がいて、みんなが介添え役を買って出た。私も何度か彼に肩を貸した

こともあった。しかし、今回の移動は彼一人だろう。果たして、ここ児島まで来ることが出来る

のだろうか。

 ともかく、彼からの提案だし何とかして来るつもりだろうと思い、早速、案内状を作り名簿に

あった全員の人宛に出してみた。当初の計画ではマジッククラブが中心で、それに何人かの

人が加わるような形になるのではないかと思っていたが、意外にもマジッククラブの大半の人

からは何かと予定があって参加できないとの返事であった。

 開催予定日は三月下旬にしていた。一、二月の気温が異常に高かったので、この調子だと

開催日頃には満開の桜が見られるのではないかと思っていたが、三月に入って急に寒くなり、

結局、開催日当日は開花どころか蕾はまだ固いままであった。

 私が開催地をここ児島にこだわるのには理由があった。それは、雄大な瀬戸内海の景色を

みんなに一目見て貰いたいという思いがあるからだ。第一回目は「しゃべり場」のメンバーに、

第二回目は「Pボート文クラブ」の人達に、そして今回は「ピースボートIN児島」と、いずれも

大勢の人に瀬戸内海の雄大な景色と倉敷美観地区の観光を楽しんで貰った。そして瀬戸内海

ならではの魚料理を食べて貰った。

 また、こうした団体客以外にも我が家に遊びに来てくれた大勢の人達を、その度毎に鷲羽山

や王子ヶ岳や倉敷美観地区へと案内してきた。私達夫婦は大いに地元観光に貢献していると

自負している。

 一時は30名を越えるかに思われた今回の企画だったが、何しろ案内状を出したのが開催日

より一ヶ月以上も前のことだったので、ご本人や家族等に健康上の問題などが生じて、結局

27名に減ってしまった。それでもすごい数の参加者だった。

 こうした参加者の多くは、人と人の繋がりの中から広まって思わぬ人達が全国から集まること

になった。その中には遠く秋田からの参加者もいた。みんな久方ぶりの顔合わせであった。船

の中で知り合ったのがきっかけで個人的な繋がりがたくさん出来ているようであった。

  しかし、三十名近くの人が一同に会するなどめったにないことである。当日、私は何となく

風邪気味で体調が良くなかった。午前中近くの医院に行った。微熱があって何となく体がだる

かった。こんな事ならもっと早く薬でも飲んでおけば良かったと後悔したが後の祭りだった。

何とかみんなを迎え、送り返すまでは調子が悪いなどと言ってはおられなかった。

  夜の宴会では風邪薬と微熱の関係で、いささか頭が「ぼーっ」としていた。それでも準備して

きた47回の「出港歌」を宴会場で流し、みんなを迎えた。宴は延々と続き会場を明け渡す時間

(午後10時)まで続いた。私としてはもう体力の限界だった。後片付けを済ませ早々に部屋へ

戻った。

  布団に潜り込んで寝付けないままに横になっているとマジッククラブのメンバーが部屋にどっと

戻ってきた。みんな久々の再会の喜びと酒の酔いで賑やかだった。彼らの話し声を聞きながら、

しばらく横になっていた。酒の酔いが少し醒めた頃、やっと少し気分が良くなって話に加わること

が出来た。

  そもそも私達は不思議な縁で結ばれているような気がしてならない。もともと何の繋がりも

なかった900名余りの人達が同じ船に乗って三ヶ月もの旅をしたのである。この間、様々な

人達と食堂や居酒屋の波へいやヘミングウエイバーと言ったところで共に食卓を囲み、酒を

酌み交わした。

  こうした場所では、旅先だという気安さもあって人と人の壁はあまりなかった。食堂では自己

紹介から始まり、何故船に乗るようになったのか、果ては自分の身の上話にまで及び急速に

親しくなった人も少なくない。ましてやオプショナルツアーで共に行動した場合など旧知の間柄

のようになった人も多い。

 私達夫婦は船の都合で神戸港に集結し、そこから東京晴海埠頭まで移動しなければなら

なかった。その移動のバスの中で「かっちゃん、むっちゃん」と自己紹介したことがきっかけで、

船の中では帰ってくるまで「かっちゃん、むっちゃん」と呼ばれていた。同世代の人達だけでなく、

若い人にまで「かっちゃん、むっちゃん」と呼ばれ親しまれていた。

  こうした100余日に及ぶ地球一周の旅の中で親しくなった人が幾人か居た。その一人が

Yさんで彼女との出会いが私の定年後を大きく決定づけることになったのである。彼女は長野

の人であった。長く保健婦さんや生活改善指導員と言った仕事をしてきた人であった。定年に

なり東京で鍼灸師の資格を取って地元で開業している人だった。船に乗った目的は見聞を広め

地元の老人対策に生かしたいと話していた。自らも高齢者でありながら、なおも向学心を失わ

ないその心の若さに驚いた。

  船を降りてから貰った手紙には、「健康生きがいづくりアドバイザー」の資格を取ったので

貴方も受講してみたらと言うことであった。手紙には岡山県で開かれる講座案内まで同封して

あった。

 実はこの講座の中で知り合った多くの仲間の中に地元児島の人が四人もいた。この四人との

出会いが地元での文化活動や新たに始めた活弁シネマライブを大きく発展させる原動力に

なったのである。

 また、活弁士の佐々木亜希子さんとプロダクション代表のYさんとの出会いも不思議な縁に

結ばれていた。その話は別途記載しているので読んで貰いたい。

  振り返ってみれば何から何まであらかじめ準備されていた定年後であるような気がしてなら

ない。だからこそ、今も色んな企画を通じて多くの仲間との交流が続いているのである。その

一人が沖縄のSさんとの交流である。倉敷の「てぃーら」と言う店の七周年記念に友情出演した

スージーという歌手との出会いもYさんを通じてのことであるし、昨年の沖縄訪問の際出会った

Yさんの多くの友人達との交流もこうした人と人の繋がりの中から広がっていったものである。

                                    2007年4月22日掲載

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