大川と呼んでいた高屋川

高屋川

 僕らは子供の頃、家の近くを流れている高屋川の事を大川と呼んでいた。調べたことがない

ので良くは分からないが、水源は井原市の奥の方ではないかと思う。井原市には高屋という

ところがあって、高屋川と言う川の名前は、この地名から来ているのではないかと思っている。

 この川は、流れ下って芦田川に注ぐ。芦田川という一級河川の支流である。従って、川幅も

狭く非常に短い川である。しかし、子供の頃には大きな川のように感じていた。狭い小さな道

でも子供の頃には大きな道のように見えていたのと同じことである。大人になって色んな河川

を見てきた今では本当に小さな川にしか見えない。

暴れ川

 この川は大変な暴れ川であった。毎年のように梅雨末期や台風の頃になると氾濫しそうな

ぐらい増水し、土手の上端近くまで水位が上がっていた。ちなみに僕らは堤防のことを川の

土手と呼んでいた。僕らが住んでいたところから更に下流では堤防が決壊したという話を何度

も聞いたことがある。恐らく川幅が狭いことと短い川なので上流に降った雨は、すぐに下流に

流れ下って来ていたものと思われる。

 その上、この川は天井川であった。天井川というのは川底が平地と同じ高さか、それ以上の

高さの場合を言う。従って、あまり高くもない堤防だったが、この堤防がなければ僕らが住んで

いた街は常に洪水の危機にさらされていたわけで、いわば、この堤防が僕らの街にとっては

生命線のようなものであった。

 僕のおばさんから聞いた話では、その昔、この川が何度も氾濫するので近くの八幡様の山を

削って土手(堤防)を高くしたとの事だった。その際、切り崩した山からは夥しい人骨が出たとの

事であった。聞けば昔、八幡様の下には関所があったらしく、そこで捕らえられた罪人は打ち首

となったらしい。人骨はそれら罪人のものだったのではないかと言うことであった。たとえ罪人

でなくても調査が必要な人骨であったろうし、あるいはこの地域に住んでいた人達の共同墓地

であったかも知れない。その頃の事なので今のような詳細な調査が行われたのかどうか定か

ではない。こうして人骨混じりの土を「もっこ」や荷車で運び築いた土手が、今も人々の生活を

しっかり守っている。

掛の橋

 この川には上流に一本と下流に一本「かけの橋」というコンクリート製の橋があった。そして

僕らの遊び場だったところに更に一本と合計三本の橋が架かっていた。もっと上流や下流には

何本かの橋があったが、この三本の橋が僕ら子供の行動範囲であった。

 「掛の橋」以外は木製の橋であった。従って、何年かに一度は架け替え工事が行われていた。

荷馬車がやっと通れるくらいの狭い橋であった。幼い頃の記憶では、この橋の架け替え工事が

行われたのはたったの一回だけだった。

 橋を渡ると向こう岸から先は全て田んぼだった。そして、その向こうには山があった。その山

周辺を湯野と呼んでいた。湯野という地名は、その昔お湯でも沸き出ていたのだろうか。その

山を茶臼山と言い山城か砦があったようだ。神辺城との戦の際に双方が射た矢が掛の橋近く

でぶつかり×の字となって落ちたとのことであった。矢と矢が掛の字になっていたことから、この

橋を「掛の橋」と呼んだとの事であった。なるほど、もっともらしい話である。ちなみに茶臼山と

いう山の名も日本全国に数多く存在する山の名前である。

 僕らがこの川を渡るとき使っていた橋は「だいせんぼうの橋」と呼んでいた。「だいせんぼう」

なのか「だいせんぼ」なのか定かではない。また、どんな漢字を書くのかも知らない。子供達は

夏になると、この橋の上から川に飛び込んで遊んでいた。その頃は水もきれいだった。しかし、

真夏になると次第に水量が少なくなった。そんな時に頭から飛び込んで大けがをしたものがいた。

川底に割れたガラスビンがあったとのことだった。それからはみんな慎重になった。

生活の場であり遊び場であった高屋川

 この川にはもう一つ恐ろしいものが住んでいた。それは「片山病」という日本住血吸虫だった。

この寄生虫については別のページに詳しく書いているので読んで欲しい。今でこそ濁って汚れ

きった川になっているけれど、当時は非常にきれいな川だった。魚もたくさん泳いでいた。下流

の芦田川近くでは鮎が遡上していた事もある。

 春になると岸辺近くの流れが穏やかなところにはメダカが群れていたし、水草の下の方には

たくさんのエビがいた。また、夏になると水かさが少なくなるので、ハエなどは水たまりに取り

残され手づかみが出来るほどであった。また、土手に空いた穴の中には大きなウナギが棲んで

いた。夏になると獲り尽くしてしまうほど魚を掴まえていたが、翌年になると同じようにたくさんの

魚が戻っていた。汚れのないめぐみ豊かな川であった。

 また、この川は生活に欠くことの出来ない川でもあった。洗濯機などない時代だったので

お母さん達はみんなこの川へ洗濯に来ていた。一度、家で洗濯した物を濯ぎに来ていたのだ。

僕の母も来ていた。

怪我の思いで

 その頃、僕は松の皮を削って作った小さな舟を川に浮かべたくてたまらなかった。その日も

母が川に洗濯に行くというので、大急ぎで階段の途中に置いてあった舟を取りに行った。その

時、運悪く足を踏み外してしまったらしい。階段から真っ逆様に落ちて、階段の角で頭を切って

しまった。大量に血が流れるような大けがだった。その後、医者の処置が悪く化膿して一命を

落としかねないような長期の療養を必要とする事になってしまった。そんな苦い想い出のある

川でもあった。

 この川は近隣に広がる田んぼの水源でもあった。あまり長くはないこの川は夏になるとすぐに

水が枯れてしまった。そうなると、今度は川の中に掘った井戸からポンプで汲み上げていた。

動力源は発動機やモーターだった。農家のおじさん達が徹夜で水の番をしていた。その井戸

の中にはたくさんの魚が棲み着いていた。泳ぎの達者な青年が井戸の中に入り大きな魚を手

に掴んで上がってきた。

 汲んでも尽きることのない井戸は、この川が天井川であり地下深くには目には見えない川が

脈々と流れていたに違いない。冷たくてきれいな水だった。後に、この川の水はもっと大量に

汲み上げられて神辺町の上水道の水源となった。

美しい景色

 堤防の上から見る夕焼けは美しかった。かの詩人であった「葛原しげる」先生は、この夕焼け

を童謡にしている。「ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む ぎんぎぎらぎら日が沈む・・・」と続くこの歌詞

は今も歌い継がれている。

 小学生くらいの兄と妹が馬の背にのり夕日を背にして立っているという、まるで映画の一シーン

を思わせるような情景が今も脳裏に焼き付いているのも、この大川の堤防の上でのことだった。

その兄は放牧をしていた馬を連れに来て、自らが先に馬に乗り、妹に手を差し伸べて馬の背に

乗せて、しばらくは夕日の中に立っていた。やがて馬の首を返して堤防の下へと消えていった。

実に幻想的なシーンであった。

 夕方になって土手に寝転んでいると一番星、二番星と次々に星がちらつき始め、その内、

真っ暗になると大きな天の川がくっきりと見えた。周辺に視界を遮るようなものはなく、天の川

を消してしまうような光りもなかった。その空を幾つもの流れ星が流れていき、貧しくとも平和な

日々であった。

 遠くの山腹にも明かりがちらちら見えていたので、今では不便で住めないような高いところにも

人が住んでいたに違いない。更に、その山の頂上付近では盛んに稲光が見えた。雷は光りだけ

で音は全く聞こえないような遙か遠くの山並みであった。

 この川にはカワニナという貝がたくさんいた。この貝はホタルの幼虫の餌であった。餌になる

貝がたくさんいるという事はホタルもたくさんいるという事でもあった。ホタルが出始める季節に

なると川の周辺が明るくなるほどたくさん群れ飛んでた。

 僕らは夕食後、蛍狩りに出かけた。蛍狩りとは言っても家で飼うわけではなく、蚊帳の中で

飛ばして遊ぶくらいの事だった。この季節、麦刈りが終わった後だったので、麦藁でホタル籠を

編んでいた。簡単な籠だったので作るのは容易であった。実のところホタル籠は市販のものを

使っていたわけで、麦藁で編んだ籠の中に入れていたわけではなかった。

 川の土手は生活の場でもあった。終戦直後の物の不自由な頃には河床に畑を作っていた。

我が家も父がわずかばかりの畑を作っていた。また、近所の傘屋さんの傘を乾燥させる場所

でもあった。また、農閑期のウシやウマの放牧場でもあった。さかりの付いた雌ウシが雌ウシの

上に乗る場面や雌ウシがお産をする場面に出くわすことも良くあった。雌ウシが雌ウシに乗る

場面など、性に目覚めていない子供にとっても刺激的な場面であったし、逆にお産の場面などは

厳粛な気持ちで見ていた。

高屋川、春夏秋冬

 この川は学校の校歌にも歌われていた。今でこそ小さな薄汚れた川に変わり果ててはいるが、

春夏秋冬それぞれに姿を変え、幼い僕らの心にしっかりと根を下ろした豊かなる川であった。

 余談になるが僕の先祖は高屋川が氾濫したとき、上流から流れてきた神様の像を拾って

お祀りし、この神様は今でもその集落の氏神様として祀られている。

 この地域一帯は神辺の中心地より低い土地で、大雨の時にはわざとこの地域へ水を誘導し、

神辺の町並みを洪水から守るようにしていたようだ。今も平野と七日市との境には大きな堰が

ある。天下の公道であった旧山陽道を遮断するような堰である。先に書いたように八幡様の

下にあったという関所のあった付近である。上流の平野地区の住民にとってみれば迷惑な話

ではあったが、封建時代というのは、このようなものであったらしい。

 ともあれ、大川と呼んでいた高屋川は僕ら子供達の四季を通じての遊び場であった。校歌にも

歌われ、農業には欠くことの出来ない川であり生活のより所であった。思い起こせば今でも当時

の川の様子がありありと蘇ってくる。いわば僕らの心のふる里とも言うべき川であった。

      「死の貝」片山病記

                                 2007年3月10日掲載

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