思い出のアルバム

高等学校編

 ここに一冊のアルバムがあります。このアルバムは高校の卒業アルバムです。このアルバムが出来て

40数年が過ぎてしまいました。今、あらためて中を見てみますと修学旅行の写真が2ページ分掲載されて

います。小さな写真ばかりなので一人一人の顔はほとんど確認出来ません。鎌倉大仏や江ノ島を背景に

撮影した集合写真や皇居の二重橋を背景に写した写真等があります。日光東照宮の写真や奥日光の

写真もあります。しかし、ほとんど記憶に残っていない写真ばかりです。記憶が薄れたのか、初めから

印象が薄かったのか、あるいは後に見た景色や旅行とだぶっているのか分かりません。いずれかの

理由だろうと思います。

 ただ断片的に思い出すのは夜汽車に揺られて行った事、銀座で自由行動になった時、数人が池袋まで

行って戻ってこられなくなって大騒ぎした事、東京の旅館のウジ虫騒動等です。景色で印象に残っている

のは、十国峠から眺めた夕日の中で見た小さな富士の姿、奥日光の白樺林が幻想的であった事、有楽町

の夜の景色などです。

 確か富士宮駅から、観光バスに乗り換えたような記憶が残っています。当時の福山工業高校は色染科、

紡織科、機械科、工業化学科、建築科、そして私たちの電気科と6科ありました。機械科だけは2クラス

でしたから観光バスは7台でした。バスには、私たちと同世代に近いガイドさん達が乗っていました。

そんな事もあって、どのバスも早くからガイドさん達と仲良くなりました。開放感に満たされ和気藹々と

したバス旅行でした。奥日光に宿泊した頃は、「機械科の誰それ君はバスガイドと仲良くなって風呂にも

一緒に入ったとか」男子校でありがちなうわさ話が、たちまちの内に全車両に伝わって来ました。みんな

多感な青年時代だったのです。

 私も女性に感心がなかった訳ではありませんが、それ以上に、見聞きするものの方が面白く、車窓に

展開する景色に目を奪われていました。奥日光では、映画や雑誌の中でしか見た事のない山小屋風の

ホテル白樺荘に宿泊しました。旅行など縁のない生活でしたから、そんなホテルに一泊するだけでも

感動でした。ホテルの周辺は一面の白樺林でした。夕闇に消えていく景色が、まるで映画の一シーンを

見ているような感じでした。白樺の皮を思い出にと持って帰った事を思い出します。

 修学旅行で東京に行った頃は、フランク永井の「有楽町で会いましょう」という曲が大ヒットした後でした。

自分のイメージと重ね合わせて、本物の有楽町は、この町なのだと急に大人になったような感じでした。

 銀座では、小さなカメラ店に入りました。狭い店内には、色んなカメラがたくさん並んでいました。そして、

外人さん用に作られたパンフレットが置かれていました。英語も読めないのに物珍しさから貰って帰り

ました。パンフレットの中には、東京の名所や旧跡の写真があったからです。

 そして、私たちが高校生の頃は、舟木一夫の「高校三年生」「学園広場」などという曲が大ヒットしていま

した。その歌詞が私たちの修学旅行と重なって、何とも言えずロマンチックな気分だった事を思い出します。

 あこがれていた東京でしたし、その後、多くの友人達が東京や大阪と言った都会に憧れて出て行った

のですが、私にはまったくその気が起こりませんでした。東京は遠い存在だったのかも知れません。

それからずっと後になって、一人で東京に行く機会がありました。この時の方が、遙かに印象に残る旅行

になりました。

中学校編

 中学時代の修学旅行は北九州方面の旅行でした。博多太宰府、熊本、阿蘇と言ったところを回った

ように記憶しています。まさかその後、熊本に就職しようとは思いもよらない事でした。阿蘇での思い出

は鮮明です。と言うのも、阿蘇は比較的お天気が変わりやすく、なかなか良い天気に恵まれないところ

です。ずっと後になって、子供達を連れて行った時も激しい雨で火口付近には行けませんでした。

 しかし、修学旅行の時には、これ以上の上天気はないと言うくらい晴れていました。草千里の緑が非常

に印象的でした。米塚が広い草原の中に盛り上がっていて、箱庭のようにも見え、何か別世界にでも迷い

込んだような印象でした。

 そして、火口付近まで歩いて登りました。赤茶けた石がいっぱい転がっており、中には硫黄の付いた

ものもたくさんありました。私にとって全てが珍しいものばかりでした。私は子供の頃から鉱石や変わった

石を集めるのが趣味でした。家には箱を仕切って作った大きな収集箱がありました、この中には家の

近くで集めたものだけで、火山のものはありませんでした。ここで拾って帰れば収集品はより充実する

のです。私は旅行鞄に詰め込めるだけ色んな石を拾って詰め込みました。家に帰って中身を出した

とき家族は驚きました。土産とは大半が阿蘇山で集めた石だったのです。

 そんなわけで阿蘇山の登山道で石を拾った記憶はあるのですが、その他の観光地の記憶はあまりない

のです。それほど石拾いに夢中になっていたのではないかと思います。

小学校編

 復興著しいとは言いながらも、いまだ市内の至るところには、戦争による傷跡が数多く残っていました。

この橋は被爆にも耐えて崩れる事はなかったとか、銀行が開くのを待っていた人の影が石段に残って

いる等、被爆の惨事をとどめるものが各所に残っていました。昭和31年の事でした。

 その中でも特に印象に残ったのはやはり原爆ドームでした。崩れ落ちたコンクリートやレンガが散乱し、

ドームの形をした鉄骨が赤さびて無惨な姿をさらしていました。周辺も整備されていたとは言え、今日の

ように落ち着いた雰囲気はなく、何となく殺伐とした景色であった事が印象に残っています。

 原爆資料館には衣類を始め、数多くの遺品が残っていました。そして、被爆者の写真は目を覆いたく

なるようなものばかりでした。中でも印象に残っているのは瓦の溶けたものでした。一度火で焼き固めた

ものが、それ以上の温度によりぶつぶつと煮立ったような斑点が出来ていました。また、女性と思われる

人の背中には着ていた絣の着物の形が鮮やかに残っていました。

 原爆の火力は驚くばかりです。一瞬にして全てのものを焼き尽くすほどのものが、この上空で炸裂した

のです。それは、私達が見学しているほんの十数年前の出来事だったのです。

 原爆ドームのすぐ側を流れる川のほとりには、水上にせり出すように粗末な小屋が建ち並んでいました。

恐らくは焼け出された人達の仮の住まいだったものが、そのまま残っていたのではないでしょうか。高度

経済成長時代はもっと先の事で、貧しさが町の至るところに残っている時代でした。

 その他、比治山にも行きましたが、あまり印象に残っていません。原爆資料館でのショックがあまりにも

大きかったからかも知れません。

 市内を後にした私達は宮島に向かいました。宮島口から船に乗って島へ渡りました。沖合から眺める

大きな鳥居の朱色が特に印象に残りました。厳島神社を見学したのは満潮時だったと思いますが、回廊

の下にまで海水が来ており、足下を魚が泳いでいたことを思い出します。

 数年前、実に五十年近く過ぎて、この地を訪れました。同行したのは中学校時代の同窓生でした。小学校

は異なっていましたが、修学旅行のコースは同じだったようです。当時の様子は断片的にしか覚えて

いませんでしたが、懐かしく島内を歩きました。修学旅行の時、泊まった旅館も残っていました。鹿が至る

ところにいるのも当時のままの姿でした。

 今覚えている事の一つは、おみやげを買った時の事です。わずかばかりの小遣いで何を買おうかと

商店街を行き来した事を懐かしく思い出します。その時買ったのは宮島名物のしゃもじ、お盆と言ったもの

でした。特にお盆は朱塗りのもので、その場で彫刻をしながら売っていました。あまりにも鮮やかな手つきで、

しばらくじっと眺めていた事を思い出します。その時に買った小さなお盆は、随分長く我が家にあったような

記憶があります。

 また、しおりを買いました。絵はがきが買えるほどのお金を持っていなかったからです。小さなしおりには

宮島の景色が印刷されていました。最近のきれいなカラー写真には、とうてい及ぶべくもないような粗末な

ものでした。戦後間もない頃の事です。

                                               2004年4月22日掲載

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