夫婦活弁

 人の縁というものは実に不思議なものである。今までにも何度か繰り返し書いてはいるが、

会社を定年退職した後、自然の成り行きのような形でピースボートに乗ったことが、その後の

大きな変化の始まりであった。

 NGO「ピースボート」は、多くの乗客を乗せて一年間に三回の割合で地球一周の旅をして

いる。その船旅は単なる旅行ではなく、行く先々の国で様々な交流を目的としている。その

交流は反戦目的であったり、人種差別や環境問題へのアプローチ等と様々である。 その

ために目的地に着くまでの間、訪問先や日本国内から講師を招いて学習会を開いている。

 それが大きな魅力となり、乗客八百人近くの半数くらいは二十代から三十代の若者であり、

その内の何%かはボランティアを志す若者や既に日本国内でそうした活動を続けてきた若者

達なのである。

 船の中は、そうした若者達の熱気で溢れている。従って、毎日がお祭りのような賑わいである。

私達夫婦も若い頃に反戦青年委員会や社青同などの活動をしてきたので、船に乗った時から、

この雰囲気にどっぷりと浸かり若者達と同じように行動を開始してしまった。

 以来、船を降りるまでの百余日間を若者達と伴に過ごした。また、乗客の半分近くは私達と

同世代や同年輩の人達であり、こうした人達との交流も多かった。こうした年齢を問わぬ数多く

の交流から数多くの友人や知人が出来た。

 そうした仲間の一人が、短期間の交流ではあったが水先案内人として乗船してきた女性

活弁士「佐々木亜希子」さんであった。水先案内人とは、一般的に言うところの講師のような

存在である。

 後で聞いた話では、NHK山形放送局のアナウンサーをしていたが、女性活弁士「澤登緑」

(さわとみどり)さん演ずるところの活弁なるものを鑑賞して大いに感ずるところがあったようで

ある。私の目指すべきものは、これだと思ったようである。

 その後、澤登さんが主催する活弁士の養成講座に入り、ここを卒業後、本格的な活動を

始めたとのことであった。その志を支えたのがプロダクションを立ち上げたばかりのY氏だった。

東京を中心とした活動を続けていたが、なかなか全国展開の機会がなかった頃、倉敷市児島

で活弁シネマライブを開きたいという私からの要請を受け、地方での公演が果たして可能なの

だろうかと半信半疑ながら来てくれたようだ。それが、児島活弁シネマライブの始まりだった。

今から四年前のことである。

 児島での経験と成功が地方へ出ていく自信に繋がったと、Y氏が翌年のシネマライブのときに

話していた。こうした縁のある話は他にもあるのだが、それは別の機会に譲ることにしたい。

 そして、今は岡山映画祭の人達との交流が始まりつつある。岡山映画祭は、数々の行事や

自主映画を制作してきた伝統ある団体である。特に、岡山に住んでいた松田完一さんという

往年の活弁士をドキュメンタリータッチで追った映画はユニークである。

 松田完一さんは自ら活弁を演じた事もあり、活動写真の幕開けの頃からの膨大な資料の

収集家としても有名な方であった。岡山文庫という単行本の一つに「岡山の映画」という本を

執筆されている。とにかく幼少より映画大好き人間であったようだ。

 そして、岡山が生んだもう一人の映画人に、日本映画の草分け時代に欠かすことの出来ない

大俳優「尾上松之助」がいる。「目玉のまっちゃん」として多くの人に愛され、牧野省三監督の

下で数多くの作品を残している。

 その作品の一つを私達夫婦が活弁士として、昨年の岡山映画祭で演ずることになったので

ある。岡山映画祭2007はその前の年、不慮の事故で亡くなられた松田完一さんの追悼と、

松田さんが常々話しておられた大俳優「尾上松之助」主演の映画を上映する事を決めていた。

映画フィルムを貸し出す条件として活弁を付けて欲しいというのが、マツダ映画社の条件で

あった。そこで、わずかながら経験があると言うことで白羽の矢が立ったのが家内であった。

 その作品は「豪傑児雷也」という、当時としては実に斬新なトリックを取り入れた忍術映画で

ある。短編ながらなかなか面白い。家内がこの話を引き受けてきたとき、やってみたいという

思いと経験のないことをやらなければならないという気の重さが交錯して、なかなか決断が

付かなかった。

 結局は、師匠である佐々木さんの「やってみたら」という言葉に背中を押されるようにして

了解してしまった。当初は、ピースボートのワークショップで経験したことのある家内一人で

演ずることを考えてみた。しかし、主役が男であり男の声を女が語るのはなかなか難しいと

心細い事を言うので、では二人でやろうと言うことになった。

 問題は、どのように語りを入れるかであった。練習用のビデオテープに吹き込まれていた

澤登緑さんのように語ることも一つの方法ではあったが、声色を様々に使い分けて登場人物

みんなを演ずるという佐々木亜希子風でいくことに決めた。

 そうなれば、それに応じた台本が必要であった。何度も何度も繰り返し映画を観てイメージを

膨らませながら書いてみたが、まったくシーンに合わなくて書き直しとなってしまった。そう簡単

にはいかなかった。映画を繰り返し観てシーン毎に台詞を作っていかなければならないと言う

気の遠くなるような作業をしなければならなかった。そして、出来上がった脚本を師匠である

佐々木亜希子さんに見て貰い、やっとOKとなった。

 その後、書き上げた台本を元に練習が始まった。画面を追いながら台本を作るときと同じ

ようにワンシーン毎に繰り返し練習を行った。台本の制作と練習は連日の猛暑の中、一夏中

続いた。

 既に台本を作るときから夫婦喧嘩は始まっていた。あそこがどうの、ここがどうのと、言い争う

ことは日常茶飯事であった。喧嘩の挙げ句に、お互いに口を利かないような日も何度もあった。

喧嘩別れにならなかったのは、ただただ岡山映画祭との約束を果たさなければならないと言う

強い思いがあったからだ。全編を通して語れるようになったのは九月も下旬の事であった。

 そして、十月に入り岡山映画祭の事務局長であるOさんを我が家に招いて聞いて貰った。

素晴らしいという感想を頂き、ホッと胸をなで下ろした。これから先は、音楽が入っての練習で

あった。どんな曲を選んでくれるのか大変楽しみであった。(実はその後、松田さんと懇意だった

柳下(やなした)美恵さんという女性ピアニストの生演奏が付くことになった。無声映画の世界

では知らぬ人はいないというプロ中のプロ演奏者であった。嬉しい反面、緊張する事にもなった)

 実は、この話には大きなおまけが付いていた。佐々木亜希子さんが児島活弁シネマライブに

ついてNHK岡山放送局に電話した時の事であった。この電話の中で、児島で活弁をしようと

している夫婦がいると言ったことに興味を持ったのがNディレクターであった。

 若い彼が何故、活弁のことに興味を持ったのか良くは分からない。とにかく、以前から映画

には興味を持っていたようで、早速、私達に取材を申し入れてきた。誠に唐突な取材申し入れ

ではあったが、彼の電話はかねてからの知り合いのような気さくな物言いであった。私は彼の

飾らない申し入れが気に入って、一も二もなく取材を了解した。むろん、家内にも異存があろう

はずはなかった。

 こうして、私達の日常生活や練習風景、活弁にかける思い、今回の出演についての感想等と、

様々な質問を受けながら収録が行われていった。この間、第三回児島活弁シネマライブが開催

され、翌日、佐々木さんとマネジャーのY氏が私達の活弁を聞いて、あれこれとアドバイスをして

くれた。この時の様子は後日放映されたので見られた方も多いと思う。また、佐々木さんは

私達が出演する岡山映画祭当日も岡山まで来てくれ、あれこれとアドバイスをしてくれた。

 しかし、総てが順調と言うわけではなかった。問題が起きたのは出演日当日のことであった。

その日の朝、音楽付きの練習が出来ていないことに多少の不安を抱きながら会場に着いた。

やっと始まったリハーサルで早速つまずいてしまった。練習してきたビデオテープのスピードと

映写機で映し出される映像のスピードがまったく違っていたのである。茫然自失とはこのことで

あった。

 柳下さんの付けてくれる音楽は実に良かった。使い慣れていない新品のシンセサイザーだと

いうのに色んな効果音まで入れてくれるというサービス振りであった。ここまで準備して貰って

今更出来ませんと言うわけにはいかなかった。急遽、台本の台詞を大胆に削ることにした。

間合いの調整は想像の中で行い、ぶっつけ本番となった。

 おおよそこれくらいと判断しカットした台詞は、ほど良く映画のスピードにマッチしていた。

多少のズレは柳下さんの素晴らしい演奏がカバーしてくれた。こうして夫婦漫才ならぬ「夫婦

活弁」は成功の内に幕を閉じたのであった。

 この間の経緯は、Nディレクターが上手くまとめ後日放送してくれた。この放送は県内だけで

なく全国放送までされる事になった。実にうれしく名誉な事であった。そして、多くの方々から

ニュースを見たよという電話やEメールを頂いた。

 この間にも新たなる出会いや友人がたくさん出来た。まずは岡山映画祭に活弁士として招待

してくれたスタッフの皆さん。特に主催者のOさんや事務局長のOさん、そして、映画解説を

行ってくれたNさんなどである。音楽を付けてくれた柳下美恵さんとの共演は、私達とは住む

世界が違うと思っていただけに降って湧いたような幸運であった。

 そして、今回取材してくれたNHK岡山放送局のNディレクターは、私の息子と違わぬ年齢

なのに何故、活弁の事を知っていたのだろうか、そして興味を持っていたのだろうか。未だ良く

は分からないが、これが人と人の縁というものであろう。

 そして、岡山映画祭の打ち上げの席で、主催者のOさんから岡山、倉敷、香川、尾道を結ぶ

映画でのネットワークを作りたいという夢が語られた。どのような形で実現するか分からないが

大変楽しみにしている。これからも、このような人と人の縁は更に繋がっていきそうである。

 私達夫婦の夢は地元のお年寄りや子どもさん達に、昔懐かしい無声映画と活弁の楽しさを

味わっていただくことである。そのために無声映画と音楽とを持って地域を回りたいと思って

いる。実は、実現には幾つものハードルがあるのだが、何とか夢が叶えばと思っている。

 こうして、私達夫婦の活弁との出会いは、私達自身が活弁を演ずるというところに行き着いて

しまった。まさか、このような展開になろうとは思いもよらなかったことである。今更ながら人の

縁や運命の不思議さを感じている昨今である。                                    

 ※以上の文は私達が主催している同人誌「みんなの雑記帳」に寄稿したものである。少し書き

改めて掲載した。

                                       2008年12月12日掲載

 この話には後日談があり、夢は思わぬ事から実現したのである。一つは岡山映画祭2007

でお会いした岡山の光南台公民館の館長さんであるYさんから突然電話があって、公民館講座

の一つとして活弁との出会いを語って貰い、その上で「豪傑児雷也」を演じて欲しいと言うもの

であった。

 と時を同じくして、もう一つの依頼があった。2007年の暮れに取材を受け、2008年初頭に

地元紙である山陽新聞に掲載された私達の記事を見ての問い合わせであった。それは地元の

高齢者施設からであった。施設のみなさんに活弁を観て貰おうという話であった。その話の窓口

となったのが、昔、私達の子どもがお世話になったスイミングスクールのUコーチであった。

今はスイミングスクールを辞められ高齢者施設の役員をされている。

 問題はフィルムであったが、これも偶然に格安料金で借りることが出来る目処が付いていた。

東京国立近代美術館フィルムセンターに「豪傑地雷」が収蔵されていることが判明したのである。

何もかもが時を同じくして実現に向けて大きく動き始めたのが、2008年に入ってからのことで

あった。思いは通ずると言うが、こんな偶然があるのだろうかという思いである。

 その上、2007年の活弁シネマライブの際、生演奏を引き受けてくれたNさんという作曲家が、

「豪傑児雷也」の音楽を作り、演奏までしてくれることになった。こうして生演奏付きの活弁を

公民館で一回、高齢者の施設で二回行った。その上、私の所属している「いどばたNIE」が

主催した「第三回なんでも新聞展」の中での公演もあった。

 更に、第四回児島活弁シネマライブでは、佐々木亜希子さんの「伊豆の踊子」に先だって

私達夫婦の「豪傑児雷也」を演ずることになった。私達の活弁を観ていただいた方々から

心温まる励ましの言葉や感想を頂き、心から感謝している。

 このように私達夫婦にとっては定年後の大きなライフワークとして成長しつつある活弁である。

今は、演目も増やさなければと思い「突貫小僧」なるものを手がけている。既に脚本は出来て

練習を行っている。また、来年の一月からは光南台公民館からの依頼で活弁ワークショップ

なるものが始まることになっていて、私達二人が講師として参加させていただくことになって

いる。どのような方々が参加して下さるのか大変楽しみにしている。

 活弁という一時は消えかけていた日本文化が再び今の世に甦ろうとしている。東京では家内

と一緒に活弁を行った事のある仲間達がワークショップを続け発表会も開いている。

                                      2008年12月12日追記

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