学校教育を考える

 かつてないほど教育問題が論じられています。そして学校を取り巻く環境は大きく変わり、様々な問題を抱えてい

ます。学級崩壊などと言った今までは考えられなかったような問題も、多くの学校で生じています。先生達も必死の

思いで対策をとっておられますが、いっこうに改善される様子は見られません。正直言って先生達も疲れておられる

のではないでしょうか。

 成績表が今年の一学期から相対評価ではなく絶対評価に変わりました。この成績表についても色んな事が論じ

られています。私の近所にも小学校の先生がいて、こんな事を話していました。一つの教科の成績が良い子は、大抵、

その他の教科の成績も良いのだそうです。そんな訳で、相対評価で成績表をつけていた時には、一生懸命頑張って

いるんだけれど、成績が上がらない子には希望を持たせるために、成績の良い子に少しだけ我慢をして貰って、

その子の評価を少しだけ上乗せをしていたそうです。十分すぎるほど、その先生の配慮が伺える話です。昔から

そうでした。出来の良い子は何もかも良いのです。その反対に出来の悪い子は何もかも悪いのです。絶対評価が

良いのか相対評価が良いのか、今後の結果を見なければ何とも言えません。

 日本は識字率の高さでは世界有数の国です。その識字率の高さが今日の経済大国に繋がっているのです。従って、

言うまでもなく教育は国家の基本です。教育レベルを上げることは必然とも言うべき事なのです。しかし、一口に教育

とは言っても何をどう教えれば良いのかと言うことになると議論は分かれるところです。戦後、日本はひたすら教育レベル

を上げるために画一的な詰め込み教育をして来ました。その上、過酷とも言えるような受験戦争がありましたから、

いやが上にも詰め込み教育に拍車がかかりました。

 画一的な教育は一定のレベルアップにはなったでしょうが、右を見ても左を見ても同じ顔をしたような人間を作って

しまいました。発想の豊かさに欠ける規格品のような人間を生み出してきたのです。欧米のユニークな発想から生まれる

発明や発見は日本人にとって羨望の的でした。何とかユニークな発想豊かな人間を作りたい。そのためには詰め込み

ではなく、もっとゆとりのある教育をしなければと言うことで、今日のようなカリキュラムが組まれるようになって来ました。

 私達の身の回りから自然が遠くなり、子供達が徒党を組んで遊ぶことが少なくなった今、このゆとり教育はそれなりに

評価出来るものだと思います。しかしながら欧米の教育レベルが低下してきたという事を聞いたりすると、本当に、これで

良いのだろうかと少し不安になってきます。その上、週休二日制度が学校の中にまで入ってきました。先生方の生活を

見ていますと夜遅くまで頑張っておられます。子供達が学校からとっくに帰ってしまったのに、何でこんなに遅くまで仕事が

あるのだろうと不思議に思ってしまいます。これでは過労になってしまうのも当たり前の事です。週休二日制も先生達の

健康を考えれば無理からぬ事なのかも知れません。

 しかし、ここで考えてみたいのは、肝心な何かが忘れられているのではないかと言うことです。教育とはただ単に読み

書き算盤を教えるだけのところでしょうか。私は学校こそ家庭と同じように人間形成の場だと思っています。いくら算数が

出来ても、いくらたくさん漢字を知っていても、人間形成が出来ていなければ、ただの機械を作っているに過ぎません。

限られた時間の中で算数も漢字も教えながら人間を育てていくことこそ、学校の使命であり、大きく問いかけられている

事だと思っています。そのためには色んな工夫が必要だと思います。もちろん他の国の良いところは大いに参考に

すべきでしょうが、それぞれの国によって要求されることは異なっています。また、人種や考え方も異なるのですから、

全てを見習う必要はないと思います。日本は日本なりに、あるいは同じ日本国内ではあっても、その地方なりの要求も

異なるはずですから、基本線を決めたらその基本線を守りながら、それぞれの工夫や特徴があっても良いのでは

ないでしょうか。

 旧来の文部省的な考え方から脱却をしない限り、先生方の心のゆとりも生まれませんし、ゆとりのある先生で

なければ、人間性豊かな子供を育てることは無理ではないかと思っています。

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