「赤城の山も今宵限りか」

 国定忠治が幕府の役人に追われて、赤城の山を下りるときの台詞の一節です。

新国劇の中で演じられた事のある、この名場面は他の多くの芝居の中にも取り入れられてきました。

台詞は続きます。「かわいい子分のてめえ達とも別れ別れになる旅出だ。」国定忠治はこう言いながら

空を見上げます。見上げた空には北に向かって渡り鳥が飛んでいきます。こうして忠治は単身会津に

落ちのびてゆきます。

 浪曲でも玉川勝太郎の十八番の一つとして「天保水滸伝」として演じられてきました。日本人のアイドル的

存在であった国定忠治という人はいったいどんな人だったのでしょうか。

同じ時代、やはり任侠道に生きた人に清水の次郎長がいます。こちらは森の石松等という

とぼけた子分達がいて、明るくユーモラスに描かれています。

 しかし、国定忠治の方にはどうも暗い影がつきまといます。同じ任侠の世界に生きながら、

どうしてこう言った違いが生じたのでしょうか。

国定忠治という人は江戸時代末期、赤城山の麓に広がる農村地帯に生まれました。昔は関東武士の

流れを引く家系だったらしく武道にも長け、寺子屋で読み書きの勉強もしていたようです。

忠治は早くから渡世人の世界に飛び込んでしまい、家業は弟が継いだようです。弟はなかなかの篤農家で

養蚕で産をなし、繭の仲買などで広く世間に顔の利く人だったようです。国定忠治その人も弟に

輪を掛けたように恰幅の良いなかなかの偉丈夫であったようです。

 地元の顔役を殺したことがきっかけで一挙に、この世界で名の知られるような渡世人になったようです。

相当な人望家でもあったらしく、名うての子分達を二百人とも三百人とも言われるくらい集めており、

押しも押されもせぬ関八州に名前の知れた大親分でした。

金持ちの道楽息子が賭場に足を入れていると、まともに生きるように諄々と諭して帰したといいます。

百姓の息子がやくざになりたいと言ってきても取り合わず、下働きばかりをさせて、あきらめて帰るように

し向けたとも言います。ものの通りをわきまえた人でもあったようです。

 天保の大飢饉がこの地方を襲った時、賭場の収益金を貧乏人や食うに困っている民百姓に

分け与えたとも言います。そんなわけで幕府に追われる身でありながら、長期に渡って容易に

捕まらなかったのは、これらの人に常日頃から目をかけ助けていたおかげだとも言えます。

人望厚き渡世人だったようです。

 民百姓が困った時、救済の手をさしのべなければならなかったのは関八州を預かる幕府であり、

それぞれの領地を預かる大名であったはずでしたが、これらは助けるどころか、逆に絞り上げたと言います。

民百姓にしてみれば国定忠治は正義の味方であり、神様のような存在であったろうと思います。

こうして忠治は赤城の山を根城にして関八州ににらみを利かす伝説的な大親分に成長していったのです。

しかし、一方の幕府の役人にしてみれば目の上のたんこぶのような存在であり、幕府の威信を失墜させる

存在でした。何かと罪状を作り、忠治捕縛に向けて本格的に動き始めたのです。

こうして忠治はやむなく赤城の山を下り、会津に落ち延びるのです。別れ別れになった子分達は大きな

拠り所を失い、次々捕縛され刑場の露となって消えていきました。

 忠治はほとぼりの冷めたのを待って生まれ故郷に帰ってきますが、そこにはすでに昔の礎はなく、

頼りにしていた名うての子分達もいませんでした。

忠治自身も中風に倒れ、一時は口の利けないほどになったのです。こうして一代の英雄「国定忠治」も

ついには幕府の手によって捕縛され江戸送りになりました。これだけの大物ともなると地方では

裁けなかったのです。罪状は関所破り、老中達の決済を得て再び生まれ故郷近くまで戻り、

張り付けの刑になりました。

 幾度となく槍を突き立てられましたが、弱音を吐くことなく命尽きたと言います。刑場には忠治を慕う

多くの人が駆けつけました。人々は忠治の壮絶な死を目の当たりにして何を考えたのでしょうか。

権力に従うしかなかった当時の人々にしてみれば、権力に逆らって最後まで屈服することのなかった

忠治の中に、自分たちの英雄の姿を重ね合わせたのではないでしょうか。

「男心に男が惚れて・・・・・♪♪♪」 名月赤木山の歌にも歌われた任侠の世界、今も忠治は

日本人の心の中に脈々と生きています。

                                                 2000年10月21日掲載


参考資料:高橋 敏著  「国定忠治」  岩波新書

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