黄葉山

山城であった黄葉山

 私のふる里である神辺町に黄葉山という小高い山があります。神辺平野に向かってせり出す

ように聳えている山です。さして高くはない山ですが、視界を遮るものがないので実に素晴らしい

展望です。

 戦国時代には、日本各地に多くの山城が築かれました。この山の山頂にも神辺城という山城

がありました。今もその当時の石垣の一部や瓦等が散乱しています。後に福山城築城の際、

この城は取り壊され福山城の一部として移築されたと聞いています。

 山頂に立つと三百六十度近い景色が見られます。黄葉山を取り囲むように神辺平野が

広がり、その眺めは素晴らしく、戦略上の重要拠点であったことが十分窺えます。この山頂に

立てば敵方の動きは手に取るように分かったのではないでしょうか。

 私達が子供だった頃、この山から見下ろす景色は一面が田や畑でした。比較的内陸部にあり

ながら神辺平野と言われるほど平野部は広々としています。しかし、近年その展望も大きく変化

して来ました。新しく大きな道路が出来たこともあって、その道路沿いに商店や住宅地が建ち並び

あの広々とした田や畑はほとんど失われてしまいました。一方、かつては宿場町として栄えた

旧神辺町の古い通りはすっかり寂れてしまいました。

片山という小さな山

 黄葉山の西の方には片山という小高い山があります。広々とした平野の中にある孤立した

小さな山です。山というほどの高さはなく小高い丘と言った方が良いかも知れません。この小さな

山が何故こんな平野のど真ん中に出来たのか実に不思議です。その昔、神辺平野を流れていた

高屋川は、この片山当たりで大きく広がり三角州のようになっていたと聞いたことがあります。

整備された川の堤防がなかった頃の事ではないでしょうか。

 この片山の周辺では昔から奇妙な病気が流行っていました。その病気を片山病と呼んでいた

事も今は忘れ去られようとしています。実は、この山の名前が病名になっていました。それ位

この周辺では、この奇妙な病気が多発していたようです。この病気の原因は長く不明でした。

腹部に水が溜まり臨月を迎えた妊婦のように腹がぱんぱんに腫れ上がり、次第に衰弱し死に

至るという当時にあっては実に恐ろしい病気でした。

 この病気が日本住血吸虫という寄生虫によるものだと言うことが分かったのは、ずっと後の

ことで、長く住民はこの病気に苦しみ恐れて来ました。この話は別のページに詳しく書いています

ので、そのページを参照して下さい。この寄生虫病は九州の遠賀川周辺にもあったようです。

 黄葉山という風流な山の名は何に由来するものでしょうか。私達が子供だった頃には松が

多く、黄葉期になってもあまり美しいものではありませんでした。しかし、雑木が多かった頃には、

秋になると全山黄葉して美しかったのかも知れません。

一本松(鐘釣松)

 黄葉山の山頂には大きな松の木がありました。私達は一本松と呼んでいました。一方へ枝を

大きく張りだした松で、この枝に鐘をぶら下げていたと聞いています。別名を鐘釣松とも呼んで

いたとも聞いています。

 あまりにも枝振りの良い松は首吊り自殺にもってこいの松でもありました。何度かこの枝に

縄をかけて命を断った人がいたという話を聞いています。

山登り

 小学生の頃、冬休みになると早朝の山登りがありました。真っ暗で足元さえ見えない時間に

黄葉山の山頂にまで駆け上って帰ってくるというものでした。冬の夜明けは遅く、街に人通りの

ない頃、子供達の「ワッショイ、ワッショイ」というかけ声が狭い路地を駆け抜けて行きました。

とりあえず目指したのは黄葉山の登山口にある天別豊媛神社(あまわけとよひめじんじゃ)でした。

 ここの石段を駆け上り一気に山頂を目指します。この頃、神社の境内にも石段や途中の道

にも照明はありませんでした。真っ暗な道を何を頼りに駆け上ったのでしょうか。懐中電灯くらい

は持っていたのでしょうか。それとも山道にさしかかった頃は、遅い夜明けの光りが足元を明るく

していたのでしょうか。とにかく真っ暗な山道を無我夢中で駆け上っていたという記憶だけが

残っています。

呪い釘

 実はこの神社にも恐ろしい話がありました。神社に聳えていた大きな杉の木に首のない釘が

何本も打ち込んであったのです。私も友達と一緒に神社に怖いもの見たさに行きました。そして、

打ち込まれた頭のない釘を見たことがあります。何でも呪い釘だという話でした。

 その釘を打ち込んだ人物は夜な夜な白装束を身にまとい、頭に白い鉢巻きをして、その鉢巻き

に何本もの火の着いた蝋燭をさして神社に現れ、藁(わら)人形に呪いを込めた首のない釘を

打ち込んでいたというものでした。実におどろおどろしい話でした。

 また、神社の横には大きな墓地がありました。新聞配達の人がこの墓地からボーツと燃える

青白い炎を何度も見たという話を聞いたことがありました。昼間でさえ一人で行くのは何となく

ためらわれるような場所でした。そんな場所でしたから神社を通り抜け山頂に向かうのは実に

恐ろしい事でした。冬になるといやだいやだとは思いながらも登らなければならないこととして

登っていました。しかし、本当は恐ろしくて仕方ありませんでした。何とか口実を付けて休みたいと

思いながらも、休むと後でどんな嫌がらせをされるか分からないので、いやいやながらも無理を

して登っていました。

 先輩達も同じような経験をしてきたので後輩達にもわざと怖い幽霊の話などをして出発して

いました。走り始めると先輩達はわざと後輩達を置き去りにして先に行ってしまいます。幼かった

頃は足の遅いもの数人がひとかたまりになって「はあ、はあ」と息を弾ませながら先輩達の後を

追っていきました。

 やっとの思いで山頂にたどり着くと先輩達が待っていてホッとしたことを覚えています。山頂に

着く頃になると遙か地平線がうっすらと明るくなって来ます。遅い冬の夜明けです。体が冷え

切ってしまわない内に一気に山を下ります。中学校の校庭まで帰って来ると、周辺はすっかり

明るくなっていました。

 凍てつくような寒い朝でした。しかし、ここまで走ってきたので体はぽかぽかしていました。校庭

のあちらこちらに残った大きな水たまりには分厚い氷が張っていました。この上をスケートの

ように滑って遊びました。

 家の近くまで帰って来ると空き地で帰り道に手分けをして拾ってきた木切れで焚き火をしました。

汗をかいて冷え始めた体が再び温かくなり心地良かった事を思い出します。体の裏表を焚き火

で温めて冷えた汗が乾く頃になると散会になりました。家に帰ったら朝食です。これが冬休みの

一日の始まりでした。

他にもあった怖い話

 黄葉山の反対側の登り口が小学校近くにありました。ここにも石の鳥居があったような記憶

があります。この石の鳥居が天別豊媛神社の裏側の鳥居だったのか、別の神社のものだった

のか定かではありません。この鳥居のすぐ近くに大きな古い杉の木がありました。おそらくは

数百年、あるいは千年以上経たものかも知れません。ある夏の日、激しい稲光がした時に雷が

落ちて大きな杉の木の上の方が折れてしまいました。その後、しばらくは枯れることもなくその

場所にあったと思いますが、その後どうなったのでしょうか。

 小学校への近道でしたから学校への行き帰りに良く通っていましたが、この杉の木の周辺は

昼間でも薄暗く、一人で行き来するときには急ぎ足で通り抜けていました。幼い頃の印象が余程

強烈だったのか、今でも時々夢の中に出てきます。

 その近くに大きな家がありました。立派なお屋敷でしたが、どんな人が住んでいたのかは

知りません。そのお屋敷で住人が自殺するという当時としてはショッキングな事件がありました。

青酸カリという毒薬を飲んで自殺をしたとの事でした。

 噂話には色んな尾鰭が付くもので、この事件の時にも色んな話が流れてきました。当然、

子供だった私達の耳にも入りました。そのころ聞いた話では毒物による自殺は顔の皮が

ずるっと剥けるようなむごたらしい死に方だったということでした。実際は見てもいない人が

話を面白くするために、わざと恐ろしい話に仕立て上げたのだと思います。

 そんな噂話を聞いてからは、いっそう山の道を通るのが恐ろしくなりました。記憶が薄れる

当分の間は遠回りではあっても違う道を行き来しました。

 そう言えば雷の落ちた大きな杉の木の下でも首吊り自殺があったと聞いたことがあります。

こんな話の全てが事実かどうか分からない噂話でしたが、事実かどうかは別にしても薄暗い

山の道はいつ通っても気味が悪い道でした。

 私達はこの道のことを山道と呼んでいました。山のすぐ下が細い道になっていて桜の木が

何本かありました。私達はこの桜の木から出てくる脂を指に付け、付けた指と指を付けたり

離したりすると指と指の間に細い糸を何本も引きます。これを別の指に巻き付けて遊んでいま

した。ネチャネチャするのでネチャコと言っていました。

 桜が咲く頃は、それはそれは見事な眺めでした。しかし、何かしら妖気が漂っているような気が

して、素直には喜べないような美しさでした。そもそも桜の花には、そのようなところがある上に

色んな事件や噂話があったものですから余計にそのような気がしたのかも知れません。

校歌にも唄われた黄葉山

 このように黄葉山は町を流れる高屋川と同じように神辺町のシンボル的な存在でした。小学校

の校歌にも中学校の校歌の中にも歌詞として織り込まれていました。私達は朝な夕なこの山を

見ながら大きくなりました。そして、昭和38年3月、黄葉山ともお別れをして、この地を離れたの

です。

 久々に見た黄葉山に昔の面影はなく、鬱蒼と茂った木々は切り倒され、実に、こざっぱりとして

いました。また、登山道も整備され山頂には桜の木がたくさん植えてありました。あの怖かった

黄葉山はどこに消えたのでしょうか。あの暗い冬の山道も遠い想い出の彼方へと消え去ってしまい

ました。

     「死の貝」片山病記

                                     2007年3月8日掲載

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